第五幕「略奪」
 
 眼鏡から瞳に差し込む太陽の光の角度がきつくなる。遠野志貴は仕方なく片手を顔の横に挙げて、光線を防いでいる。しかし、その格好をかれこれ公園を出てから二〇分近く続けているため、流石に腕が疲れてきた。かといって、反対側の腕に替えようと思っても、そうすると顔を覆い隠すような形になるため、怪しいことこの上ない。
 何か良い方法はないかと頭を悩ませるが、西日が強い中で冷静に思考が進むわけもなく、額から流れ落ちる汗をシエルから借りたハンカチで拭うだけであった。
 屋敷へと続く住宅街の坂を登る。屋敷に近づけば近づくほど、周りの遮蔽物が少なくなり、西日が段々と強くなっていく。
 
「ちくしょうっ…なんだってあんなところに屋敷なんか建てんだよ……!」
志貴が声が周りに聞こえないように―――周りに人などいないのだが―――口元の汗を拭いながら、やり場の無い怒りを吐き出す。
 
 そうこうする内に、ようやく屋敷の門前まで辿り着いた。心身共に疲れているときに、「実に重厚でご立派な門」を見ると、志貴は更に疲れた気がした。
 体を倒れこませるようにして、門を開け始める。ゴウッ、という音ともに門が開く。それと同時に、体が勢いのために倒れかける。
 一瞬、このまま倒れてもいいか、などと考えたが、その後の屋敷の人間の心配する様も同時に脳裏に浮かび、なんとか足を前に出して踏みとどまった。傍から見れば、かなり滑稽な格好である。
 踏みとどまった反動で眼鏡のツルが耳から滑り落ちる。と、今まで封じられていた志貴の「直死の魔眼」が脳の軋む感覚と共に開放される。
 疲れていた志貴は、その感覚に耐え切れずに地面に尻餅をついた。周りの風景が、眼鏡の落ちた地面から空へと一気に移り変わる。なんとか顔を水平まで戻すと、屋敷が目に入った。古い屋敷のため、いたるところに「線」が見える。ただ、普段、志貴や他の者が使用している区画は改装してあるために、線も少なかった。
 線から逃げるように、その改装区画へと視点を集中させた。そこからは蛍光灯の明かりが窓から漏れていた。そこには、他の者―――妹の秋葉。使用人の琥珀・翡翠姉妹―――が自分の帰りを待っているはずである。そう思うと、頭の軋みが大分納まってきた。しかし、眼鏡をかけない限り、軋みが止まることはない。
 軋みが収まった間隙をついて、眼鏡に視線を移し、一気に飛びつくようにして拾う。そして、ツルを耳にかけた。その様は、麻薬が切れかけた常習者が麻薬に飛びつくようで惨めではあった。
 線がまるで冗談のように視界から掻き消えていく。
「よし……帰るか」
志貴はそう言って景気をつけながら立ち上がる。
 屋敷の玄関に向かいながら、志貴は思う。いや、想った―――
 
 ここが俺の家なんだな、と。
 
 
 正に最後の力を振り絞って、玄関のドアを開ける。雑巾に例えるならば、もうこの雑巾からは水一滴すら出ないであろう。
「…ただいま〜」
乾ききった声で帰りを告げる。
 すると、瑞々しい声で使用人の翡翠が出迎えた。
「お帰りなさいませ、志貴様―――どうかなさいましたか?」
翡翠が心配そうに志貴に擦り寄る。もっとも、翡翠は男性恐怖症の気があるため、体に触りはしなかった。
「―――?」
 志貴がなにやら変な手仕草をする。片手の指で何かを掴むようにして、それを口に近づける、ということを繰り返している。
 翡翠は一瞬、彼が何を伝えたいのかわからない様子だったが、その仕草の四回目で、ようやく理解した。
「水……お水ですね?―――少々お待ちください!」
翡翠は志貴にそう言い残すと、台所へと駆け出した。向かうときと戻ってくるときに必死に走っていた彼女の様子を不審がる居間にいた秋葉と台所にいた姉の琥珀のことは、恐らく彼女は目に入らなかっただろう。
「お待たせしました!……お水です、志貴様」
玄関脇に座り込んでいた志貴は水の入ったコップを受け取ると、ゴクゴクと聞いている方が気持ち良くなるほどの勢いでコップをあおる。
「―――ぶはぁっ…はぁ、はぁ……あ〜生き返ったぁ」
コップを口から離すと、潤いの戻った咽喉から息と声を吐き出した。
 その様子を見ていた翡翠は、志貴に何があったのか心配した表情になる。口には出さないのが、彼女なりの配慮だった。
「いや翡翠、なんでもないよ……暑い中を歩き過ぎただけだって。心配しなくていい」
志貴が心配したくなるような表情をしながら、そんなことを言う。
 翡翠も、最初から深く聞く気はなかった。秋葉や琥珀とは違った形で、翡翠は志貴のことを信じているし、案じているからだ。
「……とにかく、居間までお上がりになってください。じきに食事もできるようですから、それまでソファに座ってお休みになられていてください」
これが翡翠の最低限の譲歩であった。言葉の裏に「聞かない代わりに」という気持ちを見え隠れさせながら志貴に語りかけるようにして話す。
「わかった―――じゃぁ、行こうか」
「はい」
居間に向かう志貴の足取りがかなり危なっかしい。翡翠は、志貴の2,3歩後ろを歩きながら、いつでも支えられるように身構えていた。
 
