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不登校は無駄の塊だ

不登校は無駄の塊だ。別に怒らせようと思って書いているわけではなく、こちらも自分の不登校時代を引き合いに出して大真面目に以下の本文を書いている。文句は最後まで読んでから言っていただきたい。

さて。

義務教育制度がある以上、少なくとも小中学校時代には親に無駄な出費をさせることになる。勘違いしないでほしいのは、私は義務教育制度に特別な不満を持っているわけではない。現行の教育に不登校にかかる問題があるとすれば、それは不登校児となった場合の受け皿が満足に用意されていないことだろう。

勉強も、私は受験を機会とし、それから高校に入ったことでなんとか取り返すことができたが、授業を受けるのと自主勉強で賄うのとでは、労力に多大な差が生じる。自己管理能力や単純な理解力にも依存する。

担任にも時間外労働の負担が圧し掛かる。教師なのだから生徒の面倒を看るのは当然だ、というのは、不登校に一定以上の理解を求める場合にのみ通用する考えであって、当然ではない。

不登校自体に価値のある例としては、イジメなどから逃れる場合の一時避難が挙げられる。他に精神的な疾患、思春期特有の悩みなどもあるが、いずれにしろ、不登校が長期に渡れば渡るほど、不登校そのものの価値は減ると言って良い。

不登校を踏まえた上で自分なりに人生を歩むのであれば良いし、そうするために周囲の理解を期待もしくは取り付けるのであれば大いに結構だが、ただ不登校である、不登校であったというだけで自分の存在意義に置き換えるのは、ただの思考放棄でしかない。

これらは全て、私の経験を踏まえた上でのことだ。それについて書こう。

私が不登校になったのは小学校低学年のときであり、特にいじめられていたわけではない。精々、教師を怖がったぐらいだ。その頃からの友人は今でもいるし、恩師と呼べる人もいる。しかし、それでも私は高校受験を控えた半年前まで、ほとんど学校に行っていなかった。

私の母は私が不登校であることに悩んでいた。それだけでなく、母は私のために不登校児はどうすれば学校に通うようになるのか、通わないとすればどういう手段があるのか、勉強し、奔走し、頭を下げまくった。パート仕事を抱えながらだ。母は強しというが、これを全ての母親に期待できるものだろうか。

母には私のことで父との諍いが起こることもあった。これを父の無理解ゆえと笑ったり憤ったりする気にはなれない。父は父なりに私を立派に育てようとしてくれていたのは覚えている。休日には気晴らしにと、一緒に山登りにも行った。

もっとも、不登校当時の私は父の態度に憤っていた。理解が欲しかった。強引に学校に連れて行こうとする父を恨んだこともあるし、文字通り首根っこを掴まれて学校に放り込まれたこともある。

一方で、周囲の働きかけがあった。特筆すべきは小学校時代の恩師である中村忠雄氏だ。この方は全く私に良くしてくれた。当初はお節介な人だと思ったこともあるが、先生は私のことを本当に認めてくれていたし、私が社会人となった今でもお付き合いをさせていただいている。

中村先生は私を家の外に自然な形で連れ出してくれた。私の同級生を連れて来たことまであった。家の外にどれだけ価値のある物が多いか、先生は子供のように目を輝かせながら、ときに行動で、ときに言葉で、教えてくれた。

やれ陸亀を見つければ『亀なのに陸にいるなんて変だよねぇ。変だけど変なりによくやっているから、よく観察しよう』と言い、山で道を発見すれば『やぁ、道だ。道だから通ろう』と、木々の生い茂る獣道を分け行った。私が文句を垂れると『そもそも山に来たのは、ここが山だからだ。背は低いが山は山だ。だから、獣道だろうと道を道らしく通るのはおかしくない』と返された。

とんでもない人である。良い意味で。

もちろん、私は子供だったから、昼間しか連れ出せない。だから、学校とかけあい、時間を都合しなければならなかった。考えてみれば、それを受け容れた学校長も一角の方だった。この方も面白い人物で、生徒の似顔絵を描くのが趣味だった。出来上がると大喜びで生徒に見せてもいた。

学校以外では、教育センターから派遣される方々もいた。これを私は最初の一年間ほど、完全に拒絶していたが、何人目かに私の担当になった方が『私は将棋が趣味なんだが、近頃は指してくれる人がいなくて困っている。教えるから、私を助けると思って一緒に指してくれ』と言い出し、その半年後には私を相手に真剣勝負になっていた。たしか小学校三年生から四年生ぐらいのことだったと思う。

他に、私に勉強を教えてくれた方もいた。これまた教育センターから派遣された方だったが、中学に入るに当たって私には勉強面で不安が多かったから、私は一念発起して『数学だけでも教えてほしい』と頼んだ。気付いたら数学以外のものまで面倒看てもらっていたような覚えがある。

結局、私は中学に入ってもほとんど学校には行かなかったのだが、勉強だけは続けていた。それもこれも、この方に教えてもらった上で、『自分にも勉強はできるんだ』と思えたからだ。これが高校受験を目掛けて猛勉強を始める下地ともなった。

中学時代、担任でもあった社会科のF教諭はテストだけでも受けて少しでも内申点の足しにしたいという私の我儘を聞いてくれ、進路相談の時間を何度も取ってくれた。出席日数よりも欠席日数の方が圧倒的に多かった私を、クラスの中の一員として受け容れてくれてもいた。おかげで、私は学校に行こうと思えた日は、意外とすんなり行くことができた。

こうした方々に共通しているのは、学校に行かないなら行かないでいくらでもやり様はある、その上で自分なりの選択肢を見つければ良いという、ある種の余裕を以って私に接してくれていたことだ。これは私にとって幸運だったとしか言い様が無いし、その幸運の恩恵は未だに受け続けていると思う。

私は不登校時代には積極的に不登校に関する話題を集めていたが、それらの中にはよく『ただ漠然と学校に行くよりも不登校の方が格好良い』という意見が混じっていた。当時の私は中学生だったから、まぁそれなりに『格好良い』という言葉に引かれはしたものの、引っ掛かりもあった。

『ただ学校に行くのって、そんなに簡単なことか?』という引っ掛かりだ。だって、自分は学校に行くだけで一念発起しなければいけないような人間なのだ。むしろ、普通に学校に通える友人達を尊敬すらしていた。羨ましがったぐらいだ。逆に友人は『お前は学校に来なくても良いんだから、良いよなぁ』とか言っていたが、それを聞いた私はなかなか複雑な心境だった覚えがある。

恐らく、こういった経験が不登校を続けて他の道を選ぶのではなく、高校を受験し、きちんと通う決意に繋がったのだと思う。もっとも、高校に行ってからの半年ぐらいは欠席をしたりもした。これが二年ぐらいになると『おっ、今日はSさんの授業じゃん』ってな具合になり、更に『うしゃしゃしゃ、生徒会役員最高! アニメ研究部最強!』とか言いながら作業しまくり、終いには生徒会長になっているのだから、もうバカアホの類だ。社会に出てから痛い目を見るのも当然だろう。

これらの経験から、不登校は無駄だが、それを無駄にしない努力、あるいは意識が必要で、それには周囲の理解はもちろん、働きかけも必要な場合があるのだという考えに至っている。別に学校に行けと言いたいわけではないのは、ここまで読んでくれた方々にはわかってもらえるはずだ。

ただし、人間には時間が必要なこともある。他人から見れば無駄に思えることも、本人にとっては無駄じゃない場合もある。それならそれで、無駄ではなかったと自信を持って言えるようになってもらいたいと思う。


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