第六章「散る花、育つ果実」
夕刻、生命を育む太陽の光が西へとその姿を隠し始める時間帯、大半の人間はその足を家族の待つ自宅へ向けたり、日中の疲れをいやすために各種の娯楽の場へと向ける。
だが、中には日の沈んだ時間帯に活動をする者達もいる。遠野志貴とアルクェイド・ブリュンシュタット、レンの3人もその部類に入った。
栃木県の即売会終了後、チェックインしているホテルの一室に帰還した志貴は―――即売会で荷物持ちとしてこき使われた―――蓄積した疲労のため、シャワーを浴びたあと、ベッドに潜り込みものの数分で睡魔と手と手を取り合ってダンスを踊っていた。アルクェイドは別にそのことを咎めるでもなく、レンを膝の上に抱いてソファーに腰を掛け、時折右手でレンの髪を撫でたりしながら、即売会で手に入れた何冊かの小説・漫画本の中の一冊を読破している。
アルクェイドが今読んでいるものは、世間一般にヤオイと呼ばれるジャンルの本である。アルクェイドは、これから市場が大きく飛躍するだろうと思い、目に留まった本を何冊か購入した。今読んでいる本の内容は少し昔にはやった近未来SFアニメの親子カップリング。表紙には白いカッターシャツを着たパッとしないやや女顔の少年が、後ろの、黒い何かの制服を着ているもみあげから顎まで伸びる髭と、オレンジ色のサングラスを掛けた中年くらいの男に背中から抱きしめられている。その右手は少年の左胸の上に置かれ、左手は少年の着ているシャツのボタンを外している。少年の方は微笑んでいるが、後ろの男は唇だけを歪めて笑っていた。その表情から“こいつは俺のものだ”といわんばかりだ。
「シ●ジ・・・・」
「と、父さん、やめてよ!。僕たち男同士なんだよ。それに親子なんだよ。こんなのやめてよ!」
「・・・口ではそういっているが、お前の菊の華は嬉しそうに蜜を垂らしながら、花開いているぞ?」
「あぅッ・・・・や、やめてよ、そんなところ汚いよ。だからさわらないでよ、指を入れないでよ!」
「フッ・・・・問題ない。シ●ジ、お前は俺のものだ」
アルクェイドはそれを、“ルンルン”とでも擬音が聞こえてきそうなくらいに楽しそうに読んでいるのだが、なぜか表情はジャアクに歪み、美しい顔立ちが台無しになってしまっている。レンもレンで、日本語が読めないためアルクェイドの頭の中に浮かぶ本の内容を読みとらせてもらっているのだが、読みとるたびに真っ赤になってしまい今では、腰が抜けたようにアルクェイドに体を預け、時折口からよだれが垂れたり、むずかゆそうに身悶えたりしている。両者共にあまり人様に見せられるような姿ではない。
即売会が終わったあと、アルクェイド達は、打ち上げも食事もせずにホテルに帰還した。志貴としては、割高なルームサービスよりも、某牛丼屋チェーンや某ハンバーガーチェーンで済ませたかった。これなら三人分を高く見積もっても二千円、切りつめれば千円ですむ。だが、スポンサー様であるアルクェイドはそんなことを全く気にしちゃいなかった。
志貴は仕方なく、レンに根回しを始めた。
「レンも、ホテルのルームサービスよりも、マク●ナ●ドのホットケーキセットの方がいいよな?」
ホットケーキセット――――それはレンのルビーのように紅い瞳を、星の大河のようにキラキラと輝かせるアイテム。その純真無垢な者のみが持つ瞳の輝きを見た志貴は、レンと同じ色の瞳の持ち主が、アレな人間になってしまったことを思って、ため息を吐いた。
そんな、くたびれている志貴の様子をみて、“?”という感じで首を傾げるレン、そしてそれに癒された志貴は、レンの手を取って、赤いアフロが特徴的なピエロの店に向かおうとして・・・・アルクェイドによってホテルに連行された。
志貴にとって一番の誤算だったのが、レンの裏切りである。完全に味方に引き込んだと思われたレンが、アルクェイドの“ホテルの一階にデザートがとっても豊富なお店があるけど、どう?”と言う一言で、あっさりと仰ぐ旗を変えてしまったのだった。