 居間に入る前に、志貴は秋葉を心配させないように、気合を入れて姿勢を正した。そして「秋葉、ただいま」と普段どおりに帰りの挨拶をした。
「おかえりなさい、兄さん……お疲れになったでしょう?さ、ソファに座ってください。先程、琥珀が紅茶を淹れてくれましたから、どうぞ」
「ああ、ありがとう。秋葉」
志貴はそう言いながら、やはり誤魔化せなかったな、と思った。秋葉は気がついていないかもしれないが、彼女は志貴を心から心配するとき、普段からは想像もできないほどに優しくなるからだ。
 その普段ならば、秋葉はこう言ったであろう。「兄さん!そんなになるまで何をやっていたんですかっ!?」と。
 志貴が秋葉の斜め向かいのソファにスプリングを軋ませながら深々と座ると、翡翠は姉が用意していた志貴用のティーカップに紅茶を注いで、テーブルの志貴の前に置いた。
「ありがとう、翡翠」
志貴は身を乗り出すようにして、カップを手に持った。口の前に運んでくると、まだ紅茶は湯気が出るほどに暖かかった。香ばしい匂いが、志貴の鼻腔に滑り込んでくる。
 この様子だと、志貴が今来るか今来るかと、何度も紅茶を淹れなおしていたようだ。その証拠に、秋葉のティーカップには紅茶の余りが底の方に残っていた。
「ごめん…俺、そういえば五時には帰ってくるって言ったんだよな」
紅茶を飲もうとする手を止めて、横の壁に掛かっている古い時計を見ると、午後六時半過ぎを指し示していた。
「良いんですよ、兄さん。私たちが勝手にやってることなんですから」
「わかった……それじゃぁ、いただきます」
心からの感謝と贖罪の念を込めて、紅茶を一口分程、口に含んだ。舌の上を滑らせるようにして、咽喉に流し込む。口腔内に溜まった香気を鼻からゆっくりと吐き出す。鼻腔の感覚が活性化し、香ばしさを十二分に脳髄に伝達する。それによって志貴の中に溜まっていた疲労感の大部分が消し飛んだ。
「ん……うまい。うまいなぁ……」
それが、味が“美味い”ことを指しているのか、琥珀の淹れ方が“上手い”ことを指しているのかは、この際どうでも良いことのように志貴自身は思った。
 
 志貴が紅茶の一杯目を飲み終えた頃、琥珀が台所から居間に来た。
「お帰りなさい、志貴さん。良かったです。お夕飯に間に合って」
琥珀が嬉しそうに話す。
「本当にそう思うよ。折角の琥珀さんの夕飯に帰ってこないなんて、罰当たりもいいところだからね」
志貴が冗談交じりに返す。
「でも、そのためにシエルさんとのデートを打ち切らせたとしたら、私の方こそ罰当たりですよねぇ」
琥珀が冗談(のつもり)で更に切り返した。志貴にとっては、それはまるで本当に切られたかのようなものであった。
 
