外伝その3

 
 人間の方が余程、犬や猫などよりも性質(タチ)が悪い。
 
 それが、ここ三日間で川澄舞が大学生活の中でよくわかったことだった。下手に社会性などというものを利用する分、一度その恩恵を捨てさったときの人間というのは、それまで静かだったライオンが人間の手を檻から顔を出して噛み千切るよりも危険だろう。ライオンなら、危険だとわかっているからやり様があるし、可愛げもあるけど。―――自分の考えにそう付け加えてから、舞は周りを見た。県内で唯一、獣医学科がある大学の敷地内には色々な人が、午後から雨が降るという天気予報を知ってか知らずか、ときたま空を見てこれからどうするかを考えているようだ。あるものは目を細め、あるものはどたばたとロッカールームへ駆け出す。
 さて、そろそろ自分も用事の時間だ。ベンチから腰を上げると、知り合いの教授の部屋へと向かった。
 
 午前と午後の講義が一通り終わり、それぞれが昼を過ごした後、研究室やサークルへと顔を出し始める時間の廊下は、開放感というよりは、不安が渦巻いているように舞には感じられた。それは多分、彼女自身が不安を抱いている所為もあったが、実際、夏を控えて前期の時点での留年が確定した者も少なからずおり、あながち、レッテルやフィルターの所為とも言えない。特に、周りの空気を読み取る力とでも言えるものが人一倍強い彼女にしてみれば、なおさらだった。
 大体、嫌な予感はあったんだ。腰の辺りまで伸ばしている後ろ髪へ、胸元に垂れ下がっていた髪を押しのける。自分に近寄ってくる男性は何種類かに区分できた。その中でも、自分ではピンと来ないが、胸元などに特徴づけられる、性的な魅力を追いかける奴が特に厄介だった。精神的なことで近寄ってくる者であれば、そっけなくしてあげれば勝手に勘違いして遠巻きに接するようになるか、いなくなるのに。
 先日の騒動は自分でもやりすぎたと思う。言い寄ってきた首魁の一名は右肩脱臼に首にリウマチを患う不幸に見舞われてしまったし、数で押すために連れられた飼い犬の一人は左手捻挫に加え、股関節にヒビまで入っていたとのことだった。幸い、構外での出来事であったため、学校側も特に気にも留めず、また、一歩間違えば女性強姦だとかそういったのが取り沙汰されている風潮の中でこういったことが起こったことで、男性側への当たりが厳しくなり、停学処分という決定が出た。
 これが大体、ここ二三週間の間に起こった出来事で、今日、これから会う教授に頭を下げて礼を言えば、全てが元通りになるはずだ。
 久々に佐祐理と会う時間も作れるだろうし、母親が夕飯を作る頃には帰れる。そういった期待を持ちながら、教授の部屋をノックした。
「入りなさい」
「失礼します。川澄です」
「ああ、待ってたよ」教授の松本は、デスクの上で構っていたノート型パソコンを折り畳むと、立ち上がってコーヒーメーカーのある窓際へ向かうと、水蒸気を上げる機械から落ちる雫を溜め込んだ容器の取っ手を持つ。「君も飲むかい」
「―――いただきます」
「よろしい、最近は素直だね」
「おかげさまで」
「おやおや、手厳しい」
松本がコーヒーをカップに入れている間、舞は久々に足を伸ばした部屋の中に視線を泳がせた。ずっと置きっぱなしになっているらしい冬物のコートの横には、色褪せ初めた観葉植物がある。ガラスの蓋が取り付けられた本棚には、専門書や論文をまとめたファイルが色分けされて詰め込まれ、そこに入っていただろう何冊かは、テーブルの上座の端に積み重なっていた。中途半端に開けられたブラインドからは陽光が流れ落ちていて、松本がいつも着ているジャケットの裾を掠めて、汚れを浮かせていた。季節感だとか、色彩だとか、そういったものがこの部屋には無かったのだが、その様子の割には空気は悪くなくて、煙草の匂いもしなかった。舞は普段意識してここに足を運ぶことは無かったが、いざこうして顔を出せば、すっかり落ち着いた気持ちになって教授の話に耳を傾けているのだった。
