×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 
 雪が降るのが嬉しくなくなったのはいつの頃からだっただろうか。
 
 小さい頃はテレビの天気予報で雪が降ることを知っただけで、その日はなかなか寝付けなかった。
 
 それも大きくなってくると雪が邪魔に思えるようになってきた。
 学校に行くのが大変になる。靴も買い換えないといけない。冷たいのが嫌だ。
 
 それは、雪が降ったら嬉しい、と感じることが減ったためだろう。今は子供のように雪合戦なんてできない。服がビシャビシャになるまで遊ぶこともできない。かまくらにだって体が大きくて入れない。
 
 季節毎の楽しみが減るというのは、大人になることなんだと思う。けど、そんな大人にはなりたくなかった。だけども、現にこうして雪が降るのを嫌がっている自分がいた。
 
 では自分は何になれば良いのだろう……?
 
 
 
   降雪記念/KANON(KEY)/舞/SS……EMBRYO(胚)
 
 
 
『―――以上、天気予報でした』
「まぁ、明日から本格的に降るようですね」
 ここは水瀬家の茶の間だ。俺こと相沢祐一、いとこの水瀬名雪、それにその母親である秋子さんとで毎週見ているドラマを見終わった後に始まった天気予報。それは十二月になっての本格的な冬の到来と、降雪予報だった。
「わ……まだ冬用の靴、買ってないよ」
「…お前、それくらいやっておけ」
 とても北国の人間とは思えない準備のいい加減さに、俺はつい突っ込みを入れてしまった。
「そういう祐一だってまだ買ってないよ〜」
「男たるもの長靴で十分だ。山○六平太だってそうだろうが」
「祐一、漫画の趣味がオジサン臭いよ…」
 俺の冗談の相手を一々する名雪の脳みその辞書には無視という単語が無いらしい。おかげで俺は退屈しないで済むからありがたいが。
「それより名雪、そろそろ寝ないと明日が辛いわよ」
 秋子さんに言われて、時計を見た名雪は、わっ、という言葉を上げてから寝る前の挨拶をして二階にある自分の部屋に向かっていった。俺も時計を確認すると、まだ十時だった。
「おいおい、あいつは本当に高校生か?」
 思わずそんな台詞が口から出てしまう。だってそうだろう?夜の十時といえば、学生の数少ない娯楽の時間の最中だ。おまけに明日は学校は休み。それをあいつは棒に振ってまで寝るというのだから。もっとも、俺としては朝に弱い名雪が早く寝てくれるのに超したことはない。
「そう言わないでやってください。最近は期末試験で遅くまで起きてましたから。生活のリズムを元に戻してもらえるだけ、私は気が楽ですよ」
 母親らしい気持ちを言葉にする秋子さん。そういう秋子さんはといえば、俺が寝るまで起きているし、俺が起きる前には起きているという、いつ寝てるのだか知れない生活をしている。亡くなった旦那さんに関白宣言でも歌われたのだろうか。
「……秋子さん、いつ寝てるんですか?」
 疑問をそのまま口にしてみた。
「普段」
 実に簡潔でわかりづらい返答が秋子さんらしかった。
 
 
「それじゃ、俺は寝ます。秋子さん、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい、祐一さん」
 夜の十一時を過ぎたので自分の部屋に行く。ここに居候する前、つまり実家にいた頃は午前二時頃まで深夜テレビを見ていたものだが、そこは居候の身。この家の生活に合わせる。秋子さんは「もっと自由に生活してくれると家族らしくて良いんですけど」と以前に言ってくれたものの、やはりある程度の礼儀は持つべきだし、かといって自分用のテレビを買って自室で見るほど見たいものではない。
 廊下と階段の冷たい感触を足の裏で感じながら自室へと向かう。階段を昇り終えるて名雪の部屋のドアを見ると、既に光も漏れていない。もう夢でも見始めている頃合いだろう。意識して足音を忍ばせてみたが、足音程度で起きる奴でもないことに気がついて、苦笑した。
 自室の扉を開けて中に入る。入り口脇にある電灯のスイッチを入れると、見事に散らかった部屋の中の様子がわかる。今日まで続いた今年最後の期末試験で、連日教科書やノートをひっくり返した名残りだ。特に机の周りがひどい有り様だ。シャーペンや消しゴムのカス。息抜きだと称して読んだ漫画。普段は滅多に使わない赤ペンなども転がっている。
「とりあえず、片付けないとな……」
 休みの日の前日に片づけるか、それとも休みの日に片づけるか。それは個人の性格にもよるのだろうが、俺は休みの日は遊びたいので前者を選んだ。
 夕飯前にゴミなどは片づけたが、本の類は面倒くさいので後回しにしてあった。
「教科書は上の棚〜、漫画は下の棚〜、エロ本はベッドの下〜、これがお約束〜♪」
 期末試験が終わった喜びからだろうか、思いついた単語を並べた歌を歌いながら本を片づけていく。二十分もしない内にあらかた片付いてしまい、残るは机の上だけとなった。
「あれ?」
 思わず声が出た。机の上の片づけに取り掛かり、ノートを片づけていると写真が見つかったのだ。秋に、舞と佐祐理さんとで落ち葉拾いに出かけた際のものだ。写真には俺と佐祐理さんが写っている。
「ということは――」
 あることを思い出した俺は今まで片づけていたのとは反対側の本を片す。
 やはりあった。今度は俺と舞が写った写真だ。それにもう二枚、舞と佐祐理さん、そして三人一緒に撮ったものが見つかる。どうやら、机の上に置いておいたまま期末試験の準備を始めてしまったらしい。俺は片づけもそこそこにして(どうせほとんど終わっているのだ)、見つけた計四枚の写真を椅子に座ってゆっくりと眺めてみることにした。
 
 
 舞こと川澄舞は、現在フリーターをやっている。大学に行くお金があったら貯める、と言って進学しなかったのだ。元々進路を適当に決めていたらしく(まぁ、あのような状況下では仕方ないか)就職はできなかった。ウチの学校もどちらかというと進学校の部類なので地元の企業への口が効かなかったのも要因の一つだ。
 舞の奴がなんで金を貯める必要があるのかは、俺にも責任がある。
 
「俺が高校を出たら、俺と舞と佐祐理さんの三人で一緒に暮らす」
 
 あの不器用で馬鹿正直の舞は、俺が提案したその計画を真剣に受け止めているのだ。もっとも、俺も全くの冗談で言ったことでもなかったから、舞の進路については何も口を挟まなかった。
 今は地元のデパートの駐車場で誘導員をやっている。そのバイトにした理由が「棒を振っていると落ち着く」という実に馬鹿げたものではあったが、馬鹿な舞には合っているな、と本人の前で納得したらいつものチョップで突っ込まれた。チョップというより手刀に近かったのが痛みと共に忘れられない。勤め始めて半年以上が経った今でも働いている。つい先日、来年から正式な社員として働かないかと主任に言われたらしいから、意外と真面目に働いているのかもしれない。一度、佐祐理さんとで買い物がてらに陣中見舞いに行ったら、照れ隠しだったのだろう、持っている誘導用の棒で剣道で言う『面』を食らったのが痛みと共に忘れられない…って、俺、こんなことばかりだな。
 
 もう一方の佐祐理さんこと倉田佐祐理はというと、舞が働くことを知った途端に「あ〜、それじゃあ私だけ大学行くのもなんですよね〜」などと言って進学を取りやめそうになったところを、俺と舞とで必死に説得した。舞はあまり役に立ってなかったのは忘却しよう。それでも、レベルの高い遠くの大学に進学しなかったあたりが俺達の説得の限界だった。佐祐理さんの模試などの成績ならば大学も選り取りみどりだっただけに当時は残念だったのだが、こうして写真に写っているように楽しそうに笑っている彼女を見ているとそれは余計なお世話だと思えてくる。
 
「祐一ぃ、何の写真見てるの〜?」
 どこからか名雪みたいな声がしてくる。はて、俺の思い出の中に名雪は登場してないはずだが。
「祐一ぃ、無視しないでよぉ」
 期末試験の所為で疲れているのだろうか、幻聴が聞こえる。
「祐一……わざとでしょ」
「ばれたか」
 手元の写真から視線を上げると、カエル柄のパジャマの上に、これまたカエル柄の半纏を羽織り、寝ぼけ眼を手で擦っている名雪が立っていた。
「あれ、お前寝てたんじゃないのか?」
 そうだ、自室に来るときに名雪の部屋のドアを確認したとき、既に明かりは消えていたのだ。
「昨日まで遅くまで起きてたからなかなか寝付けなかったし、祐一の部屋からはガタガタ物音がするし、それが止んだと思ったら今度は独り言が聞こえるし……とてもじゃないけど寝れないよ」
 どうやら、ところどころ思い出しながら声に出していたらしい。困った癖だ。
「ふむ、大きな音よりも、聞こえるか聞こえないかの音がより人間の気に障るというのは本当らしいな。今度の学会で報告しよう」
「ウチの学校に学会なんてないよぉ……」
 それ以前に、そんなくだらない報告がされる学会を俺は聞いたことが無いぞ。
「それで、何の写真見てたの?」
「舞と佐祐理さんとで秋に行った落ち葉拾いのやつ。お前も見るか?」
 うん、と言って俺の手から写真を受け取ると、名雪は側のベッドに腰掛けてからそれを見始めた。
「わ〜、川澄先輩ってやっぱり綺麗だねぇ」
「当たり前堕のクラッシュダウンだ。なんせ俺の彼女だからな」
「今時、FF4ネタなんてわかる人いないよ……」
 その前に、何故に俺の彼女=綺麗という方程式に突っ込まないのかが謎だ。
「倉田先輩は綺麗っていうより、可愛いだね」
 最初に俺が見つけた写真をこちらに見せながら名雪が言う。見ると、俺の肩に手を置きながらニパッと笑っている佐祐理さんが写っていた。格好は無地に黒のネックの長袖の上にゆったりとしたこれまた無地のアウターを羽織り、長い丈の落ち着いた色をしたチェック柄のスカートだ。落ち葉拾いといっても近場のそう高くない山であったから、ズボンを履く必要性は少なかった。
 舞はといえば、恐らくは佐祐理さんが服を決めた所為だろう、佐祐理さんとは対照的に、白のカットソーの長袖に薄目の茶色をしたジーンズという格好だった。舞の長い黒髪が白い服によって目立ち、とても似合っていたものだ。
「まぁ、確かにな。おかげで行く先々で男連中に声を掛けられてるよ。何故だか舞はそうされないけどな」
「今は綺麗な人よりも可愛い人の方がもてるんだよ。それに……」
 途中で口をつぐんでこちらをジト目で見遣る名雪。
「な、なんだよ……」
「どうせ、祐一のことだから『これは俺の女だ!』っていう顔してるんでしょ」
 当たっているだけに何も言い返せない。おまけに歩くときは常時手までつないでいる。よくよく考えてみたら、そんな女性に声を掛ける馬鹿な男もいないということに気づく。だが、ここは負けていられない。
「それでも俺だったらあえてチャレンジするぞ」
「それは祐一だからだよ」
 名雪にしてみれば全ては「祐一だから」で説明がつくのだろう。なんてことだ、これでは勝ち目が無い。
 はて、何時の間に勝ち負けの問題になったんだろうか。
「それじゃ、明日は川澄先輩と会うんだ?」
「ん〜、そうしたいところなんだけどな……ほら、舞ってデパートの駐車場で働いてるだろ?土日祝日は忙しいんだよ」
 俺は遠い目をしながら写真に写っている舞を見つめる。普段会えるのも、あいつが仕事が終わる夜になってからだ。なんでも、拘束時間は朝の十一時から夜七時までなんだそうな。その後は警備員の仕事になるとのことだった。そのため、俺は平日は学校から帰ると寝貯めして、十一時頃まで舞と会っている。期末試験の間はそんなこともしてられなかったのだが。秋子さんには隠す必要も無いし話してしまった方が何かと都合が良いので事情を伝えてある。秋子さんは俺がそれを話したとき「気にせずに泊まったりしても良いんですよ」などと目を光らせながら(輝かせながら、ではない)言ってくれたものだ。
「そっか。それじゃ、今日は遅く寝ても平気だよね〜」
「なんだ、眠たくなるまで話し相手になれって意味か?」
「うん。川澄先輩や倉田先輩の話も聞きたいし」
 まぁ、暇だし良いか。
 
 その日は結局、十二時過ぎまで名雪と話すことになった。
 何時の間にかいなくなってしまった、真琴にも聞かせてあげたかったな……。
 
 
 
 朝、体が揺さ振られたので寝ぼけながらも目を開ける。
「……あれ、秋子さん…?今日って学校休みじゃなかったですっけ」
 秋子さんも仕事は休みのはずだが、いつものように仏様のようなアルカイックスマイルだ。わけのわからない表現をするからに、俺は寝ぼけている。枕元の時計を引っつかんで目の前に寄せて時間を確認すると、午前九時を少し過ぎたところだった。
「たしかに学校はお休みですけど、お電話ですよ」
 はい、と眼前に突き出された黒い物体はコードレス電話だった。とりあえずそれを受け取る。
「誰からですか?」
「出ればわかりますよ」
 目を細めながら俺の質問に答えた秋子さんは、部屋から出ていった。それにしても、学生の貴重な睡眠時間を妨害するとはけしからん奴だ。電話に出るととりあえず文句を言う。
「ったく、誰だよ…俺は寝てたんだぞ」
『………』
 返事が無い。電話に出させた上に無言とは良い度胸ではないか。
「大体だな、土曜日の朝っぱらから電話なんかしてくるんじゃねぇよ」
『……………』
 あくまで無言で通すつもりなのだろうか。だとしたら大した悪戯電話だ。俺の正義感がむくむくと首をもたげてくる。
「俺の休日はプログラマーの休日よりも貴重だ。というわけだから切るぞ」
『………待って』
 ほう、悪戯電話の癖に人様に命令するとはこれまた良い度胸だ……?どこかで聞いた覚えがある声なんだが。
「もしかして、悪戯電話じゃありません?」
『………はちみつクマさん』
「…………(以下省略)」
『…………(以下同文)』
 
 舞だ。この世の中にあいつ以外に「はい」という代わりに「はちみつクマさん」なんて言う人間を俺は知らないし、いてほしくはない。
 
『……ごめん、またかけ直す』
「マテマテマテマテマテ!俺が悪かった!だから切るな!!」
 思わず布団をひっくり返しながら上半身を寝床から起こす。まだ電話は繋がっている。どうやら制止が間に合ったようだ。心境は目の前で飛び降り自殺をした人間の腕を落下しないように掴んだそれだ。いや、そんな経験は無いんだがな。できることならば生涯経験したくない。
『……祐一、今日休み?』
「ああ、休みだ。休みじゃなかったら俺は日本の高校生の遅刻記録のランキングに名前が載る」
『……良いね』
 全然嬉しくねぇよ。第一、二十世紀の不良達の記録に俺が敵うわけがない。冗談はさておき、用件を聞くことにする。
「それで何だ?」
『仕事が終わったら、会いたい……今日は四時までだから』
 一々、間が入る話を聞いていると、なんでも今日は年末セールの第一弾がデパートであるそうで、多忙のためにシフトの切り替えが多いのだそうだ。その代わり開店時間である午前十時出勤なのだという。いつもより一時間早く出勤することになるわけだ。
「そういうことなら前から言っておいてくれれば良いものを」
 そうしてくれていれば、休みの日の朝っぱらから起こされる憂き目に合うこともなかったわけだし。
『……ごめん……でも、シフトが決まったの三日前だから』
「なら仕方ないよな。気にするなよ。俺も期末で忙しかったし」
 三年になっても一緒のクラスになった名雪のノートを写すのに……。
「んじゃ、四時過ぎたくらいにデパートの東口で待ってるよ」
『わかった……それじゃ』
「ああ―――ちょっと待った」
 俺は聞きたいことがあった。
『何?』
 用件を言おうとしたところで、受話器の向うから『舞〜、そろそろ時間よ』という声と、『もう終わるから』というやりとりが聞こえてきた。
「美樹さんか?」
 美樹さんというのは舞の母親のことだ。何度か会ったこともある。時計を見てみると、九時半になろうとしていた。舞の家から徒歩でということを考えると、時間的にそろそろ厳しい。
「わりぃ、別に大したことじゃないし、急ぐんならいい」
『そう……それじゃ』
「ああ、四時にな」
 先ほどと同じやり取りを交わすと、舞が今度は本当に電話を切る。
 俺が聞きたかったのは、佐祐理さんはどうしようか、ということだった。しかし、久々に舞と会うわけだし、佐祐理さんには悪いが今回は誘わないでおこうと思った。
 電話を居間に返そうと思いドアを引いたら、そこに秋子さんがいた。
 
「「はい?」」
 
 声が重なる。
 
一.ゴミの日なので祐一さんの部屋のゴミを取りに来た
二.自分でも電話を使おうと思って取りに来た
三.先ほどからずっと立ち聞きをしていた
 
 さて、秋子さんの答えはどれだろうか。
「先ほどから立ち聞きしてたんですよ」
 そうか、それなら問題ない。秋子さんに電話を渡す。
「祐一さん、今日は夕飯どうしますか?」
「そうですねぇ……外で食べてくるんで俺の分は作らないで良いですよ。あ、そうそう目が冴えちゃったんで、朝飯はこれからでも良いなら食べます」
「ええ、もちろん良いですよ。それでは下で待ってますね」
 そう告げてから、秋子さんは階段を降りていった。
 
 まさか堂々と立ち聞きしてたなんて言うとは思わなかったものだからそのまま流してしまった。もう怒るタイミングを逃したからそんな気も萎えている。
 やるな、秋子さん。
 
 とりあえず気を取り直して部屋のカーテンを開けると、視界が光で埋め尽くされた。
「うわぁ、天気予報ずばり的中だな」
 目が慣れてくると、外の様子がはっきりとする。雪だ。屋根に積もったそれに太陽の光が反射して、いつもより眩しくなっていたようだ。どうやら夜の間に積もったらしい。今は雪は降っていなかった。
 この土地は北国ではあっても雪国ではない。だから、積もったとしても精々足元が埋まる程度だ。だが、雪に変わりは無い。
「舞の奴…仕事、大変だろうな」
 昼頃に陣中見舞いに行くことを思い立ったのはこの時だった。
 
