第十幕(最終幕)・「全ての少年に」
 
 自分の左手を右手で持つ。
 恐らく、こんな経験をした人間というのは稀であろう。持つ、といっても別に支えるとか、そんな当たり前のことを指しているのではない。
 正に、自分の肉体とは別の物体として、持っているのである。
 人間とは不思議なもので、実際にこういう状況になってみると特に感慨というものも浮かばないのである。確かに違和感というものはあり、その感覚自体に対する戸惑いや焦りというものはあるのであるが、それすらも年月が経つに従い薄れていく。真に恐るべきは人間の適応力かな。
 
「要するにですね、適応力を上げてさしあげれば、元々化け物と見紛う程の体力と魔術をお持ちのシエルさんには十分なんですよ。肉体と精神、この場合は精神は魔術と置き換えますが、その二つは互いに補完しあっているんです。肉体が病めば精神にも影響を与えます。逆もまた然り、更に言えば、シエルさんの場合はこの二つ双方が人間離れしていますから、その影響も比例します。ですから、適応力、つまり、魔術が十分に生かせる状態にしてさしあげれば、後は心臓そのものを修復、制御、と相成るわけです」
エンハウンスに向けてなのだか、シエルに向けてなのだか、双方が感動の余りに涙しそうな説明を徒然と語る琥珀嬢。
「私が聞きたいのはそんなことではない。問題は、どうやってその適応力を上げたか。それ以外の説明など必要無い」
涙の代わりに血を目元から、身体修復用の魔力の過負荷によって、垂らしているエンハウンスが言う。右手に握り締めた左手は腐っているために肉部表面から右手指がめり込んでいる。
 一方シエルはというと、涙やら血やらの代わりに眼鏡を呆然のあまり耳から垂らして、ちょうど眼鏡一つ分顔の下にずらした格好となっているので阿呆のようにも見える。
「シエル、眼鏡がずれて…って、そういえば伊達だったな」
伊達や酔狂でつけているからこそ、格好に気をつけるべきなのであるが、目の前のエンハウンスの挙動に集中している志貴にとっては、実用的なこと以外は関心の埒外であった。
「さて、トリックを何から何まで披露するのは、魔術師にとっても観客にとっても嬉しいことではないのですが、まぁ、仕方の無いことですね、披露しましょうか」
そう言って、すたすたとシエルにまで近づく。
「シエルさん、こちらに向いてもらえますか?」
はい、といった感じで、くいっと琥珀の方に顔を向けると、琥珀が口付けをしてきた。最初の内は今までと同じに呆けていたシエルも、じきにジタバタとし始めるのであるが、琥珀がシエルの顎を両掌で挟み込むようにしているために、二進も三進もいかない。本来であれば、志貴や翡翠当りが止めるのであろうが、二人とも事の成り行きを知っているために、ただ見ているだけである。
 口がやたらもごもごしているところを見ると、どうやら琥珀嬢、舌まで入れているようである。存外、生来の娼婦なのかもしれないが(奉仕のために犠牲を問わないという点で)、確かめようの無いことが残念なところであろう。
 さて、ようやく娼婦の毒気からシエルが開放されるわけであるが、本人はもとより、周囲の人間にもそれとわかるほどに、精気とでもいえるものが伺えるのである。
「はい、これで如何でしょうかね。エンハウンスさんにも御分かりいただけたかと思われるのですが」
ありえるはずのないこと。おこるはずのないこと。ひとたるものにはできないこと。それができるひとのことを、「能力者」という。これらを頭の中で核心部分へと思考を展開していった。結果、「」内の言葉へと行き着くのである。
「恐れ入った。ということは、先程、そこのシエル君がガブガブと飲んでいた紅茶にも似たようなことをしたわけか」
開き直った、というのか、それとも居直った、とでもいうのか、とにかくそういった風に取れるような態度になるエンハウンス。
 その問いに、こくり、と頷いて答える琥珀。要するに琥珀や翡翠の姉妹固有の能力とは、体液の交換を行なうことによって契約を行い、相手のエネルギーを高めるというものなのだが、さて、シエルが飲んだ紅茶に琥珀が入れた体液(どういったものかは深くは考えないのが良い)はともかく、琥珀はどうやってシエルの体液を摂取したのであろうか。これもあまり考えたくはないことであるが、シエルが代わりを求める度に、紅茶カップを食堂まで下げていたのであるから、そこで、体液を取り込んでいたはずなのであることはわかる。それを翡翠は見ていたはずなのであるが、姉を見る目は、よくもまぁそこまでやる、というような呆れではなく、純粋な尊敬を留めているように見える。
 誰かのため、ではなく、純粋に自分が奉げたいから、奉げている。これを尊敬の対象とするは、少なくとも彼女にとっては正しいことに違いなかった。
「重ね重ね、恐れ入った、いや、そうとしか言えん、まさか侍従までもが能力者だとは。日本というのは、そういった特異能力者が集合し易い土壌なのかもしれんな、正にガキの集団のような国だ」
血の気が出血の為に抜けたのか、声にはいつも通りの泥川のような流れを持つに至っていた。
「つまり、体よく私にジョーカーが回ってきたわけだ。まったく、札だと思っていたものがプレイヤーだったとは、我ながら賢察の緊張感というものに欠けていたわけだ」