「たしか、ミルクと砂糖は多めだったね」
舞が上に羽織っていた薄手のジャケットを傍らに畳んでいると、松本が聞いてきた。舞は声を出さずに、頷く。松本は眼鏡にちらちらと光を反射させながら首を戻して、手を動かした後に応接用テーブルの舞とは反対側の上座に当たる席に腰掛ける。身を乗り出して舞の分のコーヒーを彼女の前に置くと、人心地つくようにして深呼吸をしながら背もたれに身体を預けた。五十を過ぎると、上半身だけを動かすのは億劫になるものらしい。意識して身体を動かすというのは、生物学的に考えて矛盾しているのかもしれないね、と薀蓄を述べてから、コーヒーに口をつけた。
 舞はそれについては何も述べず、黙っていた。それについての反論―――無意識に身体が動くようであれば人間的に問題があるといった―――はあったものの、とにかく、黙っていた。今は、何を考えても性的な行動に対するものに繋がるようで、悔しさもあったが、今はあまり時間を取られたくないというのが大きかった。黙っていれば、松本が自然と本題に入ることはわかっている。
「それで、今回のことなんだけど」
予想通り、松本が本題に入る。お互いにコーヒーをカップの半分ほどまで飲んだときだった。
「ちょっと、おかしな話になってしまってね」
「……何か、私に?」
そうじゃないんだ、と松本が手を左右に振る。苦笑いを一つ浮かべた後、そのおかしな話というのを説明し始める。
「先日、とある会合で昔の教え子と会ってね。その子は全く獣医師に関係ない仕事に就いているんだが、彼に、君のことを話したんだよ。ああ、別に悪気があったわけじゃない。本当に、話半分という感じさ。理知的でありながらパワフルな女の子のことを話すのは、気分の悪いものじゃない」
はぁ、と相槌を適当に打つ。別段、聞く気が無いわけではなくて、後節のくだりがよく自分では噛み砕けそうになかっただけだった。
「そしたらね、何やら、彼―――その教え子の仕事は今、バイトに重要な仕事を回すぐらい忙しいらしくてね。君にも手伝ってほしいそうだ。ほら、以前、大変でも良いから時給が良くて短時間で済む仕事はないかって言ってたろ?ちょうど、そういった仕事なのさ」
「……具体的にお願いします」
たしかに、松本にそういったことを零したことはあったが、だからといって売り言葉に買い言葉という按配で引き受けるわけにもいかない。
「そうだな、ありていに言えば、イベント管理業さ」
「イベント管理……ですか。交通誘導とか……そういったものですか?」
「いや、どちらかというと、簡易のイベント自治組織だね。最近は物騒で、イベントとかでテロまがいのことが起こったりもしてるらしいんだよ。そういったときに、迅速に事態を収拾するんだそうだ。当然、時給は良いけれど、危険もある。だけど、最近の法改正で、バイトにも業務中の労働災害での保険が効くようになったろう?それで、ちょうど人手をかき集めてるんだそうだ」
自分の教え子をそういう仕事に就かせるのはどうかと言ったんだけどね、と付け加えて、松本はコーヒーを喉に入れた。
 舞も彼に倣ってコーヒーを飲みながら、今聞いた内容について吟味していた。悪い話ではない。都市の部類に入るとはいえ、地方に変わりが無いこの街で、そういった業務内容に危険性が付随した結果時給が高くなっている仕事というのは数が少なく、しかも経験者以外お断りの場合が多い。
 そうだ、余程、危険性が高そうであれば止めれば良い。そう考えると、舞はその昔の教え子という人間に会ってみると答えた。
「それじゃあ、これが彼女の電話番号だ。携帯電話に登録しておいてくれれば、あちらから電話するよう言っておくから」
「……彼女、ですか?」
「ああ、女性だ」
「……後は、よろしいでしょうか」
「うん、そうだね……うん、今日はもう良いよ。悪かったね、こんなことで時間を取らせて」
「いえ……どうせ、新しいバイトを探さないといけませんでしたから」