そして現在、レンとアルクェイドの女二人は、デザートよりも即売会で購入した本の読破に時間を使っている。本を読んでいる二人の視線が時々志貴の体を舐め回すように見ているのはたぶん気のせいであろう。
数分後、アルクェイドは本を読み終わり身体を軽い虚脱感に任せた。膝の上に抱いているレンも、アルクェイドの頭に映し出されていた小説の内容のヴィジョンから、だんだんと意識を現実に帰還させている。
「ねぇレン。志貴のアレの太さ覚えている?」
「・・・・・」
突然の質問に対し、レンは首を縦に振る。そして、自分の手首を指さした。
「・・・・・太い・・・こんなのが、男の人のあそこに出入りできるのかしら?」
アルクェイドは考え込む。もともとそういったための器官でないのに、一部の人間はその部分に快楽を生み出すための道具としての機能を求める。そして機能を備え付けるための道具も人間は作り出している。
「・・・・確かめなくちゃね、レン、協力してくれるわよね?」
アルクェイドのじっとりとした視線が、志貴の体を舐め回している、こういうのを視姦というのだろうか・・・。
「・・・・・」
「よし、剥くわよ」
レンがうなずくのを見たアルクェイドは、読み終わった本を片付け、一切の苦痛のない幸せな夢の国で睡魔と戯れている子羊に近づいていった。
・・・・翌朝、志貴は下半身の極一部分にはしる痛みのため不本意な覚醒を強いられた。
「ん・・・・・痛っ? なんだ?」
その痛みは、体の極一部分から伝わってきた。だが、志貴は今までの人生で痛みというものを味わい尽くしてきた。そんな志貴にとっては、あまり気にすることでもなかった。しばし考えたあとトイレに行こうと思い、ベッドから降りたときに下半身を中心に鋭い痛みが走った。その痛みは今まで経験したことのない種類の痛みだった。痛みをこらえながらトイレに入る。ズボンを下ろし便座に座って力んだ瞬間、志貴の体に今まで以上の痛みが身体に走った。あまりの痛みに志貴の目に涙が浮かんだ、普通なら即座に痛みの走る部位を治療しようと思う。だが、人が生まれながらに持つ好奇心という業ゆえか、志貴は痛みの原因たる部位に右手をおそるおそる伸ばした。そして、その部位に指先が触れた時、頭に伝達された感触は、ぬちゃっ、とした液体の感触。戻した指先に付いていた液体の色は、朱、朱、朱。
その日、アルクェイド達はフロントからのモーニングコールではなく、トイレからの絶叫で目を覚ます。眠たそうに身を起こした彼女たちのベッドの枕元には、溶けきったビニールチューブのアイスや、やや細身のコーヒーの缶などが、少々の異臭を放って存在していた。
即売会から一週間たった五月一一日(日)帝国の本部がある伊丹では、来栖川グループ系列のホテル『フローレンス』の一室『グロリオーサ』で敵地で行われた即売会の戦勝パーティが行われていた。
パーティ会場に選ばれていた『グロリオーサ』は、装飾こそ簡素だが広く、大人数が入れるホールである。ホールには丸いテーブルが幾つも置かれ、その上には白いテーブルクロスと料理、そして多数のソフトドリンクがおかれている。それぞれのテーブルではその場にいる人間達の話し声が途絶えず、立食形式のパーティはそこそこ盛り上がっているようだった。
あるテーブルの一角に真新しい服を着た青年がたっている。千堂和樹 同人帝国元帥にして帝国サークル副司令長官、一八個からなる帝国サークルの半数を指揮下に持つ男である。
千堂和樹の元帥任命式は、パーティ開始の直後に始まった。任命を発表したのは、千堂和樹がもっとも憎んでいる皇帝 藤田浩之ではなく、その代理、国務尚書という地位にいる人間であった。
パーティの開始と同時にアナウンスが、“これより帝国元帥任命式を開始します”というと、それぞれのテーブルに付いている人間達は、襟を正し、背筋を伸ばした。そして壇上に皇帝の代理人、女顔でひょろっとしているものの、目は強い意志の光を宿し、歩行はキビキビとしている。皇帝の腹心であり、友人であり、出来ているともまことしやかに噂されている男、国務尚書 佐藤雅史。