 パリンッ
 
 琥珀の方を向いていた志貴は、小気味良い音がした方向に慎重に視線と顔をずらした。そこには、不自然に割れた“秋葉の”ティーカップがあった。底の方に残っていた中身が木製のテーブルに染み込んでいる。
 そして、視線を秋葉の方向へと上げると、何かに必死に耐えるようにしている秋葉がいた。
「あ、秋葉ぁ?どうしたんだい」
志貴の声には優しさというよりも、恐怖の色が濃い。
「なんでもありませんよぉ、兄さん。このカップは大分古い陶器製ですから、熱いものが入った後に急に冷えて、割れたんでしょう」
志貴は“冷えて”という部分が印象に残った。今にも「お前が冷やしたんだろうが!」と突っ込みを入れたくもなったが、必死にこらえた。
 ちなみに、志貴は秋葉の遠野家の血による「略奪」の能力を知っている。以前、シエルがこの屋敷に来た際に、同じようなことがあり、シエルが秋葉の能力を察知したのだ。なお、アルクェイドが来たこともあるが、結果は大して変わらない。
 ただ、志貴が知っているということを、秋葉は知らない。気づいているだろう、程度には感じているようではあるものの、それはそれで別に構わない、とでも思っているのであろう。志貴の能力に関しても、同じことが言えた。
 そのため、二人はお互いの暗黙の了解のようにして、互いの能力については触れていない。
***
 秋葉の能力については知らない方もあろう。解説しておく。
 秋葉の能力は「略奪」と「共融」である。志貴はこの場合、二つ内の「略奪」のみを知っているということになる。「共融」に関しては、知りようが無いからだ。いつの日か、秋葉自身が語るときが来るのかもしれない。
 略奪は、その目で見た対象の熱を奪い去る能力だ。正確に言うならば、「熱を含めた、広い意味での熱量(エントロピー)」を奪い去る。その際、共融によって、自身にその熱量を取り込む。
 ざっとこんなところである。
 共融は、志貴の命にも関係してはいるが、遠野四季というよりロアが死んだために志貴の負担は格段に少なくなっているため、結果的に秋葉の負担も少なくなったので問題は無い。
***
 さて、嫉妬と言う冷たい光が秋葉の瞳には宿ってはいたが、流石に秋葉も馬鹿らしいということにここ最近気づいてきた様子で、この場合も直ぐに収まった。
 ただ、酒量はその分増えてきている。だが、感情の吐き出し口の代用品があるのは、悪いことではない。体に良い悪いだけで酒やタバコを判断するのは、子供だけで十分である。大事なのは、本人がその効用と害と責任について正しく認識し、それを踏まえた上でそれを使用することなのだから。
 もっとも、秋葉の場合は高校生なので世間体を気にする必要がある。翌日に臭いが残る程飲むのは流石にマズイ。だが、秋葉は一定の酒量を越えると途端に眠くなるという癖があるので、その心配は無い。よって、酒については問題が無い。
 問題なのは、それに志貴のみならず琥珀や果ては翡翠まで巻き込むことである。しかし、志貴や他の者も秋葉の気持ちは少なからず理解しているので、喜んで付き合うようにしている。
 秋葉以外の居間にいた面々は、今夜もそうなるな、と覚悟したのであった。
 
 
 
 大方の予想通り、その日の夕食後は午後八時から酒会となった。限界を悟って部屋に戻った順番は、翡翠、志貴、琥珀、秋葉の順であった。ちなみに、最後の二人は愚痴やら片付けの関係で同時に部屋に戻った。
 驚くべきことは、琥珀と翡翠はその後の深夜の見回りの仕事をきちんとこなしたことである。流石に給金を貰って働いている人間は違う。
 
 志貴は酒会から部屋に戻った一〇時頃には風呂に入り、直ぐに寝た。酒も入り、体の疲れも入浴によって適度にほぐされた志貴は、そのままスゥっと眠りに入った。
 
 
 
 ところが―――そのとき見回りをしていた翡翠が後に言うには―――日付が変わって既に深夜一時というとき、志貴の部屋の窓の鍵が外され、同時にバンっと開けられた。志貴は何事かとベッドから飛び起き、メガネをかけて身構えた。
 窓は外側に向かって開くようになっているし、しかも二階であるから、犯人は一人しか考えられなかった。
 