コーヒーをご馳走様でした、と言い残して舞が部屋を後にすると、教授は早速、かつての教え子に電話をかけたのだった。
 
 
 それからの二ヶ月は早かった。気づけば梅雨が明け、夏へと季節が駈け抜けようとしている。散発的に行われる都市部でのイベントに参加しつつ、たまに裏から回されてくる、イベントのチケットを同じ学部の知り合いに渡したりするのをきっかけに、大学の方でも人間関係が増えた。高校の頃の自分を思い出してみると、雲泥の差だった。それは、知らぬ間に自分の前から消えてしまった魔物たちへの哀愁と共に心に水溜りを作り、それを飛び越えようとして自分のスカートの裾を濡らすときもあったが、それは、良い意味での変化を彼女が理解していなかっただけでもあり、大した問題ではなかった。
 唯一問題といえば、本来、一般での休みの日に休めないことぐらいだったが、元からじっとしているのは性に合わなかったから大したものではない。しかし。―――
「佐祐理、どうしてるかな」
バイトを始めた頃こそ、密に連絡をしたり、同じ大学に通っていることもあって、昼時を共に過ごすということもあったのだが、ここ一ヶ月というもの、顔どころか声すらも聞いていないという調子で、ときたま、そのことを思い出しては携帯電話を取り出すものの、その都度、友人から話しかけられたり仕事の連絡(イベントに関する細かいシフト変更の連絡がよく来る)が入り、どうにもままならなかった。
 今日こそは、と佐祐理の電話番号へと携帯のカーソルを動かして、いよいよ発信ボタンを押したまでは良かった。次の瞬間、聞こえてきたのは呼び出し音ではなくて、その電話番号は現在使えない状態だということを伝えるアナウンス嬢の声だった。
 それまでいた教室の机に広がったノートなどを全部鞄に突っ込むと、佐祐理が毎週この時間に出ている講義に当てられている教室へと向かった。ちょうど、担当教授が教室から出てくるところだったので、声をかける。
「すいません、倉田佐祐理は今日の講義に出てましたか?」
「え?……ああ、倉田さんか。どうしたんだろうね、今日どころか、ここ二週間ぐらい講義に出てないんだよ。いくら前期も終わるといったって―――」
腕を組んで心配そうに話すその教授の話を聞くのもそこそこに、急いでロッカールームへと戻り、準備をしてから大学を出た。幸い、今日は一週間の中日で暇だから、とにかく佐祐理のアパートへと向かうことにした。
 大学に程近い場所に借りられた、高所得者が入っているアパートへと向かう途中、佐祐理の実家へと電話した。一人娘の希望ということで、近いとはいえ一人暮しを渋々許した彼女の父親は留守だということを電話に出た家政婦から聞くと、とにかくアパートへ急ごうと考え直してひた走った。
 アパートの建物前につき、佐祐理に教えられた番号を入力してセキュリティを解除し、エレベータを使って一気に五階へと昇る間に、預かった部屋の鍵を鞄から取り出す。乱れる呼吸と鼓動が、不安を呷る。早く、早く。
 ポーンというエレベータの到着音を合図に、再び駆け出す。長い廊下を一つ一つドアを横切りながら駈け抜けていく。503、504、505……509、ここだ。
 鍵を捻り、チェーンのかかっていないドアを開けて中に踏みこむ。佐祐理の靴があることを確認すると、様式造りの玄関と居間を隔てるドアを引いた。
「―――なに……これ」
見渡す限りにノートや文房具が散らばり、剥き出しのCDが辺り一面に転がっている。壁紙には何かで切りつけたような後があり、切れ目から剥がれた壁紙がだらりと垂れ下がっていた。隣の部屋を見れば、テーブルの傍には足の一本が折れた椅子が倒れていて、点々と、紅茶を零したような染みがある。やたらべとべとしているそれに興味がそそられたが、傍に落ちているガラスの破片を見て、地面に手をつけるのは止めることにした。スリッパを履いていて良かったと思いながら、周りをもう一度確認していく。窓は閉まり、カーテンで外は見えない。
