第七章「街」後編

 
 浩平が美坂に引きずられるようにして喫茶店JSBを出たのは、午後二時を少し過ぎたあたりだった。朝から青かった空は相変わらず青く、補修のされていない道路はひび割れたままだった。
 この変わらぬ世界に対し、感慨深い思いに浸っている浩平の横で美坂は店の駐輪所に止めておいた自分のマウンテンバイクの各部の確認をしている。この地区は旧市街地と呼ばれる地区の中でも治安も良いほうで、合併前の市町村から受け継いだ旧来の社会資本の補修は苦情が出ない程度には行われている。これでも旧市街地の中ではいい待遇だというのだから笑うしかない。
「よし、どこもやられていないわ」
美坂はそう言うとマウンテンバイクのハンドルの手を掛け浩平の方へ歩いてきた。
「折原君、行くわよ」
美坂が声をかけると、身をかがめて、歩道のひび割れたアスファルトから、這い出してくる蟻を見つめている浩平に向かって移動を促す。
美坂は、蟻なんて見てて何が面白いのかしら、と頭の隅で思っていたが、浩平から返された言葉は、無意識に予測していた返答の範囲外だった。
「いや、蟻と人間って似ているって思っちゃって」
なにを馬鹿なことを、美坂はそう考えたが蟻という部分が妙に引っかかった。
「なにを、トンチンカンな事言っているの。さっさと行くわよ」
心に何かが引っかかるような―――奇妙な感覚を表に出さず、美坂はマウンテンバイクを押し、市役所へ向かって歩き始めた。
 
 歩き始めて、五分ほど経つと歩道の状態が急に良くなり人通りも急激に増えてくる。それは中心街が近い証拠だった。浩平の前を歩く美坂は、押しているマウンテンバイクがさすがに邪魔になってきたらしく、進むほどに歩くペースが落ちてきた。
 浩平はそれを見計らい、美坂にこれまでの経緯の説明を求めようと、横に並び話しかけた。
「それで、社会人には貴重なこの日曜日に、毎日が休日の私を呼び出したのは一体どうしてですか?」
口調こそ丁寧だがその内容は、美坂への皮肉と言うよりも自虐に近い。美坂もそれを分かっているのか、腹も立てずに子供をあやすような柔らかい口調で、相づちを打った。
「まぁ、説明すれば長いんだけど……折原君、自由同人同盟って団体に所属しているわよね?」
同人という単語を聴いて、浩平は美坂の言わんとしていることに察しが付き、ため息をついてから返答した。
「はぁ、またショタ本の催促ですか?別にいいですけど、あんまりそういうものばかり読んでいると―――」
普通の男に興味がもてなくなりますよ、と続ける予定だった浩平の言葉は、振り返ってこちらを見つめる美坂のステキな笑顔と、浩平の喉仏を潰す寸前で止まっている右手によって遮られた。
「折原君―――死にたい?」
「死にたくありませんです、はい」
浩平は即答した。その返事に満足したのか、美坂は浩平の喉仏から右手をはなした。
「まったく……言っておくけど、私はかわいいものが好きなだけであって、現実でちっちゃい男の子とかに頬ずりしたり、生脚をなでてみたいとか思っていないわよ」
美坂は一応は否定したが、語っているときの右手が―――何かをまさぐるように―――不規則な動きをしていたのを見て、浩平は、神は死んだという言葉を吐かねばならなかった聖職者の気持ちが分かる気がした。
「あ、でもいいモノが入ったら流してね」
「はい……」
美坂の要求に浩平はただうなずくしかなかった。しかし、相手の要求を一方的にのむだけでは、浩平の矜持又は芸人魂が納得しない。そこで浩平は、美坂に向かって、結局何の話をしたかったんだよ、オイ、と言う意味を込めた視線を送る。元来目つきが悪い浩平の視線は、即売からの疲労が蓄積しているせいもあり、いつも以上にギラギラしていて、常人なら即目をそらすことだろう。
「……話を戻すわよ」
女傑美坂は、浩平の鋭い視線にひるまず、気まずそうな顔をして話を再開した。本人にも今さっきの会話が、お天道様の真下で行う会話ではないとの自覚があったらしい。
「私が勤めている会社の筆頭株主―――いえ、株主共の最大派閥が変わったの」
株式会社は出資者すなわち株主が組織する有限責任会社である。筆頭株主とはその会社の最大出資者であり、他の株主以上に経営に口を挟むことができる。だが……。
「それが美坂さんにどう関係するんですか?」
株主達の勢力図が変わった際、もっとも影響を受けるのは経営に関する部門だが、浩平の知っている限りでは、入社二年目の美坂にはさして関係のないことに思えた。
「それがね……」
途中まで言いかけたところで、美坂の口がどもった。なにか言いづらいことでもあるのか、目が宙を泳いでいる。
「最大派閥に属している株主共の大半が、折原君の参加している……えと、自由同人同盟だっけ、それに出資していたり、関係してたりする人間達なのよ」
「それでなんですか?俺にそういった資産家階級(ブルジョア)共とのパイプ役にでもなってほしいと?」
不機嫌に問い返す浩平に、美坂は首を横に振って否定した。
「違うわよ。第一平社員の私がそんなコネなんて持って何になるんだか」
口ではそんなことを言っているが、浩平は油断しなかった。この美坂という女はショタスキーではあるが、同時になかなかの才女でもあった。
「簡単に言えば、経理とかの数字に強い人物を出向社員という形でいいから同盟に派遣してほしい、ってことを株主共が言ってきたらしいのよ」
「はぁ?」
「軽く調べた感じだと、初期設立時のメンバーがチラホラと抜けてからは組織としては膨張しているみたいだけど、中身は膨張に追いついていないみたいで漫画書きとかの部門以外じゃ空洞化が目立つわね」
「いや、同盟に社員を派遣するかしないかは美坂さんの会社のお話でしょ。なんで俺にそんなこと言うんですか?」
その言葉に美坂は足を止め、浩平の目を見つめながら場違いな台詞を言った。
「わからない?」
言う場所と雰囲気次第では睦言になるような言葉だ。わかりたくありません、というのが浩平の意見だったが、この鬼女相手にそんなこと言ったらどうなるか分かったものじゃない。
「私が、同盟に出向社員という形で行くって事よ」
―――神は死んだ。
折原浩平は、同じ相手に一日二度もこの言葉を使うはめになった。
 
