外伝その1

 
 黄金週間。社会人にとって年度最初の大型連休。
 黄金週間、お盆、年末年始、というのが日本の大型連休の基本であるのは、休みを待ち構えている人間にとっては衆知の事実であろう。
 
 それに合わせて、各地ではイベントが計画され、その中に帝国と同盟の即売会も含まれている。
 しかし、サービス業に関わる者たちにとっては、一般の人間とは気持ちが逆転する。
 
 引っ切り無しにかかる予約の電話。
 各雑誌への記事、広告の依頼。
 社員の担当時間の割り振り。
 臨時社員の雇い入れの手続き。
 
 事前の準備だけで数え上げたらキリがない。
 
 当日に至っては、
 
 押し寄せる客の応対。
 ダブルブッキングなどのトラブル処理。
 食材・必要機材・設備の再チェックや買い入れ。
 
 などなど、心理的にも体力的にも、サービス業の人間は修羅場を迎える。
 
 それが大型連休というものである。
 
 
 さて、帝国に属するサークルの中にもサービス業を営んでいるものが数多くいる。その中でも特に有名なのが、柏木耕一と柳川裕也の、いわゆる「帝国の双璧」の二人である。
 二人共、仕事の関係で黄金週間に行なわれる帝国対同盟の戦いには参加できないことは、敵味方共に熟知している。
 
 しかし、彼らは彼らの戦いがあった。
 
 今回は、その物語を語ろう。
 
 
   同人英雄伝説・外伝その一
 
 
 四月二二日、一本の電話が鶴来屋にかかってきた。その電話を応対した事務員は、室内の会長室直通電話へと、正に飛んだ。
 応対の電話を切った瞬間に事務机と上がり、机の上においてある、湯のみ一杯に注がれているお茶を一滴もこぼさずに直通電話へと向かいの席の男性社員の上を飛び越え、着地しつつ電話の受話器を取ったのだ。サッポ○生ビールのCMのオヤジは実はこの人ではないかとさえ噂されている。
 鶴来屋勤めて三〇年、その事務員がときおり見せる華麗な動きは、感動と共に不安をよぎらせる。そう、彼が直通電話へと飛んだときとは、すなわち鶴来屋の危機が迫った証拠なのだ。ちなみに、彼はこういうときのためだけに日頃身体を鍛えている。
 
 その直通電話は当然会長室の電話を鳴らす。その呼び出し音には、パターンCが適用されているため、会長である柏木千鶴には緊急事態であることが直ぐにわかった。
 電話を取った千鶴は報告を受けた後、椅子に深く座りなおし、大きく深呼吸をした。傍にいた会長補佐がそんな彼女に声をかけた。
「パターンC…報告の内容をお聞かせ願えますか?」
千鶴は上体を椅子から起こし、静かに呟いた。その呟きはあまりにも小さい声だったため、会長補佐はもう一度聞いた、そして彼女はようやく他人にも聞き取れる声量で呟いた。
「佐々井夕奈…彼女がこの旅館に取材に来るそうよ」
それを聞いた会長補佐は驚きのあまり持っていた書類の束を床に落としてしまった。
「あの、鬼切包丁が…この鶴来屋に来るですと?!」
千鶴は書類を片付けさせた後に、会長補佐に呟いた。
「こちらも切り札を出すしかないわね…連絡、してもらえる?」
会長補佐は姿勢を正し、返答の代わりに大きく礼をして会長室から退出していった。
 そして、千鶴は仕事が一通り終わったことを確認した後、愛車のミニクーパー改で峠へと消えていった。
 
 鬼切包丁こと、佐々井夕奈。公式な資料では、職業フリーライター、年齢二十五歳と記され、備考欄には大きく殴り書きで、男なんて皆ロリコンよ!、と書かれているが、それ以外には一切公表されていない。
 彼女の主な執筆対象はサービス業である。その細かな指摘の仕方から、過去にそういった商売をしていたことが噂されているが、事実そうである。
 彼女はかつて東京の港区近郊の下町で佐々井亭という料理屋を営んでいたのだが、懇意にしていた男性常連客の鍋島志郎を、自分の実の妹である朝奈に盗られた(と本人は思っている)ために、家を飛び出し、現在は上記したような職業をしているのである。
 とにかく家族経営というものに嫌悪感を持っており、ただでさえ指摘が細かい上にグループの構成から来る問題でもあることを事細かに指摘し、それによってグループ役員の一斉交代劇が繰り広げられた会社もある。
 サービス業、特に飲食業や旅館というのは家族経営が多く、作者が知っている養○の滝というチェーン展開居酒屋の地方の担当員の大半が家族経営だったりする。他にも数え上げたらキリが無い。読者の方も思い当たる店があるはずだ。
 そんな中で、日本の昔からの因習を嫌う三〇代までの女性や若い世代に、彼女は人気を博している。サービス業で働いてる従業員が実は読者の大半であることも、見逃せない要因であろう。
 とにかく、こういった経営システムは社員にストレスが溜まるのである。それは結果的に客側への応対や様々なものに響いてくる。
 彼女の執筆次第では、自分のグループ内の締め付けや労働環境改善もしなくてはならなくなるため、サービス業各経営陣は鬼切包丁と呼んでいるのである。
 
 よりにもよって黄金週間直前にそんな女に記事を書かれてはたまったものではない、柏木千鶴はミニクーパー改のエンジンを峠で吹かしつつ、無茶に取り付けられたターボで不自然なコーナーの立ち上がりをしながら、そんなことを考えていた。
 
 
 一方、社員寮にて黄金週間前の時期を利用して有給休暇をとった柏木耕一と柳川裕也は一緒に酒を飲んでいた。そこに会長補佐からの連絡が入る。内容はこうだ。
「会長からの勅令です。これからファックスで送る人物を、独自の判断を以ってその行動を阻止せよ。以上、休暇の最中の連絡、すみませんでした」
しばらく後にファックスから佐々井夕奈の資料がせり出してきた。
 それを読んだ柳川、耕一の二人それぞれの反応はこうである。
「…仕方無いな」
「…ごめん」
柳川は耕一の言葉に思わず顔をしかめた。
「ごめんってなんだ、ごめんってのは。叔父さんは怒らないから言ってごらんなさい」
愛用の眼鏡を怪しく光らせつつ彼は耕一に回答を迫った。
「…俺、楓と結婚式場の席決めだとか、入場とかの曲決めとか、予定が詰まってるんだよ」
潜伏期間が長い病ほど発病すると早いもので、そんな例えをしては失礼な結婚というものも、似たようなものがある。一度ことが決まると、今度は具体的にどうするのかということで次々とすることができる。実際、暇なんてのはあっても、予定は一杯だ。
「……つまり俺一人でやるしかないということか」
結婚を応援した手前、柳川も強く要請できないことはわかっており、こうして彼は自分一人で鬼切包丁と対峙することになったのである。
 
 
 二日後の四月二四日。柳川は夕奈との待ち合わせ場所にいた。彼としては、彼女を鶴来屋で特別に準備された場所のみに連れて行き、良い印象だけを持って帰っていただくつもりであった。そのために、日頃からの旅館内のコネを使って特別体制を引き、鶴来屋では今か今かと二人の到着を待っている。
 だが、肝心の彼女が来ない。
 時間を確認する。午前10時。間違いない。
 
 10分待ってみる。
 
 
 来ない。
 
 更に10分待ってみる。
 
 
 来ない。
 
 待ちかねた彼は昔やっていた刑事なんていうアコギな商売の経験を使って、聞き込みを始めた。確認のために彼女の写真は持ち歩いている。それを売店のおばちゃんやら駅員やらに聞きこむ。
 すると、なんでもその女性なら山の方に吸い寄せられるように歩いていったというのだ。
 
 山…ここから山に向かうならば、以前様々なことがあった水門を通ることになる。車を使うならば道路を行くが、徒歩となるとそちらの方が道がなだらかだからだ。
 だが、春を過ぎた山というのは危険だ。地元の人間ならばどこがどう危険かということを心得ているから、獣にしろ道にしろどこをどういったら安全かというのを知っているからいい。だが、観光客が一人で昇るには危険だ。
 柳川は駅前から五キロほど山へ向かったところにある水門へと向かった。
 
 同時刻、夕菜は水門からしばらく山を登ったところにある開けた場所で、うずくまっていた。
 別に腹が急に痛くなったわけではない。
 足を捻ったわけでもない。
 
 山菜を摂っていたのである。正確に言うならば、この山は私有地(柏木家所有)だから、盗っていた、になる。
 
 この時期の山菜ならキロ当たり五〇〇円で売れるわね…
 
 そんなことを考えながら盗っていた。だが、欲をかきすぎた。草で見えなくなっている崖から落ちたのである。
 普通に落ちれば精々は身体の節々を痛める程度だったのだが、彼女の持っていた荷物がそれを許さなかった。
 下着などの入った鞄は駅のコインロッカーに入れてきたのだが、ライターにとって必需品である、ノートパソコン、携帯電話、録音用携帯機器などなど、際目付けが護身用に腰元に身に付けていたサバイバルナイフで、落ちて転がる再にそれで下腹部を深めに切った。
 
 出血がかなりある。
 助けが来るのは明日か明後日か。
 下腹部を深めに切ってそんなに長いこと持ち堪えた人間を知らない。
 
 そんな状況でも彼女は着ていたスーツジャケットで下腹部周辺ぐるぐる巻きにして、なおかつそばにあった木を使って結び目である袖の部分を捻り、下腹部を圧迫させた。これで内臓が腹から出るなんていう最悪の事態は無い。
 
 今さっき自分が転げ落ちてきた崖に背を預ける。六〇度くらいだから調度良いが、この急な崖を落ちたと思うと、ぞっとする。それと共に、出血によってじわじわ迫る死の恐怖に耐えていると、段々と彼女は弱気になってきた。
 
 自分はこんなところで何をしているんだろう。
 何でここにいるんだろう。
 こんなところで死んだら朝奈に笑われる。
 死んでたまるか勝つまでは。
 
 前言撤回。全然弱気ではない。
 
 だが、死は確実に近づいている。それと同時に助けも近づいていた。
 
 柳川が不自然に崩れた崖に気づいた。そこだけ草が削れていたために遠くからでもそれに気づくことができた。
 下をざっと確認すると人影が見えた。この角度だと引っ張り挙げるのは至難の技。もしかしたら鬼の力を使うことになるかもしれないという覚悟を決めた後、彼は崖を滑り降りていった。
 
 上から何か音がする。何かが滑り落ちてくるようだ。砂利が頭に降ってくる。ああ、助けが来た。
 そんなことを考えて安堵していると、頭にものすごい衝撃を感じた。まるで人が落ちてきたような…。
 
 ぶつかってきたものは反動で目の前に吹っ飛んだのち、見事に着地した。
 人間だった。
 
「…つぅっ…ちょっと、こっちは…怪我……してるんだから…ね…」
そこで彼女は意識を無くした。出血と衝撃の後の安堵によってだ。
 
 それに気づいた柳川は頭をぽりぽりと掻きながらも、これならば却って都合が良いと思い直し、彼女と荷物を抱えて、鬼の力を使って一気に山の麓まで飛んでいった。
 
 
 彼女を病院に引き渡した後、彼はこれで取材がどうのこうのもないだろう、と思い、自宅である社員寮の一室のベッドで眠りについた。
 時間は午後四時頃であった。
 
 眠りについた彼であったが、夜の一〇時頃の電話の音で起きることになる。病院からかと思ったが、意外にも鶴来屋会長、つまり千鶴からであった。
 
「…任務ご苦労……流石ね、あそこまで非情な手段を取るとは私も想像できなかったわよ。そうそう、ご褒美をそちらに送ったからよろしく。それじゃ、今後もよろしくおねがいしますわね、叔父様」
 
 一方的にかかってきて、一方的に切られた。何か勘違いされているようだが、別に構わない。とりあえず当分はこれで自分はあそこでは安泰だ。
 
 冷静に自分のことだけを計算している自分に気づいて、つい煙草に手が伸びた。銘柄はセヴンスターのメンソール…ラークを吸ってる輩には、ズタボロに言われる一品である。
 一服していると、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に尋ねてくるのは耕一くらいだ。柳川は煙草を加えたまま玄関のドアを開けたが、電話に続いてまたしても彼の予想は外れる。
 ずかずかと数人の黒スーツ上下に黒サングラスをつけた男達が、なにやら大きな麻袋を部屋に持ち込んできた。
 その無言の迫力に思わず彼らを避けた柳川は、ベッドに麻袋を置いて再び部屋から出て行くまでそのままの体勢でいた。
 男達が出て行った後で、柳川は煙草を吹かしながら、麻袋を見ていた。
 
 あの男達の様子と電話のタイミングからして、これが例の褒美らしいということはわかる。問題は、麻袋の膨らみ方がおかしいのだ。やたらごつごつしてて、かといって触ってみると感触は柔らかい。
 
 …数瞬考えた後、彼はまさかと思い麻袋から中身を、その重さに苦労しつつも出した。そこには病院の病人の服を来て、術後間もないと言った風の麻酔の効き加減で熟睡している、夕奈が入っていた。
 急いで部屋の電話から千鶴に電話をかける。数回鳴らすと、彼女は電話に出た。
「会長、これはなんですか」
「だから、例のご褒美よ、ご褒美。彼女はフリーライターだから会社には所属していない。これがどういうことかわかる?この取材そのものが無かったものにできる、ということよ。後は叔父様が彼女を上手く扱ってさえくれれば、万事は丸く収まるってわけ。精々、気に入られることね…それじゃ叔父様、おやすみなさい」
またしても一方的に話すだけ話して、一方的に切られた。
 だが、ここで柳川は考えた。つまり、彼女を上手く扱ってさえいれば、しばらくは仕事に出なくて良い、ということだ。これそのものが仕事なのだから。
 またしても自分のことしか考えていないことに気づいて、二本目の煙草に手を伸ばし、一息ついた後に彼はべッドの代わりにソファで寝たのであった。
 
