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晏子について

晏子(晏仲、晏嬰)は中国春秋時代、斉国の人。孔子(孔丘)の斉での仕官を退けたことや彼の弟子らとのエピソードが有名だが、晏嬰自身、傑出した宰相だった。

斉で最も有名なのは、周の太公望呂尚を例外とすれば、管子(管仲、管夷吾)だろう。司馬遷の史記においてはこの二人が管晏列伝と題されて伝を立てられており、共に長く親しまれている。

『晏子春秋』はその晏子の言行を通して斉の景公らを叙述したもので、未だに成立年代・過程において諸説あるが、その儒家とも墨家とも取れる内容は非常に読み易く、面白みがある。機会があって全編を読み返したので、現在の考えを拙いながらも残しておく。

以下は谷中信一氏による新編漢文選『晏子春秋』から、個人的に書き留めておいたものを、引用したものとなる。一般文字に登録されていない旧字などは改めてしまっており、衍字・逸文などがあるかもしれないため、正確さを求める方は原文を参照されたい。

晏子春秋 内篇諫上第一

景公所愛馬死欲誅圉人晏子諫  第二十五

景公使圉人養所愛馬、暴死。公怒、令人操刀解養馬者。是時晏子待前。

左右執刀而進。晏子止之而問于公曰、「堯舜支解人、従躯始。」

公矍然曰、「従寡人始。」遂不支解。

公曰、「以屬獄。」

晏子曰、「此不知其罪而死。臣請為君数之、使知其罪、然後致之獄。」

公曰、「可。」

晏子数之曰、「爾罪有三。公使汝養馬而殺之、當死罪一也。又殺公之所最善馬、當死罪二也。使公以一馬之故而殺人。百姓聞之、必怨吾君、諸侯聞之、必輕吾国。汝殺公馬、使怨積于百姓、兵弱于隣国、汝當死罪三也。今以屬獄。」

公喟然歎曰、「夫子繹之。夫子繹之。勿傷吾仁也。」

書き下しや細かい説明は省くが、以下に概要を書く。

景公が可愛がっていた馬が死んでしまったため、世話していた者を殺そうとした。ただ刑死させるのではなく体をばらばらにするというのだから、その怒りのほどが窺い知れる。それを晏子が巧みに諫めた話なのだが、先ず最初に体をばらばらにさせるのを止めるときのくだり、そして罪を三つ数え上げるくだりが秀逸なものとなっている。

古の堯と舜は人をばらばらにするとき、どこから始めたのか。晏子は突然、そんなことを景公にたずねる。

景公は自分がしようとしていることに気付く。理想的な君主である堯、舜はそんなことはしない。自分こそが人をばらばらにしようとしているのだ。この一言によって後に続く晏子の話を聞くだけの冷静さを景公に取り戻させているのだから、感服するしかない。

さて、とりあえずばらばらにするのは止めた景公だが、別に罪を許したわけではない。そこで晏子は「自分がどんな悪いことをしたのかわからないまま死ぬのは彼のためにならないから、一々説明したい」と提案する。景公は内心、楽しみに思ったかもしれない。そして、世話をしていた馬を殺してしまったこと、その馬は景公が最も可愛がっていた馬だったことの二つを挙げて、責める。ここまでは普通なのだが、残りの一つは違った。

「たかが馬のことでお前を殺すとする。民衆が聞けば、君主(景公)を怨むだろう。諸侯が聞けば、斉国は軽んじられるだろう。お前が馬を殺したことによって民の恨みは積もり、兵も隣国より弱くなってしまうだろう。これが三つ目の罪だ。」

傍で聞いていた景公はぎょっとした。自分こそが諭されたのだ。そして今まで罪人を殺せと息巻いていたにも関わらず、今度は深いため息を吐いて反省し、許してくれと繰り返し頼み込むのである。罪人のこともあるだろうが、何より、景公自身の行いを許してほしいのである。これだけ秀逸なのもそうは無い。

晏子という人は、孔子のようにとにかく君子としての資質を優先させるのではなく、また墨子のような理想主義でもなく、国家や民のためならば自分も含めた君子などというのはどうなってもいいとさえ考えていたのではないか。そうした人物を求めて苦慮する姿も端々からは窺えるのである。彼が儒家や墨家が成立するよりも前の人だからこそか。彼の考える君子と後進が考える君子は違ったものだったはずだ。もちろん、後世の者が晏子に仮託していった可能性は、あるのだが。

さて、簡潔な言行も彼は残している。景公の佞臣である梁丘據が晏子に及ばないことを嘆いたとき(内篇雑下第六・第二十七)、晏子はこう返している。

(前略)嬰之を聞く、為す者は常に成り、行く者は必ず至る、と。嬰、人に異なること有るに非ざるなり。常に為して置かず、常に行きて休まざる者なり。(後略)

当たり前のことを厳格に実行することこそ、何より大事なのだろう。梁丘據に対しては、痛烈な皮肉であったろう。


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