 
 時雨市の市役所は中心街の中心、もっとも交通の便がよくなる場所に建てられている。
 その交通の便の良さは、旧市街地にすむ人間達にとって当て付け以外の何ものでもない。しかし、交通の便の良さのためではないが、普通は遅いはずの役所仕事が、時雨市においては迅速に処理されているのもまた事実である。
また、建物自体の外見も『市役所』などと呼べないほどに洗練されてはいるが、中途半端な高さに非経済的なオブジェが所狭しと置かれ、市役所自体のデザインは悪くないのに何とも珍妙な建築物になりはてしまっている。ある与太話では、今の与党幹事長がそれらのオブジェのデザインをやったというらしいが、真実は闇の中である。
「美坂さん、これからどこにいくんですか?」
浩平は市庁舎に着くまで聞く機会のなかった話題にふれた。もし、市庁舎の中で知らない人間相手に会談や交渉などをしなければいけないのであれば、事前に情報を仕入れておくのが最低限の準備だ。今回は、鬼女・美坂香里に主導権を握られてはいるが、これから美坂以外の人間と会うのならば、少しでも情報を仕入れておかねばならない。
浩平の質問に美坂は、マウンテンバイクの前輪と駐輪場の車止めとを、鎖で施錠する作業をしながら答えた。
「地域特殊地場産業育成課の予算調達企画室の室長代理に会って貰うわ」
―――なにその名前、長い上にすごい怪しいし、だいたい予算調達企画室って何よ、予算自分で調達しなけりゃならない部署なのか?オイ、そんなアレな部署なんて俺しらねーよ。
「折原君、君が思っていることはすごい共感できるし、私もはじめ聞いたときはそう思ったわ。私の上司も複雑そうな顔していたし……とりあえず、思ったことを表情に出すの止めなさいね」
美坂の言うことももっともだが、浩平の心は整理整頓できずにいた。
「美坂さん、普通に考えてみてくださいよ。聞いた人間全部が怪しいと思う部署に、これから俺は生け贄として行かなきゃならないんですよ。これなら、市場に売られていく子牛の方が、まだ幸先が明るいんじゃないかと思えませんか?」
一気にまくし立てる。浩平は、そうでもしなければ明日の朝日は拝めない、とすら思っていた。
「まぁ、大丈夫でしょ。子牛の相手は食肉解体業者の生肉割男さんかもしれないけど、折原の相手は人間ですもの」
「人間?役人なんて人間じゃないやい」
「まぁ、特に税務署の役人なんてヒトデナシだしねぇ」
「そう思いますでしょ。なので私は茜の胸元へ帰らせてもらいます」
上手い具合に会話を逸らせた浩平は、そのまま家路に着こうと、近場のバス停を目指し早足でその場を立ち去ろうとした。だが、鬼女はそれを見逃すわけがなかった。
「ダメに決まっているでしょ」
そう言ったあと、左手でおいっきり襟をつかんで引っ張った。途端に、浩平の着ている薄氷色のカッターシャツの襟が、いい塩梅に首を締め上げた。
「バカやっていないで行くわよ。早く行っても待たされるだけだろうけど、行かなきゃ、あとでどんな報復されるか分かったもんじゃないわ」
美坂はそう言うと、先ほど襟を引っ張り締め上げてから地面にしゃがみ込み、ゲホゲホ、とむせている浩平の左手首をつかんで無理矢理に立たせると、そのまま手を引っ張り市庁舎の中へ連れていこうとする。
「まったく、しっかりしなさいよ。これから相手にするのは人間じゃなくて役人なのよ」
何か含みのあるような言い方を美坂はしたが、このとき浩平は先ほど喉仏を絞められた影響で美坂の言葉に注意を傾けているだけの余裕はなかった。
 
 
 地域特殊地場産業育成課は初めて来た浩平の目から見れば―――名前に似合わず―――普通の職場だった。大学入学の際の住所変更以外は、窓口での住民票の取得程度の用事でしか訪れたことのない浩平にとって、時雨市の市政とは汚職と腐敗の溜まり場のようなイメージがあったが、末端とはいえ、市職員の堅実な働きぶりを見るとそう言ったイメージが、実は偏見ではないのかと思えてもくる。
「折原君、そこの待合室で待っていろって」
「……はい」
待合室の中は、スーツを着用した少壮の男達が数人ソファーに座って順番待ちをしていた。雑誌を読んでいる者、うたた寝をしている者、室長代理との会談にでも使うのだろうか、書類のチェックに勤しんでいる者もいた。
「……文庫本の一冊でも持ってきた方がよかったかな」
浩平は一人、呟いた。待合室の人間一人に三十分程度かかったとしても、二時間はここで足止めをくうこととなる。
「我慢しなさい」
「へい」
美坂に諭され浩平が空いたソファーに座ろうとすると、今さっき入ってきた入り口からいかにも悪徳役人という風体の男が入ってきた。
「美坂様、室長代理がお呼びです」
悪徳役人風の男はそう告げると、さっさと待合室から出ていった。
「美坂さん、あんたここの室長代理とやらに一体何やったんだ?」
「さぁ?」と、美坂は肩をすくめて、茶を濁した。
 