 翌朝、夕奈よりも先に目覚めた柳川は、とりあえずこれからどうしたものかと考えつつも、朝の一服を楽しんでいた。
 時計を見てみると午前六時になろうとしていた。既に麻酔は切れているはずであるから、じきに彼女は目を覚ますだろう。
 問題はこの状況をどう説明するか、だが、それはやろうと思えば如何様にも言えることでもあるから、さして気にしなかった。
 次に頭に浮かんだのは、これから彼女をどう扱うか、ということだ。柳川には千鶴の言うような以前のようなことをする気は毛頭無かった。
 なんにせよ、彼女という人物がどういう人物であるのか、ということを知らなければいけないから、結局は彼女が目覚めるまですることが無かった。
 暇だったので彼女の顔を眺めてみた。
 切れ細った目じり。背中の辺りまで伸びた髪。意思が強いことを物語る、すっと通る鼻。知っている女性でいえば千鶴と似たような印象を受けるが、実際は話してみないことには本質はわからない。
 目覚めるまで待つ、ということを改めて確認した彼は、とりあえず朝の食事をどうするか考え、冷蔵庫を明けてみた。
 先ず目に入るのは、生ビールの缶。
 次に目に入るのは中ビン。
 そして最後に目に入ったのはチューハイの缶。
「…なんだ、酒しか無いじゃないか」
自分の生活力の無さに自嘲しつつ、社員寮に程近いコンビニまで行くことにした。
 春を過ぎたとはいえ、朝方は寒い。昨日から着たままだったスーツズボンとワイシャツの上にジャケットを羽織って、部屋を出た。
 外の道路を歩いていると、目が冷める。けだるい一日の始まりを再認識させてくれる。生活していくためにはいくら自分が弱い人間であれ、仕事をしていかなくてはならない。しかし、思うのだ。自分は夢を見続けていたい、と。それが同人などというものに通じているのかもしれない。
 例えそれが悪夢であったとしても。
 
 コンビニに入ると、サラダとミネラルウォーター、それにサンドウィッチなど適当にカゴに入れ、最後に煙草をカートンでレジの女性に注文して会計を済ませると、既に手をつけてあった煙草をジャケットの胸ポケットから出して、それを吸いながら社員寮へと戻った。
 ドアを開けて閉める。その音にベッドの上の夕奈が気づいたようだ、ぼやけた頭でむくりと上体を起こした。
「お目覚めですか、佐々井さん」
買ってきたものを机の上に置きながら、そんな挨拶をした。
「ここ、どこ?」
至極当然な返答をしてきたので、素直に答えた。
「ここは、私の家です。貴方が気絶したあと、病院に運んでいって、手術をしたのですが、まぁ諸処の事情で術後は私が貴方の面倒を見ることになった、そういうわけです」
不可思議な状況を相手に認めさせるには、意識が朦朧としているときの方が良いことは知っていたので、つらつらとついでに説明した。
 それでも、ある程度の抵抗や疑問は当たり前だと思っていたのだが、彼女の返答はそうではなかった。
「…邪魔、していいのかしらね」
「え?ええ、私は一向に構いませんよ。別段誰かと一緒に住んでいるというわけでもないですし、暇ですから」
「そう、なら遠慮なく厄介になるわ」
不思議に思った。彼女は状況に流されていることをわかった上で、それをよしとしているからだ。だが、同時に納得もできた。彼女は自分に一度、諦めというものを感じたことがある、と推察できたからだ。何故にそれがわかったか。他でもない、自分がそうだからだ。
 柳川はコンビニのビニール袋からミネラルウォーターを取り出して、彼女に勧めながらこう言った。
「とりあえず、水分を取ったほうが良い。まだ身体が治りきってないですから、水分は多めに取っておいた方が良いですから」
彼女は無言でそれを受け取ると、キャップを外して二口ほど喉に流し込んだ。
 それを見ながら、煙草を取り出して口に運ぶ。
「煙草、吸うのね」
「ええ、ストレスだらけですからね、私の人生」
そんな答えを自分を苦笑しながら、煙草に火を点けた。
「私にも、くれる?」
意外だった。彼女は取材先の食事なども評価の対象としているから、舌や鼻に悪影響がある煙草は吸わないと思っていたからだ。
 その答えは、彼女が口にした。
「食事なんてのはね、ある程度美味しければそれで良いのよ…高みを目指すとキリが無いしね」
苦笑混じりだった。それは、かつてその高みを目指していた自分に対してなのか。
「それにね、煙草吸っていると思えるのよ。もう自分には戻ることができない、って」
「どこに?」
「昔やってた料理屋…今は妹がやってるわ…舌とかをやってしまえば、料理人としてはもう失格でしょう?そこには、もう戻りたくないのよ」
柳川は、返答の変わりに彼女に煙草を一本渡した。
 
「あら、セヴンスターなんて吸ってるのね…まぁいいわ、もらうわよ」
 
 煙草の煙を、お互い吐き出しながら、しばし時間が流れた。
 
 煙草を二本ばかりやってから、柳川はコンビニで食事を買ってきたことを思い出した。
「佐々井さん、お腹空いてませんか?まぁ、あまり大したものはまだ食べれないでしょうけど」
内臓までやってはいないとはいえ、怪我事体は深い。消化が悪いものはまだ無理であろう。
「いただくわ…」
それを聞いてビニール袋からサンドウィッチとサラダを取り出して、二人で分けて食べながら、柳川は言った。
「これを食べたら、私は少し出てきます。昼までには戻ってきますから。その間、好きにしていてください。ああ、あまり無茶はしないでくださいよ」
口にサンドウィッチの最後の一口を運んでから、口をもごもごさせながら彼女は答えた。
「わかってるわよ、そうしないと貴方が困るんでしょう?」
自分が、自分のことしか考えない人間だと気づかれていることに感嘆しながらも、彼は苦笑した。
「さてと、それでは行って来ます」
「ええ、いってらっしゃい」
そうして、柳川は部屋から外へ出て行った。
 
「あ、そういえばまだ名前を聞いてなかったわ」
そんなことを一人愚痴った後、ベッドの下に転がっている自分の荷物を引っ張った。ご丁寧に麻袋と一緒に男達が持ってきたものだ。
 中から携帯を取り出すと、今回の取材の原稿を渡す予定だった会社へと電話した。このような状態では取材は難しいと思ったからだ。その旨を伝えた後、ベッドに寝転がり、大きく溜息を吐いた。
「これでこの会社からは当分仕事もらえないわね…まぁいいわ、今は身体のことだけ考えましょ」
ここに彼女自身気づいていない欺瞞があった。自分自身、取材などそっちのけで気分転換をしたい、という考えがあったのではないか、という。
 
 社員寮から歩くこと一五分。柳川の姿は、鶴来屋の会長室にあった。旅館の朝は早い。千鶴も、社員に対しての朝礼のために既に会長室でスタンバイしていた。
 普段ならば自宅である柏木家の屋敷で家族と朝食を取った後に朝礼に来るのだが、黄金週間前に社員一同の気分を引き締めるためにも、会長自身が朝早くに出社する必要があったため、それはできなかった。
 これもここ最近のストレス増加の要因の一つであるが、彼女自身は気づいていない。
「会長、早速本題に入らせていただきますが、今後、彼女、佐々井夕奈をどうするおつもりなのか、そこらへんを明らかにしていただきたいのです」
千鶴は会長補佐に入れてもらった濃い目のブラックコーヒーを口につけてから、回答した。
「別にどうするつもりもないわよ。こういう状況になった以上、取材は無し。それで私は十分。ただ、彼女がここから帰っていくまでは安心できないから、叔父様に監視をしてもらいたい、それだけよ。昨日の電話の内容はほとんど冗談みたいなものよ。気にしないで、叔父様なりに監視してちょうだい」
できれば、このまま彼女が今後旅館等への厳しい指摘文章を書かないようにしてもらいたい、ということを暗にしながら、彼女は答えたのだった。
 それに気づいていた柳川であったが、それはあくまで希望的なものであるから、手荒なことを無理にしなくても良いという風に解釈したのち、一礼してから会長室から退室していった。
 
「叔父様も丸くなったわね……耕一さんの影響かしら?まぁいいわ…会長補佐!コーヒー、のおかわりお願い。今度はもう少し濃い目でね」
 
 会長室から退室した柳川は、社員寮に戻る前に柏木家に寄ることにした。一応、耕一にも相談しておこうと思ったからだ。
 鶴来屋の社員用駐車場に止めてある自分の旧型のスカイラインに乗り込んで、柏木家へと向かった。普段は休日以外には車なぞ使わないから、ここに止めてあるのだ。
 柏木家の前の長い塀に横付けすると、屋敷の玄関へと歩いた。
 何度見ても立派な屋敷である。玄関先へと続く石畳。一階建てであるが、土地を最大限に活用した庭。何度も手入れを繰り返していることをうかがわせる、木造の屋敷の壁と瓦屋根。
 時間を見ると、午前九時を回っていた。この時間になると、学生である次女の梓と四女の初音は大学と高校に行っているから、今屋敷にいるのは耕一とその婚約者の、姉妹では三女に当たる楓だけのはずだ。
 玄関のチャイムを鳴らすと、予想通り楓が出てきた。
「おはようございます、叔父様。耕一さんなら、いますよ」
「ええ、わかってますよ。それじゃ、お邪魔しますね」
楓は静かに頷くと、居間の方へと歩いていった。玄関を上がりその後についていく。彼女は大学進学をする代わりに、耕一と結婚することを選んだ。誰かのために自分の人生を変えるということに、未だに理解に苦しむことがあるが、それでも、耕一と彼女の幸せそうな様子を見ていると、応援したくなったことを思い出しながら、彼は居間へと通された。
 見ると、お茶を飲みながら胡坐をかいて朝のニュースを見ている耕一がいた。そのはす向いのテーブルの座布団に楓が座ったので、自分は耕一の向い側の座布団に腰を据えた。「よお、仕事の調子はどうよ」
彼は柳川が年上でも関係無く気さくに話す。それは、別に柳川を人として正道に戻したのが彼だからだとかそういう理由からではなく、単に彼の性格から来るものだった。それを柳川は知っているからこそ、耕一を代えがたい人物として、付き合っている。
「そのことで、少々厄介なことになった。今のところは問題は無いんだが、正直これから不安でな、相談に来た」
相談とは珍しいな、と耕一は言いながら、テレビに向かっていた身体を柳川のいる方向に向ける。
 楓が傍に置いてあるポットから急須にお湯を入れ、客用の湯飲みをお盆から取り出し、耕一から湯飲みを受け取って、三人分のお茶を入れた。それを柳川は見ながら、彼女には仕事と家庭を両立させるような忙しい生活は似合わないな、と思う。結局のところ、人間は自分の性格を理解した上で、それに合わせて生き方を変えていくしかない、不器用な生き物だ。だから、彼女と耕一の関係を応援したいのだろうか、と考えていると、耕一から声がかかった。
「で、どういう風になったんだ」
「実は、女の面倒をみることになった」
「ふ〜ん……ん?!今なんて言った?!」
耕一の驚きの声と共に、楓も顔をしかめている。
 柳川は、ことに次第を夕奈と出合った当日の経緯から話した。
 
「…相変わらず千鶴さんも無茶なこと言うなぁ……」
「それでこそ千鶴姉さんです」
千鶴とのそれぞれの付き合いの長さをうかがわせる反応を二人がしている。それを聞いてから、柳川が口を開いた。
「でだ、俺も千鶴から太鼓判を押されているとはいえ、他の社員への面目もあるから、ある程度は出社して仕事をしなくてはならない。だから、その間彼女を面倒見れないから、協力してほしいんだ」
それを聞いて耕一は湯飲みに口をつけてから答えた。
「うん、俺は別に構わないよ。黄金週間までは長期休暇とってあるし、結婚式の打ち合わせとかで出かける以外は家にいるからな」
耕一の答えを聞いた後、柳川は楓はどうかと尋ねた。
「私も構いません。ただ、梓姉さんや初音に話を通しておく必要がありますから、明日以降、ということになりますけど」
「ああ、それで十分ですよ。私も彼女に説明しないといけませんから、明日以降の方が良い。協力、感謝します」
テーブルに両手をついて礼をすると、耕一が言った。
「そんなにかしこまらなくてもいいって。今回の仕事をお前さん一人に押し付けたのは俺なんだし、その点でも協力して当たり前なんだからさ」
その答えに心の中で感謝してから、時間を確認すると、一一時を過ぎていた。
「ん、そろそろ帰らないと昼に間に合わないな」
柳川の独り言を楓が聞き取ると、ちょっと待っててください、と言ってから台所へと往って何かを風呂敷で包んだものを持って帰ってきた。
「これ、持って行ってください。昨日のお夕飯に出したやつですけど、まだ悪くなってないですから」
風呂敷包みの中身を確認すると、大皿に漬物や焼き魚を乗せてラップをかけたものだった。
「ありがとう、それじゃ、そろそろ行きますね」
「ああ、明日、彼女連れて来いよ」
「頑張ってくださいね」
立ち上がって一礼してから、玄関から出て行った。
 
 柳川が出て行ってから、耕一と楓は話をしていた。
「未だに危なげな部分があるから、これであいつも落ち着くかな」
「さぁ、どうでしょうね、叔父様と相手次第ですから」
楓の答えに納得してから、違う話題について話始めた二人だった。
 
