第九章「最後の日」

 仕事か、遊びか。こう問われて明瞭に答えられる同人作家は少ない。過去においてはいざ知らず、現在においては尚更だ。――
 折原浩平は人文学部における自身の草稿を流し読みしながら、ついつい同人のことに繋げて思考していた。
 ビジネスホテルの二人部屋の時計は夜の十時を示していて、相部屋の有彦はまだ帰って来ていない。手持ち無沙汰ゆえに始めた草稿のチェックだったが、様々なことを関連付けていくと、自然に没頭できた。
 しかし、緊張を保てる時間にも限度はある。その糸が緩み、二度目のあくびを出したとき、規格品の安っぽいドアをノックする者があった。それは有彦ではなく、隣に一人で部屋を取った茜だった。
 彼女は風呂上りらしく、いつもゆったりと一房に結わえてある髪を下ろし、片手には印刷用紙が何枚かあった。それを浩平に渡すと、茜は客室に設けられた給湯スペースでお茶を作り始めた。
 浩平は今まで目を通していた草稿を愛用の鞄に突っ込むと、茜の持ってきた用紙に目を落とす。内容は各地で散発的に開催されている即売会の簡単な結果報告で、不要ではないものの、必要といえる程のものでもない。何か口頭で言わなければならないような事案があるのだろうかと、浩平は椅子を机の反対側に向けた。
「本命の用事はこれか、それともお茶か。どっちだ」
「どちらでもないかもしれませんよ」
「一緒に寝たいってこと?」
「寝言は寝てから言ってください」
「寝たら致せるものも致せないじゃないか」
 浩平の言葉を茜は聞き流し、彼の分の茶を渡すと、自分は窓際のソファに腰掛けた。彼女がカップを口に当てながら、外を見遣る。浩平も彼女に倣った。
 見飽きた光景が広がっている。道やビルが夜の帳を押し上げるように光を放ち、そこかしこで何かが明滅していて、視界の一端を近くの神田ICに繋がる首都高の影が塗り潰している。
 大正の大震災ではこの近辺一帯が深刻な打撃を受けたが、それを覚えている者はほとんどいない。太平洋戦争時に空爆の避難民が溢れたことを知る者はいるだろうが、それにしたって多くの人間の関心事ではなくなっている。
 戦争を思い出すのは、戦争になってしまってからだ。なんとなく思いついた言葉を、浩平は手元のメモに残す。その仕草を、茜はどうということもなく細い目で眺めていた。
「何か皮肉ったことを考えているんでしょう?」
「どうしてさ」
「頬が引き攣ってますから」
 浩平は虫歯でも気にするように頬を撫でて、握っていたペンを机に放った。
「その観察眼から見て、乾さんはどうだ?」
「どうだと言われても……ただ、約束を破るような人ではないと思いますよ」
 それは何故かと問われる前に、茜は有彦が自分の髪型を気にする素振りや何かにつけて肩越しに後ろを見る仕草からそう思うのだと続けた。
「破りたくなくても破ってしまう人もいるだろ」
「守ってくれる人だというだけで十分です。浩平だってそうだったんですから」
 ああと唸りながら、浩平が頭を掻く。信頼とは何とこそばゆいものか! 彼はわざとらしく咳をしてから、紅茶の残りに口を付けた。冷めれば冷める程にうま味が増しているようだ。浩平はちらりと茜を見遣ってから、彼女には見られないよう気を付けながら照れ臭そうに笑った。
「わかった、変に勘繰らないようにするさ。あの人に任せないといけない仕事なのは確かなんだ」
 最初からこれが目的だったんだろうな。そう考えていると、茜が二杯目の紅茶をポットから注いでくれた。


