浄化の道程・外伝「Don't You Cry」
 
 
 今年の夏は暑そうだ
 
 
 この街では一番大きな公園にある溜池の辺にいる女性が、今朝になって晴れ上がり、日差しを溜池に投げつづける中、一人愚痴る。最後の一本になってしまった煙草は咥えたままにしている。乾一子は一時間ほどここにいるが、昼前になってもまだいるにも関わらず、これといって何かをするわけでもなくキャンパスを前にして腕を組んでいるだけだった。そのキャンパスには、取り留めのない線が何かを形作るかのようにうねっているだけだ。
「『年年歳歳花相似、歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)』ってところか。今日は撤収〜」
これまた取り留めの無い独り言を言うと、荷物をまとめて、咥えたままだった煙草に火をつけてから歩き出した。
 ラフに着込んだシャツの襟を空いている手で整えながら、並木道を公園出口に向かって歩く。
 本来、専門学校が休みの日は昼飯当番のはずの愚弟は家にいない。どうせまた、めぼしい溜まり場を見つけてしけこんでいるに違いない。とはいえ、弟は弟なりに考えてやっている節がある。公立の高校を出た後、金になりそうな職種に必要な資格を取るために専門学校になぞ入ったのだ。てっきり、適当な仕事にでも就いて好き勝手に生きていくものだと思っていたから、肩を透かされた。
 バイトをしながら、三日坊主で終わると思っていた勉強を未だ真面目にしている。多少、こちらに負担が無いわけではないが、投資だと思えば安いものだ。
「将来的には奴に面倒見てもらうかな」
私の可能性を切り売りして今があるのだから、それぐらいの我侭は許されるだろう。腕時計を見る。本業が始まる夕方までまだ大分ある。以前、描いておいたものの仕上げでもしながら時間を潰せば良いだろう。時間とは気にするものではなく、有意義に過ごすためのものだ。その時間の大半が喫煙の時間と同義だろうと。
 
 
 服が煙草臭い。乾有彦が自分の服を今日最初に着てから何度となく繰り返してきた言葉だ。これが自分の所為だったら気にもしないのだろうが、自分の姉の所為なのだから遣る瀬無い。日当たりが良いのが姉貴の部屋だけだというのが不幸だ。注意してあったにも関わらず、煙草を吹かしたに違いない。それも、よりにもよって天気が悪くなるのを見越して一斉に洗濯したときにだ。
「ツイてないのにも程があるぜ……」
むかっ腹が立つので、今回の休みこそは作ってやろうと思っていた昼飯などの午前中の雑務全てをサボってやった。もっとも、彼には用事があるのでそんな暇は元からなかったりもする。とはいえ、姉にサボろうとしていることを勘付かれるとどんな手を打たれるかわかったものではないから、彼女が朝に弱いのを利用して抜け出してから既に三時間強経ち、そろそろ用事の時間なので目的地の公園に向かった。ここは溜池があるのでそばにある木陰のベンチに座ってれば、日差しが強くても問題無い。
 家を抜け出すなんて、子どもの頃に戻ったみたいなことをやっている自分自信に彼は苦笑してしまう。
「俺がこんなんになっちまったのも、あいつの所為だよなぁ」
貧乏ったらしい格好に似合わない立派な眼鏡をつけたあいつ、遠野志貴との別離からもう一ヶ月以上も立つ。
 体育館裏から志貴が見えないところまで去ったときに突然沸いた苛立ち、そしてコンクリートに拳を打ちつけた痛み、それらの意味が最近になって有彦にはようやくわかった。
 あれは自分の前からいなくなろうとしている親友に「行くな」の一言も言えなかった自分に対する苛立ちと痛みだった。
 しかし、意地や見栄でしか親友を送り出せなかったことが、逆に彼のエンジンに火を点けた。意地と見栄でしか送り出せなかったのならば、それが好い加減なものではなかったことを身をもって実践しようというのだ。
 お前なんかもう出る幕は無いんだぜ。そう思いながら、空きっ腹に流し込んでいた清涼飲料水の缶を五メートルほど離れたゴミ篭に投げ入れた。
「今日は暑いですね」
年の頃は有彦と変わらないぐらいの女性が、艶のある赤毛を肩口の空気に遊ばせながらベンチに座る。有彦はそれに気にもせず「まだ五月だっていうのに、これじゃあ夏が思いやられるよ」と返事を返した。
「こんにちは。乾様」
「やあ、今日も元気そうだね」
「ええ、おかげさまで」
彼女は溜池に反射する陽の光を眩しいのか、翡翠色の瞳を被うようにして瞼を細める。名も翡翠である彼女は、遠野家の屋敷にいるときのような使用人の格好ではなく、箪笥の奥にしまわれて、つい最近まで埃を被っていた外出用のシャツとロングスカートを地味目のコーディネイトで着こなしている。
「悪いね、こんなところまで毎回来てもらっちゃって。本当はあまり外に出たくないんだろ?」
なりゆきとはいえ、少々気まずい部分が彼にはある。志貴から聞いた限りでは彼女は外出を嫌がる傾向だったし、実際に何度か遠野屋敷で会ったときも余り良い反応は返ってきたことがないからだ。
「いえ……この時間はお屋敷にいてもすることがありませんし、姉さんや秋葉様も私が進んで外出するようになって、疑問半分喜び半分といった様子ですから」
癖なのだろう、苦笑いする口元に折り曲げた指を添える。
「翡翠ちゃん自身はどう思ってるんだい」
「正直言って、未だに男性の方とお会いするのは怖いですし、外に出るのも嫌です」
有彦は、自然にうな垂れてしまう自分が情けなく感じた。しかし、ここまで正直に言われると、他にどうしようもない。そうしたところで、翡翠が続ける。
「でも、自分の友人の方と会えるのは嬉しいんです」
「えっ、俺って友人なのっ!?」
うな垂れていた頭をもの凄い勢いで跳ね上げて問い返す。
「違うんですか……?」
眉を顰めるその表情は、これまで有彦が見た女性の悲しむ顔の中で最も印象深い部類に入る。
「あ、いや、そういう意味じゃなくてな、そう思われてて嬉しいってこと」
自他共に遊び人の彼ではあるが、こういうのには弱い。慌てて訂正して、彼女がほっとした顔になるのを息を呑みながら見守っているのだから、彼もまだまだ初々しいといえる。
「つまり、ここに来て、俺と会って、話をするのは嫌じゃないってことだよな」
「嫌だなんてとんでもないです。先ほども言いましたが、嬉しいくらいなんですから」
今度は有彦がほっとする番だった。お互いのやり取りが傍から見ると馬鹿みたいなことに気づくと、お互いに笑いが零れていた。
 