 最初こそ泥棒かとも思ったが、ご丁寧に玄関に鍵をかけ、窓を閉めていき、箪笥もクローゼットも荒らさない泥棒などいないということに気づく。
 下手に動き回ると、転がったもので足を傷つけてしまいそうで、とりあえず、比較的無事だったベッドに腰掛けた。佐祐理のことで頭が一杯だったが、とにかく深呼吸をして落ち着こうと努力する。
 そのとき、携帯電話が鳴ったので着信画面を見ると、それは知らない電話番号で、取るのは躊躇われたが、この空間では例え悪戯電話だろうと、誰かの声を聞いてみたいという感情が働いて、恐る恐るではあったが、とにかく電話に出た。
「―――川澄さん、だね」
「どちらさまですか」
「倉田佐祐理の父親だよ―――娘が色々世話になっているね、すまない、連絡が遅れ―――」
それと知った舞が、強張っていた肩の力を抜く。佐祐理の父親だという男性の言っていることはよく聞き取れなかったが、とにかく安心した。
「―――これから言う病院に―――いいかね、よく聞いて―――もしもし、川澄さん?」
「……あ、はい、すいません」
安心のままに沈んでいきそうになった意識を揺り起こす。そうしていると、ふと、ずれた掛け布団がずれて、直そうとすると、変な染みが目に入った。気になったので、電話に耳を傾けながら腰を上げる。
「良いかい、娘は今―――」
掛け布団を押しのけると、そこには血がシーツにベットリと付着していて、下の敷布団にまで染み入っているようだった。
「精神病院で療養中だ。私もこれから顔を出すから、君もこれから来てくれ」
視覚と聴覚両方から入ってくる尋常ではない情報を反芻していると、頭痛がしてきた。
「わかりました」
そう応えるのが、やっとだった。右手にはじっとりとしたシーツの感触が、余韻として雫を垂らしていた。
 
 
 舞は故郷へと向かう電車の中での眠りから目を覚ました。あの感触を懐かしむかのように、右手を開いては閉じる。あれから三年ほどの月日が経った。今は、上京先で獣医の見習いをしている。佐祐理と別れるのは辛かったが、あのまま自分があそこに留まったところで出きることなどたかが知れていた。彼女にはもう、時間という概念が無くなっている。もしかしたら、私に笑顔を振ってはいても、誰なのかとまでは認識していないのかもしれない。
 何がどうしてしまって、こうなったのだろうか。多分、こうなる要素は以前からあったんだろう。危うい二人の人生が噛み合って、ただ、親友という繭に包まれて、安寧を得ていたにすぎなかった。そして、繭が破れたとき、私は夢を掴んだ。一方、佐祐理は夢に逃げた。まるで、双子の片方が生れ落ちるときに、もう片方の優性遺伝子を全て持って行ってしまうようなものだ。
 大学時代に教授から薦められた本には、こんなことが載っていた。「人はかつて男女問わず、二人で一つだった。その余りの生物としての完全さにゼウスは恐れを抱き、我々を引き裂いた」生物として完璧であるが故に、神に引き裂かれた生物。その半身はお互いにお互いを世代を越えて捜し求めているのだという。それは多分、私と佐祐理にもあてはまるのではないだろうか。―――気づいたときには全てが手遅れになっていたけれど。―――舞はそう考えをまとめると、途中の駅で買い込んだ冷凍みかんの皮を剥きはじめた。
 
 特急電車を乗り継ぐこと二本。ようやく辿り付いた故郷の駅に着いたときには、午後の一時を大分過ぎていた。始発で来た割には随分と時間を食ってしまった。世話になっている獣医師の小池が言う通り、飛行機を使えば良かったかもしれない。
「……でも、飛行機は苦手」