  同日同刻・遠野同人商社

 最前線だ。――翡翠は秋葉がいる社長室に入る前に立ち止まり、首を鳴らした。後ろでは秘書課の者達が珍しく出張ってきた総帥に対して畏まりながら仕事をしていて、専ら実務の長である専務が定時に帰されたことを羨ましくも思っている余裕は無かった。
 三十階建ての本社ビルの地下では無数のサーバーマシンが音も無く動き、あらゆる取引を処理し、それらの最終的な決済を各階の人間が行っている。
 元々このビルの設備の大半は証券取引等のバックアップを行うために導入されたもので、その頃はまだ遠野同人商社本社ビルという名前ではなかった。それどころか、幾つかある同じような業務を行っている各地のビルの中では取引の総量と質において下位に位置していた。それを試験的にというにはあまりにも大規模な設備投資と業務転換によって、全国に流通している同人製品の先物取引の拠点にしたのが現総帥である秋葉だ。
 先代から下準備や根回しは行われていたようで、それがあってこそだとも言われているが、秋葉の強引ともいえる計画の立案と図に当てるための現状把握の巧みさは無視できるものではない。
 徹底的なリスクヘッジを毛嫌いする風潮は未だにあるものの、サークルと即売会の乱立によって混乱し易かった同人製品の流通を整備した功績は大きく、各ショップ間や業界内団体の連携が遅れている状況下も上手く利用した。
 結果としてそれまでの即売会は形骸化し、各サークルや団体(同盟成立前夜当時は帝国がその筆頭である)を再生産の基盤として、様々な改革に乗り出すことになる。そこまでのことを、秋葉の立案した計画はステージ・ワンの区切りまでにほぼ完璧に推察してあった。
 現在はステージ・スリーにまで歩みが進んでいる。これまでに帝国の改革は行き詰まり、対抗馬である同盟も掲げた看板に見合う業績をあげられなくなっている。この均衡を支える天秤こそが遠野同人商社だ。
 翡翠は何かと磨り減りがちな神経に雑多な正当性をあてがうと、いよいよドアを押し開く。彼女にとっての最前線はその中だった。

 社長室の中は情報の海だった。多種多様な形式のディスプレイの数々が壁際に雑然と並べられ、それらに映るものは社長用のデスクにあるパソコンで簡単に確認と切り替えを行えるようになっている。秋葉は一時的にあらゆる情報を停止させると、無言で翡翠に向き直った。
「気楽なものよね」
 彼女が顎で指した壁際には『行ってきます!』だの『帝都へ』だのと絵や文字で書かれたHTMLドキュメントが無数に表示されている。それらのサイトの管理者は、明日に迫った秋葉原即売会のサークル参加者だった。
「異常な事態というものは一部の者にではなく大多数の者によって故意に隠蔽されるものだ」
 半ば棒読みで翡翠が言う。珍しく断定的なことを口走った翡翠に、秋葉がくくと笑った。
「何それ?」
「ある学者の言葉です。陰謀論を大衆の噂の発生に関連付けた研究論文があります」
「異常な事態ねぇ……今の所、そういった情報は入ってないみたいだけど?」
「仰る通りです。ただし、今朝の時点では、ですが」
 途端に秋葉の眼が鋭くなる。翡翠はそれを目を伏せていなすと、失礼しますと断って秋葉のパソコンを操作した。
 壁際の景色が一変する。色とりどりのサイトの群れが全て同じものになり、それは実に簡素なページだった。『エデンの東』というのはサークル名だろうか。
「同盟が新設した第十三連合サークルの代表である折原浩平のサークルです。ここは複数の人間でサイトの管理を行っているらしく、今週の月曜日から折原浩平以外の者が日記を更新しています」
 翡翠がマウスを操作する度にページが切り替わり、該当する部分に至ってクリックする音が止んだ。
「このサークルは主に同人即売会や作品研究に関するものを作っているのですが、この重要な時期に秋葉原即売会で出品するはずの製品についての情報が少な過ぎます。日記の内容も日々の出来事を面白おかしく書くだけで、文体も柔和なものになっています」
「よくあることじゃないの? 最低限の情報以外は実際に製品を読まないとわからないことだってあるし、管理者の性格だって影響するもの」
「先程も言いましたように、同盟は第十三連合サークルを新設し、なおかつその長に同人業界ではこれといった功績の無い折原浩平を充てています。この急激かつ不自然な動きに連動するかのように、各地の即売会での秋葉原即売会についての事前頒布資料には開催日時やサークル配置以外のことが書かれていません。同盟にとっては久々の秋葉原即売会主催なのに、です」
 その資料には秋葉も目を通してある。また、今に翡翠が言ったことは全て秋葉の推測の範疇でもあり、彼女は冷めたコーヒーを飲みながら頬杖を突いている。
「更にここに、先程届いたフリーダムからの報告書が加わると……」
 翡翠が持参した件の報告書を秋葉に見せる。そこには折原浩平が月曜日から現地入りし、蠢動していることが書かれていて、それらの内容以上に目を引くのはマジックペンか何かで大きく余白に書かれた『これっきりだからな!』という文字だった。翡翠によればこの報告書はコンビニのFAXから送られたらしく、彼なりに苦労はしているようだった。
「フリーダムは今後、折原浩平の傍で志貴様の捜索及び調査を行うとのことです。怪しまれないよう、折原浩平個人の動きについての報告は差し控えるとも」
「要するに興味が移ったわけだ。その折原浩平に」
「そのようです」
 万が一にでも秋葉原の主導権が同盟側に移るようなことがあった場合、市場は混乱するだろう。もしそうなったとしても早期に収拾できるようにしておかなければならない。
「やっぱり、こっちに出張って正解だったわ」
「はあ?」
 最前線よ。――秋葉の言葉に、翡翠が頷いた。