その男が和樹の前に置かれているマイクの前に立ち、手に持った辞令の書かれている長大な紙を広げる。その長さに、会場にいるに人間の殆どが、心の中でいやな顔をしたであろう。だが、自分の上に立つ人間を真っ向から非難することなどを出来る人間は少ない。
「――――前略――――ここに、千堂和樹上級大将の武勲を称え、帝国元帥に任ずる。また、同時に帝国同人サークル副司令長官に任じ、帝国サークルの半数を汝の指揮下におきものとする。西暦一九九八年 五月十一日 同人帝国皇帝藤田浩之代理 国務尚書 佐藤雅史」
そのとき、パーティ会場にいた人間の誰もが間の抜けた表情になった。今まで元帥や各要職の就任式ともなれば、長大な言葉が前置きとして並べられ、参加者が疲弊したところでようやく本題が読まれるのだ。
だが今回は違った。国務尚書閣下とあろうものが本題以外の部分を『前略』の一言で片づけてしまったのだ。この場にいた者達は、つまらない話など聞かずにさっさと料理にありつきたいと思っていた――――もちろん国務尚書もその一人だったりする。
国務尚書が辞令を読み終わったとき、国務尚書の隣に立っていた一人の女性が、手に簡素だが、年代物と分かる漆塗りのお盆を両手で持っていた。国務尚書が盆に載っている一本の豪華の装飾のされた杖を、白い革袋で包まれた手で握り、和樹に渡した。
両手を出し、うやうやしく杖を受け取る。この杖こそが、帝国元帥の証たる元帥杖であり、この瞬間、千堂和樹は帝国元帥となったのである。
和樹は受け取った元帥杖を、一瞬だけ見つめた。杖の全身が白金で出来ているかのように輝き、各部に豪華な装飾が施されている。頭部には白銀に光る双頭の鷲のオブジェが取り付けられていた。その鷲の目を覗いたとき、なぜか和樹にはこの元帥杖のデザインを考えた者の悪意が伺えた。
そして、式典は終わりパーティへと舞台を移す。
戦勝パーティ自体はなんの問題もなく進んだ。このパーティをするための金が、帝国に所属しているサークルが毎年納めているお金から成っているものだとしても、参加者の殆どは気にしないだろう。
パーティに参加している高官は、文官では国務尚書という地位にある貴族院筆頭の佐藤雅史、武官では同じく貴族院の一員で今回の人事で旗下のサークルを半数奪われることになる男、帝国サークル総司令官 橋本元帥、それ以外にも財務・外交・軍務の各尚書などがいる。これらが、帝国を実質的に切り盛りしている第一級の役職で、貴族院のメンバーが受け持つ役職でもある。
「一八歳で元帥閣下ねぇ・・・」
そう言ったのは、先週同じ即売会で共闘した坂下好恵だった。坂下は自分たちが不利な状況にいるだけですでに自軍の負けを確定していた。そしてそれを打破したのが、自分よりも七つ年下の大学一回生。彼が考案し、実行した戦法は、自分を含めその場にいた首脳部の精神にビール瓶で殴られてような衝撃を与え、坂下はいつの間にか自分が保守的な人間になっていたことを思い知らされていた。
「私たちの組織は、いつから実力のない人間を要職につけるようなろくでなしの集団に成り下がったの?」
場所を変えれば、そう言うことを言う人間もいた。坂下はその不快な声が聞こえぬ場所に移動するために、テーブルを移った。
『グロリオーサ』で戦勝パーティが終盤にさしかかっている頃、その下のフロアのロビーではパーティに参加資格のない人間がたむろしていた。その中の一人である高瀬瑞樹大佐はロビーにいる大多数と同じく今現在暇をもてあましていた。
上の広間で行われているパーティは、実戦部門では将官しか参加できない。瑞樹にもパーティの終了と同時に、准将を飛び越して少将という階級が与えられこのような式典から排除されなくなる。
・・・・和樹が、出世するのは問題ないんだけど、そのたびに私も一緒に引きずり上げられるなんて。