 寒いので早々に着替えることにする。通常の二倍の速度だ。俺は寒いのが暑いのより嫌いだ。あくまで相対評価なので暑いのも嫌いだ。普段着の白い長袖のセーターとチノパンに着替え終わると、最後に靴下を履いてから部屋を出て一階のキッチンに向かう。靴下の上からでも廊下のひんやりとした冷たさが伝わってくる。人間は冷たいものに触ったときには熱いものに触りたいと思うものだが、では俺はどこぞの修行僧のように火の上を歩きたいと思うべきなのだろうか。そんなくだらないことを考えながらもキッチンに入る。
 キッチンには焼かれたトースターの香ばしい匂いとコーヒーの匂いが、ヒーターの暖気の中を漂っていた。
「暖かいって良いなぁ〜」
「ふふふ、朝ご飯の用意ならできてますよ。はい、どうぞ」
 テーブルの席に着くと同時にトースターと目玉焼き、それにコーヒーが置かれる。
「いただきま〜す」
 いつもなら寝ぼけている名雪を急かしながらの朝食であるが、今日はのんびりと味わえる。それだけのことなのだが、幸せを感じている俺だった。意外と俺は家庭的な人間なのかもしれない。いや、違うな…毎朝が過酷すぎるのだ…何が悲しくて高校三年にもなる奴の寝坊に毎朝振り回されなければならんのだ。
 考えるだけでも腹が立ってくるので、腹を落ち着かせることにする。トースター全体にまんべんなくマーガリンを塗りたくり、噛り付く。パリっとした歯ざわりの後にモチっとした感触が舌の上に乗る。噛めば噛むほど幸せを感じる。これが本当の幸せを噛み締めるというやつなのだろうか。
 …なにが悲しくてトースターを食べることぐらいで幸せを感じなければならんのだ。百歩譲って俺が飢餓に苦しむ難民だとしよう。それならばトースターを食べることに幸せを感じるのは十分ありうることだ。だが、そんな難民が寝坊に振り回されることはありえない。
 噛んでいるだけでは腹が立ってくるので、コーヒーを飲むことにする。俺の好みはブラックだ。これは最近気づいたことだが、秋子さんの煎れるコーヒーはブラックの方が味わい深い。俺はコーヒーには詳しくないが、豆や煎れ方によってミルクや砂糖を入れるべきか否かの答えが違ってくることぐらいは知っている。やはりそのコーヒーを一番美味しく飲める方法で飲むのが煎れてくれた人間に対する感謝に繋がるというものだ。何より、同じ飲むにしても美味い方が良い。
 口をつけると、口腔一杯に香ばしくも苦みのある匂いが行き渡る。飲み込んだ後に鼻から息を出すのがポイントだ。こうすると飲む前に嗅いだ匂いとはまた違った濃厚な匂いを味わうことができる。食事というのは何故にこれほどまでに幸せを感じさせてくれるのだろうか。
 なにが悲しくてコーヒーを―――
 
「祐一さん、さっきから何を難しそうな顔をしているんですか」
 秋子さんが、食事の代わりにコーヒーを飲みながら聞いてきた。そんなに難しそうな顔をしていたんだろうか。いや、していたんだろう。なぜなら俺にはそういう表情をしていた自信がある。
「いえ、名雪のことを考えてました」
「……毎朝ごめんなさいね」
 二人で、その先に名雪の部屋があるであろう天井を見つめると、お決まりのようなため息を吐くのだった。
 
 
 昼も間近になり、予定通り舞の所へ陣中見舞いに行くことにした。上手くすれば昼を一緒に取れるやも知れぬ。赤のジャケットを部屋で羽織る。廊下に出て階段に向かおうとすると、名雪の部屋のドアが目に入る。まだ寝てるのだろうか…?
「名雪〜、そろそろ昼だぞ〜!」
 ドンドンとドアを強めに叩く。毎朝これをやっているために叩いている部分のワックスが剥げ、色褪せている。俺が悪いのではない。起きない名雪が悪い。
『うぅ〜、起きぃるよぉお〜』
 ドアの向うから抑揚がおかしい声が聞こえる。起きてこないのではないかと思ったが、ここ最近になって名雪の脳内で「祐一の声がする=起きる」という連携がシナプス君のおかげでできたようだ。ほれ、ドアが開いて寝坊女が顔を出した。
「う〜、祐一、休みなぁのに、早起きだーねぇ〜…ふぁぁ…」
「お前、日を追う毎に寝坊が酷くなる奇病なんじゃないだろうな」
 あまりにもロレツがまわっていないのでそんなことすら考えてしまうじゃないか。
「まぁ、とにかくキッチンへ行け。そうすりゃ嫌でも起きる」
「うん、わかったょお〜」
 冗談抜きに本当に一度病院に連れて行こうか……。
 
 
 名雪が危なっかしい階段の降り方をするのを先に下に降りていた俺がハラハラしながら見ていると、居間にある電話が鳴る。名雪も気になったが、電話の方が気になった俺は居間へと早足で向かって電話を取った。
「はい、もしもし、水瀬です」
『あ、こんにちわ〜、倉田です』
 佐祐理さんだ。電話では倉田と名乗るのが律義だった。
「こんにちわっす!」
 気合を入れて挨拶を返す。
『はぇ〜、元気ですねぇ。何か良い事でもありましたか?』
 流石に鋭い…というか、電話口でこんな応対をすれば気づくのが当然か。
「ええ、まぁ…ところで何か用事ですか?」
『はい、今日は午前の内に講義が終わったので、お昼でも一緒に食べようかなぁ、と思いまして〜』
 俺はその提案に悩む。普段ならば即OKというところだが、ここで佐祐理さんと一緒に昼食を食べることになれば、舞のところへの陣中見舞いにも佐祐理さんを連れて行くことになる。そうするとだ、舞のことだから仕事が終わってからも俺の他に佐祐理さんとも一緒にいたいと言い出すはずだ。佐祐理さんには悪いが、俺としては今日一日ぐらいは舞と二人きりで過ごしたい。
 しばらく悩んだが、やはり佐祐理さんの提案は断ることにした。
「すみません、これから用事で出ないといけないんですよ」
『あ〜、そうなんですかぁ。なら仕方ありませんね。大学の友達と一緒にお昼を摂ることにします』
「折角、誘ってくれたのに…すいません」
『良いんですよ、気にしなくて』
 そういうと、最後に『あはは〜』といういつも通りの笑い方をしてから電話が切られた。
「佐祐理さん、ごめん」
 言うが早いか、受話器を置くと、それを合図にしたかのように俺は廊下を走り、靴を急いで履き、家を出ていった。
 
「あれ〜、祐一は?」
 名雪の間抜けな声を後方に聞きながら、俺は徒歩二十分、疾走十分でたどり着くデパートへと雪に足を取られながらも駆けていった。
 
 
 走る!走る!
 
 俺感覚時速百キロ、現実時速十キロで走る!
 
 曲がり角では五メートル前で飛び、横向きになりながら車で言うドリフトの要領で雪の上を滑りコーナー出口が見えた瞬間にアクセルを吹かす…もとい、足に力を込める。ちなみに自動車免許は既に取ったが、車を買う金が無いので専ら徒歩だ。
 途中、同級生の北川らしき人物に声をかけられたが、俺がコーナーで滑る際に撒き散らした雪がそいつに被って判別できなかった。北川だろうと北川でなかろうと関係ない。立ち止まればボコだ。俺は気にせず走り抜ける。
 
 更に途中、雪合戦をしているガキどもの間を走り抜けたりもする。もちろん雪玉に当たるなんてヘマはしない。最近のガキは狂暴だ。中に石を詰めている可能性もある。俺も小さい頃には血玉の祐一などという異名を馳せていたが、それは秘密だ。ガキどもの腕力などを瞬時に計算し、上手いこと速度を調整してジャッキー・チェンのような華麗な動きで雪玉を躱しつつ走り抜けた。後方で歓声が上がるが、振り向いて手を振っている暇は無い。
 
 それにしても今日はなんでこんなに動きにキレがあるのか謎だ。まさか赤いジャケットを羽織ってる所為ではあるまい。
 
 
 そんなこんなしている内に目的のデパートの駐車場入り口にたどり着いた。今日のような動きを学校で一日でもすれば校内の人気をかっさらえるのであろうが、それがどうした!俺は舞以外の人間にちやほやされたって嬉しくねぇ!
 かなり恥ずかしいことを脳内で叫んでいる自分を鎮め、駐車場に入る。郊外にあるショッピングモール程の広さは無いとはいえ、流石はデパート。車両一五〇台以上は駐車できるであろう広さはある。
 車の邪魔にならないようにしながら辺りを見回すと、いた。舞だ。一番込み合うと思われる、三ヶ所ある入り口から直線上にあるポイントで誘導をしている。仕事スタイルなのだろう、それ用の制服姿に、口にはホイッスルを咥え、長い髪は後ろで結ってある。
 それにしても動きが鋭い。そこまでするか、というぐらいに体全体を使って誘導している。特に誘導棒を持っている右手の動きが半端じゃなく機敏だ。あの間合いに入ったら最後、骨にヒビでも入るだろう。
 ピッ!ピッ!ピピーッ!
 ホイッスルの鳴らし方にも意味があるようだ。正に誘導員の鏡。それとなく舞以外の男性の誘導員の動きも見てみる。舞には劣るものの、これまた凄い。職場に一人凄い奴がいると、周りもそれに引っ張られるものだが、ここまで素晴らしい誘導員達はそういない。
 車が面白いように誘導されていくのに見とれていると、ふと後ろから声をかけられた。
「はい?」
 振り返ると、誘導員の中でも偉い方と思われる、四十代ぐらいの恰幅の良いおっちゃんが立っていた。
「君、そこにいると危ないぞ。それとも何か探し物かね」
 ハスキーボイスが特徴の人だが、態度は実に優しげだ。正におっちゃんだ。俺は一定以上の敬意を払える大人の男性をおっちゃんと呼ぶ癖がある。
「いえ、ここに知り合いがバイトしてるんで、様子を見に…」
 俺がそれを言ってから視線を舞に戻すと、おっちゃんもそれに気づいたようだ。
「もしかして、川澄君の彼氏かね?」
 ギョっとして、思わず後ろのおっちゃんの目を見てしまう。すると、おっちゃんは実に楽しそうな顔をしていた。
「そうかそうか、君が例の祐一君か」
「なんで名前を知ってるんですか?」
「この職場で君の名前を知らん奴はおらんよ」
 まじですかっ!?という目をしておっちゃんをの目を見ると、まじです、という目をしていた。
「まぁ、ここではなんだ。私はちょうどこれから昼休みだからちょっと向こうで話そうじゃないか。ちなみに川澄君はあと三十分くらいは昼に入れないぞ」
 半ば強引におっちゃんに連れられて職員用の休憩室に向かう。
「あの、俺ここに入っちゃって良いんですか?」
 一応、中に入る前におっちゃんに聞く。
「別に構わんよ」
 それなら別に良いか♪――ってマテ。
「それ以前に何故に俺がここに入らないといけないんですか?」
「まぁ、細かいことは気にしない」
 またも強引に引っ張られて休憩室に入る。中には休憩中なのであろう、俺より三歳ほどだろうか年上と思われる男と女の誘導員が会議室などによく置いてある長細いテーブルの席に座って弁当をつついていた。舞が朝に電話で言っていた通り、今日は出張っている人数が多いらしい。駐車場には舞を含めて五人ぐらいいたし、その上休憩に入ってる人間がおっちゃんとこの男性と女性で三人もいる。
「お〜い、この坊主が例の相沢祐一君だ!」
 何故にそんな大声で紹介するんだ、おっちゃん。
「「まじですか!?」」
 それはこっちの台詞だ、そこの二人。
「へ〜、『これ』が舞ちゃんの彼氏ねぇ……」
「おい、『これ』ってのは失礼だろ」
 女性と男性の順で声を出す。
「とりあえず座れや。ほれ」
 おっちゃんがパイプ椅子を貸してくれたので、遠慮無く座る。周りが遠慮無いのだ、遠慮するだけ損というもの。
 女性の方がお茶を入れてくれたので、それを啜る。落ち着いたところで本題に入る。
「それで、なんで俺はこんな思いもしないところで有名人ですか」
 そう、それが問題だ。まぁ、思い当たる節は舞しかいないのだが。
「そんなこと言ったってなぁ」
 男性が女性の方を見る。
「……ねぇ?」
 今度は二人しておっちゃんの方を見る。
「あれだけ川澄君が喋ってれば覚えるわな」
 これはよく言うお約束というやつではない。他に原因が考えられないがために的中したものだ。
「それにしても、舞の奴がそんなに喋るとは俺には思えないんですが…どこまで聞いてるんですか?」
 舞が彼氏のことを嬉しそうに話す、という光景が想像できん。
「そら働き始めた頃は無口だったわよぉ、今もそうだけど…けどね、私が彼氏の一人もいないの?って聞いた途端、顔真っ赤にしてねぇ…それ以来、なんだか可愛くなっちゃって…仕事も真面目だし」
 女性が思い出しながら苦笑いをしている。
「そこからは早いぞ。無口だが美人ということで彼女に目をつけていた男どもが根掘り葉掘り聞きはじめてな。俺が、お前ら仕事終わったんならとっとと帰れ!というまで居残って聞いてたよ」
 おっちゃんが捕捉する。頼む、これ以上捕捉しないでくれ。恥ずかしさで熱暴走しそうな頭で必至に念じるが、言葉にならないそれが効果を出すことはなかった。
「いやぁ、俺はもう彼女いるんだけど、流石に興味が湧いてね。はい、俺もチーフに怒鳴られた一人でーす!」
 男性がおどけてみせる。この様子だと、その現場にいなかった人々にも伝わっているようだ。それほどまでにこの職場の連帯感というか志気は高い。それは決して悪い事ではない。むしろこの不景気の世の中においてこういう職場は貴重だ。だが、俺にとってそれはマイナスに働いてるわけで。
「――と、いうわけだ。わかったかな?」
 おっちゃんが微笑ましい顔をしながら俺に振ってくる。舞の性格上、律義に答えた結果なのだろう。もう俺は諦めて、舞が来るまでこうして暖かいダルマストーブがある部屋で待てるのだから、幸運だと思う事にした。
「おい、無線連絡だ。川澄君以外にその彼氏が来た事を伝えろ」
 おっちゃんが男性の前に置かれている無線機を指差して言う。おっちゃん、それは職権濫用という奴なのではないですか?
「ふっ、チーフ…俺がここに浪人しながら勤めて何年になると思ってるんですか。そんなこたぁとっくにやりましたぜ……。ついでに携帯で、今日非番の連中にも連絡しちゃいましたよ」
 そんな悲しい目をするくらいなら、余計な自分のことまで言うなよ。付け加えるなら、その行動力を大学合格に生かしてほしい。
「今頃、舞ちゃんと同じ時間に休憩に入る連中は今か今かと時間が過ぎるのを待ってることでしょうね」
 あー、もうどうでもいいから、舞、とっとと来てくれ。
 
 世の中って暇人が一杯なんだな。
 
 俺は今日ほどこれを痛感した一日は無いだろう。休憩室のメンバーが倍に増えてるからだ。最初に来た兄ちゃんはやたら調子の良い人で、この幸せ者めぇ!、と脇固めをしてきた。技のチョイスが微妙なのは突っ込まないでおこう。後から来た二人組は至って普通の反応であったのが安心材料である。
 
 そしてようやく舞が来た。時間は午後一時を過ぎていた。よく俺は三十分以上もこの空間に耐えられたな、と自分を自分で誉めてやりたい。
 
「休憩入ります―――祐一、なんでここにいる」
「職場見学」
「……あっそう」
 普通に納得されてしまった。
「真に受けるな。今日は学校は休みだから職場見学なぞあるわけがない。大体、俺はもう進路が決まってる」
「じゃぁ何?」
「このおっちゃんに聞いてくれ」
 俺はおっちゃんの方に顔を向ける。当のおっちゃんは俺達のやり取りに呆気に取られていた。
「お前ら、夫婦漫才でデビューしろ……」
 そう呟いてから、おっちゃんは事の次第を説明し始めた。
 
「へぇ」
「へぇじゃないだろ」
「ふぇー」
「それは佐祐理さんの台詞だ」
「祐一、我が侭は良くない」
「どっちかっていうとお前がな」
 おっちゃんが説明し終わっても、状況はなんら変わり無かった。
「お前ら、なんなら俺がテレビ局にハガキ出してやるか?」
「「結構です」」
 茶々を入れるおっちゃんに、俺と舞はぴったりと合ったタイミングで断りを入れる。
「お前らなら西○師匠夫妻にも勝てるだろうに…」
 
 あーだこーだやってると、おっちゃんが先ほど来た暇人連中にこう言い出した。
「ん、お前ら、今日暇か」
「「「暇です」」」
 いったい普段何をやってる人たちなんだろうか…自信たっぷりに言う三人を見ていて俺は何やら熱い物が込み上げてくる。
「それじゃぁ、これから川澄君の代わりにシフト埋めろ」
 それを聞いて、舞が驚く。一般人から見たら驚いてるようには見えないが、微妙に開いた口だけで俺にはわかる。
「主任、それじゃ悪いです」
 流石はまがりなりにも社会人だ。舞の成長ぶりを見て俺はうんうんと頷かずにはいられなかった。
「いや、けどなぁ。……今日は川澄君がいると仕事になりそうにない」
 ふと、おっちゃんの目線が休憩室の入り口に向いているのに気づく。なんだろうかと思って振り返ると…あまり説明したくはないが、人がいた。それも三人ばかり。舞と休憩時間が被っている連中なのだろう…。
「まったく、主任も永田君も調子に乗り過ぎなんだから。それにしてもこんなに喋る舞ちゃんを見るのは初めてよ。良い物見せてもらったわ」
 どうやら最初からここにいた男性は永田というらしい。
「というわけで、私の責任だから川澄君は遠慮無くアガってくれたまえ」
 主任にここまで言われては帰らざるをえないだろう。舞も観念したようだった。
「あの、俺が来た所為で迷惑かけちゃったみたいで…すいません」
 一応、おっちゃんに詫びを入れる。俺が原因で舞がこれから仕事し辛くなったりしたら、居た堪れない。
「何を言ってるんだい、元々ここに半ば強引に連れ込んだのは私じゃないか。気にせずに川澄君と楽しんでくると良い」
 おっちゃん、ありがとう。――と言いたいところだが、あんたわかっててやってたんかい、とも思ったので言わないでおいた。
「お先アガります」
「わ……、お、お邪魔しました。舞、あんま引っ張んな、腕が伸びる!」
「便利になる」
「そういう問題くぁっ!?」
 遠退いていく休憩室の入り口から最後に聞こえてきたのは、おっちゃんの「やっぱり俺、ハガキ出してみるわ」という言葉だった。
 
 
 