高校の卒業記念に佐祐理に誘われて飛行機で遠出したが、気分が悪くなったのを思い出してしまう。あのときは、やたらと期待に胸を弾まされている佐祐理を気遣って必死で我慢した覚えがある。今も、週に二度取れる休みを使って故郷に帰って来ているのだから、笑ってしまう。難しいことを考える必要はない。自分は佐祐理の親友だ。それで十分だと思いなおし、とりあえずは冷凍みかんでごまかしていた空腹を満たすために駅から一キロの場所にある蕎麦屋に入ってカツ丼を注文することにした。月一で足を運ぶ故郷での楽しみの一つである。いつも大盛りを二つ頼んでいるものだから、前回来たときには店主に普段は使用されないぐらい大きな丼で出されてしまった。どうやら、顔を覚えられたらしい。実際、今回も暖簾をくぐった瞬間、決して常連といえる回数は来ていないのにも関わらず「いつものだね!」と店主に言われて、驚き半分呆れ半分で頷くと、席に着いた。駅を出てから、梅雨が明けた翌週だというのに降雨で肩口を濡らされてしまったジャケットを椅子に掛ける。
 昼時を逸している所為か、客も少なげな店内に目を走らせる。奥の座敷では営業の合間らしいスーツ姿の中年と若いのが煙草を一服やりながら残った漬物に手をつけている。他にはこれといって客は見当たらない。今まで気にしたことは無かったが、この店はあまり流行っていないらしい。
「はい、お冷」
隙をついたかのようにトンと置かれたグラスに、間抜けに目を見開く。
「……どうも」
「お客さん、たまに来るけどこっちの人じゃないやね?こっちはまだ梅雨明けしていないのに、傘も持ってきていないなんてさ」
「あっ―――」
言われてみて気づいたが、たしかにそうだった。実際は、前日に病院が立て込んで帰りが遅くなったにも関わらず、始発に合わせて取った特急指定席のために早起きして、まとめておいた荷物を取るだけで頭が一杯だったというのもある。
「まぁ、濡れ髪で佇む美人ってのは絵になるさね。とりあえずこれ使いな」
ぽんと手渡されたタオルをありがたく使わせてもらうことにする。化粧はファンデーション以外はつけていないので、あまり気にならなかったが、店を出るときにでも軽くふきつけようかと考えたりしながら、仕込みの音に耳を傾けた。それに合わせるようにして、ときたま挙がるサラリーマン達の笑い声や、トタン屋根に当たる雨の音までもが小気味良く耳に入ってくる。上京先では車の音ばかりが耳について、こんな静かで落ち着く生活音に意識が集中することなんてなくなっていた。
「はいよ、カツ丼特盛り一丁、お待ちどうっ!」
二度目になるそれは、相変わらずでかかった。ラーメン丼ほどの大きさもあるものに盛られたご飯に乗せられた特大のカツの切り身、その上で卵のとぎ汁に伝来のそばつゆが斑模様を浮かべて熱を上げているその様は圧巻で、ごくりと唾を飲まずにはいられない。
「……いただきます」
その端正に整った顔でどのようにすればそれほど豪快に食えるのかと感嘆せずにはいられないが、店主はそれについては深く考えずに午後二時から午後六時までの休憩時間を知らせる看板を外に出した。
「ご馳走さん」
「あいよ、傘、忘れなんなぁ」
「雨が降ってるのに傘を忘れていく馬鹿はいねぇって」
座敷にいたサラリーマン達が勘定を済ませて店を出ていき、これで残っている客は舞だけになった。その舞はというと、黙々とカツ丼の中身を減らしつつ、濃い目の味付けで死に始めた舌をお冷で洗い流してはまたガツガツと丼に口をつけている。
「お客さん、良い食いっぷりだよねぇ。昔はあんたみたいな気風の良いママさんとかが仕事前によく寄ってくれたもんだけど、最近じゃあさっぱりでさ」
「……繁盛してないんですか?」
ごとりと重々しい音を立てて一旦丼をテーブルに置いて話を返す。個人的にはここの味が気に入っているので、こういった話題には興味があった。
「どうにもねぇ。ほら、これ以上売値を安くするわけにはいかないから、どうしても他のチェーン店とかに客を取られちまうんだよねぇ。けど、最近は、あんたみたいなお客さんが思い出したみたいに来てくれることがあって、流行り廃りだなんてのは、実際は関係ないんじゃないかな」
自分のやり方で結果を残してきた人間だけが言える台詞ではあった。
「まぁ、俺一人が食っていける分には問題ないさ。婆さんも死んじまったから口も減ったしなぁ」