瑞樹は今ひとつ自分の地位を実感できずにいる。自分は和樹の描く漫画のアシスタント――――及び、偏りがちの上あまり裕福でない食生活の向上、大学におけるノートの代筆・・・・上げてみればきりがない、と今更気づく。そして、瑞樹は確信した。自分は今までの功績に見合うだけの地位を手にしたんだわ、と。
「おお、まいしすたー瑞樹、いや、この場では高瀬大佐とお呼びした方がよりしいですかな?」
考え事をしていた瑞樹の背後から、少々かん高い男の声がかけられる。
瑞樹に声をかけたこの男、名を久品仏大志という。一九歳で大佐という階級にあり、前へ大きくせり出している髪と、10人中8人は悪趣味と答える黄色の度の入っていない色眼鏡をかけている。
「・・・びっくりするじゃないのよ、このアホ大志」
「ははは、久しぶりにあった友人にそれはないだろう、まいしすたー」
そう言ったとき、大志のの黄色の色眼鏡がキラリと光り、そういった光景を見慣れているはずの瑞樹を怯えさせる。
「なんであんたは含み笑いをしたり、なんか企んでいるような顔をすると眼鏡が光るのよ?」
重いため息を吐きながら、普段思っていたことを口に出す。
「分かっていないな、まいしすたー。決まっているではないか、それは・・・」
「それは?」
「男の浪漫に決まっておるだろう」
「・・・・・」
瑞樹は本日二度目のため息をはいた。目の前にいるの青年が、創作活動がもっとも尊ばれる同人帝国において、全く作品を作らず、その知謀と謀略だけで大佐にまでのし上がった希有な人物であるはずなのに、全くそうは見えず、その癖の強すぎる性格だけが目立ち―――もちろん演技の可能性もあるのだが―――――何処にでもいそうな電波系の男にしか見えない。
「まったく、まいしすたーがうらやましい。いつもまいぶらざー和樹と行動を共に出来るのだからな」
「ななな、ナニを言っているのよ!」
大使の発言に顔を真っ赤にしてくってかかる瑞樹。大志はそんな瑞樹を“何か間違ったことをいったかね?”とでも言いたげな視線で見ながら、肩をすくめていた。十数秒後、からかわれたことに気づいた瑞樹が、荒い呼吸を整え、大志の顔の前ででニコリと笑い・・・次いでニヤリと笑った瞬間、強烈なボディブローが大志のよく鍛えられた腹部に叩き込まれた。
「さすがだ、まいしすたー」
瑞樹の――――男だったら世界を狙える――――ボディブローを腹部に喰らい、大志はふらつきながらそう言った。
「まったく・・・」
そう言った瑞樹は本日三度目のため息を吐く。どうも昔からの付き合いがある男は性格と容姿が反比例しているように思え、心の中で涙していた。
“頭の中身以外は”中性的な美少年の千堂和樹と“黙っていれば”眼鏡の似合うインテリ系美青年の久品仏大志・・・・考えれば考えるほどへこむので、瑞樹は考えるのをやめた。
「時に同志瑞樹よ。まいぶらざー和樹は今度元帥に昇進したのか?」
「ええ、そうよ」
素っ気ない言葉だったが、瑞樹は話題が自分にとってあまり好ましくない方向から脱したと思い、一人安堵していた。
「そうか、我が輩も同志和樹の旗下にはせ参じたいものだが・・・今は無理なのでな」
「どういうこと?」
「なに、同志和樹が元帥に昇進したことによって元帥府を開く権利を得た。そこに千堂和樹と愉快な仲間達――――つまり我が輩達だが――――が集まると、少々やっかいなことになると判断したわけだ」
元帥という階級は、上級大将よりも一階級高いだけではない。自分の旗下にしたい人間を――――もちろん本人の了解が必要であるが――――軍務省などの許可を必要とせず自由に任命、罷免する事が出来る。今まで上がまともな人事を行ってくれず、そのおかげで大変に苦労している和樹達にとっては、とてもありがたい権利である。
「まったく、今まで人事面でいやがらせしてくれて、和樹が人事権を得たから路線転換してくれるかなって期待していたのに」
瑞樹がぼやくが、その言葉には全く力がこもっていない。
「我が輩はこれよりしばらく秋葉原の方に行くことになった。同志和樹が呼び戻そうとしてもおそらく一月は無理だろう」