「……祐一が来たおかげで身入りが減った」
 デパートを出て街中へと向かっていると、舞が突拍子も無くそう言い出だした。相変わらずの無表情なので怒っているのかどうかはわからない。口調に怒気が無いから、恐らく怒っているわけではなく、単に会話のネタとして言っているようだ。
「すまん、あんなに大事になるとは思わなかったからな…」
「主任は祐一と同じで、人を構うのが好きだから」
 世話と迷惑は紙一重なのだと肝に銘じよう。
「それはさておき、腹減ったなぁ…さっきのお詫びに奢るぞ」
 舞は何を食べたいか。聞くまでもない。
「牛丼」
「どこが良い?」
「ス○屋」
「吉○屋で良いんじゃないか?その方が近いし」
「……作者が吉○屋嫌いだから」
「なんか言ったか?」
「何も」
 個人的にはス○屋の柔らかい肉よりも吉○屋の堅い肉を食べたい気分だが、ここは舞に譲ることにする。
 何はともあれ、歩いて十五分程の店へと入る。昼時なだけに混んでいるが、二人分のカウンター席が空いていたのでそこに座ることができた。
「ふぅ、これで一息つけるぜ」
「…暑い」
 たしかに、舞の言う通り暑い。二人とも上着を脱いで椅子の背もたれに掛けてあるが、それでも店内は暖房の熱気が十分過ぎた。インナーを着込み過ぎているのも原因かもしれない。
「店なんてのはどこもこんなもんだろ。さっきまで寒い外で働いてたんだ、無駄に暑がれるだけ贅沢だと思え」
 舞は無言だったが、納得はしたようだ。お冷やに口をつけている。
「今日は珍しく早いですね。注文はお決まりですか?」
 店員が注文を取りに来た。半ば常連なので顔を覚えられている。大通り沿いと違って客が固定されているからだ。この店員は普段夕方から働いてる人で、よく顔を合わせている。顔を覚えられたきっかけが、時期限定の牛肉○キログラムを○分で完食できたらタダ、というのに舞が挑戦して成功したからだったりする。女性で成功したのは彼女が最初だそうだ。
 とんでもない女を彼女にしているのではないかと自問自答したくなったのが記憶に新しい。
「俺は牛あいがけカレー大盛りにキムチ牛丼のミニだ」
「……牛丼豚汁セットで特盛り、それとおんたま」
かしこまりました、と言って店員が奥に引っ込んでいく。
「珍しいといえば、今日は小食だな、舞」
「祐一も」
「お互い、腹八分目ってとこだな」
「……六分目」
「そうかそうか」
 とにかく舞はよく食べる。デートの際の食費確保のために俺がバイトを始める必要があった程だ。その分、運動量が一般人よりも多いし、小さい頃から剣の練習をしていたために胃の作りがたくさん食べても太らない、というより、たくさん食べないと腹が満たされないようになっているのかもしれない。
「ところで舞、ここ出てからどうする?」
 注文した品が来る前に会話を済ませておかなければならない。食い始めるとお互い一言も発しずに黙々と食うためだ。
「……前から見たかった映画があるから、それを借りて一緒に見たい」
 映画館ではなくレンタルビデオというのが人混みを嫌う舞らしくはある。個人的には映画館の大画面大音量でブラックホークダウンなどの戦争映画を見たいところではあるが、そういったものは北川などの男連中とつるんで見に行くべきだと思っている。
「ほう、お前が映画とは珍しいな。何を見るんだ?」
「祐一や佐祐理と会えない日はいつも見てる……。『オーロラの彼方へ』」
 あれだけの運動量だ、一人のときは外に出たくないのが本音なのかもしれないな。舞が言った映画の名前は聞いたことがあるが、俺は見た事が無い。どうせなら少林サッカーを見てみたいのだが、舞と一緒に見るものではないような気が十二分にする。
「んじゃ、それで決定だな。他には借りないのか?」
 どうせ借りるのだったら、時間もあることだし二、三本程まとめて借りるのが良い。
「……『グロリア』」
「それで?」
「……『ダンサーインザダーク』」
「これで全部か?」
「………最後に『船上のピアニスト』」
「なんでお前はそう全部が全部、微妙にメジャーじゃないものを……」
 その上、コメディが一つも無い。なんだか無性に少林サッカーを見せてやりたくなってきた。かくいう俺もまだ見ていないが……。
「とりあえず、『グロリア』と『船上のピアニスト』は俺が見た事あるから次回に回してくれ。俺も一本見たいのあるしな」
「……わかった」
 俺が見たい映画が何なのかを聞いてこないのはこいつの性格故だが、俺の計画には好都合だった。
「お待たせしました〜」
 店員が注文した品を持ってきた。昼時だというのに早いものだ。
「舞、来たぞ……って、もう食ってるし!」
 既におんたまが牛丼の上に乗っているのを器用につつきながら背筋を伸ばして行儀良く食べている舞がいた。行儀は良いが速度が凄い。よくがっつかずにこうまで速く食べれるものだと感心してしまう。
 俺はというと、舞の嬉しそうな…表情はあまり変わってないんだが…顔をときおり横目で確認しながらがっついていった。
 
「いや美味かったな」
あの量の食事を十分という驚異的な速さで食べ終えた俺と舞は近場のレンタルビデオ店へと向かっている。
「……祐一、ゴチ」
「いくら言葉を少なくしたいからってどっかの番組みたいな言い方せんでも良いと思うぞ」
 会話をしながらも、改めて舞の服装を確認してみたが、デパートでの紺色の誘導員の制服の上に緑色の丈の長いコートを羽織っているだけだ。荷物を少なくするために、普段からこうしているのだろう。とはいえ、髪の毛は仕事中は結っていたものを学校にいた頃のように後ろに下ろしたものをリボンで結んでいる。
 美人ならコスプレだろうがなんだろうが似合うもののようだ。むしろ、制服のようなぴしっとした服装が舞に似合っている。
 
「……佐祐理はどうしてるかな」
「えっ」
 舞の一言に胸が痺れた。彼女の手前、嘘はつけない。だから、聞かれたら正直に答えるしかない。
「祐一、様子が変」
「いやそれが……、佐祐理さんからさっき電話があったんだよ。お昼一緒にどうか、って」
「……それで?」
彼女に嘘をつけないという俺の考え方もあるだろうが、それとは別に舞は聞き方というか尋問というか、そういったことが上手い。口数が少ない分、相手に畏怖すらも覚えさせる。こういうところが変に年上なのだろうか。だが、まだ俺に勝機はある。
「お前と二人っきりで過ごしたかったから断った」
 賭けに近かったが、正直に自分の気持ちを言った。下手に言い訳や嘘は言えないのだから、いっそこう言ったほうが後腐れが無い。
 舞はしばらく歩きながら考えていたようだが、突然、こちらに身体を預けながら腕を組んできた。
「お、おい……、人が見てるぞ」
「……これで私も共犯」
「あのなぁ」
 まぁ、許してもらえたようなので賭けは成功ということにしようか。
 
 それにしても、と俺はふと考え始める。最近の舞はあまり佐祐理さんを重要に思っていないのではないか。たしかに相変わらず仲は良いし、会えば話も弾んでいる。だが、それは前のような親友としての付き合いというより、ただの友人としての趣きが強いのように俺には感じれるのだ。
 人と人との関係は変わって当然ではある。しかし、その原因が俺なのではないかと考えると、あまり当然として受け止められるものではない。
 
 俺と舞と佐祐理さんと三人で暮らす
 
 そんな、夢にも似た俺の言葉を舞は最初確かに賛成していた。だが、それは佐祐理さん抜きでは幸せになれないという、それまでの経験による一種の妄想があったからこそなのかもしれない。
 恐らく彼女は今、幸せに違いない。そして、それは佐祐理さんがいたから築かれたものではないということも知っている。
 紛れも無く彼女自身で築いた幸せだ。それに俺も無意識に同意し、一緒にこうして腕を組んで歩いている。
 
 佐祐理さんの舞にとっての存在意義は既に失われている
 
 自分の考えに、気温とは別の寒気を覚える。頭半分ほど背の低い舞の顔を見遣りながら、取り止めも無い考えを止めることにした。
 
「……祐一、どうしたの?」
「いや、寒いのに元気だなと思ってな」
「外仕事で慣れた」
「あ、そうですかぁ」
 自分の考え過ぎなのだろう。外れていないとしても、これまで通りの佐祐理さんとの関係を崩す必要も無い。そう、これまで通りだ。そして、願わくば、これからも。
 
 
 
 突然、舞の体温が無くなる。なんてことはない、単に彼女が組んでいた手を解いただけだ。
「どうした?」
「……店の中では恥ずかしい」
「店って……、ああ、もう着いたのか」
 商店街の真っ直ぐな通りを考え事をしながら歩いていたためだろうか、意識せずに目的のレンタルビデオ店の前に着いていた。あまり大きくなく、十年ぐらい前からある個人経営店だ。俺は以前から利用している。
「……祐一、入らないの?」
「ああ、ビデオ借りに来たんだものな。早いところ借りて帰ろうぜ」
「……」
 自分でも自分の挙動がおかしいことがわかる。舞が無言になるときは、相手を伺ってるときだから、やはりおかしいのだろう。どうもさっきの自分の考えが頭から離れない。気にするだけ無駄だ。それに、このような邪推をすること自体、舞と佐祐理さん両者に失礼というものだろう。
「ワリィ、ちょっと考え事してたんだ」
「そう」
「さてと、こんな寒いところで突っ立ってるのも馬鹿みたいだし、入ろうぜ」
 俺は舞の首の動きだけの返事を確認すると、率先して店内に入った。それに舞が続く。
「それじゃ、舞。お前は見たい物を探してこい。俺もそうするから」
 そう言ってから目的の物があると思われるコーナーへと向かおうとすると、足が止まる。舞に手を引っ張られたのだ。
「なんだよ」
「……どうせだから、一緒に探そ」
 真顔でこちらを見つめながら小声でそう言う。ちょっと照れ臭さを覚えた。最近、舞の甘えん坊な面が表によく出てくる。あまり会えないのも影響しているのかもしれない。もっとも、普段は我が侭なんて言わない奴なので、俺としては嬉しい。けれども、計画が発動した途端からネタバレしては元も子も無い。
「あ〜、それがなぁ……」
「……何?」
 俺は舞の耳元に口を近づけてこう言った。
「成人コーナーの側にあるんだよ、それ」
 既に見た事がある友人に言わせると、シモネタ満載だそうで、店によっては奥まったところに置いてあるのだそうだ。新作なのになぁ。以上は事実なので、別に嘘ではない。だが、こう言えば舞のことだから―――
「わかった」
 即答だった。秋子さんの了承反応(既に学名扱い)に匹敵する速度だ。そんなに成人コーナーが嫌なのか…。
「ああ、それじゃ店の入り口で落ち合おうぜ」
舞はそれを無言で返す。異議無しということだ。舞が目的の物を探しに行ったのを見届けると、俺は俺で目当ての物を探しに行った。
 
 発見した。情報通り奥まったところにある。それも横並び八箱、上下に二段を占領している。下の段はDVDのようだ。八割は貸し出し中の文字が見える。そんなに人気商品ならもっとわかりやすい場所に配置しろよ、と思うが、それは店の指針にもよるものなのだから仕方ないか。大型のチェーン店ならば売り上げ優先で迷わずレジ前に陳列するだろう。
 舞のことだからDVDデッキがあるとは思えない。俺はビデオテープ版を手に取ると、まっすぐレジへと向かった。
 
 会計を済ませて外に出ると、舞が待っていた。俺よりも借りる本数が多いのに随分と早い。
「よう、早かったな」
 声を掛けると舞が振り返る。
「どれがどこにあるかは大体見当がつくから」
 確かにそれほど広いとは言えない店内だが、その分、商品の場所がややこしい。それでも欲しい物をすぐに見つけられる辺り、こいつの空間認識能力というか周囲を見る目というか、そういったものは優れているのだろう。
「流石」
 思わずそんな言葉が口を突いて出た
「単に通い詰めてるだけ」
「さいですか」
 こちらの期待を見事に裏切ってくれる。こいつとの付き合いは、こちらが考えてあげないと何も考えないときもあれば、考えるだけ考えてるとただの考え過ぎに終ったりする。それでも懲りないのは、惚れてるからなのか面白いからなのか、はたまた俺が変人なだけなのか。どれも正解のような気がする。
「よし、途中でカウチポテトでも買って帰って、食いながら見ようぜ」
「……かうちぽてと?」
 どうやら、食べた事どころか名前を聞いた事すら無いようだ。
「映画の本場アメリカではな、映画とかを家で見るときはカウチポテトを食べながら見るんだぞ。そういう奴をカウチポテトマンって言うんだ」
「……私、女」
「そこまでは気づかなかった」
 俺もカウチポテトガールやらカウチポテトウーマンなんて聞いた事が無い。そもそも、日本でカウチポテトはメジャーじゃない。素直にスナック菓子などを適当に買い込んでそれを入れた袋を俺が片手に持ちながら舞の家に向かった。俺の家に行くと、名雪とかが割り込んで来て落ち着けないからな。
 
「そういやよ、今日って美樹さんは家にいるのか?」
「……最近は私の収入もあるから、お母さんには内職にしてもらってる」
 舞の母親は身体が弱い。一時期は死に掛けたりもしてたらしい。そう考えると、現在は日常生活に支障が出ない程度には回復してることを喜ばなければならない。父親について、俺がわかっているのは「いない」ということだけだ。詳しい事情は聞いていないし、今のところは聞くつもりもない。
「そうか。俺、一度だけ秋子さんに頼まれた買い物で美樹さんのパートしてるスーパー行ったんだけど、大変そうだったしな。その方が良い」
「…私もそう思う」
「それにしても、舞は親孝行だよな」
「……高校までの恩返し」
「…………それ、洒落なのか?」
「???」
 流石に考え過ぎだったようだ。それでも、困った顔をして何の事を言っているのか考えている舞を見れたのだから損は無い。
 
 舞の家までの道中、美樹さんの今の仕事について色々聞いた事をまとめると、定期的に頼まれるパソコンでの文書の打ち出しなどの仕事らしい。精神的には少々辛い仕事だろうが、舞の母親ならペース配分などもきちんとできるだろうし、何より横になれるときに横になれる仕事の方が安心できる。
 収入に関してはその分だけ減ることになるが、舞の家は美樹さんの病気の保険なども降りているから、贅沢はできないものの一般家庭程度の暮らしはできるから問題は無いらしい。
 それに、今は舞の収入もある。フリーターとはいえ、一日八時間労働の週休二日だ。安く見積もっても月に十二万円以上になる計算になる。
 
「ということは、舞の家にはパソコンがあるのか。お前は――使えるわけない、か」
「……はちみつくまさん」
「だよなぁ」
 舞が器用にマウスを動かしたり、鮮やかにタイピングしたりしてる姿を想像するのは、相撲取りが綱渡りするのを想像することより難しい。
 横を歩いている舞の顔を見てると、顔が少し下を向いていた。
「気にすんなよ。舞は体力と忍耐は人一倍あるんだ。パソコンが使えなくったって困りはしないって」
「……気にする」
「いや、だから」
「ちがう……、祐一の言い方が気になる」
 どうやら気にさせないように言った言葉が逆効果になってしまったようだ。この様子だと、パソコンの使い方を覚えようとするかもしれない。
「はぁ……、まぁ、使えるようになってもならなくても良いってことだし、舞が使い方を覚えたかったら覚えればいいさ」
「頑張る」
 あまり頑張られると身体が心配だが、舞の場合、それよりも折角やる気を出したのにそれを萎縮させる方が勿体無い。滅多にあることではないからだ。素直に応援することにしよう。
 
 舞の家、いわゆる公営団地の前に着く。時間は午後二時半になるかというところだ。七階建ての建物の入り口で辺りを見回せば、買い物に行こうとしているおばちゃん達や広場に積もった雪で遊んでいる子供達が目に入る。
「舞の家に来るのって久々だなぁ」
「……祐一が恥ずかしがって来ないから」
「だってさ、俺が行くときって必ず美樹さんが家にいる時間と被ってるんだぜ?」
「……お母さんは全然気にしてない」
「俺が気にする」
 最初に来たときなぞ「舞が友達連れてきたのなんて佐祐理ちゃん以外では初めてねぇ〜」と嬉々として言われ、そのはしゃぎ振りを見て舞が美樹さんの身体の心配をするぐらいだった。美樹さんの第一印象は、舞と全然違う、というものに尽きる。有り体に言えば、細かい事を気にしない性格というやつだ。ただの天然だと考えれば舞と共通しているのかもしれん。表への出方が違ってはいるが。
 共通しているといえば、歳は四十を越えているにも関わらず綺麗で艶のある長い黒髪と顔。そして忘れてはならないのが抜群のスタイ―――
「ルっ!?」
 眼前で舞の手刀が止まっている。風圧で俺の前髪が少し動いていた。
「祐一……、変な事考えてる眼をしてる」
「そ、そんなことないぜ」
「……ならいいけど」
 舞の手がスッと降ろされる。危なかった。俺って何かしら考え事する癖にすぐに顔に出るみたいだからな……気をつけても治るものでもないだろうが、気をつけることにする。
 建物に入る前に靴に付いた雪を落とし、中に入って二人でエレベータに乗る。
「えっと、何階だっけか」
 階数を指定するボタンを押そうとして、自分が舞の家がある階数を覚えてないことに気づく。
「五階」
「了解」
「……待って」
「あ?」
 ボタンを押そうとすると、舞がそれを止めた。何事かと思って舞の見てる方向に視線を動かすと、前方に年寄りの割には背筋が比較的良い婆さんが一人いるのが見えた。
「知り合いか?」
 舞は俺への返事には答える暇も惜しみ、婆さんの隣まで駆け寄っていった。とりあえずコントロールパネルの『開く』のボタンを押しっぱなしにして待つ事にする。婆さんが舞に連れ添われながらノタノタとした歩調でエレベータ内に入ると、ボタンから手を放した。
「婆ちゃん、何階だ?」
「五階じゃ」
「なんだ、俺達と一緒か」
 五階のボタンを押してから、『閉じる』のボタンを押す。エレベータのドアがそれに準じて閉まると、特有の縦揺れの後に動き出す。
「……お隣のお婆ちゃん」
「ああ、それなら親しくて当然だな」
 隣に住んでいるからといって必ずしも親しいわけではないが、こういった地方の公営団地だと近所付き合いは必須だ。挨拶ぐらいはしておこうと思い、口を開く。
「婆ちゃん、よろしく」
「若いの、礼儀正しいな」
「舞の知り合い相手なんだから当然だろ」
「……恋人か」
 婆さんの一言を聞いて、つい頭をコントロールパネルに打ちつけてしまう。
「……祐一、機械が壊れる」
 その前に俺の心配をしてくれ。結構、痛いんだから…。
「なぁにを照れとるんじゃ。戦時中なんぞ、付き合いたくても付き合えなかったもんじゃぞ」
 それは何年前の話だ、婆さん。
「出し抜けにそんなこと言われれば驚くのが普通だ!」
「祐一、うるさい」
「俺もそう思ったところだ」
 舞に言われるまでもなく、現実問題として、狭いエレベータ内ではうるさかった。
「ふぇっふぇっふぇ、今から尻に敷かれてるようじゃ先が見えてるのぉ。まぁ、ウチの爺さんもそのおかげで随分と扱い易かったもんじゃて」
 俺はその爺さんに親近感を覚えざるをえなかった。
 
 エレベータを降りた後も何かと突っかかってくる婆さんを家まで送ると、俺達は舞の家に入る。
「ったく、なんなんだぁ?あの婆さん。やたら突っかかって来やがって」
 思わず、玄関先で先程までの待遇についての悪態をつく。
「……この前、お孫さんを事故で亡くした………。祐一と同じ学年」
そういえば、一ヶ月ぐらい前に緊急朝会でそんなことを校長が言ってた記憶がある。そのときは、なんでそんなドジのために朝から寒い講堂に整列しなければいけないんだ、と思ってたものだ。
「……人間って気づかない内に酷い事を言ったり考えてるものなんだな」
「祐一の所為じゃない」
 それは多分、正しい。そして、俺の所為じゃないからこそ、酷いことを考えるものなのだろう。
「……とにかく、上がる」
「そうだな」
 靴を脱いで玄関を上がりながら、舞がただいまと言うのを確認して俺はお邪魔しますと続けた。
「あら、いらっしゃ〜い。舞、おかえりなさい。今日は早かったわね」
 玄関を上がってすぐ脇にある居間から美樹さんが出迎えに来た。
「ど、どうも。お久しぶりです」
「は〜いはい、ご丁寧にどうも」
 舞と似た顔で陽気に振る舞われると、ついつい慌ててしまう。かといって親子揃って口数が少なかったら問題なので、これはこれで神に感謝したいところだ。
「……今日は仕事場の都合で早くアガれた」
 舞がワンテンポ遅れて美樹さんに答える。
「そうなの〜……でもなんで祐一君と一緒に帰ってこれたわけ?」
「「えっ?」」
 俺と舞の声がハモる。
「だって、舞が早く仕事が終ったのは予定外なんでしょう?」
 変なところが鋭いのはこういう性格の人間の宿命なんだろうか……。
「あははは、それが、俺が丁度デパートに買い物に行ってたら舞に会いまして」
 隣で立ったまま硬直している舞に「そういうことにしておけ」という意味で目配せをすると、首から上だけを器用にカクカクと動かして返事をした。
「あらあら、運命的ね〜。それじゃ、私は仕事が残ってるからお構いできないけど、ゆっくりしていってね」
「はい!はい!ゆっくりさせてもらいますとも!それじゃ舞、行こうかぁ〜」
「……私の着替えが終るまで、祐一はお母さんと話してて」
 そりゃないよ、お代官様……人が折角この場を離れようとして頑張ったのに。
「それじゃあ私も休憩にするかしらね。はい、こっちよ」
「……お相手させていただきます」
 俺の持っている荷物を受け取って自分の部屋に向かった舞の背中を見送りながら、これからの処遇にどう対処すべきかで胃を重くする俺だった。
 