 スカイラインに乗り込んだ柳川は、煙草に火を点けてから社員寮にある狭い駐車スペースへと向かった。何故に普段ここに止めないかというと、社員寮に住んでいる者の車だとわかると、月極で駐車料金を請求されることになるからだ。
 到着して社員寮の自分の部屋へと入ると、夕奈がストレッチしていた。
「な、何やってるんですか、まだ下手に動いちゃいけませんよっ」
「ん〜…こんなの動いてるうちに入らないわよ。リハビリよ、リ・ハ・ビ・リ」
リハビリも無茶にすると却って身体に悪い。とりあえず、ストレッチを止めさせてから、楓に貰った風呂敷包みをテーブルの上に置いた。
「あら、それ何?」
「帰りに親戚の家に寄って事情を話したら、くれたんですよ。明日、その家に一緒に行ってもらいますよ」
風呂敷を開けると、夕奈が目を見開いた。
「ちょ、ちょっと、これ!」
その反応に柳川が顔をしかめる。
「…そんなに驚くような料理ですか?」
「違うわよ!このお皿!これ、室町前の有名な陶芸家のやつよ、ほら、お皿の真中に銘もあるでしょう?」
確認してみると、たしかによく読み取れない字が焼き残してあった。
「そんなに凄いお皿なんですか?」
「…そっちの知識はからっきし、ってわけね…そうね、今なら五、六〇〇万円で買い手がつくわよ」
「……あの家の人間はどこか抜けてるというか、大物というか…」
改めてあの家のことを再確認しつつ、とりあえず料理を大皿から適当な小皿に分けた。
「まぁ、そんなに大した料理ではないんですが、全て地物のはずです。美味しいですよ」
大皿のことに未だに関心がいっている夕奈であったが、とりあえず空腹を満たすために料理に手をつけた。
「ん、本当だ、残りモノみたいだけど、味が染みてて美味しいわね」
でしょう、と言いながら、自分も料理を口に運んでいった。
「それにしても、流石に家の中にこもりっきりだと、身体のことはともかくとして気分が参っちゃうわ…車、あるならちょっと外に出たいわね」
「…まぁ、車ならありますけど…仕方無いですね、わかりました、食事が終わったら少しここらへんを周りましょう」
「話せるわね」
「慣れました」
お互い、口を歪ませて笑った。
「それはいいとして、着替え、あるんですか?山に登って行ったときの服はもう着れないでしょう?」
「ああ、ジャケットとワイシャツは切れちゃったし、血もべっとり。スカートも引っかかったみたいでボロボロだものねぇ…貴方、何か持ってる?」
「…まぁ、男物でよければ。体型はそんなに違わないですから、大丈夫でしょう」
「とりあえず駅までいけば着替えを入れたバッグがコインロッカーにあるから、それでいいわよ」
それじゃ、とクローゼットから紺色のタートルネックの長袖と昔履いていたチノパンを取り出して、彼女に渡した。
 彼女が風呂場で着替えをして出てきて、鏡で自分の姿を確認した。
「…やっぱり胸元が目立つわね…」
ネック系のシャツは特に胸元の隆起が目立つ。男物を女性が着ればなおさらだ。
「…まぁ、男物ですから…なんならジャケットもお渡ししますか?」
「ええ、おねがい」
クローゼットを再び漁り、半袖のパーカー風のジャケットを取り出して彼女に渡すと、その場で着た。
「ん、これなら胸元は見えないわね」
「ええ、OKです。それじゃぁ、出かけますか」
その前に、と夕奈が声を出した。
「なんです?」
「貴方の名前、まだ聞いてなかったわよね」
「ああ、そうでしたね、私の名前は柳川裕也といいます。下の名前だと子どもっぽいので、名字で呼んでください」
「わかったわ、柳川さん。貴方じゃないけど、それじゃぁ出かけましょうか」
はい、と苦笑交じりに柳川は返事したのだった。
 
「ふぅん、車の趣味は悪くないようね」
黒塗りの旧型スカイラインに乗車してから、そんなことを彼女は言った。
「けど、内装にもうちょっと拘った方がいいわよ。今時、交通安全のお守りしか飾り気が無いなんて、女性もナンパできないわ」
「生憎と、女性には過大な興味は無いものでね。実際、女性でこの車に乗ったのは貴方が最初ですよ」
カーステレオから軽音楽を流しながら、クラッチを繋いでいった。
 
 温泉街は車が入りづらいため、結果的に郊外の方に車を走らせることになった。田んぼ道を抜けて、以前の水門のある山とは別の方角にある山へと向かった。
「どこに行くの?」
「良いところですよ」
そんな会話からしばらくして森林地帯を通る道路を抜けると、展望台を構える開けた高台の駐車場に出た。車をちょうど町がある方角に向けて崖側の駐車スペースに入れた。こうすると町全体が車内からでも視野に入る。
 煙草をダッシュボードから取り、窓を開けてから火を点ける。背もたれを少し倒して、一服していると、助手席の夕奈の顔が目に入った。別段何を見るというわけでもなく、町の方を見て呆けている。
「お気に…召しませんでしたか?」
その言葉に反応して、夕奈が目線だけを柳川の方に向けて言葉を繋いだ。
「いえ、特に気に入ったというわけではないけれど…悪くないわ。普段は真っ平な所に住んでるから、こういう景色はあまり見慣れてないのよ。そうね、新鮮、ってのがぴったりかもね」
それなら結構なんですがね、そう言って煙草を短くしていった。
 その様子を見て、夕奈がダッシュボードの煙草を一本取り、火を点けた。
「一つ、聞いても良いですか」
「…何?」
「取材、しなくて良いんですか」
自分の生活の糧を台無しにしていいのか、それが聞きたかった。もちろん、その理由も。
「…ええ、原稿を渡すはずだった会社にも断りの電話を入れたわ。今は、個人的に気分転換がしたいだけよ」
「本当に、それだけですか」
その言葉に、夕奈が煙草を口に運ぶ動作を止めた。
「それだけよ…今は、そういうことにしておいてちょうだい」
しばらくの沈黙を挟んでから、わかりました、と柳川は答えた。
 お互いに煙草を数本やって、他愛の無い会話をした後に、車を駅前に走らせた。彼女の着替えを取りに行くためだ。
 駅前の駐車場に車を停車して、彼女にロッカーの番号を聞き、キーを受け取ってから駅の中へと単身入っていった。
 そんなに広くない駅内で、ロッカーは直ぐに見つかった。番号を確認して、開けると、大きな手提げ鞄が出てきた。一応、中身の確認をする。彼女の許可は得てあった。
 下着を包んだビニール袋。上下二着ずつの着替え。そこまで手探りして中を確認すると、堅い感触が手に伝わるのに気づいた。
 何かと思い取り出してみると、サラシに使う堅い布で何十にも包んだ包丁だった。柄の部分に、佐々井亭、と焼き鏝が押されてあった。
 彼女の話した過去が嘘偽りの無いものである証拠であったが、自分がこれを見たことを彼女に悟られないように、そっと元の場所に戻した。
 鞄のチャックを閉め、ロッカーを後にすると、改札口のところで柏木家の次女である梓に会った。大学の帰りのようであった。
「あれ、叔父さん、こんなところで何やってんの」
「ん?ああ、ちょっと所用でね」
まぁ、嘘は言っていない。
「あ、荷物持ってるってことは、車に乗ってきてるんだ?」
「ああ、連れもいるがね」
まったく、この娘は何を考えているのか未だにわからない。以前私がした非道い仕打ちを全く覚えていないというわけでもなかろうに。それとも、覚えているからこそ、このように私に接しているのだろうか。それこそ、推察しかねることではあるが…。
「じゃあさ、ちょっと家まで乗っけてってよ」
「ん?私は別に構わないが…さっきも行ったが、連れがいるんだ。それでも構わないなら良いぞ」
「それじゃ決まり、ささ、荷物お持ちしましょうか」
そんな調子の良い彼女を見ていて、自分の勘繰りの馬鹿馬鹿しさに反吐が出た。同時に、昔のことを思い出して悲観にくれるのは止めようとも思った。それこそ、周囲への愚弄だと感じたからだ。
 
「…連れが女性だとは聞いてなかったなぁ、私」
駐車場から車の中の人物を遠目から確認すると、梓は隣の柳川のわき腹を肘で小突きながらにやけてみせた。
「こら、やめなさい…仕事なんだよ。彼女とはそれだけの関係だ、お前が勘違いするような隙も無いよ」
「まぁ、それはいいとして、私が車に乗ること、彼女に伝えておいてよ。乗りづらいから」
「全然よくないんだが…わかった、ちょっと待ってろ」
柳川は小走りで車へ行くと、夕奈何合かやり取りした後に、梓を手招きした。
 
「お邪魔しま〜す♪」
なんなんだ、その挨拶は…、そう心の中で毒づきながら、エンジンをかけて、柏木家へと向かった。
「はじめまして、佐々井でいいわよ」
意外にも夕奈からアクションを起こした。まぁ、年長者という考えが頭にあるのかもしれない。それに答えて、梓が自己紹介をした。自分が柳川の姪であることなども説明した。
「ふぅん、叔父さんってわけだ。それにしても、その割りには歳食ってないわね、柳川さん」
その言葉にギアチェンジを少しドジり、エンジンが負担を強いられることに抗議するかのように低く唸った。
「あら、禁句って奴だったかしらね」
「そんなことはないですよ、なぁ、梓」
助け舟を求めたが、肝心の梓は苦笑いするばかりで、用に足りなかった。
「…それはいいとして梓、やけに早い帰りじゃないか」
「ん?あ、ああ、講義が午前中だけで終わったから、仲間と飯食ってから帰ってきたんだよ。こういう日でもないと楓の代わりに夕飯も作れやしないしね」
その会話を細めで伺いながら、暗にさっきの話題はどうしたの、と聞いている夕奈が目に何度も入ったが、柳川は気にせずに会話を続けようと努めた。
「…楓さんはすっかり家庭の人になり切ってますからねぇ、まったく、耕一の馬鹿には勿体無い」
「それは同感。なんであの馬鹿に可愛い妹をやらなきゃならないんだか。まぁ、当分は実家から出る気は二人共無いみたいだから、応援してやってるけどね」
そんな会話が何合か続くと、流石に話に入れないのは可哀想だと思い、夕奈に話題を振った。
「明日の予定でしたが、今日の内に柏木家の方々に顔を見せておきますか?ついでですし」
つまらなさそうにセヴンスターの煙を口から吐いていた夕奈が、顔を向けないままに、お邪魔でなければそれでいいわよ、と返事したのを聞いて、柳川はそれから柏木家につくまで、何も口にしなかった。
 
 数分後、今朝のように車を塀側に少し余地を空けて横付けすると、三人共車外に出た。
「あ、そうだ、ちょっと待ってて」
そんなことを夕奈が口に出した。
 何事かと思い見ていると、今まで着ていたパーカーを脱いで、先ほど柳川が取りに行った鞄を開け、そこから紺碧色のスーツジャケットを取り出して、羽織った。
「流石に初対面でフランクな格好するのもあれだからねぇ…」
「まぁ、なにはともあれ参りましょうか」
梓はというと、一人だけ先にとっとと玄関で、ただいま〜、などと大声で言っているらしいのが聞こえた。その声に呼ばれるように、二人は柏木家の玄関をまたいだ。
 
「たっだいま〜、お客さんもいるよ〜」
梓の大きな声を聞きつけた楓が、玄関に出てきた。
「おかえり、梓姉さん…その荷物、何?」
梓が、自分の私物を入れているバッグとは別に、片手に手提げバッグを持っているのに気づいた楓が質問した。
「ん、ああ、これ。叔父さんの。実は駅から車で送ってもらったんだ」
梓が視線を玄関の外に向けると、ちょうど柳川と夕奈が姿を現した。
「度々お邪魔してすいませんね、楓さん。こちら、先ほど伺ったときにお話した佐々井夕奈さん。梓を送ったついでに、挨拶を済ませておこうと思いましてね」
柳川の紹介を受けた楓と夕奈が、お互いに、はじめまして、と挨拶をしてから、全員が居間へと上がった。
 居間へと通ってみると、馬鹿…もとい耕一が寝ぼけ眼で今朝と同じ位置に胡坐をかいていた。どうやら、寝ていたのを梓の大声で起こされたらしい。
「なんだ、昨日はあまり寝てないのか」
柳川の問いに、耕一は頷いた。
「昨日、千堂さんからメールがあってな、特定のサークルの売上を徹底的に下げる方法の参考を聞いてきたんだよ。まぁ、黄金週間のアレに出られない手前、こっちも気合入れて説明してたら、メールを向こうに送信したころには朝方の四時を回ってたってわけ」
「まぁ、今の内に頭を酷使しておくんだな、結婚してからだとしばらくはそんなこともしてられまい」
楓の方を横目で見やりながら毒づいたあと、夕奈を居間に通した。梓はというと、ちゃっかり上座に座っていた。
 
 一通り事の次第や自己紹介を終えた話し終えた後、柳川が腕時計を確認すると、四時半を回っていた。
「そういえば、初音ちゃんはまだかな。どうせだから彼女にも挨拶しておきたかったんだが」
耕一がそれを聞いて、柳川と同じく時計を確認する。
「う〜ん、初音ちゃんは部活してないから、そろそろ帰ってくるはずなんだけど…」
高位置は腕を組んで時計へ目をやりながら愚痴ったが、それに楓が答えた。
「初音がいつ帰ってくるにしろ、夕飯をご一緒にできるなら、それで問題は無くなりますけど?」
その提案に、柳川と夕奈は乗った。お互い、二人っきりで食事を取るのは、遠慮が少しあったからだ。
 それからしばらくは、お茶を飲みながらの談話が続いた。
 