 酒が抜けきっていない状態で飛び起きたため、頭がガンガンしている。恨めしそうな声で志貴は犯人の名前を呼んだ。
「こんな時間に何の用だ―――アルクェイド」   
窓からアルクェイドが風と共に入り、着地した。ちなみに土足である。
「おいおい…いくらなんでも土足で―――」
志貴が文句を言おうとしたところ、アルクェイドが遮った。
「志貴っ!大変なのよ…レンが―――」
アルクェイドがそこで言うのを躊躇うかのようにして言葉を止めた。それを言うことによって状況を再認識することを恐れているようだ。
「おいっ、レンちゃんがどうしたって?―――アルクェイドっ!」
志貴は深夜なのも構わずに大声でアルクェイドに呼びかけた。それでも、彼女はまだ躊躇っていた。
 ラチがあかないので、いっそ平手打ちぐらいした方が良いかとも思ったのだが、昼間のことを思い出して、止めた。
 そして、しばらくアルクェイドが答えるのを待った。そのとき、志貴がアルクェイドの右手が復元していることに気がつき、焦りを安堵の気持ちに置き換えることができたのは幸いであった。
 
 アルクェイドも気持ちを整理できたようで、幾分か落ち着いた。そして、ようやく口を開いた。
「志貴…レンが―――さらわれた」
言った途端にアルクェイドが再び平静さを失う。
 志貴もそれを聞いて平静でいられた訳ではないが、アルクェイドの様子を見て、自分がしっかりしなくては、と思い落ち着いて語りかけた。
「とにかく、ベッドに腰掛けて落ち着け。俺はシエルに電話してくるから。多分、今の騒ぎで秋葉以外は全員起きたはずだ……琥珀さんにお茶でも淹れてもらう。落ち着いたら、下の居間に来い。そのときに詳しい事情を話してくれ……。聞いてたか?なんならもう一度言おうか?」
志貴がそう言うのを聞いて、アルクェイドはもう一度言わなくてもわかったよ、と言って、ベッドに腰掛けた。
「いいか?落ち着いてから来いよ。待ってるからな…」
志貴はそう告げて、部屋を後にした。
 彼が部屋から出た後、アルクェイドは「ありがとう…志貴」とだけ、呟いた。
 
 
 
 その後、屋敷内は騒然とした。例の“一定以上の酒量”によって深い眠りについていた秋葉以外の志貴、琥珀、翡翠が処理に奔走していたのである。
 志貴はシエルに電話後、顔を洗ったり歯を磨いたり着替えをしたりした。
 琥珀は見回りを翡翠に交替した後は部屋で趣味をしていたが、客用の紅茶やらティーカップやらつまみやらの準備を開始した。
 翡翠は志貴の着替えの用意や居間の掃除など。
 そんなこんなで、準備は完了した。
 
 その後五分程してから、アルクェイドが志貴の部屋がある二階から降りてきた。志貴がちょうどそこに居合わせた。
 シエルがそろそろ来る頃だと思い、階段と玄関のあるロビーで待っていたのだ。
「もう……大丈夫か?」
志貴が優しげに子供をあやすように問い掛ける。
「うん…なんとか。他の皆は?」
アルクェイドも六分程は調子を取り戻したようである。
「ああ、琥珀さんと翡翠は居間にいる。今の内に挨拶しておいてくれ。二人共色々頑張ってくれたから……」
居間の方を見ながら志貴が言う。その目は優しげであった。
「うん、わかった……お礼言わないとね」
「そうそう。ほら、俺はシエルを待ってるから、お前は居間に行け」
「はいはい」
二人共、なんとかいつもの調子に戻っていた。戦いの修羅場は何度も経験している二人ではあったが、精神的な修羅場というのは、あまり経験が無い。特に、アルクェイドは戦闘経験こそとてつもないものがあるが、精神的経験は、思春期の子供程度しかない。
 アルクェイドが志貴を頼りにここに来たのも、志貴が精神的には上であることを無意識に知っていたからかもしれない。
 アルクェイドが、志貴に言われた通りに居間へと向かった。それを志貴は見送ると、また五分程して、チャイムが鳴った。
「は〜い!」
志貴がチャイムに返事をする。
「こんばんは、遠野君。シエルです」
志貴の予想通り、来客はシエルであった。彼は待ちかねたように嬉々としてドアを開けた。
「改めましてこんばんは、遠野君」
「ああ、こんばんは、シエル―――あのさ……こちらの方はどちら様?」
志貴が見た先には、長身で、スーツ姿にメガネをかけた、長髪を後ろでポニーテール風に縛ってある男性がいた。
 メレム・ソロモンである。
 志貴はこの人物を見たとき、以前にも感じたことのある印象というか、気配を感じ取った。
「これは失礼しましたね。遠野志貴君…ですね?」
志貴がこくんと頷くのを確認して、ソロモンは続けた。
「こんばんは、志貴君。私はシエル君の埋葬機関での先輩に当たるメレム・ソロモンと言います。以後お見知りおきを」
礼儀正しく礼をするソロモン。その動きの全てに無駄が無い。
「こんばんは……え〜っと―――」
「メレム・ソロモンです。ソロモンで良いですよ」
「こんばんは、ソロモンさん。……それで、ちょっと失礼なことをお聞きしてよろしいですか?」
ソロモンが、どうぞ、と手仕草をしたのを確認して、志貴が先程から気になっていたことを聞いた。
「あなたは……死徒ですか?」
一瞬、ソロモンの眼鏡の奥にある眼球が光ったような気がしたが、照明の加減にも思える。
「……そうです。私は死徒二十七祖の一人でもあります。ただ、勘違いしないでいただきたい。私は、あくまで埋葬機関の人間です。人間に危害は与えません」
ソロモンの目をじっと見つめながら聞いていた志貴は、それに答えた。
「わかりました。信じます。―――なんせ、疑い深いシエルが連れてきたんですからね」
「はっはっは!確かに!」
志貴とソロモンは冗談を笑い合っていた。
 ふと、二人の笑い声が止まる。
 シエルが二人の咽喉下にシスター服から取り出した黒鍵(剣)を突き出していたからだ。
「さぁ〜て、遠野君?アルクェイドの話を聞きに行きましょうかぁ〜」
シエルの口調がかなり怪しい。黒鍵はまだしまっていない。
「わかった!俺が悪かった!だからそれをしまってくれ」
「……私も少々度が過ぎてしまった」
「わかってくれれば良いんですよ〜」
そう言って黒鍵をしまう。それを確認して、志貴とソロモンが胸を撫で下ろした。
 