とにかく、先程からこの男はよく喋っている。思い出せば、あの怪物の館においてもソロモンを相手によく喋っていた。アルクェイドと対峙した際も同じではなかったか。
 つまるところ、彼は一見、全てを考えた上で行動しているようではあるが、実のところは行動しながら考えているのである。確かに、前者も怠っていないのだが、彼の性分なのか、はたまた所詮いくら計画を立てたところで、簡単に灰に帰すことを知っているからなのか。まぁ、立証しようもないことを根拠に語ることこそ、無駄なのかもしれない。
 結論だけを言えば、喋りながら己の道を模索し、それを実行する。それが彼なのだろう、と言える。
「しかし、まだだ。まだ、ゲームは終わっていない。最後に私のところにジョーカーが無ければ、私の勝ちは無くとも負けは無い」
不適。その単純な言葉こそが、彼の様子を語るに相応しい。志貴は、それを確信した。
「私はようやく、君に会うことで、話すことで、真意を聞くことで、ようやく、ようやく達しえた。己のすることが。犠牲に奉げた左手など、それこそ、私の目標のためにならば惜しくはない。ここで惜しむようならば、その目標とやらも大したことはない」
言い捨てると共に、右手に掴んでいた左手をも捨てる。わざと、志貴の方に捨てたようでもある。
「そう!犠牲というものを惜しんではならん!」
その言葉を発したと同時に、転がっていた左手が爆ぜた。包帯の呪縛を解いたようで、風化が恐ろしいまでの速度で始まったために、大気中の成分と化学反応の一種を起こさせたようである。
 志貴の目が、最大の武器であり、最大の弱点である目に一瞬の間過負荷を与えられ、過剰な血流によって圧迫されたがゆえに、目そのものの機能が一時的に停止した。
 このとき、シエルはエンハウンスが狙う人物を察知していたのだが、行動に移すことは叶わなかった。そう、叶わなかったのだ。
 そうして、翡翠の叫び声のみが、行動らしい行動となってしまった。
「姉さん!」
右手で腰元から魔剣(志貴達にとっては正にそうであった)アベンジャーを逆手で引き抜くと同時に、居合の要領で琥珀の左肩を袈裟掛けに斬りつけた。というより、切断した。
 その際に自分の左腕の切断面から、血液を琥珀に噴射したのは、眼眩ましのようであった。
 それにしても、和服というものには何故に血の色が合うのであろうか。血の周囲への汚濁は、彼女の服は元より、顔にもかかっている。直ぐに血が止まったのは、相互補完の関係にあるシエルのおかげであった。これは偶然の産物ではあったが、幸いなことに変わりはなかった。
 切断部からずり落ちた左手を、彼にとって調度良い長さにカッティングした。
 彼にとっての調度良い長さ?
 要するになくした左手の長さだ。
 その調度良いものを己の左手切断面に押し当てると、一瞬の拒否反応、まぁ、いわゆるチアノーゼであるが、それが起こるも直ぐに身体に適応した。
 志貴がこの一連の情景を見ずに済んだのは、本人が悔やむ以上に、悪いことではなかった。見ていたとすれば、彼は興奮のあまりに冷静な戦いなど展開できなかったであろうから。彼は、結果だけを見るに済ますことができたのだ。
 事がこうなると、事態を一刻も早く収拾することが目的となる。琥珀を早くきちんとした治療の庇護におかなくてはならないからだ。志貴は、最後の、本当に彼としては、その後の事態を憂慮すべき点で、最後の手段を取った。
「秋葉・・・ごめん!」
ギラリと蒼い光を彼の瞳が発し、彼の視界に床の死の点が現出する。そこにあらゆる想いをぶち込めるようして、ナイフを突き立てた。
 瞬間、ナイフが床に刺さる音のみが静かに響き渡り、刹那、室内全体に亀裂が走る。そして、志貴の怒号が走った。
「シエル!琥珀と翡翠を!」
事態を飲み込んだシエルが対象の二人を瞬時に抱え、アルクェイドらが待ち構えている扉の向こう側へと、扉とその向こう側にいたアルクェイドと秋葉ごと飛び出した。
「シ、シエル!?」
「人の家の扉を〜!」
叫び声やらそれを見ながら笑っているソロモンやらの声を遠くに聞きながら、瓦解していく居間の中で志貴とエンハウンスは対峙していた。
「貴方の目的はなんだ!?」
「それはつい先ぞに気づいた。そう、簡単だったんだよ。覚悟を要求する者どもに覚悟を要求できる存在になればいいのだよ。そう、実に簡単だ。私が、それになるのだ!」
志貴の瞳を真っ向から見ているにも関わらず、エンハウンスの表情は嬉々としている。志貴の眼も、死という覚悟を相手に強要するという点では、正にそれであるから、それすらも意に介さないということは、エンハウンスの中で、覚悟そのものに対する観念が、彼の言で言うならば、根底から覆ったようだ。
 左手を掲げるようにして、彼は続けた。
「これはその手始めだ。彼女が今後どうなるか、楽しみだ。犠牲というものを後悔するのか、それとも。いやはや、じつに楽しむべき考えかた、生き方を見つけられた!それもこれも、そう!君のおかげだ」
窓を叩き割りながら外に飛び出るエンハウンス。志貴の視界には捉えられない。
「さらばだ!遠野志貴!また、この左手の嬢ちゃんに会いに来るよ」
崩れていく視界の中で、彼はその言葉を視覚的に判断しえたのだが、それが彼が覚えている、この出来事の最後であった。
 
