絵師に見るインターネットの運用

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目次

はじめに

私はこれまで少なくない時間をWebに発表される絵を見ることによって過ごしてきた。そんな私に、これまでに培った考えを形にすることを薦めてくれたのが岳飛氏であったことを明記しておく。そのため、この考察は基本的に閲覧者の立場から述べるもので、どのようにインターネット上で絵が運用されるか、ということを主題にしている。この考察が、絵師と閲覧者双方のより良い関係を築くものとなることを願う。

絵師の発表の場としてのインターネット

インターネット(以降ネットと表記)を自由な表現の場とする風潮がある。では、表現とは何だろうか。それは大半が文章の形であるが、この考察を読んでいる方の中で、文字だけのWebドキュメントしか見たことが無い、という方は皆無だろう。サイトのロゴから始まり、アイコン、背景、写真……様々な画像ファイルをネットには見ることができる。その中で、風景画やキャラクターなどの絵を見ることもあるだろう。この考察では、その中でも特にキャラクターなどを描く場合を主に考察していく。それは何故かといえば、私がオタクだからだ。

ネットが普及した現在、それを使って創作活動に役立てる、あるいはそれをきっかけに創作活動を始める、という方が確実に増えている。それは、ある程度の知識さえあれば、簡単にネット上に創作物を発表することができるからだ。また、ネットを使うには、携帯電話などの端末を除けば、パソコンを利用する場合が多い。そして、パソコン用の創作のためのツールはシェア・フリー問わず、数多くある。中には、後に詳細を書くことになるお絵描き掲示板のように、発表することを前提にその場で創作するツールまで存在している。

そういったネットという表現の場で、どのように絵が発表され、活用されていくのかをこれから書いていく。

実際の運用

ネット上では、数多くの方法によって作品を発表する。その中でも主要なのは、もちろんhtmlであり、CGIである。htmlが無ければブラウザがタグを理解することはできないし、CGIが無ければデータをブラウザに返すこともできない。特にCGIは、管理者と絵師、それに閲覧者それぞれが効率的にネットでデータを運用することができるため、コミュニケーションの媒体としては有用である。

他に主要なものとして、昨今に流行ったBlogがある。Blogの定義については賛否両論が現在もあるため、ここでは便宜的に「時系列別、あるいはカテゴリ別にドキュメントを表示させるツール」とさせていただく。

html

最も一般的と云って良いのがhtmlである。ホームページ作成ツールなどを用いれば、知識が全く無い状態からでもサイトを構築することができるからだ(もちろん時間はかかる)。

また、htmlはimgタグによって画像を表示させるだけでなく、リンクによって画像ファイルそのものに閲覧者を誘導させることもできるし、他のドキュメントやCGIへ効率的に閲覧者を導くことができる。

さて、実際にhtmlで絵を発表する場合、どのように記述するのだろうか。

多数の画像を元のサイズのまま発表するのは、閲覧者から見てもサーバー管理者から見ても、効率的ではない。アイコンなどの小さなものであればともかく、500pxや700px、ときに画面サイズよりも大きな画像を用いることがあるからだ。

このような場合、サムネイルと呼ばれる元の画像の一部を切り取った、あるいは画像全体を縮小したもの、または代替となる画像を表示させ、そこに元の画像、あるいは元の画像を表示させるドキュメントへのリンクを用いる。こうすれば、閲覧者はサムネイルやそれに添えられた文章などから自分が見たいと思った画像を選ぶことができる。これがhtmlで画像を運用する場合の一般的なやり方だろう。

他に、複数の画像ファイルを圧縮ファイルにしたものへのリンクを用意し、閲覧者にダウンロードさせ、オフライン上で解凍及び閲覧をさせるという方法がある。しかし、これには閲覧者に圧縮解凍の知識が無ければならないし、場合によっては絵師が想定していない環境、例えば極端に小さな、あるいは大きなサイズで見られたりしてしまう。なんだ、その程度か。そう考えるのは早計だ。絵ほど第一印象が大事なものは無い。絵師の技法によっては、画像の大きさによって全く違う作品に見られてしまうこともあるのだ。

html自体の欠点、というよりは仕様だが、htmlそのものには閲覧者が関与する余地が無い、というものがある。つまり、閲覧者のレスポンスをhtmlは反映させることができないのである。画面の前で泣こうが喚こうが、どうしようもない。そこで、管理者(絵師を兼ねる場合とそうでない場合がある)はmailtoタグやCGI掲示板などを設置することになるのだが、これらの点を一挙に解決するのが、CGIを用いた作品発表である。