 
 
 シエルとソロモンが残りの全員に挨拶した後、琥珀が紅茶をカップに注ぐ音だけが、居間に響いている。既にアルクェイドは紅茶を先程、琥珀と翡翠に挨拶した際に淹れてもらい、先に飲んでいた。
 ソロモンが来たことにアルクェイドは少々驚いたが、面識はあったため、そんなに抵抗は無かった。
 ちなみに、琥珀と翡翠には、レンがさらわれたことや、アルクェイド達の詳しい関係は話していない。
 彼女の減っていた紅茶を琥珀が足す。そして、全員分のを均等にすると、カップを各々の前に置いていった。
 志貴がいつも秋葉が座っている一人用のソファに座り、アルクェイドがその斜め向かいの席に座っている。そして、アルクェイドの向かい側の三人用のソファにはシエルとソロモンが少し間を空けるようにして座っている。
 琥珀や翡翠には、席を外してもらうことにしてある。翡翠は既に居間から出ていた。姉の琥珀が居間から出てくると、中の声が漏れないように木製の厚いドアを閉めた。このドアは、普段は開け広げてあるが、こういう場合のみ閉じられることになっている。
 以前ここのドアを閉めたのは、故前当主の遠野槙久の喪が明けた時の親族会議のときであるから、かれこれ一年近く前である。
 まとめると、上座である志貴の席の左右にアルクェイド、シエルとソロモンということになる。
 