 居間の座敷にあるテーブルの座布団の上に美樹さんが緑茶と漬物をお盆で運び終える。
「あら、正座なんかしなくっても良いのよ。――これ、若い人の口に合うかわからないけど、ウチで漬けたものなの。食べてみてちょうだい」
 何故だか知らないが、この人の前だと無用に緊張してしまう。知らず知らずの内に、座布団の上で行儀良く座っている俺がいた。丁度、痺れてきたところなので足を崩して胡座にする。
「そうそう、男の子はやっぱり胡座が似合うわねぇ。どっしりしてて」
「そういうもんですか」
 薦められた漬物を爪楊枝で刺して、ボリボリといただきつつ茶を啜る。なかなかに美味い。何の変哲もないきゅうりの漬物だが、細かく切った酢昆布が上に乗っていて、お茶と合う。
「舞も家だとそうしてるのよ。祐一君や佐祐理ちゃんの前じゃそんなことしないでしょうけど」
 意図的なのだろうか、そうでないのだろうか、今の台詞には含みがある。恐らく後者なのだろうが、どっちにしろ頭が重い。ちなみに胃が重たいのは漬物を食ったら収まった。……などと一人漫才をやってる状況ではないな。
「そういえば今日は珍しく佐祐理ちゃんは一緒じゃないのね」
「ああ、なんせ今日ここに来たのは『予定外』ですから。佐祐理さんに連絡してる暇も無かったんですよ」
「なら仕方ないわよね、なんせ『予定外』ですもの」
「ははは、この漬物美味しいですねぇ」
「あらそう?嬉しいわぁ」
 腹の探り合いのような会話が続く。
 娘に関することを詳しく知りたい母。それを必死で隠蔽する娘の彼氏。
 文章で書くと前者が正しいのだろうが、今の俺の状況では俺の行動が正しいような気がする。
「ところで身体の方は大丈夫なんですか?」
(ボリボリ)
「ええ、最近は内職に変えたから。むしろ体力が余っちゃうぐらいよ」
(ボリボリ)
「それなら舞も安心ですね」
(ズズズ〜)
「私を心配してこの仕事探したのも舞なのよ〜。本当に心配性よねぇ」
(ボリズズ〜)
「全くですよ。だから俺も逆に舞を心配しちゃって」
(ズズボリボリズズボリボ)
「で、お前は何時の間に漬物を食ってるんだ。しかもそれは俺の茶だ」
 気づいたら俺の右手向いの席に正座して、黙々と漬物と茶をやっている既に私服に着替えた舞がいた。
「……もまああんもむめもも、もみみみまま」
「ちゃんと飲み込んでから喋れ…」
「(ゴクン)お母さんの漬物、美味しいから」
「引っ張っておいて俺の質問の答えになってないぞ」
「……祐一、細かい」
 ジロ目で俺を見ながらそう言う舞。
「舞はこの漬物好きだものねぇ〜」
 この漬物をおかずにしてご飯を(黙々と、は既にディフォルトだろう)食べてる舞が容易に想像できる俺だった。
 
 
 談話が続いてかれこれ二十分になる。
「さて、そろそろ部屋に行こうか、舞」
「あら、もうそんな時間?」
「……どんな時間ですか、おばさん」
 何故こうも無意識に意図的な発言ができるんだか不思議でたまらない。 そんな『意図的な無意識の言葉』を言った本人は、俺の言葉を受けてなんのことやらと首を捻っている。
「お母さん、仕事」
 舞の一言で美樹さんが、ああそうだったわね、と言って据え膳を片づけ始める。本当に忘れていたようだ。美樹さんが台所の方へ姿を消す。
「……部屋行こ」
「そうだな」
 舞に連れ立って、彼女の部屋へと向かう。といっても3LDKの間取りなので直ぐに部屋に着いた。毎回来る度に思うことだが、入り口が襖なのがイカスぞ、舞。これじゃあナニしようにも音がダダ漏れだぜ、あっはっはっはっは……。
「入るか」
 気を取り直して襖をスッと除ける。同時に、ゴザの匂いが違和感なく体に染み込む。
「ん〜、日本人って実感が持てるよなぁ」
「祐一、変わってる」
 たしかに、日本人が日本人であることに一々感動するのも珍しい。されど、現代の日本人は日本人な生活なんてしてないんだから別に構わないと思う。
 舞が渡してくれたクッションを尻の下に敷いて座る。これで茶なんぞあったらまったりできるのだが。
「これ、祐一の分」
 目の前に受け皿に乗せられたお茶が置かれる。
「何時の間に急須と茶碗持って来てるんだお前は…」
「……ここにはポットもお茶っ葉も急須もある」
 舞が言いながら指差す方向を見遣ると、前には無かった、よく爺さん婆さんの家に行ったときに見た、ポットと茶碗などを一緒に収納できる小型の棚があった。恐らく、給料で買ったのだろう。
「足が弱い年寄りの部屋じゃあるまいに……それはともかく、サンキュー」
「……そこにあるテレビとデッキはリサイクルショップで買ってきた」
 更に指差された方向を見ると、部屋の角にそれらはあった。
「うお、テレビはともかくデッキはVHSと8ミリテープ両方に録画できるタイプじゃないか」
 無意識に小粋な物を買ってしまったり手に入れたりしてしまうのは、舞の特技の一つだ。ちなみに、8ミリテープは小さいから保存するのにもスペースを取らないし、映画程度の長さならダビングもできる。その上、保存もVHSより効く……が、レンタルビデオをダビングするのは違法だから良い子はやっちゃだめだ。ついでに言えば、悪い子もやっちゃだめだ。まとめて言えば、誰だろうとやるな。
 一応確認してみると、並んでいる8ミリテープのラベルには「〜〜、○曜ロードショーにて」というように、きちんと何がどういった風に録画されてるかが書いてある。嫌味臭いぐらいに違法じゃないことを主張するラベルだな……しかも筆ペンで。もちろん縦書きだ。英語は横書きにしたものを縦にしている。
「むぅ、完璧だ……」
 身を乗り出して確認しながら感心している俺を、後方から何を感心しているのかわからない風にして見ている舞。
「お前、やっぱりすげぇよ……」
「???……それより、早く映画見る」
「そうだなぁ、先ずは『ダンサーインザダーク』からいってみるか。一時期、名作だと雑誌やテレビでも紹介されてたな」
 そう、と興味無さげにレンタルビデオ店の袋から該当作品のビデオを取り出して俺に渡す舞。どうやら他人の評価などは気にしてない様子。本棚には映画雑誌などが詰まってるが、恐らく作品紹介のあらすじなどしか読んでいないのだろう。
「まぁ、とにかく最初はコマーシャルだからな……早送りのボタンどこだ?」
「……私がやるから」
 舞がそう言って、どこから取り出したのか知らんがリモコンを手に早送りをはじめる。昔はいつコマーシャルが終るのかわからずに本編が始まっても気づかずに早送りしたままだったりしたものだが、最近のビデオはちゃんと『これから本編が始まります』とテロップが出てくれる。良い時代になったものだ。
「さて、俺はこの間に菓子の準備でもするか」
「……これ使って」
 またどこから取り出したのか知らないが、リモコンを操作している反対の手で俺に菓子用の入れ物を渡す。それにスナック菓子の封を開けて中身を入れる。
「よし、準備完了」
「……こっちも」
 随分と簡単な準備だが、こういうのが映画の楽しみの一つだったりする。俺の場合、普段は映画を見ない分、こういったちょっとした楽しみが嬉しい。まぁ、舞と一緒というのが一番嬉しい要素と言えるんだが…本人の前では言えたものではない。
 何はともあれ、映画が始まってからは二人とも無言でただただ見ていた。
 
 
「えぐっ……」
「ぬう、色んな意味でテンションの高い映画だったな…」
「…はちみちゅくましゃん…ぐしゅ」
「とりあえず、鼻をかめ。そして涙を拭け。ついでに言えば俺の服でそれをするな」
「………祐一、いじわる」
 それに対してはノーコメントでティッシュ箱を舞に渡すと、必死に鼻をかんだり目元を拭いている。
 それにしても凄かった……。途中途中でいきなりミュージカルになるわサスペンスになるわラストが凄惨だわ……様々な点で他の映画の追随を許さないインパクトがあった。
「舞はいつもこういう映画見てるのか?」
 舞が鼻にティッシュを当てながら、未だ涙目のそれで上目遣いにこちらを見つつ、かぶりを振る。
 何故にティッシュ箱が五箱も部屋の片隅に積み上げられているのかがわかった気がする。美樹さんのことだから凄い勘違いをしてる気がしないでもない。
「舞、気をつけることだな…」
「……何に?」
「魔物は身近にいるということだ」
「……祐一、魔物はもういない」
「いや、あくまで例えだ」
 
 
「さて、次は俺の番だ…ふふふ。何の映画かは見てのお楽しみ」
 途端に舞の目つきが鋭くなる。
「……エッチなのだったら……、斬る」
「安心しろ。俺はそこまで馬鹿じゃない」
 舞の性格・趣味嗜好を知った上でそれをやる奴は大したチャレンジャーだろう。
 
 
「……祐一、覚悟は良い?」
 少林サッカーを見終わった後、隣を見たら鬼がいた。どうやら俺も大したチャレンジャーだったらしい。
 むぅ、舞が怒っているのはシモネタ満載ということなのだろうが…実際は恋愛ドラマが根底のテーマだったりもするわけで…女性というのはわからん。佐祐理さんなどだったら喜んでいたかもしれん。
「わぁっ!待て!そんな事言ってるお前も笑ってただろう!」
 もっとも、笑うといっても精々、口から息を吹き出したり身体を震わせたりする程度だが。そもそも、最後まで文句を言わなかったのは何故だと聞きたい。上げ膳食わぬはなんとやら、がポリシーなのだろうかな。
「……嫌いじゃない……。けど、好きじゃない」
「あ〜、わかったわかった。俺が悪かったよ。今度からは真面目にお前も楽しめる奴選ぶって」
「…わかれば良い」
けど、微妙に笑いを表に出してる舞も可愛かったのでまた借りようなどと思ってしまう俺はやはりチャレンジャーなのだろう。
 
 
「気を取り直して、『オーロラの彼方へ』だ」
「……これが一番見たかった」
「そうか、そいつは楽しみだ……なっ!と」
 喋りながら身を乗り出し、腕を伸ばしてデッキにカセットを入れる。元の位置に体を戻すと、手脇の菓子に手を出した。
「ありゃ、もう無いのか。これで何袋目だ?」
「……四袋」
 お特用のスナック菓子でその量となると……。
「太るぞ」
「………」
 はい、私が悪かったです。だからそんな恐い顔しないでください。お願いします。
 
 
 ―――良い映画だった。具体的なことは知識が無いので俺はわからないが、家族愛というものを上手く表現できてるのではないだろうか。それまでハラハラした展開だった最後の草野球のほのぼのとしたシーンで思わず目が潤んできたぞ。涙を通り越して感動が溢れる。
「親父に手紙でも出そうかなぁ」
 国外にお袋と連れだって仕事に行っている親父のことだ。乗り気だったのはどちらかというとお袋だった覚えがあるのは御愛敬だろう。
「……よく、わからない」
 舞がぽつりと声を漏らす。彼女には父親がいない。父性愛が強調されたこの映画はコンプレックスを刺激するだけだったかもしれない。それでも、素直に感動はしているようではある。
「ん……、けどよ、家族を守りたい、失いたくないっていう感情はわかるだろ?父親の立場になるんじゃなくて、主人公の立場になってみろよ。まぁ、男と女で感じ方は違うけど」
「……そうする」
 納得がいったようだ。
 
「うお、もう七時かよ」
 舞が涙やら鼻水を処理するのに使ったティッシュを必死で片づけながら(誰かに見られたら十中八九勘違いされる)、目の前にあった時計を見た。閉めていた窓のカーテンを手でかきわけてみると、たしかに外はもう真っ暗だった。
「冬だと暗くなるの早いなぁ」
 カーテンから手を引き蛍光灯の垂れ紐を引く。
「……祐一、これからどうする?」
「どうするかな。夕飯食いに一度帰るか……」
 ここからだと水瀬家までそう遠くない。そこで思い出す。
「あっ!そういえば秋子さんに夕飯いらないって言ってあったんだな」
 朝のやりとりを思い出したのだ。尤も、目の前に転がっている菓子の空き袋を見ていると無理に食べる必要性を疑い始める。そこで舞が口を開く。
「…食べていくといい」
「お前を?」
 
 
 ゴスッ
 
 
「痛〜〜〜〜〜……!!」
 舞の手刀が額に打ち込まれていた。ちなみに、先程の台詞は半分本気のもう半分冗談といった配分だった。要するになんとなく言ってみただけという奴である。俺の言語中枢が脳の下垂体に忠実とも言えるが。
「……お母さんがいる」
「いや、そんな真面目に答えなくて良いって……。で、夕飯をごちそうするという意味なのか?」
「わかってるなら変なこと言わない」
 さながら爪と牙を削がれた狼に餌を投げ与えるような提案を俺は飲んだ。返事を聞いた舞が美樹さんにそれを伝えるために部屋を出て行く。
 
 舞がいなくなって暇になり、部屋を見回すしていると、机の上に写真立てを見つける。手にとって見ると、それは俺が持っているのと同じ、秋の落ち葉拾いのときのものだった。俺とは違ってきちんと見える位置に保管してある。写真の内容は三人で一緒に撮ったものだ。
「そういや、佐祐理さんは何やってるのかな」
 今頃は自宅で夕食といったところか。別段、門限があるわけではないらしいのだが「お父様が心配するので夕食までには帰るんですよーっ」と言って、その時間にはいつも帰っている。大学の通学には原付を使っているようだ。一度乗らせてもらったとき、リミッターがカットされているのに気が付いた。佐祐理さん、あんた普段何キロ出してるんだ。
 苦笑いしていると、机とは反対側にある襖が開く音が聞こえた。
「よ、遅かったな……って、その手はどうしたんだ?」
 半身で振り返ってみると、舞の手にバンソウコウが何個か貼られていた。
「……手伝ってたら切った」
「それで追い払われた、と……」
 同じ刃物でも剣と包丁では使い勝手が違って当たり前。それでも、前に美樹さんの料理を手伝ったときよりは上手くなっているらしい。
「……何を見てるの?」
 身体を横にずらしてこちらの手元を見ようとしている。
「ああ、俺と舞と佐祐理さんとで行った落ち葉拾いの写真。勝手に見せてもらってるぜ」
 舞は、別に構わないといった様子で俺の隣に来る。俺はそれに特に何の関心も寄せずに写真をまた見始める。
「昨日なんか、名雪にこの写真を見られてな。夜中まで色々聞かれたよ」
 昨日のことを笑いながら舞に言って、その反応を見ようと思い顔を舞のいる方向に向ける。
 
 時間が痙攣(けいれん)した。
 
 向けた俺の口先には、既に暖かいものが触れている。直感的にそれが何かを理解した俺は、片手で写真立てを机の上に伏せた形で置くと、両手で舞の上腰の背中をあてがう。
 彼女の口元が「それ以上のこと」を求めてはいないことを悟ると、唇を離し、片に彼女の額を埋める形にすると、手を更に周して抱きしめる。最後に彼女の背中をぽんぽんと片手で柔らかく叩く。こうすると落ち着くらしい。
「どうした……、急に」
 彼女の表情を見る事はできない。ただ無言であった。たまにこういうことがある。何の前触れもなく軽いスキンシップでもするように甘えてくるときがある。しよう、と思ってしてるというより、衝動に突き動かされてるといった方が正しいだろうその行為を俺は自然に受け止めている。
 そういったときに共通しているのは、彼女は無言になるということだ。彼女は一見、受け手のようで、それでいて衝動に素直で……、つまりは積極的な面がある。
 欲求。その二文字に舞という人間の全てが現されるように思う。欲するために受け手であり、求めるために積極的なのだろう。
「座るか…立ったままだと疲れるしな」
 壁に背をもたれ、そのまま腰をずり落としていく。「柳線美」といったところか、俺の体にしな垂れかかった彼女の体は柳のようにしなやかでいて、そして綺麗だ。珍しく履いているロングスカートの先から出ている黒いソックスに包れた足が俺にそういう言葉を思い起こさせた。
 先程のように背中を叩くといったことをしばらくの繰り返していると、寝息が漏れ始める。耳に届く音は、舞の寝息とストーブの燃焼音だけだ。
「なんだか俺も眠くなってきたぞ……」
 心地よいメトロノームの音が俺を眠りへと引きずり込んでいった。
 
 
 
 どれくらい眠っていたのだろう?もしかしたらまだ眠っていて、これも夢なのかもしれない。見慣れない顔が愉快そうな顔をして俺を手で揺り動かしていた。夢魔というやつなのだろうか。それにしても舞に似ている。
「――美樹さん!?」
 体を動かそうと思ったが、右肩に重みを感じてそれは叶わない。見ると、舞が先程までと同じような格好で寝ていた。
「げ……」
「仲良くお昼寝ですか?もう夜ですけど」
 ふふふ、と含み笑いをしている美樹さん。口が開いたまま塞がらない俺。まだ寝ている舞。
「滅多に見れないわよ、舞がこんなに良い顔してるのなんて。カメラどこだったかしらね〜」
「おい、起きろ!」
 ゆさゆさと舞の方を揺さ振る。こんなところを写真で撮られたら、一生の語り種にされるのがオチだ。
「……ねむひ……(ぐぅ…)」
「二度寝すな!」
 俺が体を横に素早くずらすと、支えを無くした舞の額が壁をしたたかに打ち、ゴン、という小気味良い音が鳴り響く。
「…痛ひ……」
「あら、起きちゃったわねぇ…祐一君のけち」
「二人とも似たような顔して似たような眼で睨まないでくれ……」
 かたや心底恨めしそうに、かたや愉快そうにしているという違いはあるが、どちらもありがたくはない。
「ところで、夕飯できたわよ」
 どうやらそれが言いたくてここに来たらしい。時計で確認してみると、どうやら三十分程寝ていたようだ。
 そこで舞がすくりと立ち、部屋を出て行く。まだ寝ぼけているらしく、足取りが怪しかった。
「ふふふ、慣れないロングなんて履いてるからよねぇ。あ〜、本当に写真に残したいわ」
 なるほど、そういうことか。学生時代はなんせあの制服である。ズボンより動き易かったのではないか……。
「それじゃ、俺もいただきます」
「どうぞどうぞ」
 先に廊下に出る美樹さんに続いて、俺も蛍光灯の明かりを落としてから部屋を出た。
 
 
 来たときに世話になった居間で食事中、電話が鳴る。舞が煮魚を味噌汁で流し込んでから席を立ち、電話を取りに行った。折りを見て美樹さんに会話を振る。
「いつも夕飯はこの時間なんですか?」
「ええ、舞が仕事を初めてからは大体この時間よ」
「それで、いつもこんなに量があるんですか?」
「ええ、舞は前からたくさん食べてたけど、仕事に行くようになってから、少し早めにご飯を食べて、それから仕事に出るの。だから、夕食は多めに作るのよ」
 半端の無い量である。舞の分だけで、煮魚は大ぶりのものが三匹、酢の物は小さい茶碗にてんこ盛り。他にも数点あり、その全てが通常の1.5倍。舞は既にご飯のおかわりを二回している。
 食費だけで結構な額がかかりそうなものだが、その分美樹さんの取り分が少ない。元々そんなに食べないようだ。
「あの子に合わせて料理を作ると、どうしてもこういう和食の方が都合が良いのよ。たくさん作れるから」
 言われてみれば、洋食よりはこうした和食の方が一度に作れる分量が多い。舞が和食好きなのは、自然なもののようだ。
 そこで舞が戻ってきた。
「祐一、食べたら佐祐理に会いに行く」
「電話、佐祐理さんからだったのか。そういうことなら、もちろん付き合うぞ」
 俺が返事してる間にも、舞は食事を再開していた。
 