 
 室長室の中は、頭に予算調達企画室と銘打っているだけあって実に質素だった。ソファーやテーブルなどはしっかりと手入れされ一見綺麗だが、細かく見ればあちこちに傷があり年季の入ったものであることが分かった。
「まぁ、腰をかけてくれまえ」と、室長代理と思われる中年の男が言った。
その男は恰幅のいい体格をし、黒縁の眼鏡をかけた顔には人の良さそうな笑みを浮かべている。しかし、浩平にはその姿がポーズのように思えた。
「ここで室長代理をしている久瀬という者だ。君が折原君だね、君の活躍は聞いているよ」
室長代理はそう言って、テーブル越しに美坂と浩平の正面に腰をかけた。一方で話をふられた浩平はとまどっていた。
「つかぬ事をおうかがいしますが、なぜ私が市庁舎などに呼ばれたのですか?美坂さんから詳しい説明など受けていないのですが……」
まったくだった。浩平がここに来るまでに受けた説明は、美坂が会社の都合で同盟に出向することになった、ということだけで他の説明は一切受けていない。浩平は暗に美坂の不手際を糾弾しているのだが、隣に座る美坂は何喰わぬ顔をして秘書と思われる男が持ってきたコーヒーを飲んでいた。
「それは、私が美坂さんに口止めしたからだよ。君をここに呼んだ目的を事前に話せば、君は絶対来ないだろうと思ってね」
「常識的な手段で私に話した場合、私が辞退するようなことをさせるつもりでここに呼んだのですか?」
室長代理の目を見つめながら問いただす。室長代理は浩平の問いをあえて無視して、口元に嫌な笑みを浮かべたまま答えた。
「これは自由同人同盟の営業部としての決定だが、我々は七月中に秋葉原の近くで即売会を開こうと思っている。もちろん我々が主催だ。その際、君に参加する全同盟サークルの責任者になってもいたい」
室長代理は、浩平の目を見ながらそう言った。相変わらず、顔に浮かべている人の良さそうな笑みとは対照的に、眼光はとても鋭い。
「室長代理は、同盟の参加者だったんですか?」
「正確には、ここの本来の主……すなわち室長が同盟の営業部門の長なんだがな……今ちょっと長期休暇を取られてね、私が公私の権限を一部代行している。もちろん、今回の計画は同盟上層部の総意でもあるし、各サークル連合の責任者達、君たちの言い方ならば司令官になるが彼らの承認も得ている」
自分には関係のない世界だと思っていたものが、今目の前に現れ自分を取り込もうとしている。
「……私にはどの程度の権限が与えられますか?」
「責任に応じて……だね」
曖昧な言い方だ。もし室長代理にとって不都合が生じれば越権行為なりなんなりで理由を付け、自分に責任をすべて押しつけるつもりだろう。一生産者に戻るにはいい機会かもしれないが、自分の責任ではない汚名を受けたまま、生涯にわたってそれを引きずるのはごめんだった。
「私の権限について、正式な書類にハッキリと明分化していただけませんか?」
「そうしなければ、引き受けてくれないかね?」
「引き受けるもなにも……」
そう言って、のどの渇きで声が出しにくいことに気づき、ぬるくなってしまったコーヒーをすすった。
「仕事の内容が不明なのに、ハイそうですか、と引き受けるほど、私はお人好しに育った覚えはありませんよ」
浩平の隣でのほほんとしている美坂に今回のことに釘を差す意味でも、嫌みを込めて言った。言われた当人は、気にした様子もなく相変わらず黙ったままだ。
「わかったよ。3日後にまた来てくれないか?それまでに明文化しておく」
「理解を示してくれて助かります」
そう言って浩平は立ち上がり社交辞令を交わしたあと、同じように社交辞令を交わした美坂と共に部屋をあとにした。
 
「どういうことですか、美坂さん?」
市役所から出ると、浩平は美坂に詰め寄った。詰め寄る理由は室長室での一件以外の何ものでもない。
詰め寄られた美坂は、浩平がなぜ喧嘩腰でいるのか分からないといった風だった。それが表面上の擬態にしても浩平にとって信頼していた人間にはめられたというショックは、大人になっていない青年の心に少なくない衝撃を与えた。
「折原君も、留年しなければ来年は就職活動をしなければいけないでしょ」
「それがどうしたんですか?」
大学に入った目的がモラトリアム的心理だろうと、学を身につけるためだろうと終わりはやってくる。大学生の時に自分の将来について考えるのはごく自然な流れだった。
「あそこの室長はここの公共事業の大半を統括しているのよ」
「つまり、役人とコネをつくってそれを将来に役立てろと」
「あの室長代理に使える奴だと思われれば、その話はこの辺一体の優良企業に広まっていくわ」
「……」
美坂の言葉に浩平は沈黙せざるを得なかった。
 自分自身を顔の広い人間に売り込むのは、将来を見越して考えれば有益だろう。今の時代、職を大多数の中から選べるというのは贅沢だった。
「今回の件を上手くやれば、来年それが役に立つの。折原君は大学の成績も出席もギリギリだし、七瀬さんや里村さんに迷惑かけながらのキャンパスライフじゃ、周囲の印象も悪いのよ」
浩平自身それは分かっている。里村茜が浩平の恋人であることは周知の事実だが、浩平の周りには茜と共通の友人である七瀬留美と柚木詩子、県立図書館の一角で点訳図書を管理・作成するという仕事に就いている川名みさきという女性、川名の友人であり同盟における浩平の上司的な人間でもある深山雪見など綺麗所が多い。
 浩平自身、自分が周囲の男性によく思われていないことは分かっていたし、別に自分の周りに女性が多いからといって色眼鏡をかけるような心の狭い人間と深い友人関係を構築する気にはなれない。
「つまり、自分のために他人を利用しろと」
「利用じゃないわよ。取引といってほしいわね。相手を通じて、様々な人間に自分を売り込む―――それなりのメリットはあると思わない?」
「でも」
「それにね室長室では私に発言権はなかったのよ。そういう決まりだったの」
なにか、物悲しげな顔をして美坂は浩平にそう言った。
 浩平だって、大人になることが良いことばかりではないということぐらい分かっていた―――分かっているつもりだった。
「社会の歯車になるっていうのは、めんどくさいことばかりよ」
美坂はその言葉を残して駐輪場の方向へ歩いていった。
 日はすでに傾きはじめていた。
 