 志貴がアルクェイドに目を配らせると、彼女がこくんと頷いた。いつでも始めて良いよ、ということだ。志貴がそれを確認すると、紅茶を一口飲んだ後会話の口火を切った。
「ん……それじゃあアルクェイド。詳しい状況を話してくれ」
それを聞いて、シエルは気を引き締めた。ソロモンはこういった場に慣れているため、自然体で紅茶を口に運びながらくつろいでいる。
 アルクェイドが話したところは、こうであった。
 自分は公園で志貴達と別れた後、すぐにはマンションには帰らなかった。腕を失ったことでレンを心配させたくなかったそうで、日付が変わり、腕が復元したのを見計らって、ようやくマンションに帰ったのだという。
 そして、マンションに着いたときに、違和感を感じた。張っておいたはずの結界が解かれて、というより破られていたからだ。更には、ある思念が濃厚に残っており、それは部屋に向かう度に強くなっていったという。
 彼女は早足で部屋の前に着き、勢いよく玄関を開けた。
 そこには何かが暴れた痕跡があり、窓は開け放たれていたという。
「……帰っているはずのレンを捜したわ。でも、どこにもいなかった。そして、そこに残っていた思念は、明らかにアイツのものだったわ―――エンハウンスのね……」
そこまで言い終えて、アルクェイドは唾を飲み込む代わりに、紅茶を口に流し込んだ。
「…なんで、かな?」
志貴がぽつりと呟くのを、他の三人は聞き逃さなかった。
「何がですか?」
シエルが問い質す。
「なんで、あの人―――エンハウンスはレンちゃんをさらったんだろうか?」
状況から判断して、エンハウンスがレンをさらったのはまず間違いない。では、その目的はなんでしょう、ということだ。目的によっては、レンの命が危なくなることも考えられる。逆に、別の目的があったとすれば、のこのこと出て行くわけにもいかない。
 ソロモンがくつろいで足を組み、手にカップを持った格好のまま、流し目で志貴の方を見ながら、答えた。
「さぁて…なんだろうね。死徒の中には真祖狩りを目的とする奴もいるが……それならば―――先程シエル君に詳しいことを聞いたんだが―――昼間に真祖の姫と戦った際に、彼が引き下がる必要は無かっただろう?つまり、少なくともこれは除外されるね」
一同がそれを聞いて納得する。そして今度はシエルが発言した。ソロモンとは対照的に、礼儀正しく足を揃えて、テーブル上のソーサーにカップを置いてから話し始めた。
「考えられる可能性を列挙すると、次のようなものがあると思います。第一に、レンちゃん自身が目的。第二に、レンちゃんを餌にして私達、或いは、私達の内の誰かをおびき寄せるため。……恐らくこの二つでしょうね。もちろん、他の可能性も捨てきれませんが……」
ふむ、といった感じで全員がしばらく考え込んでいた。紅茶も思考を進めるためにかなりのペースで減っていく。琥珀がかなりの量をティーポットに淹れておいたので、各自が自分でカップに足す。
 ここで、先程から志貴達の話を聞いていたアルクェイドが口を開いた。
「レン自身が目的というのは外して良いと思うわ。だって…レンみたいな使い魔なんて、いくらでもいるわよ……何もレンをさらわなくたって……」
恐らくは、最後のセリフが彼女の本心であろう。だが、考え方自体は間違っていない。実際、使い魔などというものは、その気になればいくらでも従えることができるのである。それに、レンは夢魔の能力以外を有していない、下級の部類に入るのだ。これをするためにわざわざ日本に来るなど、到底考えられないことだ。
「残るは、私達の内の誰かをおびき寄せるため、だな。もっとも、真祖の姫はもちろん、私も外される。奴にとって私は不確定要素みたいなものだからね。……驚くべきは奴の洞察能力だ。真祖の姫がここにとどまっている理由を、志貴君やシエル君という、特殊な人物がこの町にいることと結びつけ、相互関係を予想したのだからな。流石は元マフィアだ。裏工作がお上手なことだ」
最後の冗談は我ながら秀逸だと満足しながら、紅茶を口にする。
 もっとも、この状況ではその冗談には誰も反応することはできなかったし、反応したとしても、シエルのように「あまり冗談にできる話題ではありませんよっ!」と耳元で怒るというものであった。
「元マフィアか……駆け引きは相手の方が一枚も二枚も上手ということだな」
志貴がぼやく。
 実際、ソロモンは「怪物の館」でエンハウンスにやり込められているし、シエルに至っては実戦闘任務ばかりであったから、ソロモンよりも劣る。志貴も似たようなもので、「直死の魔眼」を使った戦闘以外ではただの高校生である。アルクェイドに至っては、いつも力のみで相手をねじ伏せてきた。というより、駆け引きをしてもしなくても彼女に勝てるものなどいなかったのだ。
 それぞれが自分のことをそんな風に客観的に考え、溜息を吐いた。
 エンハウンスの本当に凄いところはここである。あらゆる情報を集め、分析し、何が一番効果的かを予想し、なおかつそれら全てを実際に実行し切る行動力と精神力。
 それを支えているものは、いったい何であろうか?
 それを推し量ることは、ここにいる四人は、まだできなかった。
 ここまで全員の話し合いが進んだところで、今後の具体的な行動を意見し合うことになった。
「とは言ってもなぁ……向こうさんからの行動に反応するしかないんじゃないか?」
志貴が議論も半ばを過ぎたため大分言動が普段のようなものになってきている。アルクェイドにとっては、その方が気が楽で良かったが。
「そうですね……この町に最初に来た時に発していた強烈な思念は、私かアルクェイドをおびき寄せるための言わば撒き餌だったようです。今はまったく感知できませんから」
シエルが今の状況を正確に分析する。
「位置を特定できないからといって、我々が分かれて探せば、そこを各個撃破されかねないからな。ここは志貴君の言う通り、相手側からの行動を待って反応するしかない。奴の後手に回るのはあまり気持ちの良いものではないがね」
続いてソロモンが参考意見を提供した。
 志貴とシエルがそれに頷く。
「じゃぁ―――」
そこでアルクェイドが呟いた。残りの全員が彼女の方向に顔を向けなおす。彼女は怒っているつもりだったのだろうが、表情には焦りの色が濃かった。
「じゃぁ、それまでレンはどうなるのよ?!」
各自の反応は以下の通りである。
 志貴は自分でも無責任だと感じながらも「大丈夫だ」という言葉を繰り返す。
 シエルは志貴の言葉を補完するように、レンに危害を与えることがエンハウンスの目的ではないから、ということを説明する。
 ソロモンはその様子を眺めながら、真祖の姫の以前あったときとの違いを確認し、彼女を慰める二人を冷静に観察していた。
 