 
 
 食事のお礼を言って舞の家を出て、夜の雪道を歩いていた俺は、先に歩く舞に聞いた。
「ところで、佐祐理さんとの待ち合わせ場所ってどこなんだ?」
「……学校」
 予想外。というより選択肢に入るわけのない場所である。
「それって、舞と佐祐理さんが今年の春まで通ってて、なおかつ俺が現在通っている、あの学校か?」
 嫌に説明的な口調なのは動転している所為だ。
「……うい」
 はちみつくまさんの舞ブームは去ったんだろうか?それと、お前がパソコン使えないの嘘だろ?
「ふ〜ん……まぁ、佐祐理さんのことだから何か催しでも企画してるんだろ。初雪記念!三人だけの真夜中の雪合戦!逝き残るのは誰だ!?とかな」
 言ってみて改めて思うが、ありそうなのが恐いところだ。
「……詳しい事は佐祐理に聞いていない」
 振り返りながら歩く舞。危ないなぁ、とは思っていたが、案の定、足を滑らせてころびそうに……なったのだが、取られた足の反動を利用して宙返りをしてみせた。ロングスカートが風を孕み、その姿は美しかった。
「……少林拳をやってればこの通り…」
「お前、なんだかんだいってあの映画気に入ってるだろ…」
 
 
 
 他愛の無いやりとりをしている内に、学校に着く。昨日見たときとは雰囲気が違っているが、懐かしい場所に帰ってきたような感覚を覚える。実際、一年近く前までは一時的にとはいえこの校門をこの時間に幾度となく通っていたわけだが。
 校庭に積もった新雪を月明かりが照らしている。今日は部活動の生徒しか登校していなかった所為だろう、足跡が少ない雪が綺麗に絨毯のように校庭を彩っている。
「舞は卒業以来、ここに来てないんだよな?」
 隣にいる舞が頷く。尤も、卒業生がわざわざ母校に顔を出すなんてのは、余程親しい教師がいる場合か、後輩がいた場合だろう。舞の場合、その両方が当てはまらない。
「それにしても……佐祐理さんいないな?」
 ざっと見渡してみたが、校庭にそれらしい人影はいない。
 
 ふと、表層の雪が風で舞った。
 
 刹那、二階付近の校庭側の窓ガラスが内側から割れる。一枚どころではない。一斉に廊下一つ分のガラスが宙に破片をばら撒いた。月明かりをまといながら雪の上に落ちて行く。
 
「な、なんだぁっ!?」
 たじろぐ身体をそれでも正面に向けていると、舞が学校の建物へと駆けていった。
「おい、舞!」
 足首程度の高さしかない黒革のブーツで雪をはじけとばしながら一人疾走する舞を、三拍子ほど遅れて俺は追い始める。
 
 舞が卒業してからの話だが、学校に警備員の詰め所が作られた。その時期を見計らって設置されたのは、舞へのあてつけにならないようにとの学校側の配慮もあったらしい。
 というわけで、舞は四十代くらいの細身の警備員に捕まっていた。後から来た俺が警備員に事情を説明する。
「俺、この学校の生徒です。散歩してたら丁度ガラスが割れるのが見えて、それで何があったのか確認しに来たんですよ」
 警備員もガラスを確認しに行こうとしていたのだろう、その出足を舞のためにくじかれて、少々ぶっきらぼうに返事をした。
「事情は大体飲み込めたがね、ここは私に任せて、君たちは帰った方が良い。それにこの子は年格好から見て部外者だろう?」
 舞を顎で示す。
「いえ、彼女はここの卒業生です。一緒に散歩してたんですよ。大体、自分の通ってる学校でこれだけの大騒ぎが起きたんですよ?せめて何があったのかぐらい確認しないと、帰っても気になって仕方ないですよ」
 警備員がそれを聞いて納得したようだ。掴んでいた舞の腕を放す。
「むぅ……、よし、私の後についてきてくれ。一応、これから警察が来るから証人になってくれると助かる。生憎と人手が無くて私一人だ。君達を送っていくことはできないからね」
 話の分かる警備員で助かった。それを聞いて顔を見合わせて声には出さず喜ぶ俺と舞。そこで、警備員がそうそう、と口にした。
「それと、私が急いでいる理由はもう一つある。さっき、ここの卒業生だという女の子が一人来てね。どうしても確かめたいことがあるからといって聞かないから、一時間以内に出て行くということで校内に入ることを認めたんだ」
 嫌な予感がした。しかも外れる要素が少ない。
「名前も念のためにここに書いてある…倉田……佐祐理さんだ。知り合いかね?」
 俺達の様子がおかしいことに気が付いたのだろう、そんなことを確かめてきた。
「ええ、友人です!早く行かないと!」
「だから、そうしようとしてたらこの子が……あ〜、とにかく行くぞ!」
 堰を切ったように懐中電灯を灯しながら走っていく警備員の後を追う。
 
 
 
 詰め所がある校庭側棟の階段を足元を確かめつつ上っていく。
「ま〜ったく、この学校は墓地の上にでも建ってるのかね?ここのところ騒動続きでね。あ、これは他の生徒には言わないようにね」
 それなら言わなければ良いのに、と思うが、存外こういう仕事の人は普段喋れない分溜まってるものがあるのかもしれない。
 こんな調子で聞いていた話をまとめると、ここ半年の間にかなりの回数で奇妙なことが夜中に起こっているんだそうだ。水道の水が突然噴き出したり、巡回していると一斉にロッカーが倒れるなどなど…三流怪談のような事のオンパレードだ。舞が俺の方を見つめながら、必死に「私じゃない」という意味なのだろう、視線を送りつづけている。
 頼む、誰もそんなこと露程にも思ってないから、そんな触ったら切れそうな眼で見ないでくれ。
「それでも、実害のあることは無かったから、生徒にも知らせずに内々に処理していたんだ。この間なんて、地盤まで調査してたよ。建物の構造に欠陥でもあるんじゃないか、ってね。おかげで私もちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなったよ」
 ため息交じりに苦笑する警備員の顔にまだ早いであろう皺を見つけて、思わずご苦労様ですと声が出ていた。
 
 とにかく気になるのは佐祐理さんだ。何故ここに来たのか。何故俺達をここに呼び出したのか。それになにより、彼女の身が心配だ。あのガラスの割れ方からして、内部がどうなっているかわかったものではない。
 
 事件があったと思われる三階に着くと、それまで俺と一緒に大人しく警備員の後ろを歩いていた舞が駆け出した。
「舞!?」
 それを追う形で俺も警備員の横を駆け抜ける。
「あ、こら!ったく…」
 流石は警備員。俺の横にすぐ並んだ。階段のある別棟との渡り廊下からガラスが割れたと思われる廊下への角を勢いよく曲がる。
 
 そこには、身構えて臨戦態勢を取っている舞がいた。武器はないものの、体術だけで相手になろうという様子だ。
 その肝心の相手だが、姿が見えない。不振に思って、舞に声をかける。
「なんだ、誰かいたのか!?」
 その途端、舞が構えを解く。
「……もういない」
 そう言う舞は動揺しているように見えた。
「それより、佐祐理さんは…」
 見渡してみたがそれらしい姿が無い。
「私も確認してない……」
 そこで俺と一緒に走ってきた警備員が口を挟む。
「犯人らしい人物の顔、見たかね?」
「……いえ、見てません」
 嘘だな、と俺は思った。あれだけ構えを取りつづけたということは、相手の表情を確認して、残心の必要性を感じたためだろう。
「ふむ、それでは問題は倉田さんだな。トイレに行っていて何があったかも知りませんでした、というのなら良いんだが……」
「それだったら、詰め所の電話を貸してください。携帯電話にかけてみます」
「その方が早い、か……よし、戻るぞ」
 詰め所に戻る間中、俺は舞の顔を見ながら、なんで嘘をつく必要があったのかを考えていた。
 
 
 
「駄目です、電話に出ません」
 警備員に、電話してみた結果を伝えると、真剣な顔になる。
「……言い辛いんだが、この様子だと犯人と一緒にいる可能性が高いね。そろそろ警察が到着するから、そのことも含めて手配を頼んでみるよ」
 俺は佐祐理さんの身も心配だったが、それよりも舞に気をやっていた。警備員が俺達を気遣ってお茶を入れてくれた。
「警察の聴取が終ったら帰った方が良い。心配なのはわかるが……特にそっちのお嬢さん、随分と疲れてるみたいだからね」
 俺から言わせてもらえば、舞の様子は疲れているというより、とりとめの無い考えをしてはそれを否定することを繰り返してる、といった風に見える。
 
 じきに今の時間帯の担当であろう警官二人が来た。意外と早く到着したのは、校舎にあらかじめ取りつけられていた警備装置が本部に連絡を行ったためらしい。警備員が大体の事情を話してくれたので、俺達はそれについて確認を取ってくる警官に返事をするだけで良かった。
 一通り聴取が終ったところで、警官の片割れが連絡や手配等のために先に帰っていく。
「それでは、倉田さんのお宅にはこちらで連絡をするから、君達はもう帰って良いよ。くれぐれも自分達で倉田さんを探そうなんて考えないように」
 そう警官が念を押したのに返事をして、俺達は警備員にお礼を言ってから帰路についた。
 
「……舞、なんで犯人の顔を見てないなんて嘘をついたんだ?」
 俺の質問を聞いて、舞の表情が変わる。いつもは眠そうに細い目をしているそれを見開く。
「やっぱりな」
「……卑怯者」
「おいおい、それはないだろう?俺だって佐祐理さんが心配なんだ、隠し事するそっちが卑怯ってもんだろ!」
 俺の怒鳴り声で舞が俯く。
「……悪い、大声出したりなんかして」
 今ばかりは、雪を踏みしめる音が耳障りに感じる。
「今晩は俺が一緒にいてやる。だから、佐祐理さんのことは警察に任せろ。ほら、今からでも遅くないから警察行って本当のこと話そうぜ」
 舞の手を取って警察の地方局がある駅前に歩き出そうとしたが、舞が足を踏ん張ったために阻まれた。
「おい……何を意固地になってんだよ?」
「……言えない」
「いや、だから、俺も一緒に話してやるって。驚いてつい嘘をついてしまいました、なんてことを言えば……」
「そうじゃない!」
 珍しい舞の大声で、つい握っていた手を離してしまう。俺は舞の方に向き直る。
「…何がそうじゃないなんだ?話してくれよ」
 舞はしばらく俯いたままだったが、じきに頭を上げて真剣な表情で俺に言った。
 
「……祐一は、人の願いが叶うわけないと思ってる?」
 
「はぁ?なんだそりゃ。俺が聞いてることと関係―――」
「いいから答えて」
 俺はため息をしてから、答えることにした。こいつのことだから何かしら意味があることなのだろうと思ったからだ。
「それって、億万長者になりたいなぁ、とか、有名になりたいなぁ、とかっていうやつか?」
 舞が首を振る。どうやらそういった何気ない願望ではなく、純粋な願いのことのようだ。
「ん〜、……そうだな、真剣に願えばそれが行動に移るだろうし、結果的に叶うんじゃないかな」
 また、舞が先程よりは振りが少ないが首を振る。正解に近づいているようだが、そういうことでも無いらしい。苛立ちを通り越して、とことん付き合ってやる気になってきた。
「よし、これならどうだ。真剣に願えば何かしらのことが起こるってことか?」
 ちょっと曖昧に答えた方が当たり易いだろう。どうやら今度は正解らしい。
「……けどよ、願うだけじゃ何も変わらないだろ?」
 そう、頭の中で考えるだけで何かが変わるのだったら、世の中どんなに楽かしれない。
「………祐一の言いたい事はわかる。だから、世界はそれを罰する」
 世界?こいつの言いたい世界ってのはどういう世界のことだろうか。
「人間は世界に生かされているだけ。そんな人間が世界の仕組みを変える事を願ってはいけない」
 なんとなくだがわかってきた。要するに、無茶苦茶なことを願えば罰(バチ)が当たる、ということなんだろう。罰(バチ)なんて言葉を使うのは、小さい頃以来だろうか。
「舞の言いたいことは大体わかったけどさ、そんなことあるわけ―――」
 ない、と続けようとしたところで、舞が哀しそうな顔をしていることに気が付いた。
 そうだ、あるわけがない、とこの俺が言えた義理だろうか。だって、目の前にいるじゃないか。その罰で十年間も苦しんだ女の子が。
「あるわけないわけないよな」
 日本語の文法として明らかにおかしい言葉だが、これが俺なりの自嘲の言葉だった。
「それはそれとして、今の話と佐祐理さんが何か関係あるのか?」
 そう、それが肝心だ。
「……弟」
 
 一弥
 
 舞の言った弟という単語で咄嗟に思い出したのは、佐祐理さんの弟の名前だ。既に死んでいる。俺の混乱は無視して、舞は更に続ける。
「……あれは佐祐理の弟」
 自分の頭に一喝するつもりで言葉を吐く
「それってお前が見た犯人が佐祐理さんの弟ってことか!?でもなんでお前が……」
 
 なんで舞がその顔を知ってるんだ?
 
「………なんとなく」
 
 どべしゃっ!!
 
 思わず足を滑らせて後頭部から雪道にこけてしまった。肘をついて上体を起こしながら舞に怒鳴る。
「さんざん思わせぶりなこと言っておいてそれか!!」
「……私のなんとなくは伊達じゃない」
 差し伸べられた舞の手を取って、起き上がる。背中についた雪を落としながら、今の舞の台詞を頭の中で反芻する。
「たしかに、お前のなんとなくって当たってる場合が多いよな」
「……嬉しくないけど」
「まぁそうだろうな」
なんとなく嫌なことが起こりそうな気がする、と思ったが最後、それが当たってしまうわけだから。
「……それに、祐一と同じぐらいの背丈だったけど…佐祐理に聞いた事がある特徴と同じ」
「わかりやすいのか?その特徴って」
「……犯人が逃げるときに見えた首の後ろに、傷があった……佐祐理の家は、代々長男が産まれるとそこに傷をつける」
首筋に予め傷をつけることによって、二度と首に傷が付かない、つまり首を落とされることが無いようにする、という話は日本史の授業で教師が脱線したときに話していて、面白い話だったのでノートにメモした覚えがある。何の役にも立たないことばかり覚えている気がする。
「倉田家ってそんなしきたりができるほど古い家なのか……」
 代議士やら市長やら国会議員やらを代々輩出しているとかいう話はこの間の地方局の番組で見た覚えがある。
「……って、それじゃあ今ごろ倉田家は大騒ぎだろうな」
 別に名家でなくても自分の家の娘がいなくなったら大騒ぎなのだろうが、規模が違う。下手をしたら警察のケツまで叩いているかもしれない。
「まあ、ありえないことが起こってるわけだし、警察には捕まえられっこない。そうだろ、舞」
いつものように頷く舞。何かしようとするとき、こいつに納得してもらえるだけで心強く感じることができる。それだけは、一年前から変わらないことだった。
「とはいえ……、これからどうしたら良いんだよ」
「……今日は一旦帰る。そして、明日は佐祐理の家に行く」
 胸ポケットに入れてある小型の懐中時計を取り出して時間を確認する。これはこの前の誕生日に親父が自動車講習所用の授業料と一緒に送ってくれたものだ。何故かイタリア製らしい刻印があるのが謎である。親父、お袋、今どこにいるかを俺は教えて欲しいんだが。 俺の希望に、送り先の書かれていない封筒は応えてくれなかった。
 時間はもう十一時を過ぎていた。
「そうだな、今から佐祐理さんの家にいってもどうせ大騒ぎで相手にされないだろうし……。明日になったら佐祐理さんと弟について何か手がかりになるものがないか調べに行こうぜ」
「……明日が休みで良かった」
 舞が呟くように言う。仕事のことなのだろう。
「何言ってんだ。明日が休みだろうと休みじゃなかろうと、佐祐理さんのためなら関係無いくせに」
 俯いた舞の顔を、額を小突いて持ち上げる。
「はちみつくまさん」
「おいおい、即答されてもそれはそれで社会人として大丈夫か心配になるだろ」
わっはっはっは、と声を上げて笑う二人。舞は声だけ合わせていたが、一応、笑ってはいるらしい。
 そのとき、ガラリと周りの家の一件の二階窓が開く。
 
「だぁーーー!夜中にいちゃついてんじゃねぇ!ガキはとっとと帰れ!!」
 
 住宅街のど真ん中だったのをすっかり忘れていた……。舞の手を取って走り出す。
「お、雪がまた降って来たぜ」
 真っ暗な空からは産み落とされるように雪が降り始めた。走りながらではあるが、舞がきょとんとした顔で雪を目で追っている。
「……明日は、祐一と佐祐理と一緒に見たい」
「よっしゃあ!気合入れてくぞ!」
 走るスピードを上げる。向かうは舞の家だ。今から水瀬家へ帰っても、秋子さんが早合点して鍵を閉めてる可能性が大だ。俺はそんなに遊び人に見えるんだろうか。その点、舞の家ならば舞の帰りを待って鍵を開けているだろうし、舞は合鍵を持ち歩いているから問題ない。
「……祐一、遅い」
 途中で舞に逆に引っ張られる形になってしまったのが情けない限りだった。
 
 
 
 舞の家に上がると美樹さんが、先ずは暖かいお茶でも飲みなさい、といってお茶を入れてくれた。お茶請けはもちろん先の漬物である。説明は俺に任すとばかりに舞はボリボリと漬物を食っている。こんな時間にそんなに食うなよ。
 
「―――というわけで、大変だったんですよ」
 俺から、佐祐理さんの弟云々を省いた説明を美樹さんにすると、風呂上がりであろうパジャマ姿に羽織っている半纏を直しながら口を開いた。
「それじゃあ、お布団敷かなくっちゃ♪」
 ごふっ。思わずお茶を湯飲みに吹き返す。
「あらぁ、大丈夫?」
 とりあえず咳をして呼吸を整える。
「もっとなんかこう、佐祐理さんの心配とかの言葉は無いんですか?」
 とりあえず話を逸らす……どうやら布団を一枚にすることに御執心のようだが。
「佐祐理ちゃんなら大丈夫よ」
 あっけらかんと言う美樹さん。何故だか知らないが根拠も無いのにここまで説得力のある言葉はそう無い。
「なんとなく、だけど」
 親子そろって予知能力者ですか?舞と同じ台詞を聞いてそんなことを考えた。
「ところで、お風呂と着替えはどうするの?」
「あっ……」
 言われて初めて気づく。北川のような男友達の家に泊まるのと同じように、風呂に入らずに雑魚寝するのとはわけが違う
「ん〜、下着とかはどうしようもないんで、お風呂だけいただきます」
 どうせ布団に入ってしまえば肌着と下着だけでも問題は無いだろう。
「祐一君さえそれで良ければ私は構わないわよ」
「それじゃあ、舞、風呂は先に入ってくれ……って、もういないし…」
 どうやら、風呂、という単語が出た途端にいなくなっていたらしい。
「祐一君、お布団敷くの手伝ってもらえるかしら?」
 美樹さんの体を気遣う意味で、同意する。
 
「で、やはり舞の部屋に俺も寝るわけですか……」
 言われるままに布団を敷いていると、舞の部屋には敷布団と掛け布団が二つ並んでいた。
「今日は耳栓して寝ないといけないかしらね……」
 この世代の女性は一度走り始めると制動が効かないものらしい。舞が風呂から出てきたので、入れ違いに俺が風呂に入った。
 
 
 少し狭い気がする浴槽に、かけ湯をしてから入る。足は伸ばせないが、体は全体は収まる浴槽の湯に首まで浸かって、今日あったことをまとめはじめる。
 
 何度考えても引っかかるのは、佐祐理さんの弟である一弥のことだ。舞の言葉から察するに、それは佐祐理さんの願いによるものである可能性が高いといえる。
 
 では何故、佐祐理さんは俺達を学校に呼び出したのだろうか?
 