 有彦と翡翠がこうして公園のベンチで語り合うようになったのはちょうど一カ月前のことだった。一子が公園に行った際に忘れ物をしたとかで、有彦が取りに行かされたとき、片腕を無くして用事を足し辛い琥珀の代わりに夕飯の買い物に出て、休憩がてら公園に足を向け、何気なく溜池の前で水面に浮かんだ桜の花びらを見ていた翡翠に出会ったのがきっかけだった。
 それまで、お互いに何度か顔を合わせたことはあったが、二人きりで会うのは初めてだったので、いなくなった志貴の話に花を咲かせた。もっとも、水面に浮かぶ桜のように湿気を含んだ花ではあったが。
 そのときに別れる際、今度またこうして会おうともちかけたのは有彦だったが、細かい日程を決めたのは翡翠だった。互いに積極的だったのは、どちらも、志貴の面影にすがっていたのためだろう。彼がいなくなったのにも関わらず、有彦と翡翠はお互いに志貴の思い出を持ち寄うことにしたわけである。
 
「あれから一ヶ月か……」
「はい。もう桜の花びらさえも見かけなくなりました」
そこで会話が途切れる。もう既に、持ち寄る思い出さえ語り尽くした。彼と彼女の間にもうその接点は無い。
 ふろ、有彦が口を開く。
「……俺さ、やるべきこと見つけたんだ」
「……なんでしょう?」
「遠野の奴が捨てちまったこの街で、一所懸命に生きていく。それが俺のやるべきこと。ん、違うな。やりたいことだな、これは」
最近まで彼は迷いながらも生活を続けていたが、これがこの一ヶ月で出した答えだった。この答えを見つけたとき、何かが吹っ切れた。
「……実は、私も見つけたんですよ」
「なんだい?」
「志貴様が捨ててしまった遠野家を、一所懸命に守ることです」
一時期は、遠野家に仕えることに疑問を抱きもしたが、それが自分の本当にしたいことを考える良い機会にもなった。その答えを見つけたとき、何かが吹っ切れた。
「なんだ、俺と大して変わらないな」
「そうですね」
先ほどのようなぎこちない笑いではない、本当の笑みが二人に浮かぶ。桜から緑へと色を変えた公園の木々が、風と戯れている。
「でさ、この間言ってただろ?もう会うのは止めませんか、って」
痛いところを突かれたのか、翡翠が表情を変える。それでも、頷いた。
「やっぱり、あれ無しにしようぜ。結局どうやったって、俺達は遠野のことが頭から離れられないままなんだ。それだったら、いっそのこと二人で担いだ方が楽だろ?」
そう言い終わった後に翡翠の顔を見て、有彦は目を見開いた。彼女の瞳という宝石から涙が零れ落ちていたからだ。
「ど、どうした?なんか俺、まずいこと言ったかな」
翡翠が、涙をハンカチで拭いながら、感情をある程度落ち着かせる。
「いえ、違うんです……私、ずっと不安だったんです。有彦様が、私の言ったとおりになされるんじゃないか、って」
まだハンカチは目元を抑えている。またいつ噴きだすのか、自分でもわからないといった風に。その様子にうろたえながらも、有彦は問い質しす。
「それって、俺と会うのを止めるのは嫌だったのに、あんなことを言ったってことか」
「はい、ごめんなさい。私、昔から天邪鬼なところがあって、多分それも人に接するのが怖い所為だと思うんですけど、いつもその所為で自分が辛くなって……それで……」
ここでとうとう涙が噴きだした。
 昼休みの休憩場所を探しているOLグループが、何事かといった目つきで伺いながら通り過ぎていき、仲良く散歩している老夫婦が「わしらも若い頃は」のお決まりの台詞で始まる茶々を入れあっている。
 有彦はそんな周りの様子も目に入らず、無我夢中で翡翠を宥めている。
