第一章「下準備」

 
 四月のある日、赤い髪をポニーテールにしたスタイルのよい女性が、とあるマンションに入っていった。真っ白い壁が目を引く新築のマンション、その中に歩みを進める女性の名は高瀬瑞樹、同人帝国が誇る一八個の連合サークルが一つ、「白磁のブリュンヒルト」に所属する、司令官付き副官、階級は大佐である。
 今、彼女は、司令官である千堂和樹上級大将の住むマンションに、間諜が得てきた即売会や敵のサークル情報を司令官に見て貰うためにやってきた。彼女の上官である千堂和樹だが、この地位に上り詰めるのに使ったのは、己の画力と複数の人望だった。瑞樹はプライベートでも友人として高校時代からつきあっている。
 マンションのエレベータに乗り、一気に最上階まで登る。その際の加速によって少々寝不足気味の瑞樹には、少々堪えた。瑞樹が左わきに持っているものは「白磁のブリュンヒルト」の専属間諜である「五月雨堂」がもたらした様々な情報だ。「情報を制す者は世界を制す」との先人の言葉がある。それは同人業界でも同じであり、その重要性は作品の出来と同列と言ってもよいほどの重要性である。
 瑞樹が、インターホンを押し、しばらく待つと扉が開いた。
「・・・・・・・・・」
中からでてきたぼさぼさの黒髪の男は、瑞樹を見て、ただ、奥に来るように、と手で合図を送っただけだった。それに対し瑞樹も、ただうなずき、部屋の中に入っていった。
 
 
 部屋の中は、荒れ果てていた。その光景は瑞樹にとっては見慣れたものであった。足の踏み場もないほどに散らかり、窓はほとんど閉めっぱなしでカーテンが掛かり、人工の光以外に部屋を照らす物はない。部屋に散らかっている物は、全てが資料である。仮にも大学生なのだから勉強しなくてもいいのかと思ったこともあったが、この男、千堂和樹は見事に分業を成し遂げている。しかし、締め切り前はいつもこのような感じだった。和樹の部屋は、イベント直後にはきちんと片づけられ、イベントが近づくにつれ腐敗してゆく。和樹の部屋はいつもこういったローテーションで運用されていた。
「・・・・五月雨堂からの報告?」
和樹が、簡潔に声に起伏も込めずに言った。締め切り直前で、寝不足の時和樹はいつもこのようになる。それは創作活動に己の所持するエネルギーのほとんどをつぎ込んでいることの、反動なのかもしれないが、瑞樹にとってはこのときの、やつれた和樹を見るのは少々つらかった。
「うん、宮田さんからの報告だと、敵さん、一二個の主力の連合サークルの内、三個連合サークルは出して来るみたい」
「有力候補は?」
「第二、第四、第六あたりじゃないかと言っている」
そこまで聞いて、和樹はおもむろに立ち上がり、カーテンを開ける。春らしい日差しが部屋の中を照らし、光の線が部屋の中を舞う埃を映し出す。
「こちらの方は?」
「上層部が、私たちのことを疎ましく思っているらしくて、あまり我を通せないと思うよ。それに、ゴールデンウィークの真っ只中だからた、副司令官の2人は家業で無理だって本だけよこすし・・・」
 瑞樹はため息をつく。元々この私的に忙しい時期に敵地で開かれる即売会に参加せよ、と命令を下したのは彼らの上層部である貴族院である、貴族院は五人の議員からなり、主にその仕事は、帝国の様々な方針を定めることにある。勿論それには、帝国の一八個サークルの運用も含まれており、この公私ともに多忙な時期、敵地での即売会参加を促したのも貴族院の議員達である。
「問題ない、今は、最善を尽くすのみだ」
「・・・・そう」
瑞樹は、全く感情のこもっていない和樹の声に、疲れた調子で返す。瑞樹は思っていた、もうすぐ開かれる敵地での即売会に、信頼できる副司令官の2人、柏木耕一と柳川裕也が欠けることで、どれほどの負担がまわりの人間に与えられるだろうか、せめて参謀に、謀略家の久品仏がいれば・・・・。
「白磁のブリュンヒルト」の2人の副司令官、柏木耕一と柳川裕也、この2人は伊丹からだいぶ離れたところにある温泉旅館の従業員をしている。過去の経歴は、柏木が大学生、柳川は元警察のキャリアである。どちらも同人活動歴が浅いが、それに倍するだけの知識と手腕を有している。そしてどちらも情報と補給の大切さを知っており、スタイルこそ違うものの、レベルの高い作品を、露天風呂のタイル磨きの合間に描いている。
「貴族院の狸共に話を通したら、柏木さんと柳川さんの代わりにセバスチャンという方がやってくるそうよ」
「セバスチャン?・・・・ああ、『最終兵器執事』か」