「へぇ、じゃあお二人は六月には結婚するんですか」
自然と、話題は耕一と楓の結婚式の話へと移っていった。夕奈が、それに嬉しそうに反応する。
「ええ、今から準備で忙しいんですけどね、なんせジューンブライダルだから、他の結婚式をする方達と掛け持ちで担当の方に式の相談とかをしてもらってるんで」
夕奈がその話題に嬉しそうに反応しているのは前述したが、そこに柳川だけはなんともいえない彼女の矜持を垣間見ていた。何がどうというわけではない。そう、なんとなく、なんとなく見たような気がした。しかし、刑事時代に経験で知ったことだが、この、なんとなく、という感情は実に重要なきっかけになる。
 人間が発する、感情の微粒子。その一端を感じ取った瞬間の感触、それが、なんとなく、だからだ。
 湯飲みの中身を口に流しながら、柳川は冷静に夕奈を見ていた。それに気づいたのが、直感力のある梓だった。
 彼女は柳川に車で買い物に付き合ってほしいという風に話をもちかけて、居間にいた一同に見送られて外に出た。
「梓、どういうつもりだ」
「あの人に興味があるんでしょう?」
屋敷の中では吸えない煙草に火を点けながら、玄関先の道路で一服する。
「そんなことは無意味だ。ナンセンスだ。日本語と英語でもわからないようだったら、なんなら独語で言ってやろうか?」
「残念ながら私の専攻してるのは伊語なの。インテリな言葉はわ〜っかりまっせ〜ん」
「……まったく…」
煙草を吸って呆れている叔父を見て、梓は一応フォローを入れた。誰の?自分のだ。
「あ〜、でも買い物に行きたいってのは嘘じゃないって。ほら、なんなら初音もついでに迎えにいけばいいじゃん」
初音、という単語で柳川が乗り気になった。個人的に、柏木四姉妹の内で彼が最も気に入っているのが彼女だからだ。別段、以前耕一が指摘したような、よこしまな感情があるわけじゃない。ただ、調子をいつも狂わされるような姉妹の中にあって、彼女だけが常識の上で物事を判断しているからだ。
「…買い物か…どうせ夕飯の材料だろう?スーパーの前で下ろしてやるから、その間に私は初音ちゃんを迎えに行って来る。それでいいか」
「ああ、私はOKだよ。それじゃ、いざいざ参ろうか〜」
「…まったく」
大きく一服して吸殻を車に備え付けてある灰皿に突っ込む。そして、梓が助手席のドアを閉めるのを確認すると、発進した。
 
 梓を、柏木家のある郊外の住宅街から大通りへ出る道沿いにある、スーパーに下ろしてから、自分はその道の先の山間部にある高校へと向かった。大体、柏木家から車で一五分程度の場所にある。徒歩ならば片道三〇分といったところだが、ここらへんで高校というとそこしかない。
 好景気の頃の住宅街建設のラッシュが、ここら辺には無かったため、結果として昔からある普通高校だけが唯一の高校として郊外に構えている。
 確かに建っている場所は辺鄙だが、交通の便は良い。駅前から出ていて柏木家の傍も通る路線バスも一日に六本、二台のバスが順繰りに出ているし、車道も整備されている上に寮もある。
 生徒数は減るどころかむしろ増えている理由は、ここらへんにある。初音は、前述したバスで通っている。部活をしていない理由はここにあって、部活をする生徒用に用意されている最終便で帰るとなると、どうしても夕飯に間に合わない。彼女にとっては家族との会話や食事が生活の中で優先されていて、友達との付き合いもそれを理由に断るが、友人の間での評判は良い。そこらへんが、彼女の器量の良さを表しているかもしれない。
 思えば、だからこそ、耕一の実父で、柏木家で両親を亡くした姉妹の面倒を見ていた叔父が亡くなったとき、対外的なものと対内的なものとに挟まれて最も苦しんだのが彼女であるが、それに柳川が考えを巡らせたとき、腹違いとはいえ、兄弟であるその叔父になんともいえない既視感を覚えた。
 千鶴が家族全員に持たせてある携帯電話を持っている初音に、柳川が車を学校の塀にに止めてから連絡をすると、ちょうどバスを待ちながら友達と話していたので、今からそちらに行くという。
 そこで珍しく、彼女から頼まれごとをされた。友人を梓のいるスーパーまでで良いから乗せていってほしいというのだ。
 特に断る理由も無かったから、承諾した。
 煙草を吸いながら、しばらく待っていると、校門から初音とその友人と思しき女の子が出てきた。車内から手で合図をすると、初音だけが先に走り寄ってきたので、ウィンドウを開けて何事か聞く準備をした。
「それじゃ、叔父さん、改めて、お願いします」
「なんだ、そんなことか。電話でも言ったけど、別に嫌じゃないんだから、そんなにかしこまらなくていいよ。第一、ここに初音ちゃんを迎えに来たのは、私が好きでやってることなんだからね」
「ありがとう、叔父さん」
その言葉を残して友人の所へ走り寄っていったので、柳川は車をその場所まで移動させた。
「はじめまして、狭い車だけど、どうぞ」
初音の隣にいた女の子に挨拶をすると、彼女は丁寧に返答した。
「いえ、ありがたく乗せていただきます」
あまり喋ることに必要性を見出さないタイプ、しかし、他人をひきつける何かを持った人間、そんな風に柳川は推察した。ふと、その娘が小脇に抱えている細長い包み袋に気づいた。
「ん、それ、車に入るかい?」
「ええ、大丈夫です。見た目よりも意外と小さいですから」
「そうかい、なら改めて、どうぞ」
「…はい」
初音が助手席に入ったのを確認してから、その娘が運転席後ろの席に入った。
 無意識の内に用心をする、慎重なタイプ。だが、ある程度の安心材料を得ると逆に大胆になる、といったところか。
 半分以上癖になっている人物観察を頭の中でしながら、車を発進させた。
 
「ところで、本当にスーパーまでで良いのかい?なんなら駅前まで送っても構わないんだよ」
聞けば、隣町から電車で通ってるらしいので、確認を取ることにした。
「…いえ、夕飯の買い物もしていかないといけないので」
「ふむ、なるほどねぇ」
柳川が初音の方を流し目であざとく見ると、初音が何事かとわめいた。
「お、叔父さん、何がなるほどなのよ?」
「いやね、流石は初音ちゃんの友人だと思ってね。しっかりしてるよ」
「ああ、慎ちゃんはなんせ弓道部のエースだからね、しっかりしてて当然だよ」
「…初音、余計なこと言わない…」
「あ、ごめんごめん」
大体、二人の関係がわかってきた。しっかりものという点で共通点を見出して親近感を覚えつつ、お互いにお互いの性格を刺激しあっている、という、まぁ、よくある関係だ。
「ほう、弓道部か…飛び道具は私は拳銃しか扱ったことが無いがね…それじゃあ、その大きな荷物は弓かい?」
「…今、何か滅多に聞いたことがないような経験談をさらっと言ったような気がしたんですが…とりあえず、この荷物は仰るとおりの弓です。あと、練習用の矢が少し」
「気にしない気にしない、叔父さんは前は刑事やってたから、それで拳銃も扱ったことがあるだけだよ、でも、慎ちゃん偉いねぇ、家でも練習するんだ」
初音の言葉に少し顔を引き締めるのが、ルームミラー越しに見えた。
「…家でも、というより…学校では週に一度しか部員が集まらないから」
だから、自然と自主練習が必要になる、というわけか。
「それにしても、一人で練習かぁ…ん、それじゃあ高校に入る前からやってたのかな」
柳川の質問に、慎が答えた。
「ええ、小さい頃に祖父の家に預けられてから、ずっと…」
そこまで彼女が話したところで、スーパーの前に着いた。
「ありがとうございました、初音、また明日ね」
「うん、気をつけてねぇ〜」
「忘れ物の無いようにね」
そんなやり取りを交わしてから、慎がスーパーの中に入っていくのと入れ違いになる形で、梓が出てきた。
「やぁ、グッドタイミングだわぁ。叔父さん、相変わらず感が良いねぇ」
「余計なお喋りはそれくらいにして、早いところ乗れ。早く帰らんと夕飯の準備に間に合わんぞ」
車内のステレオに表示されている時間を梓が確認すると、六時になろうとしていた。
「げっ、やば!」
「だろう、さ、早いところ乗れ」
梓がスーパーのビニール袋を後ろの座席に放り込みながら乗り込むと、柳川は夕焼けの道を柏木家へと急いだ。
 
「それにしても、柳川ご一行は帰りが遅いな…」
「梓姉さんは買い物が長いですから…広告もロクに見ずにその場その場でメニューを考えるから、こうなるんです」
「それはそれで凄いような気がするわね…」
三者三様で件のご一行の帰りを待っていると、じきに塀の外で車が止まる音が聞こえた。
「ん、帰ってきたみたいだな」
出迎えるために、のそりと立ち上がった耕一は玄関へと向かった。
 
「ただいまっ!楓、夕飯の準備しちゃってないでしょうね?」
玄関を上がりざまに、必死の表情で楓に聞いている。
「いえ、梓姉さんが作りたいのは承知してたから、何も手をつけてないわよ」
「そ、ありがと。んじゃ、早速作りますか」
楓の言葉に安堵した後、台所に廊下から向かった梓は、荷物を置いてから、普段着けている前頭葉部分のカチューシャを付け直して、気合を入れなおし、前掛けをした後、正に腕を鳴らした。
 
 梓が台所に入った頃、遅れて柳川と初音が玄関に入ってきた。
「はいはい、お姫様をお連れしましたよ、ご褒美くださいな」
「手前ぇにやる褒美は無ぇよ」
柳川と耕一の会話は、二人以外の人間に降られても対処に困るものが多い。それを聞いてるだけであったのに、初音ときたら気恥ずかしさで、楓にただいま、と小声で言うと、トコトコと自分の部屋に荷物を置きに行ってしまった。
「叔父さん、冗談も程ほどにしてくださいっ、耕一さんもですよ」
「「スンマセン…」」
 
 とりあえず、耕一と楓は居間に向かったが、柳川は初音に夕奈のことを話していないことを思い出して、先ほどのことで少々気が進まなかったが、彼女の部屋に向かった。
 彼女の部屋の扉の前で、軽く三回ほどノックする。
「初音ちゃん、入りますが、よろしいですか?」
部屋の中から、どうぞ、という声が聞こえたので、柳川はノブを捻った。
 初音は部屋の奥にあるベッドにセーラー服を着たまま座っていた。
「えっと、さっきはごめん」
「ん〜ん、気にしてないよ、叔父さんと耕一お兄ちゃんはいつもああだってわかってるし」
そんな風に思われてたのか、と軽い衝撃を覚えながらも、本題に移ることにした。
「玄関で、靴が一つ多いことに気がついたかい?」
「うん、お客さん来てるんだね」
よくもまぁ、あの瞬間でわかるものだ、と感心しつつも、その家の住人にとっては少しの違いが直感的にわかるものらしいが。
 それに加えて、彼女はその直感力も人一倍ある。まぁ、梓もそうであったのだが、ついでに書いてしまえば、この姉妹全員の直感力が高い。
 耕一と柳川も高いのであるが、エルクゥの血というのは、男性女性によって現出の仕方が違うらしい。
「でだね、これからその人に…私の連れなんだけども…会ってもらうけど、いいかい?」
「別に私は構わないよ。叔父さんが頼みごとなんて珍しいしね。慎ちゃんも車に乗せてもらったし、遠慮しなくていいよ」
そこで少し引っかかるものがあった。慎、の名詞だ。
「ん〜、ちょっと座ってもいいかな」
「あ、はいはい、私の机の椅子使って良いよ」
初音に勧められた通りに机に収まっていた椅子を引っ張り出して、それを初音の方に向けて座った。
「で、だね、あの娘、何か気になる部分があるんだけど…あ、ごめんね、友達のこと詮索するようで。答えたくなかったらそれでもいいよ」
そう、彼女が車から降りるときに感じた、またしても、なんとなく、の感情、それを確かめたかった。
「別にいいよ、隠すようなことは慎には何も無いもの。そうだなぁ、他の子と変わってる所といったら、おじいちゃんと二人暮しってことかな。あと、少し危なげな部分があるところとか」
そこらへんが世話好きな初音が彼女に惹かれた理由か、と推察しつつ、慎本人のことについて考えを巡らせた。ただの考え過ぎなのかもしれないが、いまひとつすっきりしない。
「あの娘の家、行ったことあるかい?」
「うん、そんなに大きな家じゃないけど、おじいちゃんも良い人で、お茶菓子ももらったよ。おじいちゃん、そのときに凄く嬉しそうで、理由を聞いたら、慎ちゃんが家に友達を呼んだのは小学校以来なんだってさ」
ふむ、と顎に手をやって、情報を整理してから、質問を続けた。
「そのおじいちゃんが弓道を教えたって言ってたけど、その人の腕はどれくらいなのかな」
「凄いよ。一度、屋敷の中にある弓道場…といっても、屋敷の半分以上はそれで使ってるんだけど…そこで一〇本の矢を全部的の真中に射ってね、本当に凄かったんだから」
初音がそのときの様子を身振り手振りで楽しそうに説明する。
 三十三間堂の通し矢じゃあるまいが、それほどの腕前となると、地元ではかなり有名だろう…。
「そういえば、慎ちゃんの名字ってなんなんだい?」
「壱岐、っていうんだよ。昔の数字の壱って書いて、岐路の岐って書くんだ」
となると、京都の出だな。あちらさんで確か通し矢で有名な家があった。そこの名字も確か壱岐だった。となると、そこの係累の人間か?
「でもね」
「ん?」
「おじいちゃん、最後の一本を打つとき、凄い苦々しい顔してたんだ、それで後で慎ちゃんにそのことを言ったら、凄い悲しそうな顔してたよ。直ぐにいつもの慎ちゃんとの学校の話になったけどね」
通し矢最後の一本の執念、か…老体の達人としての矜持だ、と済ませれば済む話だが、どうもこれに慎という要素が加わると…いやはや、我ながら自嘲したくなるな、この考え方は。
「さて、色々細かいこと聞いてすまなかったね。そろそろ居間に行こうか」
「ううん、気にしないでいいってば。ああ、私は着替えてから行くから、先に行ってて」
「ん、じゃ、お邪魔様でした」
初音の部屋を出たあと、一端外に出て煙草を吸うことにした。
 
 七時前ということもあって、既に日は落ち、街灯だけが道路を照らしていた。
「ふむ…車の通りが少ないとはいえ…一応移動しておくか」
車を街灯の下まで移動することにした柳川は、車に乗り込んでエンジンをかけた。そのとき、人影を見た気がしたので、ビームを少し上げた。
「ん…慎…ちゃん、か?」
目の錯覚だろうか、あの細長い荷物、それに比して小さめの彼女の影が見えた。が、確認のために車を降りてその場所へ行って見ると、誰もいなかった。
「疲れ目か?」
とりあえず車を移動して、もう一度煙草を吸いながら考えてみた。
「電車はまだ何本か出るから、ここらへんの友人の家の帰りと考えてもおかしくないが…夕飯を作るといってスーパーで降りたのに、それはおかしいだろう…」
考えれば考えるほど、彼女という人間がわからなくなってくる。こういう興味をやたら持つから、耕一にロリコン呼ばわりされる羽目になるのかもな、と苦笑してから、彼は屋敷の中へと入っていった。
 