  ******

 酒は苦手だ。岩切は誰にということもなく呟くと、コンビニで買ったミネラルウォーターを呷った。御堂はまだ飲んでいるのだろうか。彼とはつい先程まで、秋葉原商工会の飲み会で席を共にしていた。
 いつもなら岩切は参加をパスするような飲み会なのだが、大志に頼まれた事案についてこれといった情報を仕入れられずにいたから、自棄酒もたまには良いだろうという気楽さで参加したのだった。
 飲み会は夜の七時に始まり、岩切は十時に三件目の店に移動する段になって商工会の輪から抜けた。思いもよらず情報が手に入ったからだ。すぐにでも大志に連絡を取ろうとしたが、生憎と携帯電話は電池が切れてしまっていた。
 充電器は沿線近くの自宅に置いたままだったし、帰宅するまでの時間を考えると大志の仮住まいしている部屋に向かうのが賢明のように思えたのだが、それが失敗だった。
 件の部屋があるアパートは御茶ノ水にあり、直線距離では電車よりも歩くのが近い。普段の岩切なら三十分もあれば到着できる距離だったのだが、思った以上に酒の影響が酷かった。
「ちっ、あの連中は浮かれ過ぎだ」
 忌々しげに吐き捨てても、身体のだるさと胃腸の痺れはいかんともし難い。この状態では御茶ノ水の坂は些かきつかった。
 今日の飲み会は一次会からやたらとハイテンションで、ちゃんぽん上等の大宴会と化した。そのおかげで商工会とは仕事以外で馴染みの薄い岩切の耳にも情報が入ったわけだが、御堂という当て馬がいなければ今頃は飲み屋のトイレに頭を突っ込んでいる所だ。
 後十分も行けば目的地だったが、下手をすると着いた早々玄関先にゲロをぶちまけかねない。逸る気持ちを抑えて、岩切は道端の塀に背中を預けて座り込んだ。輸入品の細長い煙草を咥えて煙を吐き出すと、幾分か緊張が解れた。
 秋葉原と比べて緑の多いこの辺りは、夜になると一部の路地は暗闇に塗り潰される。そんな中だからこそ、初夏の空気と煙草はとても心地良かった。

 思えば遠くに来たものだ。普通の人生を歩んでいれば今頃は地蔵の頭を撫でような歳になっていたはずで、こうして身体を持て余すようなことも無くなっていたに違いない。
 目覚めた当初こそ戸惑いの全てを行動に移すことができたが、それも子供の癇癪と変わらないことに気が付いた。光岡や御堂、それに犬飼も同じだったようで、それぞれがそれぞれの思う所に従って解散した。
 犬飼以外の者に戸籍は無く、岩切は仕方無く世間の裏側に回った。今思えばそれは正解だったようで、何かと揉め事の多い世界では素性を気にされずに結果だけを求めてもらえた。いつしか東京に流れ着き、風俗を取り仕切っている団体のコネで秋葉原に来た。そこで犬飼と再会し、彼の事業に引き抜かれて現在に至っている。他の者も皆、似たようなものだとお互いに笑い合ったことをよく覚えている。
 そのとき、目覚めてから初めて涙を零した。