「ええ、貴族院の連中は、これを機に彼の持つ影響力を、縮小、出来れば自分たちの陣営に吸収しようと思っているんじゃないの?」
―――『最終兵器執事』―――現在の皇帝である藤田浩之の女友達、来須川芹香のボディーガード兼来須川家の執事兼同人帝国大将という三足の草鞋を完璧に履きこなしている。頭髪はすでに白く、年齢もすでに老人のそれにさしかかっているのだが、体つきは頑強な筋肉に覆われ、彼と互角に戦える人物は、世界広しといえでも、数えるほどしかいないと言われているほどだ。少し前までは日本に数多くいる長瀬一族の「武」の長をつとめていたが、数年前に、若い者を育てるため、と言い引退。しかしその眼光は未だ衰えていない。『あきらめたらそこで試合終了』の言葉を人生に置き換えているような御仁だ。
「貴族員の狸か・・・奴ら、一体何を考えているんだ?」
和樹は、少し考えると、いすに深く腰をかけ、天井を仰いだ。目に映る物、日の光に照らされる埃と、洗濯はさみで挟んでつるしてある、書き上げたばかりの原稿、そして視界のすみに写る赤いポニーテール。
「瑞樹、結局、今回の遠征には誰が行くことになったんだ?」
「確か和樹と、私以外には・・・・漫画家としてセバスチャン大将、高校生期待の星って言われている大庭詠美少将、他はいつもの通りのメンツだったけど、まぁ、背中を安心して預けられる人間が、ほとんどいないのは問題だけどね」
瑞樹が言い終わってすぐにため息をつく。瑞樹の言ったとおり、安心して背中を任せられる人間――――安心して指揮が任せられる人間というのは、連合サークルである「白磁のブリュンヒルト」の内部でも、千堂和樹、柏木耕一、柳川裕也くらいしかいない。即売会における戦術的な指示は、数時間に一回訪れると言われている。つまり、自分がたとえ留守にしていても、そのときに的確な指示を出せる人間が、その場にいるかどうかである。
「まぁいいさ。それよりも補給と人員の交代スケジュールを早く作ってしまわないと・・・・瑞樹、現地のコンビニとかに地図はもう手に入れた?」
「ええ、調べた結果、会場の近く、半径3q内にあるコンビニエンスストアは一店だけ、この数字は半径を5qまで広げてもかわらないわ。私としては、買い出し専門の特別部隊を編成した方がいいと思うわ」
 いかなる組織闘争でも、食料・資金・資材など様々な補給が確立されていなければ、絶対な大義名分持ち、崇高な思想を掲げても満足な行動を起こすこともままならず、組織は瓦解してしまう。
 それは、同人即売会においても同じである。同人即売会では、客が多く混雑しているときなどは、人の回転を早くして、客をさばき、平時においては、各サークルの判断でしっかりと客をさばくことができるようにしなくてはならない。
「参加するサークルの数が確か、300少々、内こちらが112、敵はその他だ。そのため、会場の近所にあるコンビニの、わずかな兵糧なんてのはすぐになくなるだろう。そこで、俺としては、サークルの中にいる人員の中で、車の免許を持っているものが少し遠くまで買い出しに行く。と言う案で行こうと思っているのだが。どうかな?」
 和樹が、瑞樹の出した案を具体的にし、その日は、今後の予定を確認するだけで終わった。そして和樹は、即売会開催地である茨城県の、とある街で出会う。そう、もう一人の自分と呼ぶにふさわしい存在と・・・・。
 
 
 
 よく晴れた―――布団が干したくなるような―――春の日、自由同人同盟、以下、同盟に所属する一サークルの一人、折原浩平は機嫌がよくなかった。もう一年と半年もすれば、大学を卒業するための論文の作成と、就職活動に入らねばならない。何度かそのことを退学の友人達の前で口に出したが、友人からは気が早いと言われるか、浩平にとってはそれ程早いとは思わない。昔の自分には、守りたいものがなかった。だから、たとえその日暮でも、さして問題もなかったし、それはそれで納得していたと思う。だが今は違う。あの『エイエンの世界』から帰ってきたとき、自分には守りたいものがいた。守らなければいけないものがいた。
 結局、あの世界は、何だったのか? ―――――戻ってきたあと、浩平は何度か考えてみた。しかし答えはでなかった。現世に絶望したものが見た、希望という名の終わった世界。そこには、個が無く、全が有り、満たされる代償として、他人に対する異存が無くなる。結局言葉では何とでも言えてしまう。
「しっかし、うちの連合サークルのトップは頭が固くて困るわよねぇ」