 
「…見られた……」
住宅街を駅の方へと歩きながら、慎は一人愚痴っていた。別に何か用事があったわけではない。スーパーの帰りに柏木家の前を通ったときに、初音の叔父という男の車があったから、なんとなく、そう、ただなんとなく塀の傍を歩いていたら、暗くなっていた。
 なんだろう、不思議な感じ。別に年上の男性に興味を持ったわけではないことはわかる。自分がそんな年頃の同級生と同じ考えなんて持ち合わせていないと考えたからだ。
 そんなことを考えながら駅前まで五分ばかりの場所まで歩くと、祖父に持たされた携帯電話が鳴った。
「…もしもし」
電話の向こうからは、祖父の声が聞こえてきた。
「慎、慎か?何をやっているんだい、おじいちゃん、夕飯の時間になってもお前が帰ってこないから、心配じゃないか。今、どこだい」
相変わらずだ。高校三年生にもなって、いつまでも子ども扱い。けど、それも仕方が無い。おじいちゃんにとっては私は、大事、なんだから…。
「うん、今、駅前。八時までには帰るから…うん、夕飯、遅くなってごめん…それじゃ」
電話を切ってから、夜空を見上げると、雲の隙間から星が見えた。
「おじいちゃんにとって、私はあの星と同じ…いつでも見ていたくて…空想の対象…」
荷物が重く感じる…疲れているんだろうか、そうしている内に、駅についた。さて、帰ろう…電車に乗って…おじいちゃんのいる家へ…。
 
 
「どこ行ってたんだ、このすかたん!飯が冷めちまうぞ!」
柳川が居間に戻ると、梓の罵声が出迎えてくれた。こと自分の作った料理のことになると、やたら他人に厳しくなる。まぁ、それに比して自分への厳しさも上がるから、責めようが無いが。
 一言、謝罪してから席に着いた。
「千鶴ネェは遅くなるらしいから、とっとと食べちまうよ。はい、いただきます」
一同、梓に倣っていただきますをして、食事が始まった。
 席の順序を言うと、上座から見て右手に、手前から楓、耕一、初音。左手に梓、柳川、夕奈の順番となっている。肝心の上座の千鶴は、梓の言う通り仕事で遅くなっている。今頃は給仕の料理を一人寂しく会長室で摂っていることだろう。
 よくもまぁ、小一時間で作ったものだ、という感想を持ったのは柳川だけではなかっただろう、時間が無いのは承知してでの献立だろうが、先ほどのスーパーで買ってきた調理積みの切り身を軽く火で焼いて、それに冷蔵庫の中にあったサラダやらをあえて調味ドレッシングをかけたものをメインディッシュに、その他大皿てんこもりに料理があった。
「…相変わらず、美味いな……」
柳川の感想に夕奈も頷いた。
「素人でよくもまぁここまで凝るわね…ちゃんと勉強したら、モノになるわよ」
その台詞に、耕一が、無作法だが、梓に箸を向けて調子付いた。
「食事とかの記事書いてるフリーライターの人の太鼓判かぁ…梓、どうだ?今からでも遅くない、どこかに修行に行くなり、調理学校に行くなりしたらどうだ」
それに比して、梓の反応は淡白なものであった。
「これはあくまで趣味だよ、趣味。そんな中途半端な気持ちで進路を変える気はないよ。あたしには仕事から帰って料理を人に食べさせる、そんな生活が似合ってるよ」
そこで、意外にも夕奈が箸を置いてまで強く言った。
「けどね、どこかで『これでやっていきたい!』って考えてるなら、中途半端でもやってみる価値はあるわよ。人生なんていくらでもやり直せるんだから」
それに強く共感したのは柳川で、料理を黙々と食べながら、何度も頷いていた。
 そこで、楓が珍しく会話に入ってきた。
「でもね、夕奈さん、これでいい、っていう人生を選ぶのも、それはそれで幸せなものですよ」
その言葉には説得力というものがあり、夕奈が言うからこそ先ほどの台詞が説得力を持っているのと同様で、その道を歩んできた者それぞれに、前途ある人間に対しての言い分があった。
「楓、言うようになったねぇ…まぁ、なんにせよ、私の人生は私なりに考えた上で決めるよ」
とりあえずこの会話は、梓の以上の一言を以って終止符が打たれた。
 
「そういえば、初音ちゃんは何かやりたいことがあるのかい?」
柳川が、会話になかなか入れなさそうにして食事を摂っていた初音に、会話を振った。
「ん〜、私は、今はやりたいことがたくさんあるけど、梓姉さんみたいに人生がどうのこうのじゃなくて、ただ目の前のことが楽しくて、ただ、それだけだよ」
その言葉にまたしても耕一が調子付く。
「そうそう、学生時代はそんなもんで良いんだって。俺なんて全然先のこと考えてなかったし」
「あんたみたいない馬鹿と初音を一緒にするな、この馬鹿」
「馬鹿って二回も言うな!二回も!」
苛立つ耕一を楓が無言で片手で彼の頭を撫でる。それを見て、一同沈黙せざるを得ない。箸も止まる。
「…楓、もう少し場所わきまえてね」
梓の言葉に、楓がこくりと頷いて、ようやく全員が箸を再び進めはじめた。
 
 食事が終わり、膳も片付けられた。梓は単身洗物に勤しんでいる。柳川が台所から灰皿を持ってきて、テーブルの上に置いた。
「おいおい、この家は一応禁煙なんだが」
耕一の抗議に対して、柳川は反論した。
「なら、灰皿なんぞ捨てておけ」
たしかに、と楓と初音が自嘲し、そして夕奈が頷き、ちゃっかり彼女も柳川から煙草を貰って吸い始めた。
「はぁ〜、食後の一服がまた格別よねぇ」
「まったくだ」
夕奈と柳川が正にモクモクと煙草を吸っている。
「俺も色々無茶やってきたが、煙草だけはやらんかったなぁ…そんなに美味いかよ、そんなもん」
耕一の台詞を聞いて、柳川と夕奈が声を合わせた。
「「美味いやつには美味い」」
それを聞いて、耕一が溜息を吐き、楓と初音はお茶を飲みながら、この二人、気が合ってる、と心の中で納得していた。
 そこで、玄関から女性の声が聞こえた。千鶴だ。
「ただいま〜、あ〜、疲れた〜」
居間に入ってくるなり、どかっと上座の座布団に尻餅をつきながら、首を回している。
「千鶴姉さん…お客さんの前で…」
楓の一言でお客の存在に気づいた千鶴は、慌てて背筋を整えて、挨拶をした。
「始めまして、ここの長女の柏木千鶴と申します……って、あ〜〜〜!!!!」
豪快に夕奈の顔を指差して、驚きの声を上げる。
「どうも、はじめまして、佐々井夕奈です、鶴来屋の会長さん」
ニコっと笑顔をしてみせる豪胆さ。流石は鬼切包丁。
「な、なんでここに彼女がいるのよ、叔父様!」
「いやぁ、かくかくしかじかでな」
「かくかくしかじか、でわかる人間はいないわよ!」
千鶴のもっともな突っ込みで、柳川と夕奈はこうなったいきさつを説明した。
 
「はぁ、風が吹いたら桶屋が儲かる、みたいなもんね…むしろ損してるけど」
千鶴の感想を聞いてから、夕奈が追い討ちをかけた。
「実は、私がなんで彼の家にいたのか、聞いてるんですよ〜」
嘘っ!っと思わず千鶴と柳川が夕奈に振り向く。
「冗談です、冗談。けど、今の反応で大体事情はつかめました。このお礼はいつかお返ししますね」
柳川が恐る恐る千鶴の方へ向くと、修羅の殺気を発する目でにらまれ、寿命が一〇年ばかり縮まったことを実感した。
 
「さてと、そろそろお暇しますか、夕奈さん」
「そうね、人心地ついたところだし」
それを台所で聞きつけた梓が、あれ、もう帰るのか、と言ってきて、なにやらごそごそ冷蔵庫をかき回したかと思うと、柳川に何か手渡した。
「これ、今日始めて試してみたデザート。帰ったら二人で食べてよ」
ほう、と柳川が感嘆しつつ、質問をした。
「どんなのだい?」
「それは帰ってからのお楽しみぃ〜」
そうしてから、柳川と夕奈は、車で社員寮へと帰っていった。
 
 二人を見送って居間に戻ってきた一同は、先ほどのデザートについて気になった。
「梓、あれ、俺達の分は無いのか?」
「ん〜?あれは特別製だからもう無いよ」
ちぇ、と舌打ちした耕一を見て、梓が言葉を続けた。
「けどねぇ、今思うと、ちょっと特別にしすぎたかも」
それに、千鶴がぴくりと反応した。
「梓、あれ、何?」
「んっとね、倉の中の酒棚に置いてあったウォッカを入れて、砂糖とゼラチンと匂い消しのミントをたっぷり仕込んだ、ゼリー。いやぁ、途中でミント入れすぎて酒の匂いが全然しなくなっちゃったから、また酒入れちゃったんだよねぇ。さてさて、叔父さんと夕奈さん、大丈夫かねぇ」
そこで、梓以外の一同が、ちょっと待て、と手を上げた。
「そんなもん食ったら、何が起こるかわからんだろうがぁあああっ!」
耕一の怒声に楓と初音も同調したが、千鶴だけは違った。
「何か…何か…なにかなにかナニカナニカ…ナニか起こってほしいわね…」
怪しく目は光り、前髪が垂れて表情はよく見えなくなっている。
「ち、千鶴さん?」
恐る恐る様子を伺った耕一は、驚愕するその内容を耳にした。
「そうよ、ナニかあった方がいいのよ…そうすれば鶴来屋は安泰…あたしの鶴来屋は安泰…安泰あんたいアンタイ…うふふふ…」
耕一は何も聞かなかった風にして、楓にお茶のおかわりをおねがいしたのであった。
 
 
 さて、話の舞台は社員量へと向かう車の中に移る。
 窓を少し開けて煙草を二人して吸いながら、駅を通り過ぎた先にある社員寮へと、車は順調に進んでいた。
「夕奈さん…ぶしつけだが、頼みがある」
何事かと思いつつ、煙草を夕奈は吸いつづける。それを、とりあえず言ってみろという意味と取った柳川は、内容を話した。
「明日から、とある家を取材する準備をしてくれないか」
「取材を止めさせようとしていたと思ったら、今度は取材のお願い?随分と身勝手なことね」
「…気づいてたんですか」
煙草の灰をスーツの上に落としたことも気にせずに、夕奈の洞察力に驚く。
「まぁ、ね。でも、貴方も仕事だったんでしょう、気にしてないわ。私も、業界の上の方に反感買うようなものを書きすぎたわ。良い機会よ」
その言葉に感謝しながら、話を元に戻す。
「で、その家のことなんですが…」
「ええ、いいわよ、色々と世話になってるし、ちょうど退屈し始めてたところよ。引き受けるわ。細かい話は、帰ってからにしましょ」
「ありがとう」
それから、車の中に会話は無かったが、二人には共有できる時間がたしかにそこにあった。
 
 車を社員寮の駐車場に入れると、管理人に見つからない内に車を離れた。
「まったく、まるで無断駐車やってるみたいね」
「みたい、じゃなくて、実際そうなんですから、文句言わずに早いところ行きますよ」
「はいはい」
玄関まで小走りに歩くと、あとは普通に歩き、部屋へと向かった。ここの社員寮には管理人室があるが、外出などについての一切の制限がない。物騒ではあるが、地方ということもあり、人件費削減の意味もあって、管理人に社員の行動に対しての管理責任は無い。
 周囲を確認してから、部屋に入った。女性と入るところを見かけられると、何を噂されるかわかったものではないからだ。
「ふぅ、ただいま〜って感じしますねぇ」
「ええ、落ち着くわね」
梓に手渡されたデザート入りの風呂敷包みをテーブルに置いてから、灰皿を引っ張って床に置いた。それから一〇分程は二人で煙草をやっていた。
「それにしても、二人して結構な本数吸ってるわねぇ…」
夕奈の言はもっともだった。朝には二本ばかりしか入っていなかった灰皿が、午前中の分と今のを吸っただけで二〇本近くになっている。
「まぁ、他にすることも無いですしねぇ」
「無いこともないわよ」
「なんです?」
「男と女のやることなんてそう沢山無いでしょう」
そこまで聞いて、柳川は急におかしくなった。
「はっ、何を馬鹿な…」
「馬鹿なことだと思う?」
夕奈が意外にも真面目に言うので、少しその気になってしまう、が。
「な〜にマジになってんのよ、冗談よ、冗談」
柳川は大きく溜息とともに、煙を吐き出すしかなかった。すると、先ほど梓から受け取ったデザートのことを思い出した。
「折角だから、あれ、食べますか」
「そうね」
風呂敷を開くと、中には丼一杯にゼラチンを詰めて固めたくらいの大きさのゼリーがあった。
「ふぅん、あの子、本当に料理が好きなのねぇ…昔のあたしとは偉い違い」
「好きでもないのに、料理作ってたんですか?」
「どうだろ、全然好きじゃ無かったって言えば嘘になるけど、親から引き継いだ店に対しての責任感の方が大きかったから…」
柳川はそれより深くは聞かないでおこうと思い、スプーンと小皿を二つ取りに行って話を中断した。
「さて、では早速食べましょうかねぇ。取り分はとりあえずこんなもんで」
芸が無いが、とりあえず十字を切って四等分にして、そのうちの二つを小皿にそれぞれ盛った。
「ええ、ありがとう」
そうして、二人はゼリーを口にしたわけだが…。
「「味がしない」」
確かに香りはある。アルコールの匂いと一緒にミントの香りもしている。しかし、肝心の味がない。これは砂糖の量よりもアルコールが圧倒的に絶対量で勝っているために、舌の感覚が死んでしまうからだ。
「まぁ、舌ざわりは悪くないですから、ありがたくいただきましょう」
「そうね、まずいわけじゃないし、これはこれで味がある、ってことにしましょ」
そんなわけで二人共ぱくぱくとゼリーを一気に食べ終えた。そして、しばらくしてアルコールが食べているときに感じていた量よりもかなり多いことに気づくことになる。
「ねぇ、ちょっと…熱くない?」
「私はちょっと頭がくらくらしますよ…梓のやつ、アルコールを利かせ過ぎたな」
段々とアルコールが分解されていき、それとともに酔いも深まっていく。
「ちょっと…私が何かしても、忘れてちょうだいよ」
「同じく…といっても、無理ですけどねぇ、こういうのはどっちかどっちか覚えてるものですから」
「それじゃ、いっそのこと二人して覚えておきましょうか?その方が後腐れないでしょ。私は別にいいわよ」
「…本当に良いんですか?今度は、冗談なんてのは通じませんよ」
確認のために、凄みをきかせて、睨むと、向こうも睨み返してきた。
「私は、自分のやることには責任は持つわよ」
「それも同じく。それじゃ、やりますか」
「そうね」
大抵、こんなものである。男と女がいて、ある程度の状況が整えば、自然とそういった流れになっていく。こういった情事にロマンを想い描いている方々には申し訳ないのだが、実際こんなものである。
 