CGI

お絵かき掲示板などがこれに該当する。htmlの項で書いたように、htmlは閲覧者のレスポンス(以降レスと表記)を反映させることができない。よって、閲覧者は一般的に用意されたメールアドレスや掲示板などを用いて絵師との交流を試みるわけだが、「それなら絵もCGIで発表して、それにレスをつければ良いじゃん」。そんなわけで、お絵描き掲示板の登場である(歴史的解釈に擦れ違いが存在する可能性があります)。

お絵描き掲示板はものによって機能に違いが見られるが、大体は以下のような機能を持っている。

これらの機能を用いて、より効率的に絵を発表し、レスを得ることができる。また、絵を発表する場そのものを提供することになるため、設置者が画像を投稿する絵師を限定していない場合は、様々な絵師が発表することができる。

絵を発表する場というのはネット、特にキャラクター物には重要で、なぜなら、ジャンルというものが存在するからである。ジャンルを特定しなければ確かに多種多様な絵を発表・閲覧することができるが、忘れてならないのは、ネットは広大だ、ということだ。

発表される絵のジャンルを限定することによって、人を集め易く、また、絵の発表自体も楽になるのである。

大衆食堂で何が美味いかとメニューを見るよりも、ラーメン屋で何のラーメンが美味いかとメニューを見る方が圧倒的に外れ(この場合は美味しさ自体ではなく、消費者が望む食べ物という意味)が少ない。

しかし、これにも欠点があって、設置した管理者が絵師だった場合、自分の絵自体の価値が相対的に下がってしまう場合が多い。また、荒らしの問題や絵師と閲覧者の関係性が曖昧になるということもあり、運用には知識だけでなく、経験やバランス感覚が大事になる。

それでもお絵描き掲示板が普及し、今でも運用されているのは、絵師と閲覧者の良好な関係がその場のモラルとして確立された場合の効果が大きいからだ。人が多く集まれば集まるほどこれを維持するのは難しくなるが、画像ファイルを集合データとして管理することができる点から考えても、他では代え難い貴重な美術館となることができる。

Blog

htmlとお絵描き掲示板の良いとこ取り、と云ってしまえばそれまでなのだが、Blog自体が普及したことによって、htmlを画像を発表する度に構築する必要が無くなった。もちろん、htmlなどの知識があれば良いに越したことは無い。

また、絵師と閲覧者を明確に分けることができ、なおかつ先に挙げたような理由によって、更新頻度が高い場合が多い。普段はお絵描き掲示板で画像を投稿し、Blogで自分の活動や他の画像を発表する、という絵師も多くなっている。

欠点としては、Blog自体に日記的性格が強い面があるため、絵師の性格が前面に出過ぎることがあり、それによって閲覧者がうんざりしてしまう場合がある。例え絵師が右翼だろうと左翼だろうと絵さえ良ければ……そう思うのは簡単なのだが、実際に延々と「欝だ欝だ」などと垂れ流されると、辟易しない人は多くないだろう。

匿名の場

アップローダーなどを活用して、匿名掲示板を主体に絵を発表することも多い。お絵描き掲示板が名も無き人々によって活用されている場合もこれに該当する。2ちゃんねるなどがその代表だが、ふたばちゃんねるなどは画像アップローダーとしての機能等があり、また匿名によって著作権をあまり気にしないで良くなるため、いわゆる虹裏(二次元裏の略)作品などと云われる、既存の作品のリスペクトが多く見られる。

また、多くの作品や閲覧者の容赦の無い批評によって、絵師が育てられる場合もある。匿名性の強い掲示板には、多かれ少なかれこういった面がある。

こういった場の最大の利点であり欠点は、細かいことを考えなくて良い、というものに尽きる。自分の掲示板での素行が余程悪くない限りは看過されるし、絵自体の完成度やネタとしての効果が大きければ、著作権なんてどこの国の言葉だ、というぐらいに盛り上がる。面白いのは、彼らは極端に転載を嫌うという点で、雑誌「ネットランナー」などは毛嫌いされている。