ぽろりと零した話の寂しさを庇うようにして苦笑いを一つ付け加えると、店主はそれから黙った。ただ、自分の分の茶を入れようとしたときに、舞にも「いるかい?」と聞いて、舞がそれに応えて、それからしばらくして食べ終わり、人心地ついた舞は勘定を済まして店を出たのだった。
「……少しのんびりしすぎたかな」
左手につけた腕時計を見ると、もう三時になろうというところにまでなっていた。ちょうど駅前から流れてきたタクシーを拾うと、五キロほど郊外に出たところにある病院へと向かった。
 
 気味が悪いくらいに敷地たっぷりに緑をばら撒いた病院の敷地内に入ると、雨に濡れないように急いで院内へと走りこんだ。午後の面会時間はあと二時間程度だろうか。受付には電話で話を通してあって、毎度のことということもあり、貴金属類や音の出るもの、それと刃物や凶器になりそうなものはないかと確認され、携帯電話と腕時計を預けた後に個人用の特別室に通された。
 別棟にあるそこに行くまでに、様々な患者を見る。もういい加減に慣れたとはいえ、焦点の合っていない眼でこちらに首を向ける者や、面会人らしい女性に壊れた水飲み鳥みたいに相槌を繰り返す中年の男性など、見ていて気持ちの良いものは何一つ無いのは相変わらずだった。とはいえ、別棟に入ったところで突然に人足が途絶える。
 生活音の何一つしない、無味乾燥な廊下の先には、暗く、沈んだ雰囲気が漂っていて、人の人生の行きつく先が斯様な混沌とした澱みなのかもしれないと思うと、気が狂ってしまいそうにさえなる。
「こちらです。何かありましたら、すぐに備え付けのブザーを押してください」
何か、という部分を強調して告げると、付き添ってくれた看護婦が頑丈そうなドアのチェーンを鍵で外してから来た道を戻っていった。
「……」
意を決してドアをノックすると、返事に期待もせずおもむろにドアを開く。目につくのは、部屋一面の浅緑をした壁紙で、患者にしてみればどうかしらないが、まともな人間がこの部屋に長期間いたら気がおかしくなるようにも思える。その中に浮き出るようにして白衣を着た患者が車椅子に座っていて、ぐるりと建物に囲まれた内庭を、外からは見えないマジックミラー越しに眺めていた。
「……佐祐理、来たよ」
閉めたドアを、内側からもう一度優しく叩く。
「―――いらっしゃい」
佐祐理の笑顔は、かつてのまま凍り付いて、そのまま標本として残っているかのように変わり映えの無いものだった。それでも、久々に見た友人の笑顔は、舞にとって何物にも代え難いもののように思え、愛しささえ覚えるのだった。
 
 艶が剥げ落ちてしまったものの、未だにすべらかな質感を保っている髪に櫛を通していく。それらがかかった首には、骨が肌に透けて見え隠れしていて、触ればヒビが入りそうな、そんな印象さえ持つ。
「舞、背が伸びました?」
「……うん」
一ヶ月前に来たときも同じ会話をした。本当のところ、大学を出てからは全く背が伸びていない。佐祐理にとってはいつまでも舞は高校時代の大きさで、その頃の光景だけが強引な現像によって隣のフィルムにまで影響を及ぼしているといった具合だった。
「舞は大学に行ったら何がしたい?」
「……佐祐理と一緒にいたい」
「あははー、舞ったら甘えん坊さんですねー」
「……うん」
「舞はもっと自分のやりたいことを見つけた方が良いですよ、佐祐理もお手伝いしますから」
「……うん」
留守番電話に残ったメッセージを何度も聞きなおしているような感覚。もう、それに対する感慨などは浮かばなくて、ただ、流れている『音』に耳を預けるだけ。こんなことがいつまで続くのだろう。髪を梳くように、櫛を通せば解れるようなら楽なのだろうに。
「……佐祐理のしたいことは……何?」
「舞と一緒にいたいです」
「……真似は良くない」
「あははー」