そう呟いたのは、青みがかった髪をツインテールにしている少々気の強そうな顔をした女性、彼女は浩平のサークルの構成メンバーの一人、七瀬留美である。彼女は、高校時代を2年の半ばからだが、折笠浩平と一緒に過ごし、大学も、同じ学科を専行している。ただ、2人の関係と言ったら、飲み仲間又は漢友達と言った方がしっくりくる。現在の彼女は乙女チックなイラストや甘い恋愛小説を書き、浩平のサークルの一つの戦力として数えられている。
 ここで七瀬が言った連合というのは、同盟に所属するサークルが、規模の大きい即売会に参加する際、参加するサークルのトップがネット上で意見を交わし、その結果、サークル同士が連合を組んで情報や食料などの提携を行う事を言う。ある程度の規模の違いはあるがだいたいの連合は、四十から六十のサークルで構成される。
「ああ、まさか、『即売会開催地で人気のある漫画やアニメ、その他作品を連合に所属しているサークルなどに協力してもって調べたい』って言ったら、返ってきた答えが、『否』の一文だったからなぁ。まったく、何を考えているんだか」
「しかたないわよ。あちらは萌一筋の本当の意味でのたたき上げ同人サークル、こっちは『流行』を読むのが異常にうまいだけの成り上がりの同人作家とその仲間。これじゃ、いくら折原の階級が准将で連合の幕僚やってても意見が通るわけないわ」
七瀬が、ため息とともに言葉を吐き出す。実際、彼らは上には嫌われている。七瀬の言ったとおり、周りから観ればあまりにも統一性のない二次創作ばかり書き、その作品の原作が、たまたま開催地で流行っていたために、飛ぶように売れ、それと比例するかのように彼自身も大きな発言力を得ていった。それが古参者には我慢ならないらしく、こうして彼が意見を出すたびに、黙殺ないし拒否をしてくる。生粋のひねくれ屋でも折原にとっては、それはそれでかまわないのだが、せいぜい滅ぶのならば、自分一人かその考えに賛同した者のみでやってほしい、と思ってしまうようだ。
「まぁいいさ、結局、恥をかくのは連合の上の連中、それにこれ以上資源を無駄にするわけにもいかないだろうしな。それに、これ以上の失策は同盟の勢力下にある同人サークルの不信を招きかねないしな」
口元を少しだけゆがめて言う。そんな浩平の表情を見て七瀬は思った―――相当、上の連中とやり合ったみたいね―――と。
「で、上の方の考えは? まさか今回もろくに情報を集めていないとか言わないわよねぇ!」
「ああ、そのとおりだ。上は今回、サークルを率いてやってくるのが、自分たちのスペースの半分もないって知ったとたん情報を集めるのを放棄した。で、こちらが独自にネットと、人を使って調べた結果だが、まぁ最悪だな」
 浩平は、ため息をつきながら右手をひらひらと力無く振る。多少だが、顔には自嘲と疲労の色が見えている。無理もない、昨日までは、売りに出すための二次創作の原稿を書き、それ以外にも、このサークルに所属又は同盟している作家に、いろいろと情報を提供したり、ネット上で話し合いをしたりもしている。さらに大学の講義、昨日の深夜にチャットで開かれた連合の幕僚会議において、約2時間にもわたる不毛な論争を繰り広げていたりもする。七瀬は、浩平のそんな表情を見て、眠気覚ましに、濃いコーヒーでも淹れてあげようと思い、インスタントコーヒーの蓋を開け、中身をカップに注いでいる。
「千堂和樹上級大将が率いる帝国18個サークルが一つ『白磁のブリュンヒルト』 これが、今回の相手だ」
 浩平が唐突にそんなことを言った。そして、七瀬はインスタントコーヒーが山盛りになっているスプーンを床に落とし、そしてテーブルの惨状を見て固まった。そして、コーヒーを無視して、口から言葉を吐き出し始める。
「『白磁のブリュンヒルト』ですって、危険度[AAA+]の上をいくとんでもないサークルじゃないの」
「ああ、上の方は知っているらしいんだがなぁ。全く、警戒もせず、対策もせず、と言ったところか。やはり、参加するサークル数が実質二倍ってのが、頭のボケを促進しているみたいなんだ」
 浩平は、苦笑した。昨夜の会議で何度もいったが、結局、上は何をいっても取り上げてくれなかった。ただ、数はこちらの方が勝っている、の一点張りだけだった。
「まったく、ま、あんたのことだから何か考えているんでしょうけど、今は情報が不足しているわ。原稿終わったんだから、情報集めるの手伝いなさいよ」
浩平はまた苦笑した。七瀬は、そんな浩平を、無視してパソコンを立ち上げていた。