「すいません、私、こんなに感情的だったなんて……自分でも驚いてます」
「姉貴が言ってたよ、涙腺が緩いのは美人の性だ、って。それ聞いたときは、お前が言うな、って思ったもんだよ」
なんとかそんな冗談を言える状態にまで持っていくこと数分。その間それとなく観察していた周りの人間は、別れ話でないことに興が冷めたのか、あっさりと散会していった。
 
 ほっとしたのも束の間、有彦の特定人物のみに反応する危険予測が働いた。だが、もう遅い。その人物は既にベンチの真後ろの茂みからターゲットを捕捉していた。ベンチの背もたれに腕をかけると、外見に似合わない低音の利いた声で話し掛ける。
「我が弟よ、それはどういう意味かなぁ?」
その人物とは、乾一子その人である。
「……姉貴、なんでここにいるんだよ」
「いやぁ、またここに忘れ物したもんでね、取りにきたらお前がそこのお嬢ちゃんと面白そうなことやってたから、ここで煙草吸いながら聞いてたんだよ」
恐怖に震える有彦を他所に、翡翠と一子は初対面の挨拶を交し合っている。
「そっか、翡翠って言うんだ。私は不幸にもこの馬鹿の姉になっちまっている一子って言うんだ。よろしく」
何故に有彦が恐怖しているのか見当もつかない翡翠は、何の気無しに言葉を返す。
「あ、そうだ。私、お弁当用意してきているんです。一緒にどうですか?」
有彦も本来ならその気遣いに喜びの涙が出そうものだが、状況が状況なだけに素直に喜べない。一方、一子は面倒で諦めかけていた昼飯にありつけるとあって、上機嫌である。
「おお、この馬鹿に食わせるのは勿体無い。私が全部頂こう」
翡翠が止める間もなく、そして有彦が文句を言う暇も無く、一子が弁当の入った風呂敷を奪うと、側の芝地に腰掛けて弁当箱を開けた。
 途端、彼女の動きが止まった。てっきりすぐにでも食べ始めるものだと思っていた有彦は、何事かと一子と弁当の様子を横から覗き見た。
「……翡翠ちゃん、これ、何の料理?」
信じられない景色が広がる弁当箱というパラダイスについて、恐る恐る問い質す。
「シソとコンビーフにわさびを混ぜたサンドイッチです。和洋折衷という奴ですね」
えへん、と胸を張る翡翠に「それは和洋折衷とは言わないだろ」と有彦と一子が突っ込む。もちろん心の中だけで。決して翡翠に気を遣ったわけではない。言葉が出ないのだ。
「ほ、ほら、姉貴。どうしたんだよ、腹減ってるんだろ?俺が昼飯作らなかったのが悪いんだよなぁ、ごめんごめん、ほら、遠慮せずに食べなよ、俺のことはいいからさ!」
「いやいや、弟よ。私がそのような心の狭い姉だと思っているのか?さぁ、兄弟仲良く一緒に食べようじゃないか!」
美しくも実際は醜い兄弟愛が今ここに生まれていた。その間を縫って、翡翠が自信作に手を伸ばし、口に放り込んだ。
「「……」」
思わずごくりと唾を飲む。もちろん美味そうだからではない。
「……美味しいですよ?」
「「!?」」
平然と言う翡翠に、乾兄弟が衝撃を受ける。「料理は頭で食うもんやない!舌で味わうものなんや!」と、どこぞのカレーで有名な関西出身若手料理人のピザ対決時の台詞が浮かび、なんとか自分を納得させて食指を動かした。
『姉貴、やっぱりあの漫画に描いてあることを信じちゃ駄目だな』
『そうだな、愚弟よ』
某サッカー漫画のゴールデンコンビにも優るとも劣らない素晴らしいアイコンタクトの間に、お花畑が垣間見える。しかし、倒れようにも目の前に翡翠がいる。二人は愛と勇気と希望の名の下に自分達の味覚を変身させ、なんとか堪えた。
 乾兄弟は、翡翠という大事なものを守った代わりに、人間として大事なものを何か失ったのを自覚していた。
 