櫛もそういった物を入れるための籠に戻して、佐祐理に別れを告げずに、ベッド以外には何も無い部屋を出ると、受付のあるロビーで、手続きを済ませた後に、自販機で紙コップに注がれたコーヒーを手に持ち、備え付けの待合用のソファに腰を下ろした。
 思考と感覚をゆっくりと現実の社会に合わせ始めるようにして、あたりを見まわしていると、ここは境界線に位置しているように思えた。此岸(シガン)と彼岸(ヒガン)の境目。彼岸とは、一種の理想の状態という意味もある。そう考えれば、佐祐理は理想の世界にいるのだろうか。少なくとも、此岸にいる私には判断がつきそうもない。舞はこちらに来ると感傷的になる思考に一応の結論を与えてあげると、再びコーヒーに口をつけた。
「やあ、川澄さん」
「―――ああ、佐祐理のお父さん」
五十を過ぎてなお立派な体格を維持している彼は、目立たなくも格式に見合うだけのスーツを着込んでいた。彼に会うのは実に半年ぶりで、前回もこんな風に、示し合わせたように挨拶を交していた。
「すっかり立派になって」
「……前もそう言いました」
「はは、そうかい?いや、うん、たしかにそうだね」
ぎこちない会話だと思い、佐祐理は向かいの席に座るように手で示すと、佐祐理の父はそれに従った。
「……佐祐理のお見舞いですか」
「うん、そうだ。私も近々忙しくなるから、これからはあまりここにも来れなくなってしまうよ」
「……そう、ですか」
父親という人種は話しづらい。自分がそういったものにあまり慣れていない所為もあるけれど、どうにも、彼らは本音と建前のギャップがありすぎるように感じられて、どう話して良いのかわからない部分が舞にはあった。
「それでね、佐祐理を軽井沢の方の知り合いの療養所に移そうかと思っているんだ。私も東京の方での仕事が多くなるから、都合が良いし、何より、このままの環境であれが良くなるとは思えない。君もその方が、こうしてわざわざ遠い場所にまで来なくて済むし、気楽になると思うんだ」
「……気楽?」
琴線に引っかかるものが彼の言葉にはあった。
「私は気に病んでいるからここに来ているわけじゃない……気楽だとか……そんな、他人事みたいな言い方で……佐祐理と私のことを言わないで」
勢いのままに立ちあがり、飲みかけのコーヒーをゴミ箱にバシャリと内容物をぶちまけながら捨て入れる。
「あ、いや、すまない。別にそんなつもりで言ったわけでは」
「……失礼します。あと―――」
佐祐理の父が、含みを残した舞の言葉を聞こうと耳を立てる。舞は一度だけ溜息を吐いて、言うかどうか迷いながらも、結局は言うことにした。多分、自分などが言って良いような言葉ではないだろうが、言わずにはいられなかった。権利よりも、衝動が彼女を突き動かした。
「―――佐祐理がああなった理由、考えたことがありますか?」
 
 
「ただいま」
「おかえり」
言葉少なげな親子の会話が済むと、舞はいつもそうするように、コーヒーメーカーのスイッチを入れてから台所の足長テーブルの席に座った。母親が、その斜向かいの席に座る。しばらくの間、これといった会話も無く、部屋の中にはコーヒーの湧くコポコポという音と水蒸気のふわりとした音の波があるだけだった。
「―――佐祐理ちゃんのお見舞い、行って来たの?」
「……うん」
「元気だった?」
「……うん」
「そう」
母親は娘が納得しているのであればそれで良いといった様子で、確認すべきことだけ確認すると、沈黙と優しさのギャップに戸惑うように悲鳴を上げ始めたコーヒーメーカーのスイッチを切り、二人分のコーヒーをカップに注いだ。じきに、ミルクの匂いがコーヒーの乾いた匂いに湿り気を与えて、部屋の空気を満たしていく。
「……母さん」
「うん、なあに?」
「……もしかしたら、佐祐理が軽井沢の病院に移るかもしれない……ううん、多分、もう決まっていることだと思うけど」
「そう……それじゃあ、舞はあまりこっちに帰ってこなくなっちゃうわね」
「……そんなことない」
「ふふ、無理しなくて良いのよ。あなた、まだあのバイト続けているんでしょう?」