 
 
 十時間後…
 
「つまり、だ。志貴君という自分と似た存在と話すことによって、自己対話の形となり、自分を開拓した、といったところか。ふむ、自己啓発セミナーも真っ青な強引な方法だな」
琥珀が治療されている遠野家の一室で、ソロモンが自分の考えを、まとめながら周囲に発している。
「はぁ、ウチの主治医の時南先生も呆れていたわよ。どこをどうすれば、こんな風に左腕が無くなるのか、ってね」
秋葉がちらりと横目に憂いを重ねて、ベッドに横たわっている琥珀をみやる。
 志貴はというと、先程、居間の瓦礫から抜け出したばかりなのだが、そのケガもついでに時南に手当てしてもらい、今はただ無言で琥珀を見ている。
 遠野家のような特殊な家の場合、公の病院を利用できないことが多いなか、時南のような医師は貴重であり、またありがたいものである。
「何が皮肉かって、この子が生きていられるのも、シエルの力に加えてあの男が血液を琥珀にぶちまけて、契約を交わしたおかげであの男の力まで流れ込んでいるからみたいだということよ。実際、この子からあの男の力を感じるもの」
これぞ本当の皮肉だな、とつまらない冗談をソロモンが付け足したこととは関係無く、志貴が無言のまま部屋の外に出ていった。
 その様子を見ていたシエルの表情を見て取った翡翠は、気を利かせる意もあって、ここは自分が見ているから他の皆さんは出て行くように、ということを言い、その通りにして全員が退室した。
「姉さん…麻酔、切れているんでしょう」
彼女の言葉と共に、琥珀がうっすらと眼を開けた。
「翡翠ちゃんにはわかってましたか……っと、やっぱり片腕が無いというのは、違和感がありますねぇ」
ベッドから上半身を起こそうとして、左腕に繋がっていたであろう筋を動かすが、当然、そこに左腕は無い。結果、右手で不自由そうに起き上がった。
「姉さんは…後悔していないんですか?そんな姿になって…」
翡翠がそこまで言って、眼を伏せる。
「そうですねぇ…でも、私が好きでやったことですし、結果がこうなったからって後悔したりするようなら、私もそこまで、安っぽい犠牲愛に酔っただけ、ということになってしまうでしょう。だから、後悔なんてしていませんよ」
そこでニコリといつも通りに笑う姉を、妹は正視できなかった。
 