「あれから泣いてないな」
 思い出したように言う。泣きたくて泣く者もいないだろうがと鼻で笑って気持ちを誤魔化すと、そろそろ行こうかと腰を上げた。それを遮る者の接近に気付けなかったのは、岩切の最大の失態だった。
 目の前の闇の一部が、ハンマーの先端のような弧を描いて迫ってきた。
 坂を転がる要領で横に逃れ、瞬時に体勢を立て直す。
「ここら辺の路上は禁煙だ」
 とぼけた台詞を吐いた人物(声からして恐らくは男)が降り下ろした得物の先で、岩切が咥えていた煙草が潰れていた。煙草だけではない。その下の舗装された道路にもヒビが走り、中心では陥没まで起こっていた。
「何者だ。警察にしては乱暴過ぎる」
「警察ってのは乱暴なものだと思うけどなぁ」
 マスク越しに襲撃者が笑う。そのマスクは目の辺りから額にかけてだけ白く染められていて、他は着ている服と同じように真っ黒だった。いや、服とはいえない。それは包帯のように身体に巻き付き、急所の数々にはプロテクターのようなものが付けられている。戦闘用の装備だ。
 岩切は唾を飲む。逃げるだけならば常人には追い付かれることが無い彼女だったが、今後のことを考えるとこの襲撃者が何者かということを知っておかなければ、またいつ襲われるかわからない。
 岩切は覚悟を決めると、思い切り自分の腹を殴った。目の部分だけが露出している男は、その目を丸くする。そうしている間に岩切は地面に跪くと、腹に溜まったものを吐き始めた。
「おいおい、本当にこいつで良いのかよ」
 強調された目元で、明らかな呆れを見せる。しかし、立ち上がった岩切を見て、彼は嬉しそうに目を細めた。
「私で良いんだろう?」
「ああ、そうみたいだな」
 胃の痺れが取れた岩切の目は、全盛期の凶眼に戻っていた。

 岩切は冷静に相手を観察する。いくら装備が充実していようと、岩切の常人を凌駕する生体兵器としての腕力をもろに受ければただでは済まない。問題は、襲撃者が両手で構えている、彼自身の身長にも及ぶ鉄筋のような鈍器だ。これもまた黒く染められていて、この状況下では距離感が掴み辛い。
 襲撃者の一撃必殺を如何にかわし、如何に無力化させるか。そこが勝負の肝であると言えた。疲れさせるのも手だが、余り派手なことになると近隣の住民が警察を呼んでしまう。それでは骨折り損のなんとやら。相手の目的はわからないが、ここはあえて短期決戦を挑む。

 戦闘の方針を決定し終えた岩切は、相手の攻撃を誘うように彼の目の前に飛び込んだ。肉薄させまいとする膝蹴りを両手で吸収し、飛び退く。その着地を狙って、襲撃者が得物を降り下ろした。
 地面が爆発したかのような音が鳴りコンクリートが宙に舞う。岩切は避けた先で破壊力が先程とは段違いであることを確認した。ここまでの威力となると、振り回されるだけでも十分な脅威だ。案の定、岩切を追うようにして獲物が横に薙がれる。
 タイミングを合わせて真上に飛ぶ。するとそれを見た襲撃者は小手を返し、今度は振り上げる。空中にいる岩切は無防備のはずだったが、慌てることなく姿勢を変え、凶器を鉄棒に見立てて思い切り遠くに飛んで着地した。
 多少痺れた両手の調子をみながら岩切が間合いを保つ。威力だけではなく、軽さもかなりのものだ。でなければ、人間が使えるような代物ではない。そう考えると、重さに頼れない以上は一時的に何らかの作用によって威力を倍加させているはずだが……。
 岩切が睨んでいると、襲撃者がまた笑った。どうやらふざけた性格の持ち主らしい。
「メイドロボがどうやって動いているか知ってるか?」
「当然。でなければ、この商売は勤まらん」
 襲撃者は満足気に頷く。岩切は警戒を解かないが、にも関わらず男は続けた。
「一時期は人工筋肉を使う案もあったようだが、費用対効果が見合わないということで結局は電荷を変動させることによって硬直及び軟化する触媒を利用することになった。現在使用されているものばかりに目を向ける者にはわからないことだが、ある時期のそれには特殊な作用があった」
「……重量の増加か」
「なんだ知ってたのか」
 男はちぇっとやけにふざけて言うと、身体のどこかにしまっていたらしい紙切れを取り出して、岩切に放り投げた。広げてみると、それはカンペであった。
「折角、ここに来るまでに丸暗記したのになぁ」
 この口調が素の彼らしい。
「ま、要するにその特性を利用したのがこれってわけだ」
 羽子板でも持っているかのように軽々と得物を弄ぶ。岩切はその隙を突こうとはせず、我慢強く間合いを保ち続ける。何かあるはずだという直感がそうさせていた。
「どうしてそんな種明かしをする?」
「俺の目的はこいつの使い勝手をモノにすることなんだ。もしあんたが俺の気付いていないこいつの欠点を見抜くようなことがあれば、大収穫ってわけだ」
「自分から欠点を求めるか。なるほど、得物の使い方をよくわかっている」
「俺の一番の得物はこいつじゃないけどな」
 男が岩切を舐めるような視線で見る。岩切は持っていた紙切れを握り潰した。
「一つ言っておく」
「んー?」
「私は下品な物言いが大嫌いなんだ」
 岩切の周りの暗闇が彼女を中心にしてざわめいたように男には感じられた。直後、その暗闇と共に岩切が目の前にいた。
 超至近。これ程の速さとは。男が後悔している途中、彼の顎に岩切の頭突きが入る。
 よろめいている所に回し蹴り。今度は顎ではなく、胸元の急所。これで一時的に呼吸が止まった。男は空気を求めるように得物を振り回す。岩切がそれを紙一重で避けたとき、火薬の音が鳴り響いた。
 鉄筋状の物体は二重構造で、火薬によって弾き出された中身が伸び、およそ二倍の距離まで瞬時に射程を広げる。それを岩切はかわすことができなかった。
 肩に痛烈な痛みが走り、鎖骨にヒビが入ったことはすぐに知れた。もんどりを打ちながらもなんとか後ろに転がる。その際に後頭部を地面に叩いてしまったが、膝を着いた状態で踏ん張ることができた。
 視界が揺らいでいる。それに伴い、落ち着いていた気持ち悪さが再びこみ上げてきた。肩には鈍い痛みが残っている。戦闘を続けられる状態ではなくなっていた。
 ただし、それは相手も同じだった。奥の手を用いた際の火薬の音を聞き付けた誰かが警察に通報したことは想像するに易く、襲撃者の立場に甘んじなければならない彼は得物を畳むと踵を返した。
「お互い、目的は達せられずに終わったみたいだな」
 そうだ、目的……大志に。
 岩切の意識はそこで飛んだ。