 何故、学校なのだろうか?
 
 そして、何故、ガラスが割れ、佐祐理さんと一弥はいなくなったのか?
 
 これらが解せないのだ。舞のやつも何を考えてるのかわからない節がある。何も考えていない可能性もある。少なくともわかったことは、俺ができることは舞の手助けをしてやるくらいだということだけだった。
 
 浴槽から上がり、髪と体を順に洗い始める。シャンプーを使おうと思い容器に手を伸ばすと、自然石鹸成分配合、というラベルが目に入った。
「……なんでそんなに石鹸に拘る」
 舞は昔から髪を洗うのにも体を洗うのにも石鹸を使っていたらしい。高校に入って佐祐理さんと出会ってから、彼女のアドバイスでシャンプーに替えたとのことだった。
 シャンプーを洗い流し、次にリンスを使い、更にそれを洗い流す。
 次に体を洗おうとタオルに手を伸ばして気づく。これを使っていいのだろうか、と。このタオルを使って美樹さんはもちろんのこと舞も体を洗っているわけで。かといってそんなことを気にするような歳でもないわけで。
「ま、いっか」
 ごめんよ母さん、俺は心の不潔よりも体の清潔を取るよ……。
 薄っぺらい罪悪感に悩まされながらも体を洗い終え、風呂を出た。
 
 
「寝るの早っ!」
 髪を乾かしてから舞の部屋に戻ると、舞が布団に入って既に寝息をたてていた。俺のためにつけておいてくれたであろう明かりとストーブを消すと、湯冷めしない内に俺も布団に入った。二人の敷布団がくっついてるために、下手に寝返りでもしようものなら夜這い容疑が確実にかけられる。疲れているのでじきに眠れるだろうと思っていたが、甘かったようだ。
 寒い。流石にトランクスと肌着だけでは寒い。布団の中で動き、少しでも中の空気を暖めてみるが、今度は動いている所為で余計に眠れなくなる。
 そんなことを繰り返していると、隣の舞が起きたらしい。丁度、舞の方に顔を向けたときに目が合った。眠そうな目でこちらを見ている。一文字に結んでいる唇で、不満そうなのがわかった。
「仕方ないだろ、寒くて寝れないんだからよ……」
そう言いながら、気まずさから舞のいる方向とは反対側に寝返る。
「……祐一」
「なんだよ」
 背中越しに舞に返す。
「実は私も寒い」
「なんでだよ。お前は俺と違って長袖に長ズボンのパジャマ着てるじゃないか」
 実際、肌寒さが無いだけでも随分と違うものだ。
「……つけてない」
「あ?」
「…………ブラジャーつけてない」
 以前、聞いたことがある。女性の中には、寝るときにブラジャーをつけるのを嫌がる人がいる、と…。
「まぁ、それはともかく、お前は今までどうやって寝てたんだよ」
そうだ。毎日つけてないんであれば、今までどうしていたというのだ。
「……祐一の上に乗ってる布団、普段だれが使ってると思う?」
「あ、そういうことか」
 どうりで布団を敷いてるときに、冬にしては毛布と布団一枚ずつというのは少ないと思うわけだ。俺の分の布団を調達するために、舞が普段使っている布団を俺が使っているわけだな。
「悪いことしたな」
 俺は、舞の方に向き直って謝る。
「……いや、私も泊まってほしかったから……。佐祐理が心配で一人じゃ寝れそうになかった」
 男としての感動で涙が出てきそうだよ、父さん……。今日はやけに親父やお袋を引き合いに出すな、俺。普段は親父とお袋の「お」の字も思い出さないくせに。
「んじゃ、俺そっち行って良いか?その方が暖かいだろうし、俺の分の布団をかぶせればなお良しだぜ」
「………別に構わない」
 舞の返事を待って、我ながら器用なもので、自分が被っていた掛け布団一式を舞の上に移動してから、枕を掴んで寝たまま隣の布団に自分も移動すると、肘に柔らかいものが当たった。
「……って、おい。なんでこっち向いてるんだよ」
「……言われてみれば」
 と言いつつも、布団の端に寄っただけでこちらを向いたままの舞。俺の肘に当たったのは胸らしいが、気にしてない様子だった。
「お前、わざとだろ」
「……寂しい」
 言葉通りの表情で言われると、俺も無碍にできない。
「わかったわかった。ほれ、もうちょっとこっち寄れ。布団から落ちるぞ」
 俺の言う通りに舞がしたところで、舞の背中に横向きになっている体の上になっている手を回した。
「どうだ、これなら寝返って落ちることもないだろ」
「……うん」
 久方ぶりに聞いた、俺の教えたあの阿呆な言葉ではない肯定の言葉。別に俺の前だからって無理をする必要は無いのだ。それを嬉しく思いながら、暖かい温もりを感じつつ眠りについた。
 
 
 
 人間、同じ失敗を繰り返すのは仕方の無いことだろう。それでも、反省と改善する努力は必要だ。だが、ついついその場の状況に流されてその二つを忘れてしまうこともあるわけで……。
 
「祐一君、何をさっきからぶつぶつ言ってるのかしら?」
「いえ、なんでもありませんよ。おはようございます、美樹さん」
 目を覚ましたとき、目の前に女神がいた。爽やかさを意識して挨拶をする。開かれたカーテンからは昨日と同じように清々しい陽なのであろう、陽光が射している。
「今日も良い天気ですね〜、HAHAHAHAHA」
「そうねぇ〜……ああ、そうそう、写真はもう撮りましたからね」
 言いながら俺に、片手で持っていたレンズ付フィルムを見せる。美樹さんは俺の悔しそうな表情を確認した後、軽い足取りで部屋を出ていった。
 
 一緒に仲良く布団の中で寝ている俺と舞の写真が美樹さんの手に……。しかもよくよく見てみれば、舞の胸元がはだけている。更に周りを見てみれば、舞が夜中に鼻をかむのに使ったと思われるティッシュがゴロゴロと落ちているといった有り様。
 今や美樹さんの脳内では、俺と舞との情事が美樹さん的な脚本で公演を開始していることだろう。
 秋子さん(神)に誓って言おう。あの後、俺と舞は本当に寝付いた。ああ、こんな羽目になるなら寒くても我慢して寝れば良かった……。
 
 俺と美樹さんとのやり取りの間も、舞は寝続けていた。思い出してみれば、昨日は働いた後にそのまま俺と遊び、そして例の事件だ。疲れていないはずはなかった。
 このまま寝かせておいて、俺だけで倉田家に出向こうとも思ったが後々のことを考えてみれば舞がそれを良しとするわけがない。これから予想される事態の大変さを考えると、あと二時間ほどは寝かせてあげようと思い、それに付き合うことにした。
 そう思ってみたは良いものの、二十分ほどして舞が目を覚ました。
「……おはよう」
 俺の手の腕の中でもそもそと動かしながら手を布団から出すと、それで眼を擦る。
「なんだ、もう少し寝てれば良いのに」
「……いつもこの時間に起きてるから」
 うつ伏せに体を返して、枕元のジャケットを引っ掴み懐中時計を取り出す。時間は九時を少し過ぎたところだった。
「なるほど。いつも通りってわけだ」
「……佐祐理のこと以外は」
 そうか、そうなんだよな。佐祐理さんの一件が終るまでは、俺達のいつも通りなんてのはそれを誤魔化すためのものにしかならないんだ。
「よし、起きて、飯食って、倉田家に行くぞ!」
「……おー」
 テンションはそのままに、声だけで調子を合わせてくる舞。その後、俺が布団をどかしたときに自分の胸元がはだけているのに気づいて、何かした?という視線で俺を睨んだのが辛かった。それはお前が寝てるときに俺の片肘に自分の胸を押しつけてた所為だろうが……。
 
 
 
 美樹さんが作っておいてくれた朝飯を二人で食べた後、準備をして直ぐに舞の家を出た。
「さて、と。倉田家はどこだったか……」
 実は俺は佐祐理さんの家の位置を正確に覚えていない。大体の方向はわかるのであるが、それだけで、地方の都市の所為なのか一度道を間違えると全然違うところに行ってしまう。ここは舞に頼るしかない。道すがら色々と目に入るものをこの際だから覚えてしまうことにした。ついでに雪のつもり具合なども確認してみると、昨日の夜、学校から俺と舞が帰るときに降り始めてから止まなかったようで、昨日にできたであろうあぜ道の上にそれを埋め立てるようにして雪が積もっていた。舞の格好はというと、昨日とは違う柄で黒に近い色のロングスカートに、白のネックセーター、それに丈の長い黒いコートを羽織っている。
 雪道に汗を額に滲ませながらも倉田家の門前に着いたのは、午前十一時少し前という時間になってからだった。街の人間には「ものみの丘」なんて呼ばれている場所とは反対側の山沿いに位置している。山にめり込むような建て方がされているのは、何か意味があるのだろうか。案外、山の中が基地になってたりしてな。そんな馬鹿げた思考の遊びを無くして玄関前を見まわしてみれば、警察関係者が来ているのであろう、地味な色の一般乗用車が数台、通り沿いに駐車されている。
「祐一、早く」
「了解了解っ」
 舞が呼ぶので、考えるのを中断して側に寄る。車が二台は一度に通れるくらいはある幅の門の横にあるインターホンを舞が押す。律義な声がスピーカから漏れ聞こえてきた。使用人のようだった。それに舞が応対する。
『ええ、警察の方から聞いています。旦那様がお会いになるそうなので、どうぞお上がりください』
 すると門の横にあるドアのロックが外れ、わずかに開く。金持ちといっても限度があるようで、庭はそれほど広くはない。とはいえ、一般家庭と比べると十分広い。端から端まで、八十メートルあるかどうかといったところだ。
 芝に埋められている石畳を歩いていくと、玄関がある。通りに面している門こそ立派だが、邸内の建物自体は質素で、造りも一般的なコンクリート住宅と変わらない。土地の広さと建物の規模が大きいだけだ。
「おじゃましまーす」
木製の扉を開けると、舞が先に入り、続いて俺も入る。玄関には、いつも来るたびに会っている五十歳ぐらいの使用人のおばさ んがいた。どうやら、この人以外は使用人として雇っていないらしい。
「こんにちわ、相沢です」
「……こんにちわ、川澄です」
俺達二人が挨拶すると、向うが恭しく返す。
「はい、どうぞ上がってください。奥の方で待っていていただければ、旦那様がじきに行きますので」
 それでは、ということで玄関を上がる。奥、というのはいつもここに来ると佐祐理さんとお茶を飲んだりする場所のことだ。その部屋の位置はわかっている。
 使用人のおばさんの顔を去り際に横目で確認したが、かなり疲れている様子だったのが印象に残る。奥へと向かいながら、舞にそのことを話すと「私もそう思った」とのこと。想像するに、昨日から寝てないといったところだろうか。
「こんなときにお邪魔しちゃって、悪かったかな?」
 俺の言葉に、舞が首を振る。
「……仕方がない」
 その言葉は尤もで、ここに来る以外に『仕方がない』。佐祐理さんが舞の言うように願いによって一弥と関わることになったのだとしたら、学校から去った後にどこに行くかを考えなければならない。そして、考えようにも手がかりが無いためにそれすらできないのだ。
 奥の部屋に入ると、ソファの適当なところに座る。暖気の通った部屋と、歩き疲れていることもあって、このまま寝てしまいたい衝動に駆られる。佐祐理さんの親父さんを待っている間に寝てしまうのは失礼極まりないので、改めてこの部屋の中を見回してみる。
 といっても、絵画などがあるわけでもなく、ティーカップなどが入った大きな棚以外にはこれといって目に付くものがあるわけでもない。裏庭に面した大きなガラス戸から見える、陽光に照らされている雪を被った植木ぐらいしか見る物が無い。いわゆる成金趣味などとは無縁のようだ。
 そして目の前にはお茶と菓子。つい先ほど、使用人のおばさんが持って来てくれたものだ。乾いた喉に紅茶を一杯、と思ってカップに手を伸ばそうとすると、手が弾けた。隣にいた舞の手刀が入ったらしい。
「いてぇなぁ……」
「……ここにはお茶を飲みに来たわけじゃない」
「わかったよ。けど、一口だけ飲ませてくれよ。喉が乾いちゃって乾いちゃって」
 普段は食いしん坊の癖に。佐祐理さんのことが心配で、気が立っていることが原因のようだ。
 押し黙っている舞の様子に恐々としつつ親父さんを待っていると、じきにドアのノブが音を発てた。
「お待たせした。警察の方々が中々放してくれなくてね」
 歯を見せて苦笑いしながらそう言う親父さんの印象は、前に一度会ったときから変わっていなかった。長身に三つボタンの無地の紺色をしたスーツを着ており、映画などで見る一昔前の日本人的な紳士を思い起こさせる。顔は長くて四角く、髪は短髪に刈り揃えてある。こういった親父さんなら、佐祐理さんが尊敬するのも無理からぬことだろうな。
 上座に座り込むと、無精髭の生えた顔を引き締めてから口を開いた。
「今日はわざわざ来てくれてありがたい。正直言って、佐祐理のことばかりが心配で頭がおかしくなりそうだったんだ」
 親父さんと佐祐理さんは父子家庭だ。本当だったら今頃は街中を走り回ってでも自分の娘を探したいに違いない。
「いえ、俺達もこんなときにお邪魔しちゃってすいません。けど、ここに居れば佐祐理さんが戻ってきたときすぐに会えると思ったんで……」
 半ば嘘である。ここでじっとしているだけでは何も解決しないのはわかっている。それでも、舞が調子を合わせて頷く。
「そこまで心配してもらえるとは佐祐理も幸せだ……。ところで、君達は昨日、事件の現場に佐祐理に呼び出されていたそうだね」
「ええ、舞が佐祐理さんからの電話を受けて、それで俺も一緒に学校へ行ったんですよ。そしたら……」
 それから先は言わなくてもわかると思い、言葉を区切った。親父さんは納得したように、ソファに座り直す。
「……結局のところ、佐祐理がなんでもう卒業した学校なんかに行っていたかはわからないわけだな……。警察もどうやらそれに今回の事件の手がかりがあると思っているみたいで、色々と聞かれたが……私にもさっぱりでね」
 親父さんがスーツの内ポケットから煙草を取り出して、それに火をつける。吐き出された煙の量が、疲れの大きさを表わしているように感じられた。
「いや、すまん。君達にこんなことを愚痴っても仕方の無いことだ」
 火のついた煙草を片手に持ちながら、頭を振る親父さんは見ていて痛々しかった。
「……それで、おじさん、頼みがあるんです。佐祐理さんの部屋に入らせてもらって良いですか?」
 本題に入る。手がかりがあるとしたら、佐祐理さんの部屋だろうというのが俺と舞の共通見解だった。
「ああ、別に構わない。先程、警察も何か手がかりになるものが無いかと探してたが、結局何も見つからなかったそうだ……。さて、私はそろそろ戻るよ。今日は遠いところ済まなかったね」
 親父さんが立ち上がり、部屋を出ようとしたところで、それまで黙っていた舞がソファから立ち上がって声を出した。
「佐祐理のお父さん……佐祐理は、必ず戻ってきます」
 親父さんがノブに手をかけながらこちらに振り向く。
「ありがとう、川澄君。私も元気が出たよ」
 そう言った親父さんの顔には、自嘲めいてはいたものの、笑顔があった。
 
 
 
 ぱちぱちと、親父さんに啖呵をきってみせた舞に拍手を送る。
「いや、立派立派。今のは俺の舞名語録に記録されたぞ」
「……あのままだと、佐祐理のお父さんが心配だったから」
 たしかにそうだ。下手したら、心労で参ってしまいかねなかったからな。
「さて、と。早いところ佐祐理さんの部屋に行くとするか」
 紅茶の最後の一口を流し込んでから席を立った俺に、舞が続く。今までいた部屋を出ると、階段を上って佐祐理さんの部屋へと向かった。
 
「何度見てもぱ〜ふぇくとな部屋だな」
 以上が佐祐理さんの部屋に入った俺の感想だ。
 
 板の間だと思われる部屋の床の上に敷かれた綺麗な暖色系の絨毯。
 整理された本棚。
 機能性を重視しながらも可愛く仕立てられた机周り。
 立派な木製のベッドに替えたてのシーツ。
 枕元にある女の子らしいぬいぐるみ。
 おまけにパソコンまである。
 
 いわゆる女の子らしさというものが具現化したような、一種の理想とも言える部屋だ。もっとも、理想に近いということはそれだけ個性が無くなるわけで、佐祐理さんの部屋からは彼女が何を考えているのか想像がつかない。
「それにしても、何を探したら良いんだ?」
 いざとなってみると、何が手がかりになるかも考えていなかったことに気がつく。
「……祐一は本棚を。私は机を見てみる」
 言われた通りに俺は本棚を漁ることにした。アルバムや日記などが見つかれば良いのだが……。気になっているのは、既に警察が部屋を調べたということだ。プロが探しても見つからなかった物を、果たして素人の俺達が見つけることができるだろうか?
 