ご利用は計画的に。

価値の変異

同人誌などで作品を発表するのと、ネットで発表するのとでは、絵の価値が変わる。それはネットにファイルデータさえ存在していれば、事実上、無限に作品を流通させることができるからだ。ここでは、そういったネットにおける絵の価値の変異について考えてみよう。

表現かネタか

絵師が考えていること、感じていること。発表することによって追及したいことが絵には籠められるわけだが、反面、コミュニケーションの道具として絵を描くこともある。特にネットはコミュニケーションの場としては有用であるから、いわゆる「ネタ絵」の需要が高い。

それを専門にしている分にはなんら問題は無い、むしろありがたいのだが、これが高じて表現自体がいい加減になる絵師がいたりもするため(ネタ絵の完成度は題材とアレンジによって大体が決まってしまう)、その絵師のファンなどは幻滅してしまう場合がある。

また、ネタを期待するあまり、閲覧者が絵師を駄目にしてしまう場合もある。これはネタに限ったことではないとはいえ、絵師と閲覧者の関係を考察するにあたって、ネタ絵の存在を外すことはできない。

絵師を表現する媒体としての絵

これはBlogの項で書いたことにも通じるのだが、ネットは絵以外の表現の方法が数多くあるため、絵自体の価値が絵師の中で低くなってしまうことがある。もちろん、絵だけが珍重されるべきではないし、それ以外の表現方法を制限することは正しくない。しかし、絵とはなんだろうか。絵は様々な人に、言葉が通じない相手にも伝わる、表現方法だ。絵を描くということそのものの価値を考えるのは、無駄なことではないだろう。

絵そのものの価値の低下

ネットはセキュリティなどの問題があるとはいえ、気軽に見て回ることができる。どこどこの美術館で某の展示会がある、という場合、遠方ではそう簡単に行けないが、ネットならURLを入力したり、リンクをクリックするだけで見に行くことができる。

この利点に覚えがある人はいるだろうか。これは、テレビで映画を見たり、野球やサッカーを観戦することができるのと、そう変わりの無いことなのだ。しかもネットは、閲覧者に明確な目的意識さえあれば、効率的かつ大量に、データを利用することができる。

また、Blogやお絵描き掲示板などの普及によって、絵を発表すること自体が簡単になっていることは先に述べた通りだが、これらによって、絵一つあたりの価値が下がっている点を見過ごしてはいけない。

昨今、閲覧者が絵師を批判し易い土壌が一部にあるのも、絵、引いては絵師の希少性が薄れてしまっているからではないだろうか。たしかに批判を含めた批評は無くてはならないものだ。それによって新しい表現や技法、考え方が生まれ、ときにそれが大きな流れとなる。

しかし、ここであえて考えを深めてみると、ネットが閉鎖的な性格を持っていることにも気づくことができるはずだ。その中にあって、絵や絵師の希少性を理解することは、決して、批判の妨げにはならず、むしろより有用な、それでいて辛らつな批判をすることに通じるのではないだろうか。

Webサイト

これまでに述べたことを踏まえて、発表の場の帰結点として、Webサイトについて述べたい。一つの参考としていただければ、幸いである。

全体の調和

絵だけが絵師の表現である。それはたしかに正しいが、間違いでもある。展示会などでも、その絵師の作風などによって調度品や飾り方、パンフレットの内容などを考えるわけだが、Webサイトにあっては、これら全てを絵師、あるいはそれと関係のある管理者が行うことになる。

そう考えると、とても煩雑で、難しいことのように思えるが、こう考えてみるのはどうだろう。「全て自分の責任によって自由に構成することができる」。こんなことが果たしてネット以外で容易にできるだろうか。しかも、法や規則に触れない限り、いくらでも構成し直すこともできる。我々は今一度、ネットの存在に感謝をしてみても良いのではないだろうか。

さて、実際に全体の調和を実現するにはどうしたら良いだろうか。これはプロのWebデザイナーにとっても、仕事において最も難しいことだろう。しかし、仕事でないのであれば、いっそ自分のやりたい様にやってみれば良い。