  ******

 八人乗りの大型バンの中に戻ると、健二はマスクを脱いだ。傍に控えていた者につい先程まで振っていた得物を渡し、ようやく一息吐けた。
「門限は過ぎてます」
「冗談キツイですよ、南さん」
 腕を組んで不満そうに後部座席に座っている牧村南も、健二と似たような格好をしている。この装備は着脱に時間がかかるため、即売会前日に付近の様子を警戒する際に付けると、翌日の夜まで着ているはめになる。
 彼女が不満なのはその窮屈さ故にではなく、健二の我儘の所為だった。
「まったく、こういうことはもっと前から準備をしないとデータ取りだって満足にできないんですからね」
 部下に危険なことをさせたくないという本心を語ろうとはしない。それは口にしなくても誰もが気付いている南の優しさだったが、誰かが口にした瞬間、甘えに繋がり兼ねない。誰よりも南自身がそう考えていた。
「すみませんでした。でも、明日は俺たちの本格的な初舞台です。少しでもチャンスがあれば、自分の限界を見極めるために使いたいんですよ」
 南は深い溜息を吐く。それから隣に座っていた控えの者に金を渡し、コンビニで何か買って来るように伝えた。
「南さんの奢りですか?」
「今日だけですよ」
 二人のやり取りを、助手席に座っていた川澄舞がにやりと笑う。彼女の足下には、牛丼特盛の空箱が二つ転がっていた。