 志貴が中庭に立って、秋葉に見つからないようにしていたにも関わらずに、タバコを吸っていた。既に、空が朱に染まっている。
 すると、後ろで野芝を踏む音が聞こえた。
「シエルか…」
「ご一服の邪魔をしちゃったみたいですね」
志貴が口から煙を吐き出しながら、優しげにシエルに振り向く。
「やっぱり止めてなかったんですねぇ…」
志貴の右手に持っているタバコを見つめながら、シエルがぼやく。
「ああ、魔眼を使った後だと…これをやらないと、落ち着かなくて、ね」
人間の脳に限界以上の酷使を求める能力、魔眼。しかも、志貴のはその中でもとびっきりのものだ。そのストレスを払うために、彼がタバコを吸うようになったのも、ある程度は理解しているシエルではあるのだが、それでも心配するのは、性分でもあり、それが自分の役目だと思っているからでもある。
「琥珀さんは?」
ぽつりと彼が聞いてきた。
「ええ、翡翠さんが見ていますから。私たちはお邪魔ってわけですよ」
彼女は肩を竦めて、冗談めいて話しているが、彼に余計な心配はしないように、という配慮が含まれていることに、彼も気づいた。
 彼は、彼女の気遣いや、琥珀や翡翠達のことを慮り、再びタバコを口にした。
「これから、どうするんですか」
志貴の挙動を見ながら、言葉を紡ぐ。煙を口から吐いて、鬱積している悩みを同時に出したようにして、志貴が答える。
「あの男があらゆる命に覚悟を強いるなら、俺があの男に覚悟を強いるしかないだろうな」その言葉の足りない部分は、彼女には容易に想像できた。
「わかりました、私も協力しますからね」
私の平和な暮らしもお預けですね、と自分に言い聞かせながら、それでも志貴と共にいれることが幸せなことに変わりはないのだ、とも思う彼女であった。
 
「まさか、こういうことになるとは…。まぁ、シエル君も埋葬機関を辞めることを止めることになったようだし、結果オーライか」
ソロモンが二階の窓から志貴達のいる中庭を眺めながら、一人呟いていた。
「ふぅ〜ん、どうやらことの発端はアンタだったようね」
彼がその声に驚いた様子もなく(当然必死で隠したのだ)、ゆっくりとその声の主、アルクェイドに振り向く。
「志貴の妹には黙っておいてあげるわよ、その代わり、これからは埋葬機関の情報を私に流してよ。もちろん、見返り無しで」
今回は高くついたな、と思いながら、それでもアルクェイドに会う機会が作れたことに、内心喜ぶ彼であった。
 
「問題は…」
秋葉が崩れた居間部分を前庭から眺めながらぼやく。
「この居間と…」
 
「これから琥珀の料理を誰が手伝うか、だわね…」
当然その役が翡翠になることを思いながら、秋葉は溜息を漏らすのであった。
 
 
 
  反発と屈折の行き着く先は・完
 
  初稿・2001/10/25
 
 あとがき
 
 さて、まずは長い間、この散文に付き合ってくださった皆様にお礼を申し上げます。そして、琥珀さんファンの皆さん、ごめんなさい(汗)。
 今回、もっとも悩んだのが、エンハウンスが吹っ切れる際の行動でして、私がその際の考えをまとめるきっかけとして、琥珀さんにはあのようになってもらいましたし、彼女の本当の覚悟とはこういうものだという、提示として、このような形になりました。
 
 本編では全くと言っていいほど触れられていない人物として、エンハウンスがいましたので、本作ではかなり好き勝手やらせてもらいましたが、今後、本編の方で彼が登場したとしても、これはこれでありだと思っていただけると、ありがたいことです。
 
 それでは皆さん、またの機会にお会いしましょう。
  

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