 夕奈がシワがよるのを嫌がって着衣をパッパと脱ぎ、丸裸になる。腹部に巻いた包帯が痛々しい。そこに目がいっていたのだが、彼女の体自体もまんざら悪くない。むしろ、良い。バストは平均的ながらも形が整っていたし、腰から足への流線も綺麗だ。
「意外と、良い女、だったんですねぇ、夕奈さん」
「失礼ね。いいからとっととあんたも脱ぎなさいよ」
「女性に見られながら服を脱ぐのは趣味じゃないんでね、ベッドに先に入ってもらえますか」
ふうん、と言ってから、ベッドに入り布団を体にかける。それを見届けてから、柳川も服を脱ぎ、布団に入っていった。
「…熱いわね…」
「まぁ、お互いアルコールが入ってますしねぇ。ああ、けど窓開けるのは勘弁してくださいよ。誰に聞かれるかわかったものじゃない」
「まったく、こんな良い女と寝るってのに、全然冷静じゃないの。つまらないわね」
「こんなロマンもへったくれも無い状況でそんなこと言っても無駄ですよ。それじゃ、始めますよ」
「あ、ちょっと…」
夕奈の静止は聞かずに、胸元に手をやった。流石に日頃動き回っているだけあって、弾力もなかなかだった。胸元をまさぐりながら、首元に舌先を這わせる。
「っ…随分と慣れてるのね、お堅いサラリーマンかと思ってたけど」
「ま、若い頃の苦労は人並み以上ですから」
そんなことを耳元で呟いてから、口付けをし、口腔内に舌を入れていった。淫猥な音が部屋の中に静かに漂う。
 数分ほど、口と手で互いの体を確認しあってから、次のモーションに移った。
 柳川が下の方に手を伸ばして、淫口の部分の湿り気を確認すると、今度は体ごとそちらに下げていった。
「本当に慣れてるわね…こっちが感じてるのを確認すると、とっとと次へいっちゃうんだか…らっ…ん」
「そろそろ、喋ってる余裕はなくなってきてるはずですよ、良いです、これくらいはリードできますから、素直になっていいですよ」
「そう、するわ…」
淫部に舌を這わせ、暖かい液体を舌先に蓄えながら、自分の怒張を確認して、コマ目に喘ぎ声を上げている夕奈に、行為の確認をとる。
「着けてないんですが…」
「いいわよ…別に…できたらできたで、なんとかなるでしょ」
「ま、そんな間抜け話も後になったら笑えますから、ねっ」
最後の言葉とともに、先端を挿れる。カリの辺りまでが中に入ったところで、やたら抵抗が強いことに気がついた。
「……まさかとは思いましたけど、はじめて、ですか?」
「うるさいわね…そんなの私の勝手でしょう…が…あっ」
「まったく…」
幸い、アルコールで筋肉が柔らかくなっているので、一気に貫くことにした。湿り気も十分だったから、思ったよりズルリと奥まで入る。
「くあっ、はぁんっ」
「やっぱり…運動してる人の場合だ、と…はじめてでもあまり血が出ない…ってのは…本当、です、ね…くっ」
それでも血は出ていることは出ているようだった。愛液とは別の液体が自分のモノにまとわりついているのが、なんとなくだがわかった。
「動き…ますよ」
柳川はかなり余裕があったが、向こうさんは一杯一杯のようだった。それを見て、少し体勢を変えることにした。
「ちょっと、寝返ってもらえます?」
「って、刺さった…まんま、でしょう、が…」
「文句を言わない、っと」
多少強引ではあったが、体勢を変えさせた。ちょうど体が裏返って、後背位になる。
「で、適当に枕でもひっつかんでてください。でないと、初めての場合感じすぎると気絶しちゃう場合があるんで」
夕奈は、説明する口がよくもまぁ減らないなと悪態をつきながらも、余裕が実際無かったので、言われたとおりに枕を抱きかかえた。
「それじゃ、今度こそ動きます、よっ…」
夕奈の両足を膝立ちにしてから、動き始める。少し彼女の傷口が気になったので、術部に手を当てると、周りよりも一層熱く感じた。
 柳川が動く度に、夕奈の背中に広がった後ろ髪が体と共にのたうつ。そして、彼女は喘ぎ声を断続的に出しつづける。
 柳川も段々と余裕が無くなってきたので、確認を取ってから動きを早めた。
「くっ……私も久しぶりでして、ね…そろそろ射精しても構いません、かっ…はっ」
夕奈が、これが精一杯の反応なのだろう、かぶりを何度も振る。
 そうして、更に動きを早めていくと、柳川が達する前に、彼女から力が抜けていったので、思い切って膣内に射精した。
「くあぁ…ア…ぁ…で、射精てる…う、ぅん…」
「か、はっ…あ…」
予想外にかなりの量が出ていることを柳川が実感する。しばらく、お互い脱力感でそのままの体勢で、柳川は後ろから夕奈を抱きしめていた。
 
「ま、はじめてなら一回が限度でしょう」
夕奈が布団に包まって、顔を見せないが、構わず煙草を吸いながら続けた。
「後半、可愛げがありましたよ、夕奈さん」
その一言で、夕奈がびくっと動いた。恥ずかしがっているのだろうか。珍しく悪戯心なんてものが芽生えて、表情を確認したくなった。
「あれ、照れてるんですかぁ?」
「う、うっさいわね…」
そう言って一瞬彼女が力を抜いた瞬間に、布団を彼女から剥ぎ取った。表情を確認すると、まぁ、普段からは想像できないほどに、顔を上気させて、目を見開いて口を結んで照れている彼女がいた。
「ちょ、ちょっと、寒いでしょうが!」
「はいはい、わかりましたよ」
布団を元に戻すと、煙草の火を消した後に自分もその中に入って、隣に寝転がった。
「ちょっと…なんでここで寝るのよ」
「いやぁ、私も貴方と同じで寒いんでね、折角ですからご相伴に預かろうと思って」
「私、寝相悪いわよ…」
それに、構いませんよ、と返事してから、目を閉じて、事後の余韻を柳川は楽しんでいた。そこで、ついぼそりと言葉を吐いた。
「あ〜、かなり射精しちゃいましたけど…」
「……わよ」
よく、聞き取れなかったので、なんと言ったのか確認を取ると、今度は大声で彼女が答えた。
「別に出来ちゃっても構わないわよ、って言ったの!おやすみっ!」
その台詞に苦笑しながらも、不思議と満たされている自分の感情を楽しんで、そのまま眠りについたのであった。
 
 翌日、七時頃に目がさめた柳川が、昨日のアルコール過多なゼリーの消化の所為で爛れている、胃の痛みにやきもきしながらも煙草を吸って朝のひと時を感じていると、室内の壁掛け電話が鳴った。
 煙草の火をつけたまま、手に持って電話に出る。
「もしもし?」
「あ、叔父さん?やっほ〜、梓です」
「………」
「ゼリー、どうだったぁ?」
「…美味かったよ、ごちそうさん、それじゃな」
「あ、ちょっ……」
梓の静止の言葉を最後まで聞かずに、受話器を置いた。
 
「あっちゃぁ〜、叔父さん、怒ってたよ…」
朝の食事が終わり、居間にいた柏木家一同は、そらそうだろう、と梓に突っ込んだ。
 
「あったま痛ぁ……おまけに胃もゴロゴロするし…」
夕奈が起き抜けに愚痴っている。
「それは私も同じですよ…それじゃ、包帯替えて、体拭きましょうか」
「はぁっ?」
柳川は、夕奈の素っ頓狂な声を聞いて、そんなに驚くことでもないだろうにと顔をしかめつつ、説明することにした。
「あのですねぇ、傷口が完全に塞がったわけじゃないんです。ですから、まだお風呂には入れません。となると、濡れ布巾で体を拭くしか無いでしょうが」
「んな恥ずかしいことしてもらいますかっての!」
そこで大声を張り上げた夕奈が、急に下腹部を抑えた。
「ほら、突然大声なんて出すから…私は背中だけやりますから、後は自分でしてくださって結構です」
ベッドに座っている夕奈の後ろ側に回り込み、包帯を外して、術部の状態を確認する。
「あ〜、随分と縫ったんですねぇ…一二針くらいやってますよ」
「嘘っ?!……うげぇ…グロテスクだわ…」
実際、自分の体の術部を始めて見ると、結構ショッキングではある。
「ま、一週間も経たない内に傷は塞がるはずですよ、無茶さえしなければね。そうしたら、医者で糸を取ってもらいますから」
「うん…」
されとて、次に背中をぬるま湯につけて軽く絞った布巾で拭く。
「昨日は結構汗かきましたからねぇ、ほら、垢がこんなに…」
「そんなもん見せんでええわい!」
汗をかいた原因と垢それぞれの恥ずかしさが相まって、思わず夕奈の肘が柳川の腹部へ一撃を与えた。尤も、柳川は腹筋だけとはいわないが、鍛えているのでそんなに痛くはなかったが。
「はい、背中終わりましたよ。後は自分でやるんですよね」
「ええ…ありがと」
夕奈が体を拭き始めると同時に自分は風呂場へ行って、シャワーを浴びることにした。
 
「あ、そういえばまだ彼女に壱岐家のこと話してなかった」
考え事をしながらシャワーのコックを捻ると、熱湯が出てきて、一人で騒ぐことになった。
 
「ん、昨日の話の続き?」
「ええ、その調査の理由ぐらいは話しておこうかと思いまして」
風呂場から上がった柳川は、スーツズボンの上に肌着という軽い格好ながらも話し始めた。
 慎のこと。そしてそれにその祖父と家柄。なんということのない引っかかりだということも話した。ただ、自分にとってはそれがひどく引っかかって仕様が無いということも同じく話したのであった。
「ふ〜ん、まぁ気持ちはわからなくもないわね……ただ」
「ただ?」
「言っておきたいのはね、興味本位で他人の家庭に首突っ込むつもりだったら、止めた方がいいわよ…」
「!…私は、ただ……」
夕奈が柳川の言葉を手で制す。
「わかってるわよ、その子が初音ちゃんの親友だからでしょう?いいわ、昨日言った通り、引き受けるわよ」
 
 その後、朝食を摂った後に夕奈が壱岐家の電話番号を調べ始めた。家主である祖父の名前が不明なために、探すのに手間取るかと思ったが、タウンページに、壱岐弓道場生徒募集、と広告が出されていたので、そこに取材の電話を入れると、先方は快く承諾した。
 急な用件であったが、即日取材OK、とアポイントが取れたので、昼過ぎに出向くことにした。
「広告もきっちし出してるし、お祖父さんの声も明るかったから、同上の経営状態は悪くないと思うわ。ああ、そうそう、彼の名前、わかったわよ」
夕奈が、タウンページの広告元の署名を指差す。それを、柳川が音読した。
「壱岐…誠?!読みが孫と同じとはな…」
「そう、そうなのよ、慎ちゃん本人に関して貴方から聞いた限りじゃ、何の問題も疑問も感じないわ。けど、このお祖父さんが関わった瞬間……」
「引っかかる、と」
夕奈が柳川の言葉に深く頷く。
 ここまで、祖父と孫のあらゆる接点で引っかかりを感じるとなると、なんとなくでは済まなくなってくる。
「隣町まで、車だとどれくらいかかるの?」
「大体三〇分ってところですかね」
じゃあ昼食を食べてからでも遅くないわね、と夕奈が言ったのを聞いて、柳川が、それでは、道中どこかで食べますか、と提案した。
 
 四月の花見シーズンの後から五月の連休明けあたりまでのこの時期、気候は比較的安定する。朝方は十五度近くとまだ肌寒いが、昼頃には二〇度を上回ることが多く、実に過ごし易い。これを過ぎると、梅雨への季節の移り変わりと共に風が出てきて、自然と天気も不安定になる。
 路面のコンディションは抜群。かといって乾燥しきっているわけではないので、砂利なども少ない。国道沿いの田んぼには、田植えの時期を見計らっているのだろう、何人かの農家の人間の姿が見える。
「一時期はここらへんも完全に観光に経済基盤を写したような形になりましたが、まぁ、サービス産業というのも水物でしてね、結局はああいった第一次産業従事者の働きに頼ることになります。皮肉な話です。好景気の頃は散々土地をよこせだの役所ぐるみで催促したんですから」
ハンドルを握りながら、田園の中の国道を時速八〇キロ程で走っている車の中で、柳川が説明している。
「経済基盤ねぇ…日本海地方とかの沿岸部だと工業関係がそれに該当してるけど、基盤っていうからには、やっぱり、物を作る、っていうのが基本になってくるわ。それがなければ流通そのものが用を成さないしね」
「東西ドイツの、統合した際の状況が良い参考例になると私は思うんですよ。東側で生き残ったのはインテリではなく、一労働者、一技術者がほとんどだったんですから。私もね、自分がどういう状況の上で仕事を続けていられるのか、なんてことを柄にも無く考えることがあります」
「時代遅れの共産主義的考えね…あれは、考え方は良いんだけど、その実現方法がイマイチ。資本主義を否定しちゃったんだから。貴方、サービス業なんかに就かせておくの勿体無いわね…どう、私と組まない?」
その提案に柳川は苦笑してこう答えた。
「考えておきましょう」
 