 
「浩平遅いです」
アパートに帰った浩平が最初に聞いた声は、薄いピンクのエプロンにチェック柄の三角巾を頭につけた茜の声だった。
「ああ、ごめん」
そう言いつつも、ワンルームの空間を漂うほのかな出汁の臭いにJSBでベイクドチーズケーキを食べて以来固形物を摂取していなかった胃が己の権利を満たすために躍動しはじめる。
「冷蔵庫の中身を整理させて貰いました」
そう言う茜の前には、ガスコンロにかけられた土鍋がいい香りを出しながら具材を煮ていた。
「冷蔵庫の中って……胸肉か、賞味期限大丈夫だったか?」
「なんとか、あと昆布茶を少々出汁代わりに使わせて貰いましたよ」
冷蔵庫の中にあった鶏肉は五日前に特売で買った物だが、大学から帰ってくると調理するだけの気力が無くなっているため、スーパーの袋に入れたまま冷蔵庫に放置していた。この調子であと三日もすれば悪臭漂う危険物にクラスチェンジするところだったが、最悪の事態は茜のおかげで難を逃れた。
 浩平が来る前から煮込んでいたのだろう、羽織っていた上着携帯電話や財布と共に部屋の隅に置いている間に鳥鍋はちゃぶ台の上にその姿を現した。
「おおお〜」と、身を乗り出して鳥鍋をのぞき込む浩平。
「はしたないですよ浩平……そんなに飢えるほど何処で何をやっていたのやら」
茜にたしなめられた浩平は身を乗り出すのをやめ大人しく座布団の上にあぐらをかいた。茜の言葉の後ろ半分は聞いていなかったようだ。
 