『シエルが変わったのではない―――私が変わらなさ過ぎているだけだ……』
以上のことを歯噛みしながら思い、他人を認識することは、自分を認識することだと言ったのは、何時の時代の心理学者だったかな、とも思ったのであった。
 
 
 彼は自分が死徒になったことを後悔はしていない。物心ついた頃から自分が他人と同じ人生を歩むことにずっと疑問を持ち続けていた。修道会の寄宿舎学校時代に神学を学び続け、彼は自分の考え方を確固たるものへと昇華した。
 他人と同じ生き方をしないには人間では無いものになるしかない、と。
 彼は教会組織内でまず自身の権限を強めるために苦心し司祭となった。その後、ありとあらゆる資料を彼は漁った。歴史、審問記録、教会活動記録など、特秘扱いであろうとなかろうと、関連のありそうな資料という資料を漁り続けた。そして貪り続けた。
 どこかにあるであろう、人の輪から抜け出す方法を。それを行なうための手段や結果など、この際どうでも良い。
 その際、彼の良心に言い聞かせ続けた。今は神に叛くことになろうとも、念願が叶ったときには、“輪”の中にいる人間にはできないことで神に償うのだ、と。
 しかし、どこにもそんな方法は無かった。
 彼は諦めかけながら、その日もベッドに着いた。そして、気がついた。
 記録に無いことこそが、輪から抜け出す方法なのではないか。
 それは天啓とも言える閃きであったといえよう。彼はもう一度、今までかかった時間の倍を費やして、人為的に削除されているのではないかという部分を見つけ、その前後の記録から削除された部分を予想し、それを幾多の資料において行なうことによって、総合的な結論を出した。
 それこそ、数多ある死徒になるための方法の一つであった。彼は、ここまでの道を邪術や呪術、魔術などの方法を一切とらずに辿り着いた。
 彼は紛れも無い天才であったのだ。その才を開花させたのは、まさしく神への信仰心であった。
 彼は、その方法を実行する際に、自分にとってこれは罪なのだと戒めた。
 そして、死徒になった。
 彼が手に入れたのは、不老不死と―――原罪などという曖昧なものではない、罪を自覚した人間という誇りであった。
 
 その後、彼は人間の頃には味わえなかった充実感と共に生きてきた。死徒二十七祖の内の一人になったのは、なりゆきである。死徒として強力な力を持っていた彼を、死徒二十七祖の前二〇位の死徒が彼を迎えたのだ。その死徒は、彼の信心深さに感銘を受け、説教士として重用した。元司祭の人間を個人的な説教士として使うなど、なんと贅沢なことであろうか。
 彼の説教に影響を受けつづけた死徒は、今まで続けてきた死徒同士の陣取りゲームとでも言うべき行為を見限り、彼に位を譲った後、隠居生活に入った。
 埋葬機関に入ったのは、それから一〇年程してからだった。神への償いとして、ちょうど良いとも考えたのもあるが、前二〇位の死徒に仕えていたときに目覚めた骨董や秘宝の趣味を、埋葬機関に保存されている秘宝によって満たすという目的もあった。
 
 それから現在に至るまで半世紀以上が経った。彼の姿は、死徒になった36の時から止まっている。
 人間の頃から数えると、この世に生を受けて、かれこれ一世紀が経とうとしていた。
 