「・・・・そう」
「なに、落ち込むことなど無い。大学ではいつでも会っているではないか。それに、我が輩の野望を達成するためには、同志和樹と愉快な仲間達の力が絶対に必要なのでな」
「全く、さっさと帰ってきなさいよ」
「ふっ、まいだーりん和樹が待っているからな」
「あんた、その悪趣味な呼び方やめなさいよ」
瑞樹が本日四度目のため息を吐こうとしたとき、不意にエレベーターの到着する電子音がロビーに響いた。パーティから抜け出してきた人間が数人このロビーに待たせている人間を迎えにやってきたようだった。しかし、この中には彼らの待っている千堂和樹はいなかった。
エレベーターから望んでいる人間が降りてこないことを確認した大志は、おもむろに左腕にしてあるアナログ形式の腕時計を見た。
「ふむ、我が輩はそろそろ失礼するとしよう。同志和樹によろしく」
大志はそう言うと、先ほど到着したエレベーターの方に歩いていった。瑞樹はその隙のない歩き方に感心しながら、そのような歩術の知識をどこから仕入れたのか気になっていた。
大志が去ってから数分後、上のフロアでパーティを“やっているはず”の和樹がやってきた。片手には漆塗りの細長い木箱を抱え、その表情はなれないパーティのためか疲弊しきっている。
「すまない、パーティからなかなか抜け出せなかった」
「パーティの主役がそうすんなりと抜け出せる訳ないでしょうが。それよりも大丈夫なんでしょうね? パーティから中途退場したって事で上から難癖つけられて、色々面倒くさいことにならないわよね?」
「大丈夫だ。国務尚書・・・雅史さんには言っておいたから」
国務尚書といわれて瑞樹が思いだしたのは、世間一般の女の子よりもかわいい顔をした童顔の男の子だった。
『やおいの受けにもっともふさわしい人物』『ショタコンにとって犯罪にならない範囲で味わえる最上の果実』などのいかがわしい評があるが、一人の人間としての度量は尊敬のできるもので、瑞樹は出来ることならば敵に回したくないと考えていた。
「しっかしまぁ、パーティってのもかたっくるしいもんだな。いろんな人間の相手をするので手一杯でまともに料理が食えなかった」
そう言った和樹は、少々悲しそうに胃のあたりを手のひらでさすった。とてもお腹がすいているようだ。
「仕方ないわよ。パーティの主役ってのは、笑顔を振りまいて立っているのが仕事なんだから、それに和樹はまともな格好さえすれば見栄えもいいんだし」
「つまり、俺は普段まともな格好をしていないって事か?」
「・・・・気のせいよ」
「ま、いいけどな。帰りに、来栖川HM研究所によっていくぞ」
来栖川HM研究所は、来栖川エレクトロニクスが発売している人型ロボットHMシリーズの技術研究及び安全面での信頼性向上を目的に、四年前に設立された研究所である。設備等は常に機能で最新の物を維持し、研究所で働く人間も来栖川グループ全体から集められた精鋭である。現在その施設にマルチはいる。
「マルチちゃんに会えるの?」
瑞樹は複雑な表情をしながら和樹に問いかけてきた。
「ああ、雅史さんが今日行けば会えるって教えてくれた」
瑞樹は、そう、とだけ答えると顔を意図的に無表情にした。
来栖川HM研究所はホテル『フローレンス』から電車と徒歩で二十分の場所にある。丘の上に壮大に降り立つ白亜の城、などどいうキャッチフレーズの誇大広告がどこかの工科大学では貼られているらしい。
駅に降り立った瑞樹はいつもの事ながら目に映る光景に呆れる。駅から様々な建築物に阻まれながらもわずかに視界に映る白亜の建築物――――来栖川HM研究所。建物自体は研究機関らしく白で統一され、近代的な雰囲気を醸し出している。気の毒なのは、研究所が建設される前からその場所にある日本の平均的な住宅である。自宅が今まで以上にオンボロに見える、と嘆いた住人が何人もいたとかいないとか・・・。
和樹達がいる駅から研究所まではバスが出ているのだが、研究員達が通勤する時間帯と帰宅する時間帯にしかバスは出ておらず、いつもの通り和樹と瑞樹は二人して研究所までの道程を無言で歩いた。