 
 肉の残量が四分の一を切る頃になると、最初は餓鬼のように鳥と豆腐を貪っていた浩平も落ち着いて食べるようになっていた。
「浩平、午後はどこに行っていたんですか?」
「んー茜の作る料理はうまいなぁ」
浩平自身誤魔化し方が下手だと思ったが、それ以外に手札がないのだから仕方ない。
 下手なジャブですね。茜には浩平の言葉が、この話から自分を逸らすにはあまりにも露骨だということに不信感を持った。自分自身決断を下せない事態が浩平の身に起こったのかもしれない。
―――もしくは、七瀬さんとか川名さんとか詩子とか、はたまた上月さんとか……浩平に幼女趣味のケは無いはずですけど……もしかして、長森さんが遊びに来てそのまま……ダメです浩平、あなたは私というものがありながら。
 暴走列車は止まらない、もとい妄想乙女は止まらない。
 浩平が最後の鶏肉を取ろうとしたとき、今までぴくりとも動かなかった茜が突如として浩平をにらみつけた。
「わりぃ、食い過ぎたか?」
「浩平、あなたは私というものがいるのに、長森さんとか七瀬さんとか川名さんとか、あまつさえ中学生体型を未だに維持している羨ましいような羨ましくないような澪さんとか、詩子もですか?」
妄想しすぎは体に毒、誰かがそんなことを言ったらしいが今の茜をみればそういう言葉にも納得がいくな。浩平の脳は冷静に分析していたが、今はひとまず頭が熱暴走している、鍋を挟んでちゃぶ台の向こう側にいる恋人を鎮めるのが最優先だった。
「なんのことか分からないけど、俺が愛しているのは茜だけだよ」
「ホントにホントですか?」
「ホントにホント」
「でも、四時頃にアパートに来たら浩平はいないし、携帯にはでないし」
―――あー、その頃には市役所の中で胸くそ悪い思いしていたんだよなぁ。
 浩平の意識が自分以外の他方へ逸れたのを茜は察知した。自分よりも優先することがあると知った茜は、先ほど浩平が言った言葉に対しても疑念がわいてきた。そして、そのようなことで大事な人を疑ってしまう自分も情けなくなる。
 茜の視界が突如潤んだ。また泣いてしまった。浩平と出会う前の自分はあまり泣かなかった。泣いてしまうほど物事に対して関心を抱けなかったのだろう。だが、浩平は自分を色のある世界へ引き戻してくれた。だからこそ―――
「あー、泣くな泣くな午後に何していたか全部話すから、だから泣かないでくれ」
そう言ったあと、最後の鶏肉を鍋の中に残したまま浩平は茜の隣に座った。
 茜が少々あっちの世界(通称乙女ワールド)へ飛び立っている間、浩平は淡々と今日の午後のことを説明していた。そのとき茜は肩により掛かる、というスタイルから浩平の脚に膝枕と自然に移行した。
 浩平の関心が私以外へ向くのが恐い。私以外をみないでほしい。
「それで、なんかしらんが秋葉原の近くで即売会を開くらしいんだが、その責任者を俺にやってほしいんだと……茜?」
一通り話し終えたあと膝枕をしている茜をみると、目をギラギラさせ浩平の瞳をみている。その視線に軽い恐怖を感じるが、飛び退くわけにもいかない。
「浩平、その狸に言いなさい。人事権をよこせと」
その言葉を聞いたとき浩平は固まった。茜は普段はおしとやかを通り過ぎて冷徹だが、心の奥底には熱くてドロドロしたものが渦巻いている。それを表面に出すような事をした人間は、浩平の知る限りでは自分だけだった。
―――普段表に出さないような部分をさらけ出してくれるっていうのは嬉しいんだけどなぁ。できればもっとかわいらしいな部分を前面に押し出してほしい、と贅沢者は思った。
「そんなこと言ってどうするんだよ」
「私もいきます」
「はい?」
「こんな事があるたびにいちいち予定をキャンセルする事もなくなりますし、何より破格で観光も出来ます」
もっともらしい理由を述べた茜はそのまま浩平の目を見つめる。見つめられた者が逃げることを許さない瞳―――そんな瞳に見つめられれば、浩平は頷くしかない。
「わかった、ねじこんでみる」
そうは言ってみたものの、あの古狸に限って二つ返事で承諾するとは思えない。
 どうしたもんかな。天井を見ていた視線を下げれば偶然にも茜の胸元が目の前に飛び込んできた。
―――あー、そういや最近ご無沙汰だったな。
 そう思った途端、浩平の愚息に血が巡り軟弱だったそれが徐々に堅さと力強さを身につけ、敗北者から勝者への階段を昇る中年サラリーマンのように台頭しはじめる。
 まじいな。浩平はそう思って膝枕を満喫中と思われる茜に気づかれないよう愚息をどう鎮めるか考えはじめる。
 浩平自身そういった行為が嫌いではない。正常な男の子なのでとても好きだ―――だからこそ、こういった成り行きに流されて襲いかかりたくはなかった。
 クソが、全然鎮まらねぇ。そんなことを思いながらいろいろ、心に傷として残っているような事を思い出すが今度は普段見えないうなじが見え、ボルテージは余計に上がっていく。
―――やばい、マジでやばいです隊長!
 浩平は頭に浮かぶいろんなものに助けを求めるが、彼らが手を差し伸べてくれるわけがなかった。
 このとき茜は浩平の直面している苦悩をすでに察していた。
 膝枕をしてもらっているときに後頭部に、何か熱くて硬いものが幾度もノックすれば大体それがナニであり、自分に太股を貸し出している浩平がどのような状況に陥っているかわかる。
―――まったく、可愛いんですから。
理性が飛ぶまでは自分がリードしないとなかなかその気にならない浩平がたまらなく可愛い。
「まったく……」
そう呟いて、体を起こした茜は先ほどから目が空を泳いでいる浩平の唇に自分の唇を重ねる。唇を重ねただけならばたいして驚かなかった浩平も突如口内に進入してくる茜の舌には驚いた。
 最初は驚いていただけの浩平も、茜にリードされるという形ではあるが次第に茜のキスに応じるようになり、お互いに舌を絡ませ合う。
 お互いにそういう行為に没頭するときは決まり事のように長いキスをする。
「ん……ふぁあ」
長いキスが終わった。
 お互いにこの次のステップがなんであるかは暗黙の了解があり、もちろん浩平もそれにのっとって次の行動を起こそうとした。
 突然、二人の間に無粋な邪魔が入った。
 お互いがお互いを五感をすべて使って感じあっていたため邪魔をしたものの正体が携帯電話の着信メロディであることに気づくまでに若干の時間を要した。浩平が食事の前に脱いだ上着その上に置かれている携帯がけたたましくメロディを鳴らしている。
 携帯からけたたましく流れるメロディはドヴォルザークの『新世界より・第四楽章』の有名な一節だった。普段、浩平はこのメロディを危険人物からの着信メロディにしている。
 浩平がノロノロしてなかなか取らないから携帯は着信を伝言メモに回した。大体の人は伝言メモになると電話を切るが電話の向こう側にいる人間は違っていた。
『―――美坂ですけど、折原君来週の日曜に今日の店里村さんと来てくれないかしら。ちょっと頼みたいことがおきたのよ。用件はそれだけ。じゃあお休みなさい』
 携帯から漏れ聞こえた声は美坂のものだったが夕方に別れたとき以上に弱々しい声に浩平は何がおきたのか、少し気になった。
「また、なにやったんだか、なぁ茜―――茜さん?」
目の前にいる茜は非常に冷たい視線をしていた。鉄道警察に捕まる痴漢を見るような目、または屠殺される豚を見るような目とも言うのか、その瞳には深い闇が広がるだけでいくら覗いても表情がなかった。
「もう、しりません」
そう言って、茜は突如ちゃぶ台を片付けはじめ、浩平が呆然としている間に布団を引いて横になってしまった。
「あ、茜さん。ねぇ、それ俺の布団、それにコレ、硬くなったままでどうしろっての」
「自分で処理してください」
それが当たり前だ―――そう言うような物言いをしながら、掛け布団と引き布団の隙間から自分が着ていた衣服を外に出す。着の身着のままでは五月の半ばは少々寝づらかったらしい。
「寝ないでよ。布団返してよ!」
浩平の言葉は茜の心には届かなかった。
 
 
 三日後、大学が終わったあとに予算調達企画室の室長室を訪れた浩平は、自身の権限について書かれた書面に目を通すとそれに何くわぬ顔で、自身が同盟所属で参加するサークルにかんして人事権を握る、という一文を付け加え、久瀬室長代理と二、三会話を交わして秋葉原近郊で同盟が主催する即売会に同盟系サークル部門の総責任者として参加することを承諾した。
 
 
 先週とは違い、土砂降りの中を浩平は喫茶店JSBへ向かった。美坂の指定通り茜も一緒に来てもらっている。
 美坂の用件がなんであるかわからないが、内容次第では、“今度こそ”断ろうと浩平は胸に熱い決心を秘め店の門を開いた。
「お、若人達が来たぞ」
「こんちわ、マスター相変わらずはやっていませんね」
浩平にそう言われて、ムッとした表情のマスターが言い返せば大人子供の口げんかに発展するのがこの店の伝統だが、今日は浩平の後ろに茜がいたため伝統の一戦は成立しなかった。
「浩平はいつもこうやって、マスターさんに迷惑をかけているんですか」
いつもの能面に、少しだけ怒気を含ませた表情で浩平の右頬を思いっきりつね上げる。茜の技の一つである。頬をつねられた浩平は全身を使って攻撃中止を訴えるが、頬がつねられているため満足な発声ができず、ふがふがと口からまぬけな空気漏れの音が店内に響くだけだった。
 