 とりあえず、計六段ある本棚を上から順に見ていく。
「え〜と『役立つ心理学!』『株式市場の動向で見る経済・改討版』『世界の今』……どれも手がかりになりそうにないな」
 それはともかく、俺には縁の無さそうなごつくて分厚い本ばかりだ。佐祐理さんの頭の中がどうなってるのか、一度覗いてみたいものである。
 しばらく探してみたが、これといった物は見つけることができなかった。よくよく考えてみれば、本棚なんて人目のつくところに手がかりになりそうな物をしまってあるはずもない。
 一方の舞の首尾はどうか聞いてみることにする。
「お〜い、そっち何かあったかぁ?」
「……ない」
 見てみると、机の全ての引き出しが開け放ってあった。どうやら全ての引き出しを調べ終えたらしい。やはり、警察が探しても見つけられない物を探し当てるなんて無理か……。俺は半ば諦めかけたが、それでも舞は一所懸命に机を漁っている。
「おい、他を当たろう……」
 舞の腕を捕まえたが、振りほどかれた。
「……あのなぁ、必死なのはわかるけど…」
 もう一度、舞の腕を掴む。しかし、先程より強く振りほどかれ、その反動で開いていた引き出しの一つが机から外れて床に落ちた。中に入っていた物が飛散する。幸い、絨毯のおかげで大きな音は発たずに済んだ。
「……こら、いい加減にだな―――」
 聞かん坊と化している舞を俺が叱ろうとしたところで、舞が声を上げた。
 
 
「……あった」
 舞が、片手に「日記〜佐祐理〜」というラベルが貼ってあるフロッピーディスクを持っている。
「おお!……でも、見つかったのは良いけどさ、どこにあったんだろうな、これ」
 先程までこんなものは無かったはずだ。
「……祐一、ここ見て」
 舞の指し示した、落とした引き出しが収まっていた上には小さな収納スペースがあった。そこには、他にも日記のラベルが貼ってあるフロッピーが収まっていた。どうやら、引き出しが外れた反動で中に入っていたフロッピーが落ちてきたらしかった。 推察するに、部屋を荒らさずに探そうとする警察のプロ意識が災いしたのではないか。そう考えると、舞の荒っぽさが事態を好転させるきっかけになったことは、誰かのいたずらにしては洒落が効いたはからいのように思えてくる。
「余程、見られたくないことでも書いてあるんだろうな、この日記……」
 数にして十枚近くになるフロッピーが見つかる。かなりの文章量であることが予想されるそれを見るために、パソコンの電源を入れた。
「ん〜……あ、駄目だ……このパソコン、パスワード設定してある」
 パソコンの前で思わず舌打ちをする。
「……よくわからない」
「要するに、佐祐理さん以外は使えないってこと」
 舞が俺の答えに納得する。さて、それは良いのだが……。
「……それで、どうするの?」
 そう、パソコンが使えない以上、別のパソコンを使うしか無い。
「お、そうだ!お前の家のパソコンを使おうぜ!」
 
 
 
 あの後、フロッピーを全部拝借した俺達は「用事を思い出した」ということにして佐祐理さんの家を出て、舞の家へと大急ぎで戻った。途中、買い込んだ昼飯代わりの弁当を頬張りながら、美樹さんに頼んで使わせてもらえることになったパソコンの前で、佐祐理さんの書いた日記を読んでいた。
「この弁当、意外とイケルな」
「……ここよりも、あの店の先の角を曲がって三キロ行ったところにある『ほんわか亭』がオススメ。ここのは少し米が硬い」
「いや、個人的には商店街の脇道にある『猿渡弁当』の方が―――」
 どっちかというと今は弁当を食う方が先決のようだった。なんせここに着いたのが午後二時寸前という、昼飯時を明らかに過ぎた時間だったものだから、致し方のないことだった。
 
 
「別に変な文章は無いよな、今のところは」
 どうやら過去三年間分がフロッピーとして保存されていたようだ。最初に読み始めたときは律義に一日一日を読んでいたが、今では一ヶ月単位で飛ばしながら読んでいた。
「これで、舞と佐祐理さんが高校を卒業した頃までは読んだことになるわけだ」
 途中途中で俺と舞との関係を的確に突いた文章があり、二人で唖然となったものだ。
「……これを見たこと、佐祐理には黙ってよう」
「同感」
 そんなやり取りをしながらも日記を読み進めていくと、それまでは一つ一つの文章が詰めて書かれていたものが、段落や空白を入れられて書かられるようになっていった。
 
 書く、というよりは、語っている、に近い。丁寧で語調的だった文章ではなくなり、無個性で、歌の歌詞のようになってきていた。
 
「舞、気づいたか?やたらと『あの子』って単語が使われてるのに」
 あの子。これで指しているのは恐らく一弥なのだろう。佐祐理さんの頭の中では既にそれが代名詞と化していて、一弥という単語が意味を成していない。
 もしかしたら、何かの総称かもしれない。
「……それだったら、祐一の名前も増えてる」
 舞に言われたことを確認するために、一週間分ほど溯ってもう一度確認してみた。
「えっと、……あ、本当だ」
 あの子、という単語と、祐一さん、という単語が入れ替わっただけのような文章がときどき挿入されている。
「あ〜〜〜、……なんか考えても仕方のないような気がしてきたぞ。事件直前あたりのやつを先に読んじゃおうぜ」
 佐祐理さんにだってブルーなときもあるだろうし、そういう心情で書かれたものを正しく理解するのは難しい。誤読したりすれば、却ってややこしくなる。
「……はちみつくまさん」
 舞の返事を聞いてから、最新分と思われるフロッピーと、ドライブに入れてあるフロッピーとを差し替える。
 ファイルを開いた瞬間に飛び込んできたのは、既に文章を為していない、正に文字の羅列だった。かろうじて単語になっているのが幸いである。
「……なぁ、これかなりやばくないか?」
「……佐祐理」
 確認できた単語は、祐一さん、一弥、声、届く、届いた、転移、可能性……の七つ。それくらいだった。それが半ば不規則に並んでいるのだから性質(タチ)が悪い。
 
 ブラウザクラッシュにも似た毒々しい文字の羅列を表示しているウィンドウを消すと、思わずため息が出た。
 結局わかったのは、佐祐理さんの精神状態がかなり危険であることと、肝心の手がかりが全くわからないということだけだった。
 
「……これからどうするよ?」
 日記を見た所為もあるが、手がかりが見つからなかったのもあり、気が重い。佐祐理さんを早く見つけ出す必要性を十二分に理解した上で、その方法が考え付かないのだから、焦りもある。時間はといえば、午後の五時を過ぎており、既に外は暗くなっていた。なんせ、かなりの文章量だったからな。
 
「……人目に付かないところ」
 
「あっ、そうか!」
 舞の一言で気が付いた。警察が手配している以上、佐祐理さん、或いは佐祐理さん達が人目に付くところにいるはずもない。
「ここらで人目に付かない場所ってーと……!」
 俺がその場所に心当たりがあるような反応を示したのを舞が気づくと、二人でゆっくりと言葉を紡いだ。
 
 
「「ものみの丘」」
 
 
 再開発のおかげで、街全体が住宅やビルなどで埋め尽くされていたのが幸いした。ここらへんで人目に付かない場所といえば、昔からずっとある、ものみの丘以外には無いのだ。
 
「まったく、なんで最初に気づかなかったんだろうな」
 舞の言うところには、それは結果的に良かったんだそうな。もし、俺達が佐祐理さんの精神状態を把握せずに彼女を見つけ出していたとしたら、事態は収拾せずにむしろ悪化する可能性が出てくるからだ。
「……それに、あの日記を読まなかったら、佐祐理が人目につかない場所に行くなんて考えもしなかった」
 なるほど、佐祐理さんは警察に手配されているのを知らないはずだ。だから、俺の先程の「警察に手配されているから、人目につく場所にいない」というのは間違っていて、「人目につきたくないから、そういった場所にいる」というのが正しい。
 
「それで、一弥と一緒にいると思うか?」
 俺の懸念に、舞は頷く。眼には確信を得ているような気配すらある。
「……佐祐理は目に見えることしか信じない。逆に、目に見えるものは全て信じる」
 要するに、自分の願いが叶った、その証拠として一弥が目の前にいる、となっているのだと思われる。
「となると、素手で良いのか?」
 一弥が敵対心を見せることは十分にありうることだった。
「……佐祐理は敵じゃない」
「そうだったな」
 佐祐理さんを信じることにしよう。
 
 それはそれとして、疑問がある。一弥はどういった存在なのか、ということだ。
 
 佐祐理さんだけ目に見えるのか、それとも俺達にも見えるのか。
 幽霊のような実体の無いものか、それとも実体なのか。
 
 二組の疑問があるが、どちらも後者だった場合、佐祐理さんの精神的なものが原因とは言えなくなる。舞が一弥を見たと言っていたのだから、後者である可能性が高いのが現状だった。
 
「……もしかして、俺達ってかなり無謀なことやろうとしてないか?」
相手がどんな奴かもわからないのに立ち向かおうとしているのだ。無謀を通り越して浅はかと言って良いかもしれないな。けど。――
「やってみるしかない」
ま、一年前なんて魔物なんていう目に見えない奴を相手に死に掛けたこともあるわけだし、そう考えれば今回の方が楽だ。
「そうだな」
そうして、俺達はものみの丘へと出発した。
 
 
 
 歩くこと四十分弱。既に雪は止んでいるにも関わらず、誰にも踏まれていない新雪だけがものみの丘を覆っていた。それはある種狂気地味たこの空間を辺りに紛らそうとする悪魔の所業のようにも感じられる。
 
 ものみの丘。昔から化け狐が出ることで知られている、曰く付きの場所だ。
「俺、ここに来たの初めてだぜ……こんなに不気味な場所だったとはな。来なくて正解だ」
 丘の周りは今通ってきた道以外は森になっているし、自然のままの木々がそびえたっている。雪が枝から落ちてはねる姿は、まるで地獄へ手招きしているような感じさえ受ける。
「……でも、今ここにいる」
「それを言うなよ……」
 道を知っているために先を歩いている舞にはぐれないよう、足首まで埋まる雪の中をズボズボと間抜けな音を発てながら丘の頂上へと向かった。
 
 
 
「「いた」」
 予想的中。佐祐理さんはいた。頂上の平らになっている土地の雪の上に小さなビニールシートを敷いて、そこに座っている。どうやら一人のようだが……。
「佐祐理!!」
 舞が駆け出す。途中で何度も雪に足を取られながらも、佐祐理さんの元へと走っていく。俺もその後に続く。その姿は、一昔前のB級ホラーサスペンスであるファーゴのラストシーンを彷彿とさせる。さしずめ、舞が犯人で俺がそれを追う刑事といったところか。 たしかあの映画のラストは。――思い出そうとしたところで、佐祐理さんが声を出して俺の思考を遮る。
「ふぇーっ。舞に祐一さんだ」
 今回の事件の当事者は、やたら呑気ないつも通りの声を上げた。
「……佐祐理、帰ろう」
「そうだよ、佐祐理さん。こんなところにいたら風邪引いちゃうって。親父さんも心配してるし……」
 俺達は佐祐理さんが見つかったことが嬉しくて、今までのことなんか忘れてしまったかのように安心していた。
「……なんでですか?」
 様子がおかしい。目がこちらを見ているにも関わらず、もっと先を見てるようなトロンとしたものになっている。
「……佐祐理?」
「なんでって……。だから、俺達も佐祐理さんの親父さんも心配して……」
 
「なんで佐祐理が舞や祐一さんや、お父様のために帰らないといけないんですか?」
 どうやら、理由そのものが納得いっていないらしい。「なんで」を連続して使う様は、屁理屈を言う子供のようにも感じた。
「……佐祐理、帰ろう……。ここにいたって何も無い」
 舞が、佐祐理さんの隣に膝をつきながら手を差し伸べる。佐祐理さんは、ゆっくりと首を振った。
 
「何も無い……ですか。そうですね、何もかも無くしてしまいましたから」
 あははーっ、という笑いを浮かべながら、そう言った佐祐理さんの顔は痛々しかった。
「それに、舞?」
「……何?」
 
 
「そこは一弥の席ですよ」
 
 
 佐祐理さんがその言葉を吐いた刹那、舞がこちらに吹き飛んだ。反応できずに、舞にぶつかれる形で俺が尻餅をつく。
「舞!?大丈夫かっ!!」
「……なんと…か」
 
「そう、ここは僕の席だ」
 
 聞きなれない声がした。舞に向けていた顔を、声のした方向。佐祐理さんのいる方向に向ける。
 背丈は俺ぐらい。髪の毛は大人しそうなストレートヘア。ゆらりとした物腰。格好はスーツ姿で、最も強烈な印象を与えているのは、そのスーツの所々が傍目にもわかるほどに血塗れだったことだ
 
「……一弥…」
「あいつがかっ!?」
 舞が呟いた名詞が、俺の頭を強烈にシェイクし、それが収まるとようやく言葉が出せた。
「おい、てめぇ!いきなり人様の彼女を吹き飛ばすとは良い根性してるじゃねぇかっ!!」
 第一声がこれなのだから、つくづく俺も馬鹿だ。
「おやおや、乱暴なのはどっちなのやら……ねぇ?お姉ちゃん」
 一弥が後ろに座っている佐祐理さんに向かって言う。
「……一弥、遅かったね」
「ああ、気に障るものが近づいてくる気がしてね。探してたんだよ」
 恐らく、俺達のことなのだろう。
「こっちに来てから、感覚が鋭敏になってるんだ……今、凄い気分が良いよ」
 こっち?こっちってどっち?あっちこっちそっち……って、俺はこんな状況で何を。とにかくも、舞を立たせた後に俺も立ち上がる。こちとら聞きたいことが山ほどあるんだ。
「佐祐理さん、一弥は死んだんじゃなかったのか?」
 五メートル程離れている佐祐理さんに問い質す。
「……死にましたよ」
 他に音が聞こえない所為か、佐祐理さんの声は小声ではあるがはっきりと聞き取れた。
「それじゃあ、そこにいる一弥は誰だ」
 目線を佐祐理さんから一弥と呼ばれている奴に映す。俺と佐祐理さんの会話を聞いているようで聞いてないといった風だ。
「死んでない一弥です」
 意味がわからない。一弥という人間はこの世界に一人のはずだ。死んだ一弥と死んでいない一弥。その両方が同じ世界に存在して良いわけがない。しかし、そんな理屈を今に論じても話が進まない。
「その、死んでない一弥、がここにいる理由は?」
 今にも邪魔をしそうな一弥を、視線で圧しながら質問を続けた。
「一弥は、あっちの世界ではなくこっちの世界を選んだんですよ」
 また、あっち、こっち、か……要領を得なさすぎて、わけがわからない。
「そのあっちだとかこっちってのはなんのことですか!?」
 
「さっきから五月蝿い奴だね……」
 それまでは黙っていた一弥が口を開く。
「お姉ちゃんが嫌がってるだろ……お前もオヤジと同じようにバラしてあげようか」
「なっ……!」
 その言葉に、息を呑んだ。
「ああ、そうそう、こっちのオヤジは生きてるんだったか。後でバラさないとな」
 それを聞いて、俺はある仮説を思い付いた。自分では確証が持てなかったので、舞の方に振る。
「……なぁ、舞。もしかして、あっちとかこっちって……」
 間違い無い、といった風に頷いた舞から出た言葉は、俺の仮説を肯定するものだった。
 
「あれは、別の世界の一弥」
 
 とりあえず、佐祐理さんと一弥の言っていることから考えることができたことを整理してみる。
 あっち、そっち、というのは世界のこと。
 一弥は「あっち」の世界の人間で、「こっち」の世界では死んでいる一弥とは別の存在であること。
 舞を軽く吹き飛ばすほどの力があること。
 
 そして、「あっち」の自分の父親を殺していること……。
 
「御名答。オヤジをバラしたとき、僕はやたらとハイになってねぇ……意識が飛んだんだよ。気づいたらこっちにいた。最初はわけがわからなかったぜ……」
 実際、今もハイになっているようだ。ぺらぺらと色々と喋ってくれた。
 
 気づいたら学校らしい建物にいたこと。
 目の前に佐祐理さんがいたこと。
 舞に見られて逃げたこと。
 
「それで、一弥と一緒にここでずっとお話してたんです。少し寒かったですけどねーっ」
 嬉しそうに話す佐祐理さん。一弥の空気に飲まれているかのように、饒舌だ。恐らく、こっちの一弥には与えられることのなかった思い出でも聞いたに違いない。
「舞も祐一さんも……私を邪魔物扱い。だから、寂しかったんですよ」
 それを聞いて、ハッとする俺だったが、それよりも隣で音を発てて歯ぎしりしている舞に気づいて、それに気を遣っていた。
「けど、もう私には一弥がいます。代わりなんて求めなくて良いんです」
 雲行きが怪しい。それも、大粒の霙(みぞれ)が降り始めてもおかしくない程に。
 
「ですから、死んでください。人間の代わりになりきれなかったお人形さんは捨ててしまった方が良いですから」
 
「佐祐理!!」
 聞くに堪えなかったのか、舞が佐祐理さんに近寄ろうとして、大きな破裂音がした。次の瞬間、舞がひざまづく。スカートには血が滲み付いていた。
 
「お姉ちゃんの言う通り♪」
 一弥の手には、一丁の拳銃があった。
 
 舞を撃った……のか?
 経験したことのない音と状況にうろたえる思考と体に叩きを入れて、とにかく舞に駆け寄る。
「舞、大丈夫かっ!?」
「……かなり大丈夫じゃない………」
 弾は貫通していたが、右太股の脇から出血しているようだった。この様子だと、立たせることもできない。
「オヤジをバラしたときと同じ。一つ一つ体の自由を奪ってやるさ」
 楽しそうに、本当に楽しそうに喋る。既に一人を殺している所為か、罪悪感すら消し飛んでいるらしかった。
「てめぇ!」
「動かないように。こいつのトリガーはお前らの命と同じくらい軽いんだ……。先ずはその女からバラさせてくれよ………。くはははは」
 俺に向けられた銃口に、何も言えなくなる。
 
 状況は絶望的だった。まさか、相手が銃を持ってるなんて考えもしなかったし、佐祐理さんがあそこまで破壊的になってるなんて想像もできなかった。
 迂闊としか言えない。今は隙を伺うくらいしか、俺に出来ることは無かった。
 
「あはっ、そうだ。一弥、覚えてる?」
 佐祐理さんが『いつも通り』の笑顔で言う。
「なに、お姉ちゃん」
「昔、私がお人形さん遊びをしてるとき、一弥がやりたがったのに貸してあげなかったよね?」
「ああ、そんなこともあったね」
 
「……だから、今度は貸してあげる」
 
 会話だけを聞いていれば、普通の姉と弟の会話でしかない。しかし、それが余計にこの状況の異常さを浮き出たさせていた。
「そうか……そうだね、折角お人形さんがあるんだから貸してもらうよ…」
 そう言って、一弥が舞の腹に足を置く。
「かはっ……あ…」
 舞のうめき声を聞いて、思わず体が動いてしまう。
 
 先程と同じ破裂音。だが、俺に痛みはない。
 
「動くなって言ったのに……そんなに彼女を早死にさせたいの?」
 見れば、舞の左肩に血が出ていた。急所を外しているのはわざとのようだ。こいつ、楽しんでいやがる。俺を狙わないのも、舞を傷つければ俺が苦しむことを知っているからに違いない。舞にしても、小口径とはいえ、あの至近距離で撃たれればかなりのものだ。
 目を閉じて、痛みをかみ殺している舞の顔を、直視できない……。
「まぁ、早かろうが遅かろうが、今夜中に死ぬんだけどね」
「ふざけるな!」
 体を犠牲にしてでも、銃を手から放させるために体当たりをする。
 
 また破裂音。今度こそ俺が撃たれたことだろう。しかし、またしても痛みはなかった。
 
 ――また舞が!?
 
 
 しかし、破裂音で驚いて閉じていた目を開けると、目の前には銃を持っていた右手の指が数本ばかり吹き飛んだ一弥がいた。
 
 暴発?
 