研究所までの道程――――その短い時間の中で、瑞樹は和樹の表情を何度か盗み見た。和樹の表情はまるで、そう、まるで三年と少し前、唯一の理解者を奪い取られたときと同じ表情をしている。眉間にしわが寄り、口元は歯ぎしりの音が聞こえてきそうなくらいに噛み締め、その眼光は鋭く徐々に見えてくる白亜の建物を射抜いている。
――――私じゃ無理なのかな・・・。
瑞樹は唐突にそんなことを思い、次いでその言葉の持つ深い意味を瞬時に洞察してぶんぶんと頭をふる。その横にいた和樹が少々引きつった表情で瑞樹を見ていた。
瑞樹が、千堂和樹に出会ったのは中学校に入学した直後だった。出会ったといっても、単に同じ学校の同じ学年で、特に接点はなかった。
瑞樹が和樹に興味を抱いたのは、中学三年の高校受験の時である。学校側の計らいで同じ学校を受験する人間同士が集まって入試問題の傾向と対策をしたときである。そこで瑞樹は自分と同じ標準語を話す人間を発見した。関西でそこそこの規模の中学校とはいえ、標準語を話す人間というのはあまり多くない。最初は標準語でも、時間が経つにつれだんだんと混ざっていくのだ。
何回目かの勉強会のとき瑞樹が自己紹介をしたが、少年――――千堂和樹――――は、興味がないと言わんばかりに、自分の名だけ告げてさっさと勉学に戻ってしまった。あとで瑞樹がこのことを女友達にぼやいたとき、その女友達は苦笑しながら、彼について知っている限りのことを語った。
曰く、メイドロボに育てられた少年。
彼女の話では、千堂和樹という少年は小学校四年生のときに、親の仕事の都合で関東の方から引っ越してきたらしい。彼の住居であるマンションには、この学校の生徒も数多く住んでいるので千堂和樹の私生活も時々垣間見ることがあるようで、その際メイドロボと和樹が玄関で楽しげに話している光景を何人かが目撃しているし、商店街で二人そろって買い物をする場面もたまに見かけるというものだ。だが、これだけならば大した問題ではない。
第二次世界大戦が終わってから、世界は東西二つ陣営に分かれた。資本主義対共産主義の闘争、俗に言う冷戦である。ここで東西の世界の指導者達が力を入れて開発した物、それはロケットでも宇宙進出の技術でもオリンピックにおける流血の見えにくい戦いでもなく、どういう訳か人型ロボットであった。東西の国々が国民から搾り取った税金を『従順な人形の開発』に注いでいった結果、ロボット工学におけるテクノロジーが奇形的な発達を遂げ、結果としてコンピューターのテクノロジーも上昇していった。この異常な速度での技術の発達には、冷戦時における大国二つの中華思想とトップの極端なまでの人間不信が絡んでいる、という専門家もいるが事実ははっきりとしない。ただ言えるのは、既に人型ロボットは人間社会というブリキのおもちゃを動かすために必要な歯車に組み込まれてしまっているということだった。
冷戦末期時に人型ロボが民間でも開発できるようになると、民間で様々な試行錯誤がされた。結果として生み出された市場は家政婦などの一般家庭サービスから、企業における経理、役員のスケジュール管理などの雑務一般、老人介護などの福祉関係である。そういった仕事を受け持つことになった人型ロボットはだんだんとメイドロボと呼ばれるようになり、現在ではその名称が完全に定着している。価格面でも各企業の努力により、八〇年代後半には新車二台分よりも少々高い値段で人型ロボットが購入できるようになった。そして購入時の値段の高さよりも、各メーカーのアフターケアの異常なよさと、ソフト面でのヴァージョンアップの安易さを前面に押し出し、購入後にあまりお金のかからない体制を強調することによって、メイドロボは確固たる地位を築くに至ったのである。そして現在ではメイドロボは一般社会に広く普及し至る所で見かけるようになっている。