「で、あの女傑がへこむような事態が発生したんでお前らは待ち合わせ場所に、修羅場になっても気兼ねなく話を進められるようにと、うちの店を指定した……これでいいか」
茜執行の私刑が終わり、浩平と茜は窓際の一角に位置する四人席に座りマスターに話を整理して伝えた。
「ええ……」
しきりに右の頬をなでる浩平と、メニューを広げて目を左右往来させている茜の二人が並んで座り、その正面に座るのが、土砂降りで外が暗いにも関わらずサングラスを外さない、マスターである。
「しっかし、あの女傑とか鬼女とか呼ばれてもおかしくないような女がへこむ事態かぁ……女性ストーカーにでも追われて困っているとか」
「それ、シャレになりません」
さらりととんでもないことを言うマスターに茜が返答した。
 茜自信は美坂とそれほど親しくしたことはないが知人と言える程度の交友関係にはあった。
 茜の主観で見た美坂は、並の男以上に剛胆で切れ者であるがその下には女性らしさがあった。浩平伝いで聞いた話では、キャンパス内で別の学科の女性に下心をむき出しにして迫ってきた男を、見苦しいからという理由で顎の間接を外して撃退したなどと、信憑性の低い逸話もあるくらいだが、誰もその行為を否定しないと言うことは彼女がそれだけのことをする人物であることを示していた。
「それにしても、遅いな。美坂さんの言った時間をとうに過ぎているぞ」
「きっと、雨のせいで遅れているのでしょう」
「だといいが」
それから五分もしないうちに、店の扉が開いた。店に入ってきたのは、うす茶色のパンツスーツの裾を少々濡らした美坂と、黄色いビニール製の―――小学生が着るような―――レインコートを着た見知らぬ少女だった。
「美坂さん、遅かったですね」
浩平が嫌みを多分に含んだ言葉を投げかけたが、美坂はそれに対し適当な相づちを打っただけだった。その目は充血してギラギラし、濃いクマがかえってそれを際立たせる。寝不足なのか足下がおぼつかず、幽鬼という表現がここまでピッタリと当てはまる状態の人間も珍しい。
「美坂さん、大丈夫なんですか?」
「ああ、折原君?私ね、いますごい幸せなのよ」
「は?」
浩平の口からでた間抜けな声が、マスターと茜の気持ちを代弁していた。どう考えても、幽鬼のような状態の人物が言うセリフではない。
 この中で一番の年長者であるマスターがよく分からない状況を整理するため美坂に、その子のレインコートを脱がせて適当な席に座ってろ、と言った後、店員の玲に救援を求めて厨房に引っ込んだ。
「繭ちゃん。レインコート脱ぎ脱ぎしようねぇ〜」
普段の美坂香里を知っている人間なら、彼女のネコなで声を聞いた瞬間、背筋に悪寒が走るだろう。浩平もこの声を聞いた瞬間背中に寒気が走った。隣の茜も、ひきつったまま微動だにしない。
「浩平、私、とても恐い音を聞きました」
「安心しろ、俺も恐い」
どこがどう安心できるのかは分からないが、一人で恐怖に耐えるよりは二人で耐えた方がまだ楽だろう。
「繭ちゃん、こっちこっち」
美坂は手招きして、浩平達が座る座席へ繭と呼ばれた人物を誘う。
 繭と呼ばれた人物の服装は、薄茶色のサマーセーターにうす茶色のキュロットスカート、黒色のオーバーニーソックスに茶色い革靴だった。髪型がショートカットのためか、発育途上の体つきのためか、線の細い少年のように見えなくもない。
「……ぁぅ」
浩平達に怯えているのか、おそるおそる美坂の座っている席に近づいてきて、すぐさま美坂の隣にへばりついた。美坂はそう言った繭の仕草がかわいくてかわいくて仕方ないのか、恍惚とした表情をしている。
「あの、美坂さん?色々あってついに狂いましたか?」
「浩平、狂人あいてに今更狂ったも狂わないも無いと思うんですが」
二人がかなり酷いことを言っているのに、美坂は相変わらず表情筋の限界に挑戦するような笑みを浮かべている。普段の彼女を知っている浩平達はこの場にいるのがすでに苦痛だった。
「馬鹿夫婦に紹介するわ。この可愛い女の子は椎名繭ちゃん。私の会社の上司の娘さんで十六歳、ちょっと都合があって私の家に住んでいるんだけど……」
そんなことを言いながらも、自身の脚の上に置いてある繭の手の甲をいやらしい手付けで撫でている。
「美坂さんやめてくださぃ」
このとき繭と呼ばれた少女が初めて声を出したが、本来は美しいソプラノだと思われる声は弱々しくかすかに震えていた。
「セクハラもその辺にしとけ」
浩平が美坂の行為を止めるか止めないか迷っていたときに厨房からマスターが戻ってきた。左手にはクリームとフルーツ、アーモンドなどで綺麗にデコレーションされたプリンの乗った皿を持っている。
「あら、セクハラだなんて。これはコミュニケーションよ」
「近頃のガキはどうしてこうひん曲がってんだか……美坂だったな、お前がどう思おうとこの嬢ちゃんは怯えて、俺にもわかるほど震えていたぞ。俺からわかるほどに嬢ちゃんが可愛いからって、そんなにかまってばっかいると接触恐怖症にでもなっちまうだろうが……ったく」
マスターは一気にまくし立てたあと、左手に持っていた皿を繭の前に静かに置いた。
「嬢ちゃんの口に合うかどうかわからないが、うちの玲が作ったプリン・ア・ラ・モードだ。まぁ、食べてくれ。もう少し経ったら持ってくるが飲み物はなにがいい?」
「ミルクたっぷりコーヒー」
「わかったイイの淹れてくる―――浩平、話なら個室使ってやれ。その狂眼が毎度毎度セクハラしていたら話が進まないぞ」
そう言って、マスターは再び厨房に戻っていく。
「美坂さん、マスターの提案に俺は賛成です」
「私もです」
「……わかったわ」
浩平と茜の二人に押され美坂は名残惜しそうに繭の隣から離れる。繭はマスターの持ってきたプリンをどこから攻め崩すか夢中になっており、美坂の方など見ていない。
「マスター、個室にコーヒー三つ」
浩平が厨房に向かってそう言った。そのときマスターは、カスタードクリームをホイップするのに忙しくて返事をしていられなかったので、代わりに玲が返事をした。
 