 そんな会話をしているうちに、国道沿いにある蕎麦屋についた。中に入ると、檜造りで、天井部分まで吹き抜けになっている。客は五,六人。窓側の畳が敷いてある席に上がると、お互いの向かいがわにそれぞれが座った。
「ふうん、ここらへんは蕎麦もやってるのねぇ」
「貴方が落っこちた山に行く時、水門を通ったでしょう?あの上に蕎麦を作ってる土地があるんです」
「また、嫌なことを思い出させてくれるわね…」
「すいません、悪気は無いんですが…あ、蕎麦がきましたよ」
目の前に店員が置いた冷蕎麦に、薬味を入れたツユを浸して、ずるずると食べていく。麺が縮れているのがミソだ。
「……長いものが好きな男って、女好きだ、っていう話知ってる?」
夕奈の一言で柳川が咽る。お冷を流し込んで、落ち着くと、突然何を言い出すのか、と問うた。
「いやね、風水ブームの頃に私もそっちの仕事引き受けてたんだけど、麺類とかの長いものを食べてると、異性との出会いが増えるらしいのよ」
「そのどこから女好きっていう単語が出てくるんですか」
「だから、異性が寄ってくるのを無意識で知ってるってことになるから、女好きってのもあながち間違ってないかなぁ、って今勝手に考えついたのよ」
柳川も図星な部分があったので、その後は無言でずるずると蕎麦を食べていった。
 
 会計を済ませようと座席から立ち上がり、レジで立ち止まると、夕奈は一言、ごちそうさま、と言って、そのままスタスタと外に出て行ってしまった。呆れていると、レジの三〇代くらいの女性に、大変ですね、と言われたので、苦笑しながら会計を済ませて店を出た。
「今の二人組のお客さん、両方とも格好良かったわねぇ…」
「まぁ、たしかに、女性客も綺麗っつうよりは颯爽としてたからな」
「ああいうタイプは尻に轢かれるかしらね」
「いやぁ、意外と…女性の客の方が芯は弱そうだったけどな」
料理人と接客の男女がそんな会話をしていると、この店を仕切っている旦那が、注意した。
「あのなぁ、いくら暇だからってそうやって客のことやたら詮索するもんじゃねぇよ」
「「すいまっせん…」」
 
 比較的広い駐車場からスカイラインを国道に抜き出して、いざ隣町へと向かった。すぐに、橋を越える。
「この橋が、隣町との境界なんですよ。ほら、山の方から川が流れてるでしょう?これが境界線ってわけです」
「どこの地方もそこらへんは似たり寄ったりねぇ…」
国道から一般道に逸れて、住宅地と駅の中間地点あたりの場所へ行く。
「ここらへんなんですよねぇ?壱岐弓道場、って」
「ええ、広告にご丁寧に地図まで載ってたわよ。あ、そこの角曲がって」
「はいはいっと」
T字路を右折すると、右側の方に看板が見えた。『壱岐弓道場 この先100メートル』
「ん〜、車はここらへんに止めておきますか」
「そうね、道幅広いから大丈夫でしょ」
駐禁の看板も出ていないので、適当な場所に止めてから、徒歩で道場のある場所へと向かう。平日の午後一時過ぎなので、人通りも少ない路地を歩いていくと、じきに右手に門が見えた。
「ここね、壱岐弓道場…先行って挨拶してくるわ。ちょっと待ってて」
夕奈がトコトコと踵の低いヒールを鳴らしながら短い石畳を渡って玄関へと走っていく。
 
「やぁ、お待ちしてました、さ、どうぞどうぞ」
七〇代で白髪一色の頭を後ろで結んだ壱岐誠が、名詞には、フリーライター 佐々井夕奈、と書かれていた若い女性客を迎え入れようとすると、連れがいるので呼んで来ます、と言ったので、数瞬待つと、すぐに戻ってきた。
 連れである二〇代前半くらいの男性が挨拶をする。
「どうもこんにちは、柳川裕也と申します。地元の者でして、今回、佐々井さんの取材のお手伝いをしています」
柳川、という名字に聞き覚えがあったので、一応確認した。
「…柳川さん、といいましたね、失礼ですが、お母様もこちらの方ではないですかな?」
「!…母を、ご存知なんですか……?!」
柳川の驚きは、事情を知らない夕奈には不可思議に思えた。母が知人だったというだけで、それほど大仰に驚くものではないだろう、と。
「いや、昔ある所の会合でご一緒になったことがありましてね、その頃は私は四〇後半くらいでしたか、お母様は三〇前くらいだったか。その後も何かと縁がありましてね、色々と、相談に乗ったもんです」
色々と、の部分を強調しつつ、壱岐老は話した。
 意外だった。まったく考えに入っていない事体だ。母は俺を産む前には既にこの地方を離れた。だから、こんなところで知人に会うとは…。
「…いや、失礼しました、事情は私も深くとは言いませんが浅くは聞いておりませんので…とにかく、立ち話もなんです。ささ、お上がりください」
奥の客間に通されているときに、夕奈が柳川に耳打ちした。
「貴方のお母さん、何かあったの?」
「…言う必要はありません。今は取材のことだけ考えててください」
素っ気無い答えに、夕奈は、あっそう、と言って、それからその話題には触れなかった。
 
 居間に落ち着くと、壱岐老が会話を再会した。
「さて、先に取材とやらを済ませてしまいましょう。世間話などはそれからでも遅くありますまい?」
言い終わって後、かかか、と笑い、それに柳川と夕奈も同調した。
「まぁ、取材とはいっても、こちらの地方の方々の生活や文化を取材したいので、別段特別なことをしていただく必要はありません。そうですね、弓道場と、壱岐さんの腕前、それにお楽しみの世間話といったところでしょうか」
「かかか、お嬢さん、なかなか上手いですな、ええ、いいですともいいですとも、では早速ですが、弓道場へと行きますか」
夕奈がことが上手く進んでいることで、柳川に目配せすると、柳川は頷き、二人共、壱岐老の後をついていった。
 玄関から一直線になっている先の角を曲がり、すぐに弓道場があった。大体の屋敷の間取りを想像すると、玄関、角、弓道場の三点で、Lの字を描いた形だ。弓道場は通りのある方向の塀の内側に、更にもうひとつ間隔を開けて木の塀を設け、そこに的が並んでいる、という風になっていた。
「正に、弓道場を造るために造った、という感じのお屋敷ですね…でも、見た感じあまり古く感じないんですが?」
「この屋敷は、戦後一〇年くらいに私が先代から受け継いだてから、一度改装してあるんです。あまりにも以前の弓道場は立派すぎて、土地を食っていましたからな、ここの生徒の数も減っていましたから、七〇年頃に土地を業者に分譲して、食いつないでおるのですよ」
そう言ってから、さて、と言い残して今まで着ていた道場着の上に胸当てを付けて、弓矢を手に持った。
「普段はあそこに置いてある、先に布をつけてそこに塗料を塗った矢を射つんですよ。的代も馬鹿になりませんからな」
「さながらペイント弾、ですか」
柳川が一般に解し易いように言い直す。
「まぁ、そんなものです…さて、なにかご注文がおありかな?」
夕奈がここぞとばかりに、一〇本連続の通し矢が見たい、と注文を出した。
 柳川が耳打ちする。
「こら、そんないきなり核心部分に迫ってどうする!」
「いいじゃない、せっかくなんだから」
その二人の様子を何事かと不思議に思いながらも、壱岐老は快く承諾した。
「折角の取材です、それくらいは見せてやりたいですからな、老体に鞭を売ってやらせていただきますよ」
 
 夕奈が持ってきたビデオカメラを構える。デジタルなので、後で好きなシーンを取り出すことが可能なので重宝している。
 柳川はその後方で、壱岐老のことをまじまじと見ていた。
 
 弓、構え。
 弓、引き。
 弓、射て。
 
 二番目と三番目の間にわずかな間隔を開けて、約一二〇メートル弱先の的を正確に矢が射抜いていく。
 
 
 一本、二本、三本…五本…七本、八本、九本……いよいよ最後の通し矢。
 
 狙いはずれていない。しかし、その表情に柳川は注目した。狙いをつけるのとはまた別の意気込みが、そこには見えた。
 これは……哀しみだと?なんで…
 
 そこで、矢が射たれた。
 
 的のど真ん中。
 
 見事!正にそう言うしかない技である。
 
 壱岐老が弓を静かに下げ、大きく息を吐く。
 
「いや、お見事!久々に胸がすっとしましたよ」
夕奈がカメラを切ってから、素直な感想を言う。
「ははは、老い先短い老人の見ても、期待感が無いでしょうがな」
柳川一人が黙って今先ほどのことを反芻している。
「おや、どうかしましたかな?」
不審がった壱岐老が柳川に聞く。それを聞いて、柳川がはっとする。
「え?あ、いや、あまりにも見事だったもんで」
そうですか、と嬉しそうに壱岐老が言ったのを見て、後ろでヒヤヒヤしていた夕奈が、胸を撫で下ろす。
「さて、私も疲れました。居間に戻ってお茶にしましょうか」
武具を片付けて、壱岐老が居間の方に戻っていくのについていきながら、夕奈が柳川を小突く。
「人のことばかり言えないでしょう…で、何か気づいた?私も一応表情撮ったけど、気づかなかったわ」
「それについては、帰ってから話します」
「わかったわ」
会話が終わると同時に、居間についた。先ほどと同じようにして座る。
「三時ですか……意外と時間を食いましたな」
壱岐老が壁掛け時計を確認している。
「いえ、あれだけのものを見せていただいたんです、時間は気になりませんわ」
「それならば良いいのですが」
壱岐老が棚の中に入れてあった急須と湯飲みを取り出して、お茶を淹れる。
「さ、どうぞ」
そのお茶をもらい、二人で、いただきます、と礼をしてから、飲み始めた。
 
「さて、ここらへんの話はこれくらいにして…柳川さん、お母様のことを聞いてよろしいですかな?」
三〇分程は普通の世間話だったが、自然とこの話になっていった。
「……どうぞ」
それを夕奈は興味のなさそうなふりをしてお茶を飲みながら、真剣に聞いていた。
「お母様は…今、どうなさってる?」
「………亡くなりました」
そうか、と残念そうに壱岐老が溜息と共に呟く。
「あの方は、大変な苦労をなされてた……私も、若い頃は、柳川さん、貴方と似たような境遇で、京都の方からこちらに戦後移ってきたんですよ」
それは、つまるところ壱岐老も…庶子、ということに他ならない。
「お母様のことは気の毒に思うが…貴方も苦労しなすった。その上お母様の苦労まで気に病んではいかんよ」
「はい、わかってます…今は、もう済んだことです」
そこで壱岐老が気を利かせて、この話は止めにした。
 
「さて、そろそろお暇します。お邪魔しました」
柳川がそう言って立ち上がろうとして、夕奈も慌てて立ち上がろうとしたが、そこで壱岐老に止められた。
「柳川さん、これも何かの縁だと思って、一つ頼まれごとをしてくれんか」
なんです、と柳川が座りなおして聞くと、壱岐老は続けた。
「ワシには孫がおるんですが…実はその子も、なんの因果か、私生児でして…お恥ずかしい話だが、私の腹違いの歳の離れた弟は相当の遊び好きでしてな、それはまだ良かったのですが、その息子がまた親に似てしまって…それが道楽の末に孫を、本家の女中だったものに孕ませてしまったのです。困り果てた私の弟は、私にその女中を預けたんですが、孫を産んですぐにそれは逝ってしまいました…可哀想な娘ですが、頼みたいというのは、その孫のことなのです」
ひょうたんからコマとでも言おうか、ここで向こうから孫について頼みごとをしてくるとは、意外だった。
「孫は親に似て実にしっかりしとるのですが、中学の頃から急に私を避けるようになりましてな、年頃です、自分の境遇についていろいろと悩んでいるのでしょう、高校三年になった今でも、悩んでいるようなのです。相談に乗ってやってはいただけないでしょうか?不甲斐ない老人を助けると思って、この通りです…」
余程の心持なのだろう、土下座までしてしまった。こうなっては、引き受けざるを得ない。最初から引き受けるつもりであったが。
「わかりました、わかりました。私もそれで悩んでいた頃がありました…快くお手伝いさせていただきます」
「ありがとう、ありがとう…」
柳川の手をとって感謝に打ちひしがれている老人に、先ほどの通し矢のときに見た表情と同じ感情を感じた。
 
 午後四時三〇分。
「ん、そろそろ孫が帰ってくるはずなんですが」
なんだかんだで帰るタイミングを逸してしまってから、柳川と夕奈は壱岐老のお茶のみの相手となっていた。
「実を言うと、お孫さんとは面識があるんですよ、私」
それを聞いて、壱岐老が軽い驚きを見せる。
「ほう、それはまた奇遇ですな」
「ええ、私の姪が柏木初音というんですが、昨日、彼女を学校に迎えにいったときに、一緒に途中まで送ってあげたんですよ」
「ああ、柏木の嬢ちゃんか、何度かここに来たことがある、よく覚えてますよ。礼儀正しい子で、はきはきしてて…ああいう子が孫の友人になってくれて、本当にありがたく思ってますよ」
ふむ、と、柳川は老人の様子を伺いながら考えた。若い頃の悩みというのは、大半が思い込みによる部分が大きい。もしかしたら、壱岐老のこの孫を想う強い感情が、慎には違った捉え方をされているのではないか、と。
 