ここでは具体的な方法については述べないが、できるだけ、全体の調和を実現することについて意欲を持つことをお奨めする。サイトを長く運営し、作品が増えてくれば、それだけ全体の調和を取ることは難しくなってくる。面倒に思う。しかし、そこで再び、自分自身や作品についての方向性を問うことができるだろう。

私がこれまで見てきたサイトの中で、素晴らしいサイトと云うのは、ある段階に至るまで、試行錯誤を繰り返してきたものばかりだった。そしてまた、作品自体も素晴らしいのである。

私の価値観をこれを読んでくれている方達と共有することはできないが、模索することの大事さは理解していただけるだろう。

技術的な広がりが創作活動の可能性を広げる

これまでにhtmlやCGI等の項を見てきた方々の中には既にお気づきの方もいるかもしれない。それは、ネットの技術的な進歩が、創作活動そのものに影響するということだ。

特に絵は、その表示方法やデータとしての取り扱いの仕方によって、運用の仕方も大きく違ってくる。当然、その運用に合わせた描画の仕方というものも存在する。

絵というのは様々な人が興味を持つことのできる表現方法だ。その絵をきっかけにして、ネットに飛び込む方が増え、そしてネット自体も進歩していく。そんな関係が構築されていく限り、私達はより文化的な、より充実した生活を送ることができるはずだ。

懸念

Webサイトによる活動には様々な要素がついてまわる。

コミュニケーションの場としてサイトが確立されない場合の衰退

法人の場合は明確な利益追求という目的がある。しかし、絵師のサイト、つまりは個人のサイトだが、これには様々な目的があるだろう。その中でも、閲覧者とのコミュニケーションは重要なものの一つだ。

そんなコミュニケーションの場が確立されなければ、どうなるか。最悪のケースとして、サイトの閉鎖がある。絵師の中には、我関せずという方もいるだろうし、コミュニケーションが成っていないと云って絵師を責めるのは、お節介を通り越して、ただの嫌がらせでしかない。それでも、よりネット的な、つまりは平坦な活動を行うにあたって、コミュニケーションの重要性は常にある。

同人活動

即売会などでの同人活動を報告するためだけにサイトを運用する。それはたしかに情報を発信するという、ネットの利便性を活用した方法ではあるが、閲覧者と同人活動のファンが必ずしも同一であるわけではない。

閲覧者はその大半が流動的だ。その中にも、あるきっかけで同人活動のファンになってくれる人がいるかもしれない。そんな少数派のために苦労するのは割に合わないかもしれない。しかし、あなたがその苦労を厭わない人なら、より良い、また広い活動が可能なのだという自信があるなら、ネットに重きを置いてみてはどうか。

著作権

ネットほど簡単に、また深刻に、著作権が侵害される場所は他に無い。断言できる。絵師が自分の作品を意図しない形で利用されるのを恐れるならば、ネットを表現の場に選ぶのは待つべきだろう。

ネットを利用していなくても、ネットを利用する者によって勝手に著作権を侵害されることもある。つまり、ネットを視野にいれたリスク管理は、今や必然となっているのだ。しかし、そういったリスクを管理することによって、ネットはより良い表現の場にも成り得る。

絵師の疲れ

絵師も人間だ。また、発表する部分だけを見ていると、苦労もわからない場合がある。一方、何の言葉も無しにネットを去っていく絵師もいる。閲覧者というのは、そんなときにこそ、絵師ではなく、自分に目を向けるべきだろう。

まとめ

ネットが絵師の表現の場となって久しい。様々な所で作品が生まれ、それに伴ったレスが飛び交う。そんな中にあって、絵師は、閲覧者は、そしてそんな彼らと関わりのない人々は、どのように絵と関われば良いのだろうか。

私がここまで書くに至ってわかったことは、絵とは人と人との関わり方によって、その価値を大きく変えてしまうということだ。そして、ネットほどそれが顕著な例を私は知らないのである。

それを気づくきっかけを与えてくれた、岳飛氏に感謝すると共に、この考察を最後まで読んでいただけた方々の全てに、私はありがとうの言葉を送りたい。

なお、この考察自体の引用、転載は問題ありません。メールなどで確認を取りたい方は、そうしてくださると私が喜びます。感想・意見・批判も常に受け付けています。

また、この考察は今後も加筆及び修正の可能性が常にありますので、ご了承ください。

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