 
「繭ちゃんを二ヶ月ほど預かってほしいの」
美坂は個室でこう切り出しだ。
「預かるって……上司から預かっているのはあなたなんじゃないですか?」
当然の疑問だった。先ほど聞いた話では繭は美坂の上司の娘で、上司の都合で預かっているだけの関係ではなかったのか。
「私の上司、転勤族なのよ。今まで全国のあちこちを回って、当然繭ちゃんもそれについてあちこち周ったらしいんだけど、そのせいか繭ちゃんこの歳になっても友達が一人もいなかったらしいの……上司もいい加減娘をそう言う目に遭わせるのがかわいそうになってきたらしくて、また転勤する際に私に預けたいって言ってそれで色々話し合って、先週私が預かることになったんだけど今度は私が来週から二ヶ月近く出張することになっちゃって……」
そこまで言って浩平の顔を見る。明らかに出張そのものが浩平に関係するように揶揄していた。
 そういう美坂の行動を見て、茜は浩平に吐き出させた情報を元に考えてみる。
 美坂の出張先は、おそらく秋葉原だろう。これがおそらく正しい。
 二ヶ月という期間は浩平が秋葉原近くで即売会を開くまでの準備期間に近いものがあるし、何より間接的にとはいえその話を浩平に持ってきた人物が美坂だ。関係していると思うのが自然だろう。
「美坂さん、浩平はこれから貴女のせいで私以外のことに時間を割かねばなりません。この上さらに時間を割かねばならないことを増やすつもりですか?」
「あら、可愛い繭ちゃんに折原君が盗られちゃうとでも思っているの?」
鬼気迫る茜の詰問に対し美坂は軽く流し、さらに茜を挑発した。
「浩平はロリコンではありません。私のふくよかな胸が大好きで飽きもせずさわってきます。あの繭とかいう娘の貧相な肉体では誘惑すら出来ないでしょう」
さりげなく惚気ているあたりが茜らしいな。と浩平は思っていたが、さりげなく自分の性癖について暴露されている事に関しては現実逃避をすることにした。
「まぁ、折原君は巨乳好きなんだ」
「人の性癖なんてどうでもいいんじゃありませんか」
不毛な言い争いに早々と我慢の限界が来た浩平が言う。
「人に預かれ言うくらいなら金銭的問題はオールグリーンなんでしょ?」
また変な方向に逸れると困るので早々と現実的な話題を持ち出す。金銭的な問題はしっかりさせておかないと、あとでこじれた時にひどい目にあう。親しい中でもなぁなぁで済ませてはいけない問題だ。ドブさらいはゴミがたまってからでは遅いのだ。
「そうね、上司からは十分な額の振り込みがされているし定期報告さえ私がいれれば問題ないわ」
はたしてそうだろうか、この女は人が聞きたいことを故意に黙っていることがある。何度か苦い経験のある浩平は美坂を完全に信じ切れない。
 悶々とした気分に浩平が浸っているとき、玲が三人分のコーヒーをもってやってきた。
「ブレンドです」
礼儀正しく模範的な店員として浩平の中では位置づけられている玲は、見るものが素直にありがとうと言えるような笑顔で接客している。それを客に仮面と感じさせないのはひとえにマスターの働きがある。
「ねぇあなた」
個室から出ていこうとする玲に、美坂は声をかけ呼び止める。
「ハイ」
返事一つで玲は止まった。そして美坂の行動に浩平と茜の思考も止まった。
「あなた……女性?あんまりにも胸無いけど」
そう言いながら、玲のエプロンの上らか胸にタッチし軽くもんだ。
 
 
「どうだ嬢ちゃん美味いか?」
マスターはそう言って、繭の左側に『ミルクたっぷりコーヒー』を音をたてずに置いた。
「うん、おいしい」
「そうかそうか」
繭の反応を聞いたマスターは、ニィッと悪ガキのような笑みを浮かべた。
「嬢ちゃん今あのくるくるパーマの家に住んでいるんだろ?」
くるくるパーマとは美坂のことである。さすがに被保護者的立場にいる繭の前で、女傑だの鬼女だの言うわけにはいかない。
「うん!」
繭は元気よく返事をした。くるくるパーマとは誰のことかわかっているらしい。
「……なんか変なことされなかったか?」
我ながら表現が曖昧だな、とマスターは思ったが『変なこと』の定義が人それぞれなので、自分が変に思っておる事が繭にとってはあたりまえなのかもしれない。
「美坂さんはよくしてくれるよ。ただ、一緒にお風呂はいるとき、体くらい自分で洗わせてほしいな」
げー、あのアマいたいけな子供になんつー事を、あとできっちり絞めてやる。
 マスターがそう言うことを密かに決心したとき、多少の怒鳴り合い程度では外に音が漏れることのないはずの個室から、玲の悲鳴が聞こえた。
「あのあま、うちの玲に手を出すとはいい度胸してやがる」
さきほど繭から聞いた情報で『美坂=貧乳好きの同性愛者』という危険な方程式が出来てしまったマスターは、その個室には浩平と茜がいるからそういう事態には発展しないという理論的な考え方が出来なくなっていた。
「玲、大丈夫か?」
個室に飛び込んだマスターが見たものは、拳を構えて激しく息をしている玲だった。それ以外に席に座ったまま呆然としている浩平と茜、玲の肩から奥を観察するとおそらく壁に後頭部でも打ち付けたのだろう、椅子に腰をかけ壁に寄りかかって気絶している美坂がいた。
 その光景から中でなにが起こったのか大体察したマスターは玲の左肩を二、三叩いてこう言った。
「玲、セクハラに対して即座に武力で応酬するのは俺は賛成できんぞ」
 