 しばらくして、当の本人が帰ってきた。ただいま、と一言言うと、居間に向かってくるのが足音でわかった。
「おお、早かったな、お客さんだ、挨拶なさい」
祖父にそう促がされて、客の方へ彼女が向くと、そこに見た覚えのある顔を見つけた。
「あ…昨日はどうも、壱岐慎です」
「お邪魔してます、そういえば名前はまだ言ってなかったね、柳川裕也と言います。んで、こっちは…」
「(こっちはって何よ、こっちはって…)はじめまして、取材でお邪魔させてもらってる、佐々井夕奈と言います」
柳川が視線を夕奈から慎に向けなおすと、既にそこに姿は無く、壱岐老の左手に着座していた。荷物の弓と鞄は横に置いてある。
「…あの、今日は何の用事で…」
「ああ、これが、慎ちゃんを送っていったときの話したら、『その道場取材したい』なんて言い出したから、連れてきてやったんだよ」
「(また、これって言ったわね…)そ、そうなのよ、あはははは」
そのとき、柳川の胡坐をかいている太腿に痛烈な痛みが走った。夕奈が指先で肉を捻ったのである。
「!!……」
その様子を見ていた壱岐老と慎は、この二人仲が良いな、と呆れ半分感心半分の面持ちであった。
「あ…」
急に慎が声を上げたのを、壱岐老が気にした。
「どうした?」
「お夕飯の材料、買ってくるの忘れた…」
「ふむ……そうだ、ついでですから、お二人もご一緒にどうですか、毎日二人きりで食べてますから、たまにはお客人とも食事がしたいのですが」
壱岐老の提案に、柳川と夕奈も乗った。別に慎のことについて考えたためではなくて、単に二人共、これから帰って食事を作る気が起きなかっただけである。
「…じゃ、私行ってきます」
「あ、じゃあ私も一緒に行きますよ」
柳川の提案に、慎が多少渋る。
「え、でも…」
「いいわよ、私は壱岐さんと話があるから、二人で行ってらっしゃいな」
「うむ」
夕奈と祖父に後押しされて、慎も承諾した。
「それじゃ、お願いします…ここからなら歩いた方が便利が良いですから、ついてきてください」
「わかった」
そう言って、柳川と慎は買い物のために居間を出て行った。
 
「あの子見てると、妹を思い出します…顔は全然似てないんですけどね、私の妹はあんなにキリっとした表情してませんし」
夕奈の頭に、家に置いてきた朝奈の顔がよぎる。
「ほう…妹さんは何をしてらっしゃるか?」
「私の代わりに、東京の方で親から受け継いだ食堂を自分の旦那とやってます。本当は私がやってたんですが、色々ありまして、ええ…」
頭をぽりぽりしながら、少し恥ずかしい気持ちになる。
「家族とは色々あるものです。いえ、家族だからこそ、とでも言いましょうか。その色々を、引け目に感じたり重荷に感じたりする必要はありませんよ、佐々井さん」
そういえば、こっちに来るまでは、そんな風に考えてばかりいたような気がする。何故、急に気分が軽くなったのだろうか。
「柳川さんと出会って、良かったですな」
夕奈がそこで、ぶふっ、と咽た。
「ははは、隠さんでも良いです、こういのは、歳をとるとなんとなくわかるものでしてな」
「お恥ずかしい…」
そうして、二人は和やかな雰囲気で、柳川と慎が帰ってくるまでの間、話をしていた。
 
「ふぅ、この時期は夕方過ぎると冷えてくるなぁ」
「…そうですね」
五時を過ぎると、日はほとんど落ちきっている。夕飯の材料を買出しに出た二人であったが、その会話はそれほどはずんでいるとは言いがたかった。
「話すのは苦手かい?」
「…得意ではないです」
「なら、その分は行動でカバーするといい。無理に話し上手になる必要は無いからね」
「……」
慎には、柳川が何故そんなことを助言するのかは納得できなかったが、その内容は納得ができた。
「なんでこんなことを君に言うのか、不思議かい?」
「…!」
驚く慎に、やっぱりね、という言葉を付け加えてから表情を軟化させた。
「ただのお節介好きのおじさんだと思ってくれればいい。どうも若い頃苦労した所為か、苦労してる人間を見ると黙ってられないらしい、ははは、自嘲すべきだな、これは。相手にとっては迷惑この上ない」
「ふふ…まだ若いじゃないですか、柳川さん」
そう言ってくれると嬉しいな、と感想を漏らしてから、二人で静かに笑っていた。
 しかし、柳川の心中には大きな、それも自分に対しての、疑問があった。自分は逆に、行動することを怠けるために、話し上手になっているのではないか、と。それは、躊躇ということを覚えたからかもな、と苦笑し、同時にそれは成長であったのだと信じることにした。
 駅前に出ると、帰宅の途に付くサラリーマンや学生が、街路をいそいそと歩いているのが目立つ。駅の向い側から、路地に連なる商店街に入ると、食材それぞれの専門店を回ることになった。
「…学校のあるあっちのスーパーで買わないと、こうやって歩き回ることになるんです」
「なるほど、確かに面倒だが…たまには良いんじゃないか」
「ええ、そう思うようにしてます」
なんだ、思ったより話せるんじゃないか、そんなことを思いながら、同時に、仲間意識があると態度が軟化するのかもしれない、と性格分析をしていた。
 八百屋、魚屋の二軒を回ったが、これ以上買い物する必要は無かったようだ、慎は商店街の出口へと歩き出していた。荷物は、柳川が袋二つ、全てを持っている。最初慎は遠慮して自分も一つ持つといったのだが、柳川が、ご馳走になるんだから、と断ったので、結局柳川が持っている。
「こんなもんでいいのかい?」
「ええ、買い置きも少なからずありますし…おじいちゃんも私もあまり食べない方ですから。これでも、結構買ってる方なんですよ」
そうかい、と話を打ち切って、商店街から出る。駅前から住宅街へ向かう路地に入ったときには、六時を回っていた。
「ここらへんは…落ち着きますね……最近はどうも身辺が騒がしいので、久しぶりですよ、こうやってのんびり歩くなんてのは」
柳川の脳裏に、夕奈のことや、千鶴の無茶な命令、更には同人活動のことがよぎる。
「私は、忙しい方が良いです…暇だと色々考えてしまいますから」
「悩む時はとことん悩んだ方が良い。問題の一つ一つに自分なりの答えを出していかないと、じきに自分が何もわかってないことに気づくよ。それは、とても辛いからね」
「…そう言う人、初めてです」
「そうかい?」
「はい…普通は、悩むな、って言います」
ああ、確かにそうかもね、と答えながら、柳川が自分が変わり者であることを確認していた。
「けど、悩むな、っていうのは、悩む、っていうことそのものが悪いってだけで、そう言っている場合が多いんだよ。自分の感じるままに、やったらいい」
「…はい」
「ただ、考えに詰まったら、すぐに人に相談すること。そうしないと、いつまでもそこで止まっちゃうからね」
「…そのときは、柳川さんに相談します」
「はい、私でよければ協力しますよ」
あんまり私に頼るようになっても、困り者だが…まぁ、それはそれで構わないかもしれない、と考えていると、そこで昼間の夕奈の台詞が思い出された。
「…ちょっと変なこと聞くけど、私って女好きに見えるかね?」
「…そうかも」
慎の素直な回答が、このときばかりは胸に痛かった。
 
 壱岐弓道場につくと、玄関で慎と共に今帰った旨を言うと、奥から酔っ払った声で壱岐老が返事をした。
「…おじいちゃん、夕奈さんとお酒飲んでるみたいです」
「………まぁ、とにかく上がりましょうか」
荷物を手に提げたまま居間に行くと、慎の推察通り、壱岐老と夕奈が芋焼酎で一席設けていた。尤も、二人共別段酒に弱いというわけではないようで、ちびちびと柳川と慎の帰りを待っていたようだった。
「いやぁ、夕奈さんが意外とイケル口だったのには驚きました」
「いえいえ、これくらいは全然平気ですのよ」
昨日は平気じゃなかっただろう、と心中で突っ込みながらも、とりあえず慎と台所に行くことにした。
 
「すいません、おじいちゃん、最近あまり人と会ってなかったから、きっと嬉しいんです」
台所で夕飯の簡単な仕込みをしながら、慎が言う。
「まぁ、わかるよ。お酒は一人で飲んでもあまり美味いものでもないから」
「おかげで、未成年なのに毎晩おじいちゃんのお酒の相手させられてます…」
「そら…大変だね」
「…はい」
柳川は、慎が仕込んでいるのを見ながら、許可をもらって換気扇の傍で煙草を吸っている。
「そういえば、弓の練習はいつやってるの?」
「お酒が抜けたころ…そうですね、大体一一時くらいに。隣の家とは一〇〇メートル以上離れてますから、迷惑になりません。おじいちゃんも、お酒を飲み終わると熟睡するので、気にしてないですから」
「ふうん…それじゃ、遊んでる時間はあまり無いね」
そこで、慎が仕込みをする手を止めてまで力強く言った。
「私は、あれが好きですから」
柳川はその様子に感心しつつ、そうかい、と優しく言った。
 
 料理が一通り出揃ったのは、七時三〇分を回ってかなりして経ってからだった。食前のいただきますを述べてから、全員がパクパクと食べ始めた。特に酒が回っている壱岐老と夕奈の箸の進みは早かった。
 しかも、食べ終えたら食べ終えたで、二人共ごろんと寝転がって寝息を立て始めた。
 
「…おじいちゃんが佐々井さんと気が合うのか…」
「はたまた、夕奈さんが壱岐さんと気が合うのか、どっちかだね」
お互い苦笑しながら、それぞれの関係者に、慎は毛布を、柳川は自分の着ていたスーツジャケットをかけてやった。
「私、道場に着替えてから行きますけど…」
「お、それなら君の腕前を見てみたいな、まだ寝るには早いしね」
柳川がかぶりを振って時計を示すと、確かにまだ九時前、寝るには早すぎた。そして、足元で寝ている夕奈を見て、こう言った。
「はぁ…こりゃ泊まることになるな…いいかい?」
「仕方無いですからね、布団はありますから、あとで敷きますね」
「頼むよ」
そうしてから、柳川は先に弓道場へと向かった。
 
 夜の道場、というのは、また新鮮だった。弓道場ならではの、屋外と道場が一体化したような造りが、それに加速をかける。
 こういう風景を見ていると、少し自分も力を試したくなる。ワイシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出すと、くるくると指で弄んでから、的の真正面に立つ。
 
(やって、みるか)
 
 右半身を前に出し、煙草の中心を中指の腹に置き、それを人差し指と薬指の横内側で挟む。そして、的に向かって腕を伸ばす。
 
(ん〜チョイ左か…いきすぎ、チョチョッと右…)
 
 左右の調整が終わると、素振りをする。
 
 肘を曲げる。
 伸ばす。
 
 この動作を二回だけ繰り返す。
 照準が狂わないことを確認すると、鬼の力を部分的に解放する。
 
 ワイシャツの中までは見えないが、露出している手の形が明らかに変わる。
 
 血管と神経が浮き出て、膨張する。視界も目の筋肉が増強したことでクリアになる。
 
 タイミングを図り、そして頭の中で、イケル、と感じた瞬間に、煙草を飛ばした。
 
 命中。ヤワな煙草が、的から衝撃音を立てながら、フィルターを残して霧散した。
 
 
「…ふぅ…久々だと、流石に神経使いますね…まぁ、この力も今では無用か」
「今の…なんですか」
「!」
慎の声に思わず目が見開く。
 右半身で道場の入り口側を死角にしていたのが災いした。なおかつ、的に命中させることに集中力が向いていたのもある。
「見ましたか…って、思いっきり見たみたいですね」
しかも、まだ右手の血管やらが収縮し切っていない。
「…人間、ですよね?」
「ええ、人間です、まぁ、多少変な血が混ざってるらしいですがね」
「大丈夫、なんですか?」
ふぅ、と溜息してから、逆に慎に質問をした。
「君は、怖くないんですか?」
「怖い…というより、不思議な感じです。見たことのないものを見た、それだけみたいです」
状況がよく飲み込めていないようで、自分でも自分の感情を理解できていないようだ。
「私が、これで人を殺したことがある、と聞いても、ですか?」
慎が、それは、と言ってから言葉に詰まる。
「ほらごらんなさい、これは君のような子が知るには、辛すぎる事柄を私がしてきた証拠です。怖くないはずがない」
慎はしばらく黙っていたが…
「…でも」
「でも、なんです」
「それがあったから、今の柳川さんがいるんでしょう?なら、私は怖くありません」
まったく、世の中には新鮮な驚きが満ち満ちている、といったのはどこの誰だったか、そんなことを考えてしまう。
「ふぅ…たしかにそうです、私も大人気なかった…ただ、今のことは他言無用に願います。夕奈さんにもです。半ば気づいているようですが、それでも知らない方が良い」
「…わかりました」
 
 さて、と柳川が言うと、慎が何事かと目を丸くした。
「ほら、君が弓矢の腕前を見せてくれるって言ったでしょう?自分も着替えてきてるじゃないですか」
「あっ…そうでした」
慎の姿は、あとは胸当てをつけるだけ、という風にまで準備してあった。
 
「それじゃ、いきます」
「はい、見てますから、どうぞ」
「……!」
 
 
 
 矢は、的の真中に命中した。
 
「ほう、高校生でこのレヴェルですか、おじいさんが君に心を配るのがわかりますよ」
「……」
「それを君が嫌がってるのはわかる、けど…」
そこで珍しく慎が言葉を遮った。
「わかってます…十分わかってます…ですから…辛いんです、わかってても、実際に行動に起こせない自分が…恥ずかしいんです」
目に涙を浮かべて、慎が主張する。
 自分に厳しい人間というのは、人間として当たり前のことでもひどく苦悩することがある。キリスト教の聖人の大半も、その苦悩によって自身の体を痛めつけ、生涯それに苦しんだ。
「それが君の生き方なら、誰もそれを否定したりなんかできない。ただ、甘えたくなったら、甘えていいから、ね」
そう言った柳川の胸にすっぽり収まる大きさの慎は、柳川の服にしがみついて、ただ、はい、はい、と繰り返していた。
 
 
 翌日、朝日を受けながら走るスカイラインの車内で、夕奈は柳川に一つの質問をした。
「私、寝ちゃったけど…なんかあったの?」
それに笑いを浮かべて柳川は答えた。
 
「良いこと、ですよ」
 
 
 
 同人英雄伝説・外伝その一 完