母には黙っていたが、ずばりと言い当てられる。将来的に開業するための資金の足しや、母への仕送りのために未だに「物騒な」と教授が言っていたバイトを続けていた。こちらにいた頃よりも交通のアクセスの便が良くなり、なおかつ東京近郊ということもあり、週末には必ずといって良いほど借り出され、休みといえる休みは週に一度あるかなしという生活だった。
「そんな中、わざわざこっちに戻ってきているんでしょう?良いのよ、もっと楽にして。舞の気持ちはお母さんに凄く伝わってるんだから……ね」
「……母さん、あのね」
「うん?」
「……私、本当は……佐祐理のためにお見舞いに来てるんじゃない。あっちにいって、佐祐理から離れられたことにほっとした自分を認めたくなくて……それなのに……佐祐理のお父さんを怒るなんて……私……そんな権利……無い」
母親は、我が子の顔を見るべくもないとばかりにコーヒーに目線を落として、しばらく考えた。その目線に当たるものを口につけて、溜息を一つばかり、空気に混ぜた。
「人間はね、あなたが思ってるほど綺麗なものじゃないの。ちょっとしたことで他人を疑うし、酷いことを考えたりしてしまうわ。でも、それを認められるようになれば、多分、きっとその人は綺麗でいられると思う。お母さんには無理だったけど……舞なら大丈夫よ。ほら、コーヒーが冷めちゃうわよ。じきにお夕飯作ってあげるわね。あら、泣いてるの?馬鹿ねぇ、お母さんの前で何も遠慮することなんて無いんだから―――」
後半の母の台詞は、舞にはほとんど聞こえていなかった。いつもと変わらないしかめっ面を更に酷くして泣いていた。じきに、涙が枯れていくに従って、ある考えがまとまっていくのがわかった。理想が高くて純粋な人間ほど傷つきやすく、そして脆い。ただ、彼女にはそれを受け止められるだけの強さがあった。細く、しなやかなその身体は、練達された刃物のようで、それは魅力へと徐々に変わっていく。彼女は、最後の涙を刃先に滑らせると、携帯電話を取り出した。
 
 
 夏はもう目の前だった。景色の深緑が北上するのが待ちきれなかったかのように、佐祐理は軽井沢の療養所へと移った。あの日、舞が電話したのは佐祐理の父親で、先の彼女の言葉で少しだけ鋭気を削がれた一級の手腕とそれに見合った野心を持った代議士は娘のことについていろいろと考えを修正しようと難渋していたのだが、打って変わって励まされ、軽井沢への移転を決行することにしたのだった。
 舞の生活は相変わらずだったが、距離的な心配が無くなったため、気楽になっていた。彼女が思っていたほど、気楽というのは悪いものではなくて、むしろ、佐祐理に対して余裕を持って接することができるようになった。当の佐祐理はというと、それほど回復の兆しというのは見せはしないが、季節の彩りの変化に目を向けるという部分も出てきて、どうやら、移転は良い方向に結果を出そうとしているようである。
 舞はその日、今週最後の仕事から帰って来て、明日は佐祐理の見舞いに行くときにどんな話をしてあげようかといったことを取りとめもなく考えながらベッドに寝転び、くつろいでいた。
 ふと、携帯電話が鳴った。上体を起こして着信を確認すると、イベント業の上司からの電話であることがわかり、すぐに受話ボタンを押す。
「今からFAXを送るから、至急、それを確認して、明日か明後日当たりに、署名捺印をして持って来て欲しいんだ。もちろん、拒否権はあるから、好きなようにしてくれていい。私も、流石にこんな事態に君を―――いや、なんでもない。とにかく、よろしく頼むよ。それじゃあ」
一言も喋る暇も無く、電話が切られた。何やら随分とおおげさな内容で面食らって、きょとんとしていると、じきにFAXが着信して、音を立てて紙を巻き出し始めた。
 
 セーフガードへの参加受諾証明書
 
 そう書かれた書類を見たとき、舞は言い知れない不安を抱いたが、それは、彼女にとって一つの決着を見ることになる劇への招待状になるのだった。