 
「まったく、夜中にパンパン五月蝿いわよ。ま、私もあまり人に言えた義理じゃないけど……ね、祐一?」
 
 そう言って、ふっと雪から溶け出したように現れたのは、雪女のような白い衣装を着た真琴……沢渡真琴だった。こいつは一年前ぐらいに俺を街中で襲っておいて、記憶喪失だとか抜かして秋子さんの了承の元に水瀬家に居候していた。だが、俺が舞と出会ってしばらくが過ぎ、気づいたときにはいなくなっていた。
「真琴!?……でも、お前なんでそんな格好で……、第一、なんでここにいんだよ!」
 ふふん、とふてぶてしく笑ってみせてから、真琴は答える。
「実は私、狐なのよ。キ・ツ・ネ。こんこ〜ん、ってね。んで、ここらへんが私の住処なの」
「お前、悪い冗談がますます上手くなったな」
 生憎と今は冗談なんぞ聞いてる余裕はない。
「あ、そう。んじゃ、これ見てもそういうこと言えるわけ?」
 途端に、真琴が狐に……いや、化け狐というやつか?もう絶滅した日本狼ぐらいの大きさもあるそれになり、尻尾も普通の狐よりも数が多かった。
「……まじ?」
『まじよ。おおまじ』
 呆気に取られている俺の頭の中で声がした。正に化け狐。テレパシーだろうとなんだろうと、なんでもありのようだ。
「ってことは、今の拳銃の暴発もお前がやったのか!?」
『そう。銃の筒の中を氷結させてやったの』
 それを言い終わると、種明かしをした手品士のようにおどけながら、また人の姿になる。
 
「なんにせよ、危なかったわねぇ。私だって、死んだ人間を生き返らせる、な〜んて奇跡は起こせないんだから。もうちょっと考えて行動してよね」
 そして真琴、キッとした目つきで、未だ痛がっている一弥に目線を移した。
「あんた、私の友達に手を出そうなんて、良い根性してるわね」
 真琴が一弥の相手をしてる隙に、舞を引っ張ってきた。その際にも血は出つづけていて、一秒でも早く病院に連れて行く必要性を痛感する。
「舞……舞!すまん、何もしてあげられなくて……」
「……い……い。助けようと……して、くれ……ただけで……も……」
 真琴が俺達のやり取りに気づいて、こちらを見る。
「ああ〜、これ、やばいね……よし、血だけは止めてあげられるから」
 周りの雪が舞った。それが止んだときには、舞の出血が止まっていた。
「お、おい、……これって」
「あくまで、止めただけだからね。これが済んだら早く病院に連れて行かないと」
「……真琴、サンキュ……」
 舞の命が助かる見込みが十分に出来たことと、真琴の好意に対して、俺が言えたのはそれだけだった。
 
「一弥!一弥!!」
 佐祐理さんが一弥に涙を流しながら寄り添っている。右手の様子は絶望的だった。指はひしゃげ、特にひどい親指と人差し指、それに中指部分は肉ごと吹き飛んでいる。
「痛い、痛い、いたい、イタイ……!!」
 感情の起伏が極端すぎる。安定していないのだ。それが、右手を失ったことによって顕著になっていた。
「祐一。あいつ、どうすんの?」
 真琴が聞いてくる。
「あいつを元の世界に戻すことってできるか?」
 それを聞いて真琴はしばらく唸りながら考えていたが、じきに結論に達したようだった。
「できないことはないよ。あいつがここにいるのは、あそこの女の子があいつを望んだから。だから、あの女の子があいつを否定すれば、元に戻せる」
「そんないい加減でいいのか?」
「何言ってるのよ。あいつがここにいること自体、十年に一度あるかないかの『可能性の表裏』っていういい加減な現象の所為なんだから。いい加減な方法以外に何があるってのよ」
 十年に一度でこういう現象が起こるのは、ある意味高確率だと思う。
「わかった……、それで頼む」
 
「はぁ?馬鹿言わないでよ。私に、あの女の子にあいつを否定させられると思う?」
 真琴の答えは、俺の期待していたものとは大きく違っていた。
「大体ねぇ、あんた人を頼り過ぎなのよ。ここに来るときだって、そこで倒れてる舞って子が何かあってもなんとかしてくれる、って思ってた。違う?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 違わなかった。必死に言い訳を求めようとした自分を情けなく感じる。
 俺の「なんとかなる」は「誰かがなんとかしてくれる」というのと、なんら変わりはなかったのだろう。
 
「違わないみたいね。わかったら行動しなさいよ、このスケこまし〜」
 べ〜、と舌を出す真琴に、怒りどころか感謝を感じながら、俺はゆっくりと佐祐理さんに近づいた。
 
 雪が鳴る。ここの雪は、色んなものを吸い込んでいることだろう。
 
 佐祐理さんの涙。佐祐理さんの喜び。佐祐理さんの思い出。
 
 舞の血。舞の献身。舞の愛情。
 
 それら諸々のものが、雪の音となって俺の体に吸い込まれていくように感じる。
 
 佐祐理さんの前にたどり着いたとき、彼女はまだ一弥の名前を呼びながら泣いていた。目線を合わせる様にして、その前で膝を付く。
「佐祐理さん……最初に、ごめん……何も言わなくて良い。けど、俺の言うことを聞いてて欲しい」
 
 俺は話した。たしかに、佐祐理さんのことをなおざりにしていたこと。自分達のことで精一杯で、佐祐理さんの苦しみに気づいてあげることができなかったこと。
 
 だけど、佐祐理さんのことを考えない日はなかったこと。今回のことを水に流すことはできないけど、友人として大事な人であることに変わりは無いこと。
 
 そして、ここにいる一弥はあくまで「あっち」の一弥であって、「こっち」の一弥の代わりにはなれないこと。
 
「そんなことないです!一弥は一弥です!!」
 俺の言葉を聞いて、泣きじゃくりながら一弥を抱きしめる佐祐理さん。
「だって、一杯お話をしました!色んなこと聞きました!!」
 止めど無く、言葉は溢れ出す。
「この子は一弥です!神様が頭の悪い私に与えてくれた、一弥です!もうどこにも行かせたくありません!!」
 俺に説得は無理なのだろうか……そう諦観しかけたところで、真琴に支えられながら歩いてきた舞が俺の言葉を補う。
「……佐祐理……、一弥は一人だけ……。あなたの心の中にいる一弥は……代わりがきくほど安っぽい人間……なの?」
「そんなこと……ないです。けど、一弥は一弥……」
 舞の諭すような口調で、幾分か落ち着いたのだろうか?声が大人しくなってきている。
「そう……一弥は一弥……そして、そこにいる一弥も一弥……だから、元の世界に戻さないと、向うの佐祐理が悲しむ……」
 俺が思い至ることが無かった、向うの佐祐理さんのことまで心配することができる舞は、本当の意味で佐祐理さんの親友なのかもしれなかった。それを一度でも疑ったことがある俺は、自分が恥ずかしくなった。
「向うの……私が?」
「そう、向うの佐祐理……私が知ってる佐祐理じゃない佐祐理……けど、佐祐理は佐祐理……だから、例え自分のお父さんを殺されても、佐祐理ならいつか許せる……だから、返してあげて……向うの佐祐理と、ここにいる一弥の可能性を返してあげて……」
 そこで舞が、げほっ、と吐血する。内臓にまで傷が及んでいるらしかった。
「舞、もう喋るな!」
「……今、喋らないと……後悔、する、から……」
 俺は頷くと、俺の膝に舞の頭を乗せさせる。
「そんなに喋りたいなら、ここで喋れ」
「……はちみつくまさん」
 これで幾らか楽になったはずだ。
「舞……なんで……?こんなにひどいことしたのに……」
 佐祐理さんの表情には、後悔の色が出始めていた。
「佐祐理だけが悪いだけじゃないから……特に私が悪かったから……だから、罰(バチ)が当たっただけ」
 ここまで具体的な痛みを伴う罰、か。それを罰と言いきってしまうのだから、恐れ入る。
「……ごめん、ごめん……」
 
 佐祐理さんがようやく納得してくれたかもしれなかったそのとき、一弥が猛然と佐祐理さんを掴み、一メートルほど遠ざかった。
 
「止めろ!僕はあんな世界に戻らない!戻りたくないんだ!!」
 恐らくはスーツの内ポケットに入っていたであろう、小型ナイフを無事な左手で取り出し、腕で掴んで人質にしている佐祐理さんにそれを突きつけた。
「あんた、まだ懲りないの?こっちは穏便に済ませてやろうってのに……」
 それまでは静かに俺達のやり取りを聞いていた真琴が、怒気というよりは呆れを孕んだ声で一弥に言い放った。
「可能性だって?笑っちゃうよ……僕にはもう向うの世界で可能性なんて無い!オヤジを殺せば、全てが変わると思った……けど違った!ただの犯罪者だ!可能性なんてあるわけ無いだろ!?」
 
「ふざけるなっ!!」
 
 それまでは余裕を見せていた真琴が、明らかに素で怒る。
「自分で自分の可能性を狭めたり広げたりできる人間が何を言うのよ!私たち狐には、食うか食われるかの限られた可能性しか与えられていないのよ、それを何、また自分で可能性を狭めようっての!?」
 そう、少なくとも、向うの世界に戻れば犯罪者という烙印を押されるとしても、存在は認められる。しかし、こちらの世界にいる限り、その存在そのものすら認められないのだ。それを可能性の破棄以外にどう解釈できるだろうか。
 
「……一弥、戻ってあげて……。向うの私にその顔を見せてあげて」
 佐祐理さんが押さえつけられた喉元から声を絞り出している。
「お姉ちゃん……、ごめん、そんなことできないよ。……だって、僕は殺しこそしなかったけど、向うのお姉ちゃんを傷つけたんだ………」
親父さんを殺した後だろうか、前だろうか。後者だとすれば、それを見た親父さんが怒ったことが殺害の原因かもしれない。どんな背景があったかは知ることはできないだろうが。
「大丈夫。私が言うんだもの。……信じてあげて、向うの私を」
一弥がナイフを落とす。それを一応は拾い上げる真琴だったが、その必要が無いように感じている風である。そうして、彼女は去っていった。
 
「お姉ちゃん……。お姉ちゃん、ありがとう……。ありがとう……。僕、頑張るから。こっちのお姉ちゃんのこと、忘れないから」
 消えていく。抱き合う二人の内、その片方が足元から消えていく。雪がそれに吸い上げられるように、舞い始める。
 
「一弥……私こそ、ありがとう………」
 その佐祐理さんの言葉は一弥に聞こえたのだろうか?多分、聞こえたんだろう。彼の最後の顔は、笑っていたから。
 
 
 
 雪が舞っていた。その光景は、ただただ、心に感じ入ってばかりで、何も感想を口に出せないほどだった。
 
 雪が舞っていた。もう戻りはしない時間の歯車を笑うように、喜ぶように。それはとても辛いことだけど、そうでなければならなかった。
 
 雪が舞っていた。子供の頃には感じられなかった、美しさという感情が心に湧き出る。子供の頃とは感じ方が変わっただけだった。それに見合った見方があった。捉え方があった。
 
 大人になりたかった。子供の頃の希望は、大人になって確かに絶望に変わったかもしれない。けど、新しい希望がすぐに見つかった。それだけのことだった。
 
 雪が舞い下りた。どんよりとした厚い雲から。そこには、子供の頃に大人になる頃を夢見た三人がいただけだった。そうでなければならなかった。
 
 
 
   〜後日談〜
 
 あの悲劇から二週間が経った。あの後、気を失った舞を大急ぎで佐祐理さんと一緒に近くの国立病院に連れて行き、手当てをしてもらったところ。―――
「こんなに完璧な止血、どうやったの!?」
 そんな看護婦さんの台詞が、とてもおかしかった。まさか、狐に化かされました、とは言えなかったしな。
 
 そして舞の手術が始まってすぐに佐祐理さんを家までタクシーを呼んで乗せ、俺は美樹さんに舞のことと病院を教えてから警察に行き「恋人が撃たれたが人質になっていた友人は無事。犯人には逃げられてしまった」という適当な報告をした。担当してくれた警察のおっちゃんには「勝手なことをするから危ない目に合うんだ!まぁ、ちゃんと彼女に謝っておくんだな。男としてな」と、お叱りを受けた。
 
 その足ですぐさま病院へと戻り、待合室にいた美樹さんと合流した。「あの子、大丈夫かしら」と珍しく弱気だった美樹さんに「大丈夫ですよ。舞ですから」と言ったら、笑ってくれたのが心の救いだった。
 
 結局、手術は成功した。全治二ヶ月とのことだった。どうやら、懸念した通り内臓もかなりダメージを負っていたらしい。麻酔が効いたままだったが、手術室から手術台に乗せられて出てきた舞を見た途端、涙が止まらなくなった。
 
「舞の意識が戻るまでは俺は帰らない!」と水瀬家にことの経緯と共に電話したところ、早速、秋子さんと名雪が着替えと食事を持って来てくれた。
「う〜、祐一、無事で良かったよぉ〜」
 夜中で既に寝てたのだろう、半分寝ぼけていた名雪が抱き着いてきたのをなんとか引っぺがすと、今度は秋子さんと美樹さんが声を合わせていった。
「「責任は取りましょうね♪」」
「高校卒業するまで待ってください……」
 
 翌日の昼過ぎ、舞の意識が戻った。医者の説明によると、術後の所為で体が痛むらしいが、特に問題は無いとのことだった。
 
「舞……、ごめんな、お前ばかりこんなことになって」
「……牛丼特盛五人前」
 そう言った舞に思わず抱き着いてしまったところを、美樹さんに写真で撮られたのが唯一の後悔すべき点だった。
 
 次の日、俺が学校から帰る足で病院に行くと、舞の職場の人達が大挙して押しかけてきた。
「おい、俺に一発ぶん殴らせろ!!」
「ちょ、ちょっと、舞ちゃんの見てる前“では”止めなさいよ」
「お前ら!ここは病院だぞ、ちったぁ静かにしろってんだ!!」
 最後にそう場を沈めた主任が一番うるさかった。後日、おっちゃんは俺に充てて一通の手紙を舞に託す。それは、素人お笑い芸披露会の第一次審査通過の通知だった。舞にとっては退院後の楽しみができて良かったのだが、俺はこのカップルがブラウン管に出ることに自分のことながら心配する羽目になる。
 
 学校では北川や香里に色々と説教をいただいたし、散々な一日だった。これから街を歩くときは、背中に注意することにしよう。
 
 舞が入院して三日目、俺が病室を訪ねると佐祐理さんが舞と楽しそうに談話していた。まだ気まずさはあったが、それでも良好な関係は維持できたようで、嬉しかった。やはりこの二人はこうであってほしい。これまでがそうであったように、これからも。
 
 もちろん、俺もそんな二人に関わって生きていきたかった。
 
 確かに、彼女のしたことは許されることが無いものもある。けれど、それを踏まえた上で彼女とこうして付き合いたいのだ。それならば、何人にも責められる謂れは無いだろう。
 
 そんなこんなで日々が過ぎ、今日はクリスマスイヴだった。午前中にあった、佐祐理さんの「舞へのプレゼントを買うのに付き合ってほしい」という申し出に賛成し、一緒に金を出し合って、前回の舞の誕生日と同じに、ぬいぐるみを買った。
 今回は巨大アリクイではなく、なんかよくわからん、とにかくでかい、そして青い、それでいてなんともいえない「うにゅぅ」な感じの表情をしたものを買った。名前は知らん。
 
 その後、午後三時に病院で落ち合う約束をして別れてからボケ〜っと商店街を歩いていたら、肉まんを売っていた……。
 
 
「というわけで買ってきたぞ、真琴!」
『祐一、気が効くねぇ』
 ものみの丘について奴の名前を呼ぶと、頭の中で声がして、辺りを見回すと足元にでかい狐がいた。
「おいおい、折角ここまで来てやったんだから、人間の姿になってくれよ」
『まぁ、この格好だと肉まんも食べ辛いからね。よいしょっと!』
 やけにおばさん臭い声を出すと、真琴が人間の姿になる。相変わらず雪女スタイルだ。
「その格好って、なんか決まりでもあるのか?」
「ああ、周りが雪でしょ?白い着物が一番イメージし易いのよ」
「ってことは、夏とかだと緑色の服になるってことか?」
「そういうこと」
 俺の頭の中では、自衛隊の制服っぽいものが想像されている。意外と似合うかもしれないな、夏が楽しみだ。
 とにもかくにも、袋から肉まんを取り出して、涎を口に溜め込んで待ちわびている真琴に渡す。
「ほれ、走ってきたからまだ暖かいぞ」
「わぁ、ありがと、祐一」
 はむ、とおもむろに肉まんを頬張る。
「あ〜、久々のシャバの味だわ。美味い!」
「お前、何歳だよ……」
「女に歳を聞かないの」
「へいへい」
 
 食べながら、真琴が前にいなくなったときからどうしていたのかを聞いた。最初、何かの目的があって俺に関わったらしいのだが、それを忘れてしまっていたらしく、それで居候していた。しかし、途中でそれを思い出して、けど、もうどうでもよくなってて、それでこの丘に帰ってきたとのことだった。
 それからは、ずっときままな野良暮らしを満喫していたらしい。
「ねぇ、祐一」
「なんだ?」
「この丘が、なんで『ものみの丘』って呼ばれているか、知ってる?」
 既に食い終わった肉まんの代わりに、俺が持ってきたお茶を飲みながら真琴が聞いてきた。
「いや、知らない。まぁ、大方、ここからの見晴らしが良いから、ってとこだろ」
 実際、ここから眺める街の様子は絶景だった。この街全体が見渡せるといっても過言ではない。
「半分正解」
「もったいぶらないで教えろよ」
「私たち化け狐はね、物事を人間と同じように考えたり、判断したりすることができる。けどね、それだけなの。人間の社会に関わったりはできないし、しちゃいけないの」
 人間にもルールがあるように、こいつらにもルールがあるようだ。
「でも、お前この間は俺達を助けてくれたよな」
「そ。だから、長老様に怒られたわよ。けど、異常現象を解決したってことでチャラにしてくれたけどね」
 ただでさえ年齢がわからないこいつらの長老……いったいどれほどのものか見てみたい気もするな。
「話を元に戻すよ。それで、私たちはここから人間達のすることをずっと見てきたの。それで、ものみの丘。この間のあれなんて凄かったわよぉ。実はあのとき、見物してた仲間が一杯いてね。大騒ぎだったんだから」
 真琴の話し方が上手い所為で、ついつい笑ってしまいながらも、納得した。真琴みたいな奴の仲間のことだから、さぞ不謹慎で、それでいて愉快な「大騒ぎ」だったことだろう。
「それで納得がいったよ」
「なんの?」
「あのとき、お前が一弥に怒った理由」
「そう」
 素っ気無く答えた真琴は、照れていた。
 
「さて、俺はそろそろ行くよ。佐祐理さんを待たせるわけにはいかないしな」
 尻も冷えてきたし、と心の中でぼやきながら、腰を上げる。
「私に会いに来るときは、一ヶ月に一度くらいにしてね。あまり頻繁に会うと、長老様に怒られちゃうから」
「安心しろ、俺にお前に構ってる暇はそうそうできないから」
「ははは、ひっどーい」
 屈託なく笑う真琴は、多少大人びたけど、やっぱり真琴のままだった。
「それじゃな」
「うん、それじゃあね」
 丘を下りながら、途中振り向いて、大声で真琴に礼を言っておいた。
 
 は〜あ、それにしても俺の周りってなんでこう変なことが起こるんだろうな。
 
 
 ま、考えるだけ無駄かな。
 
 
 
「あの若いの、まだ気づいておらんようじゃったな」
「長老様、それはあいつに言わない方が良いよ……」
「そうじゃのぉ、まさか、『お前は妖しのものを引き寄せ易い因果律の元に生まれてる』なんてことは言えんしのぉ……」
「知らないから耐えられることって、あると思う」
「お〜〜〜、お前も言うようになったのぉ」
「えへへ」
 
 
 
   完
 
2002年12月25日・初稿
2003年11月27日・改訂

SS選択ページへ戻る
 
 後書き
 
 長ぇええええええええええええええ!!!!!
 なんじゃぁこりゃぁ!?
 
 はい、お疲れ様でした。ここまで読んでくれた貴方には感謝を。途中で挫折した奴には毒電波を。
 初KANONのSSという今回の作品ですが、初っ端から長編です。今年最初の雪が降った日、ついKANONのことを思い出してレッツプレイ。栞にしよっかなぁ、舞にしよっかなぁ、と迷うこと一分。舞に決定し、シナリオを改めて読み直しました。
 泣きました。いい年こいて泣きました。けども、舞と佐祐理さんの関係というのは実に謎が多すぎたのです。正直、現実に照らしあわせて考えると、長続きしないタイプの友人関係です。
 今回の作品は、その関係に揺さぶりをかけようという魂胆のもと執筆しました。まぁ、私の趣味の所為で佐祐理さんが毒な台詞吐くわ、舞が痛い目を見たりするわで「お前本当にKANONファンかよっ!」と突っ込まれそうですが、私はKANONが好きです。クラシックじゃないぞ。
 
 それでは、またいつかSSでお目にかかりましょう。さよなら、さよなら、さよなら。
(2002年12月25日書)