 
 個室から浩平とマスターによって引っ張り出された美坂は厨房に置いてある腫れ薬で繭から手当てを受けている最中に意識が戻り、後遺症もタンコブ以外はないようなので今回起こったことに対してマスターがまとめをはじめた。
「―――セクハラパーマは玲の胸を触るだけでなく激しく揉み、その結果悲鳴をあげた玲にボディブローを喰らい後ろによろけて壁に頭を強打して気絶……それでいいか、折原とその妻」
「私達まだ入籍していません」
そうだったな、とマスターは適当に相槌をうって、先ほどから自分の胸で泣いている玲に視線を落とす。
「はぁ、これじゃ仕事にならんわ。折原夫妻、嬢ちゃんとそのセクハラパーマをつれて今日は帰ってくれ」
マスターの提案はこの現状を踏まえては仕方のないように思えた。従業員は美坂のセクハラで子供のように泣いているし、セクハラをした美坂も椅子に体を預け強打した繭に薬を塗られている。
「嬢ちゃんを預かったはいいが自分も出張しなければいけなくなったので、自分の知人の中で一番安全性の高い折原に預けようと思ってこの店に呼び出した、ってことか?」
「ああ、おおむねそのとおりだよ。美坂さんの事情はわかるけど、俺には無理だよ」
浩平の表情からはさまざまな感情が入り混じっているのがうかがえた。
 無理もないわな、まだ二十年しか生きていない坊主じゃどうしていいかわからんだろ。マスターは頭の中でそう思った後、本来の問題の中心にいる繭に、もっとも簡単な解決法を言った。
「嬢ちゃん一人じゃ暮らせないか?」
マスターの問いかけに繭は頭を左右に振った。
 マスターにはこの繭という女の子の境遇はわからない。だが、この娘には玲と同じような感じがした。この子を助けなくては、と心は言っている。しかしそれはまったく根拠のない感情だ。根拠のない感情を満たすためには、繭という女の子が安心して暮らすための家が、物質的な意味でなく精神的な意味での家が必要だ。
 俺にはそれが用意できる、マスターはそうは思ったが当然ながら現保護者の美坂を納得させなければいけない。そのための手段として一番確実なのは直接親に話をつけることだが……。
 そう思ったマスターは、ズボンの右ポケットから薄い免許証入れを取り出し、名詞を一枚一枚見ていった。五枚目に目を通すと再びそれをポケットの中にしまい美坂にたずねた。
「この嬢ちゃんの名前は椎名繭だよな?」
マスターは確認の意味でそれを聞いた。
「ええ、椎名繭ちゃんよ」
それを聞いたマスターは、座席に座っている繭の視線と同じ高さになるようにしゃがむと、眉に向かってやさしい声でしゃべった。
「嬢ちゃん、ここで暮らしてみるか?」
一音一音、薄氷を踏むような想いで言った言葉に、今度は繭も頷いた。
「ちょっとまちなさいよ」
そういって美坂は座っていた椅子から身を乗り出す。
「何の信用もないような人間に繭ちゃんを預けるわけないでしょ?」
頭のこぶが痛むのか時々顔をしかめながら美坂は話した。
「じゃあ、あんたは何で折原に嬢ちゃんを預けようとしたんだ?」
「誠実だし、里村さんの尻に引かれているし、そこそこ信用もできるし」
「折原、おまえ俺の保証人になってもらえるか?」
目の前のグラサン男の暴言に美坂の頭に一気に血が上る。発作的に拳を繰り出しそうになるが、サングラスのおくから見えるほの暗い虹彩の輝きに気圧された。
「あんたの上司が嬢ちゃんの父親なんだろ?携帯でも何でも電話してみな。喫茶店JSBの橘が預かる、って言えば二つ返事で頷いてくれるさ」
その言葉を鼻で笑って否定しようとした美坂だが、無理を言っているのは自分の方なので電話をしてみる。
「マスターあんなこと言って大丈夫なんですか?」
だんだんと責任を感じた浩平はマスターに話しが通るかどうか聞いてみた。今回の事は全面的に美坂が悪い、そうはわかっていてもなにか責任を感じてしまう。
「安心しろ、嬢ちゃんの親父は先月の終わりにうちの市から越してったJSB常連の酒癖の悪いダンディなサラリーマンだ」
その客はいつも娘と妻のことをぼやいていた。内容を総括すれば、先妻の娘に対して継母が母親として接しないことが悩みらしい。
 最初こそ相手の話に対して相槌をうつだけだったが、だんだんと聞いているうちに自身の境遇に重なることもあり、その娘に軽く感情移入してお互いに深酒になるまで愚痴を言い合ったものだ。
「わかりました。ハイ―――貴方に預けますって、橘さん」
問題が解決したのに不機嫌な顔をして美坂は言った。
「じゃあ、荷物とか持ってきてくれ。細かいことはそのときにまた言うから」
そのときのマスターの笑顔は悪戯に成功した悪ガキのように邪悪だがどこか憎めない笑顔をしていた。
 
 
 結局その日は浩平、茜ともにくたびれもうけの日だった。JSBをさっさと後にして、自宅に帰ってきても何のやる気もおきない。
 あと二ヶ月弱しかない即売会への自分の準備もそれ以外の準備もほとんどできていない。本来ならば早急に準備しなければならないのだが―――。
「今日は寝よう」
その一言で一日のすべてが終わる。所詮人間は一つに向かって働き続ける働き蟻にはなれないのだった。