 
 アルクェイドが落ち着き、志貴が時計を見ると、既に午前4時になろうとしていた。夏のため、既に太陽光が窓から差し込み始めていた。
 光が眼鏡に当たっているのに気がついたソロモンが提案をした。
「もう、朝か……奴も死徒である以上は昼間に行動はせんだろう。今の内に休んでおいた方が良いと私は思うのだがね。……まぁ、私は寝る必要が無いので、何かことが起き次第、皆を起こすが………それで構わないかね?」
アルクェイドがそこで片手を挙げた。
「私も起きてるわ。寝ないで良いのは私も同じだし、それに―――とても寝れそうにないわ…」
志貴とシエルも同じ気持ちではあったが、二人共人間の身体であるから、仕方なく睡眠をとることにした。
 
 志貴が、居間のドアを開けると、琥珀と翡翠が客を待たせるために使う玄関脇のソファで座ったまま眠っていた。翡翠が琥珀の肩に寄りかかるようにして寝ていることから、琥珀の方が後で寝たようであった。
 それでも、志貴が近づくと、琥珀はパッと目を開いた。
「や、琥珀さん。おはよう。悪かったね、こんなところで寝かせちゃって」
志貴が琥珀が起きたのを確認してから、労いの言葉をかけた。
「いえ、良いんですよ。これもお給料の内ですから」
志貴がそれに笑う声を聞いて、翡翠も目が覚めた。ぐらりと琥珀の肩から離れ、寝ぼけ眼で辺りを定まらない視線で見回す。瞬きを繰り返している内に、段々と覚醒していったようで、状況を確認した途端、「し、志貴様っ!?」などと驚いた。
「やぁ、翡翠。おはよう」
志貴が翡翠の反応の可笑しさを抑えながら、挨拶をする。
 翡翠が顔を真っ赤にしながら、身だしなみを大急ぎでチェックする。そして、大丈夫だと確認すると、「おはようございます、志貴様」と、いつも通りの挨拶を返したのであった。
 その一連の様子を見ていた志貴と琥珀は、とうとう可笑しさを抑えきれずに、笑い出したのであった。
 すると、翡翠がさらに顔を赤くして、俯いてしまった。
 志貴は少し笑いすぎたことに気がついて、翡翠に謝ると、琥珀に用件を伝えた。
「俺は自分の部屋で寝るんだけど、シエルは客室に寝させたいんだよ。そこで、琥珀さんにシエルを客室に案内してほしいんだ」
それを聞いたときの琥珀の口元の歪みに気がついたのは、隣にいた翡翠だけであった。
「あら〜?志貴様、お忘れになったんですか?今日は客間のワックス掛けをするから、中にあったものは全部物置に退避させたことを」
志貴がそれを聞いて、驚く。
「へっ?!そんなこと俺、聞いたっけ?」
「はい、昨日のお夕飯の後にお伝えしたじゃないですか〜」
志貴には全く覚えが無かった。だが、そこで琥珀を疑わずに、素直に自分が酒を飲んだ所為で忘れたんだな、と思うのが、志貴という人物である。
「じゃあ、シエルはどうするんだ?」
そこで琥珀が、そのまま絵にしたら素晴らしいものができるであろう笑顔で、話す。
「そんなの簡単ですよ―――志貴さんのお部屋で寝てもらいますよ」
志貴の表情が固まる。眠気が一瞬どこかに飛んだが、すぐに帰ってきて、疲れもどっと身体に襲い掛かる。
「……他に方法はないんですか?」
志貴が疲れきった声で琥珀に問い質す。
「あら〜?何を恋人同士で遠慮なさってるんですか。それに、他の方法なんて、せいぜいソファで雑魚寝するくらいしかありませんよ。私は志貴さんやシエルさんにそんなことをさせるわけにはまいりませんから。ここは潔く仲良くお部屋でご一緒に寝てください」
翡翠は、そんな姉の言葉を聞きながら、口を魚のようにパクパクさせている。
 志貴は渋々承諾し、シエルと共に自室のある二階へと階段を登っていった。
 
「……姉さん、私もワックス掛けをするなんて聞いた覚えが無いんですが―――」
怪訝そうな顔をして翡翠が思っていたことを口にした。琥珀が嬉しそうに階段の上を見上げている。
「私もそんなこと聞いた覚えなんてありませんよ〜」
「―――姉さん……」
翡翠は何も言う気がしなくなり、顔を洗いに洗面所の方へとトボトボと歩いていった。
   
 
 
  第五幕・完
 
  初稿2001/8/28
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