瑞樹が色々な人間から聞いた話では、千堂和樹はどういう訳か猫耳をはやしたメイドロボと二人だけでマンションに暮らしているらしく、三者面談でもどういう訳か両親は来なかったらしい。そしてそのメイドロボには、驚くことに、喜怒哀楽があるというのだ。
世間一般のメイドロボには喜怒哀楽はない。黙々と言うことを聞いて、それをこなすだけである。それが一般的で、メイドロボと人間の違いを強調している。だが、千堂和樹の家に住んでいるメイドロボは違うらしい。それがどういうことか瑞樹にはよく分からなかった。
その後、高校受験時までに瑞樹と和樹は会話が出来るほどの仲になっていた。そして二人の関係がただの知人から親友と呼べるものに発展するのは、一つの別れの直後だった。
「マルチ!」
玄関ホールに入った二人を迎えたのは研究所の制服を着た、和樹が拾ったときそのままの猫耳をつけたマルチだった。
その表情は、真冬の太陽のように暖かみに満ちている。
「わざわざ出迎えに来なくてよかったのに」
「和樹さんと瑞樹さんが私なんかに会いに来るためにこんな所にまで来たのに、出迎えなければ失礼かなと思っちゃいましたんで」
「ここでずっと待っていたの?」
いままで、二人の会話を聞いていた傍観者の瑞樹が口を出す。
「私は何も出来ませんから・・・・」
マルチの声は、静かだが深い悲しみが底の方にあると感じられるものだった。研究所内部で働くのは、外見こそマルチと同じだが中身がまるで違う。HM−12のファーストヴァージョンが発売されてすでに六年あまり。その間に妹たちが蓄積してきたデータは、アフターケアのときや定期検診のときなどに採取され、この研究所でもっとも効率的な形としてまとめられ、新たに発売されるHMシリーズや、ニューヴァージョンのソフトとして利用される。
今のマルチは、『乳母車から墓場まで』といってもおかしくないほどの仕事をこなせるようになっている。最近は赤ん坊の世話用に『表情機能』という代物まで出ている。
「マルチ・・・」
和樹が悲しそうにその名を呟く。現実において彼女の妹は、与えられた名前通りの存在に成りつつある。それが、彼女にとっては嬉しいのだろうか、悲しいのだろうか、それとも・・・。
「さぁ、いきましょう。食堂で料理長がおいしいお茶を出してくれると言っていました」
和樹の思考はマルチのその声で中断された。ばかばかしい何を考えているんだろう、和樹はそう思い、今考えていたことを全部忘却するために両手で顔を軽く叩いた。
会話は弾んだ。最近のできごとを話し、くだらないゴシップ話で笑う、そんな会話だ。談笑しながら和樹達は紅茶を飲み、デザートとして一緒に出された洋梨とチョコレートのタルトをほおばった。二人はマルチがタルトを持ってきたときまず驚き、食べたあとには本当にここが社員食堂なのか本気で疑った。二人とも、社員食堂の飯はまずい、と語った某鶴来屋従業員二人の言葉を真に受けていたらしい。
「和樹さん」
不意にマルチが真剣な表情で和樹に話しかけた。
「同人帝国でのご活躍は伺っています。でも――――」
マルチはそこで一瞬言葉を切り、和樹の目を見つめた。和樹を見つめるマルチの目、カメラアイのはずなのに、そこには表情がある。裏表のない表情、世の中の人間の大半が時の経過と共に打ち捨ててしまっている純粋な汚れなきものが、そこにはあった。
「でも、体を壊さないでください。あなたが倒れれば悲しむ人間はあなたが思った以上に沢山います。ですから――――おねがいします」
瑞樹は不思議に思う。なんで、ここまで心というものをこの子から感じれるのだろう、と。目の前にいる緑色の髪をした少女は、人間以上に人間らしい。『人はどこから来て、どこへ行くのだろう』という言葉があるが、それならマルチの心はどこから来てどこへ行くのか、瑞樹には分からない。ただ・・・
「瑞樹、辛気くさい顔していないで、一杯飲め!」
「何飲んでんの和樹! お酒じゃないそれ!」
「はわわ〜」
この楽しい時が少しでも長続きしてくれたらいいなと思っていた。