「「ご・ち・そ・う・さ・ま・で・し・た」」
「お粗末さまでした」
ある意味で究極(至高)の料理を食べ切った二人は、魔法瓶から注がれたお茶をありがたく飲み干す。
「有彦、私、帰って仕事まで寝ることにする……」
「ああ……気をつけてな」
憔悴しきって去っていく姉を、今まで生きてきた中で最高に暖かく見送った。
「そんなに大変なお仕事って、いったいなんですか……?」
翡翠の言葉を聞いて、何かの糸が切れた有彦は、遠くなる意識の中で「遠野、お前が家を出たのは正解だったぜ」と愚痴っていた。
 
 目を覚ますと、視界が赤かった。どうやら、ベンチに座ったまま眠……意識を無くしたらしい。もう夕方のようだ。
 耳元が暖かい。それに、朱に染まっている溜池の景色が横になっている。そしてようやく、翡翠の太腿を枕にしていることに気づく。
「目を覚まされましたか?」
「あ、ああ……もしかして、ずっとこうしてくれてた?」
翡翠が緩やかに頷く。途中、彼女も何度か眠ってしまっていた。足はしびれたが、とても心地よい眠りだった。それは、有彦も同じだった。
「……もう少し、こうしててもらっていいかな?」
彼女は再び緩やかに頷く。夕映えを喜ぶように溜池の魚が水をはねる音だけがする景色の中で、二人の感情が眼前に広がる水面のように波紋を広げていた。
 
 
 今年の夏は熱そうだ
 
 
初稿2003年6月13日
 
あとがき
 挨拶「翡翠ファンと有彦ファン、それに一子ファン、全員を敵に回した気がする」
 
 前半はまともですが、外伝ということもあって後半ぶっ飛んでます。しかもネタが古いです。自分が二十歳前後だとはとても思えません。
 物語の位置付けとしては、当サイトで連載している「浄化の道程」のイタリア出立前の翡翠の物語です。
「浄化」で勝手に家をほっぽりだした志貴君ですが、残された人間はどうしているのか。その中で「〜道程」の方で出番が無い有彦君を絡めて書きたいと、第十二幕を書いてるときに思いまして、この外伝のことを踏まえてそちらに至っているという設定をつけたため、その劇中で翡翠が何かを言おうとしていたりします(ちと卑怯)。
 
 個人的に、乾兄弟はかなり好きでしたから、書いてて凄く楽しかったです。同じく、わざわざ読んでくださった読者の方にも楽しんでいただけたら幸いです。
 
 恐らく、また本編の方で着想を得たらこういったものを書くやもしれません。本編の方は最初から最後まで流れが完成してありますので、自分の作品ながら好き勝手できない部分があります。まぁ、二次創作ですので元からあまり好き勝手はできないんですけど。
 余談ですが、最初と最後の「今年の夏は暑そうだ」と「〜熱そうだ」は誤植ではなくわざとですので、あしからず。
 
 それでは、またの機会にお会いしましょう。
 
 
 えっ、今日って十三日の金曜日じゃない!?(関係無い)

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