  ******

 岩切が目覚める。そこにはかつて目覚めた場所のような薄暗さは無く、白い壁と、少しきついぐらいの陽光が入る病室だった。
 包帯で固定された肩を気遣いながら上体をベッドの上で慎重に起こし、据付時計に目を遣る。もう昼の十一時を回って久しいことがわかった。
「大志の役には立てなかったか」
 即売会はもう始まっている。残念なことだが、戸籍が無い以上はここでのんびりと傷を癒しながら反省しているわけにもいかない。幸いにも救急処置だけで済んだようだが、身体の異常さにいつ気付かれるかわかったものではない。
 しかし、思考から導かれる危機とは裏腹に、岩切には余裕があった。狭い病室には陽射しがあり、遠くを走る車の音も相俟って、ここが安らかな場所であることを実感させてくれる。
 じきに病室のドアがノックされる音があり、それによって岩切に思考が戻った。先ずは様子を見て、その上で脱出をするかどうか決めるべきだ。下手を打てば、警察に届け出られる可能性もある。岩切はそこまでを考えてから、どうぞと声を上げた。
 入って来たのは大志だった。彼の登場は岩切にとって予想だにしない事態だ。
「即売会はどうした?」
「うむ、同志から一度も連絡が無かったのでな」
「連絡が無かったぐらいで仕事を放ってきたのか」
「誤解をしないでくれたまえ。私はすべき仕事はすべてやったのだ。それに、成功したにせよ失敗したにせよ、律儀な同志が前日まで一度も連絡が無いのはおかしい。電話をかけても繋がらない。これはと思い、店に顔を出そう向かう途中で倒れている同志を発見したのだ」
 そのときの状況はかなり切迫していたらしく、救急車に運び込まれようとしている岩切に近寄り、救急隊員に知り合いであることと、持病があるからかかりつけの医者に向かってくれというデマを咄嗟に吐いたとのことだった。
 それを聞いた岩切は素直に頭を下げた。
「まさか私に戸籍が無いことを知っていたとはな」
「我輩も直感や心象だけで信用はしないのだ。悪いとは思ったが、頼る相手の素性は調べさせてもらっている。もっとも、戸籍が無いということ以外はほとんどわからなかったが……」
 大志は言葉を濁らせる。それが本当は岩切の身体のことを知っているからなのかどうかは彼女自身にはわからなかった。
「おお、そうだ」
 重い空気を振り払うように、大志が手を叩く。見舞いでも持ってきたのかと岩切が問うと、そんな暇は無かったと答えた。
「戸籍の件なのだが、顔が利くとはいえ流石に限度はある。救急車まで出張ってしまったからな。この病院の主にもあまり迷惑をかけられないのだ」
「……そうか」
 となると、残る手段はこの街を去るしか無い。大志が手を回してくれたとはいえ、それゆえに病院から抜け出せば彼自身にも迷惑がかかってしまう。犬飼や他の仲間達に対しても、面目というものがあった。
 また野良犬生活か。岩切が薄い掛け布団を握り締めるのを、大志は見逃さなかった。
「心配しなくて良い。それは既に解決済みなのだよ、同志岩切」
 そう言って、大志はスーツの内ポケットから紙を取り出し、岩切に見せた。
 戸籍抄本。岩切にはとんと縁の無いものだったが、縦書きの字を目で追っていく。すると、その表情がみるみると驚きのものに変わって行った。
 抄本の写しには、九品仏大志の籍に『イワ』が入ったことが書かれていた。『イワ』は間違いなく、岩切のことだ。
「色々と手は尽くしたが、最終的にはこうするしか無かったのだ。もし気に入らなければ、後で籍を抜いてもらって構わない」
 裏で売りに出されている戸籍を使用する際、一般に事件性を感じさせないためには戸籍のしっかりした誰かと婚姻関係を結ぶのが何よりだ。岩切はこの手の仕事を任されたこともあったが、まさか自分がこうなるとは思ってもみなかった。
「いや、いい」
 岩切は陽射しが眩しい振りをして目を伏せる。泣いているのだろうか。大志が疑問を持った頃に、岩切の表情が変わった。
「今となってからで悪いが、例の件について大事な話がある」
「今さっきまでのことが一般的には何より大事なことだと思うのだが?」
「まぁ、聞け。――いや、聞いてください。旦那様」
 瞬間、大志に衝撃が走った。
 旦那様。
 幻聴だ。夢だ。電波だ。
 その言葉が女性から発せられる状況もありえないが、あの堅物然とした岩切からそんな単語が出るのはもっとありえない。
 岩切にしてみれば夫となった相手に対しての最低限の礼儀のつもりだったのだが、そんなことは大志の知ったことではない。
 平時ならば妄想の中で呼ばれるしかない単語をステレオ音声で聴いてしまった大志は、一頻り動揺と咳払いをしてようやく立ち直った。
「すまないが、できるだけこれまで通りの話し方をしてもらえないだろうか」
「わかった。ならば……呼び方は旦那で統一することにしよう」
「うむ、それなら大丈夫だ」
 彼の大丈夫はじきに崩壊することになる。岩切の報告を聞いた大志は、足早に病室を出た。
 大志は携帯電話を取り出すと、逸早く対応できそうな矢島に電話をかけた。ただし、期待をしているわけではない。
 もし報告通りの展開になった場合、帝国は負ける。最低限の義理立てはしておくべきだった。