外伝「彼は最後に笑った」冥(くら)い地の果ての、地の底にて、カインの子らは罪を償うフランチェスコ・バティスタ枢機卿私は仕事を終え、空港にいた。騒がしいフロアの中を、ヤッピーや家族連れが本やパンフレットを開いてそれぞれの時間を慌しく過ごしている。チケットの確認が終わり、私は待ち時間をマンウォッチングに費やすことにした。安っぽいプラスチック製のベンチに座り、何の気なしに行き交う人々を眺めて考える。あの帽子を目深に被った男はサッカーファンだろうか。日本語らしい文字をプリントしたシャツを見せびらかすように堂々と歩く様は、価値基準というものについて疑問を抱かせる。柱に寄りかかってファイルに目を通す女性は、そわそわとしているが何故だろうか。彼氏待ちだとしたら随分と冒険心に富んでいることだろう。化粧が浮き始めているのだから。ふと、こちらをじっと見ている少女と眼が合った。私の後ろに何かあるのかと思って振り向くが、あるのは大きな電工掲示板と、けばけばしいモデルを使った観光案内のポスターだけだ。もう一度少女の方を見ると、やはり眼が合った。迷子だろうか。いつもなら無視するどころか気にも留めないのだが、何故だろう、その少女に既視感を覚え、威圧的な分厚いサングラスを外してから、少女に歩み寄った。傍で見てみると、少女は、実際は随分と年頃なことに気がついた。背の低さと、何処か現実離れした印象を受ける綺麗な金髪と、アルビノなのではないかとすら思える白く透き通った肌、そして黒海の水面のような淡いブルーの瞳が、幼さに繋ぎ合わされたようだ。「どうした、迷子か」他に言うことも無い。少女……彼女は首を振るだけの動作で答えた。じっと、私の顔を見る。ふと、私の眼とは違うところを見ていることに気づいて、左頬を擦った。「これは、以前、友達と喧嘩したときについてしまってな」鼻で笑って誤魔化す。どうにも、扱い辛い。「それで、どうしてここで立っているんだ」「ここで待ってろと言われたから」ようやく彼女が口を利いた。周囲の雑音が一切介入できないようにすら思える綺麗なアルトだ。「ふうん。でも、ここで待ってろと言われたからといって、ここでは流石に他の人間の邪魔になる。どうだ、私とあのベンチに座っていないか」彼女はしばらく考え込んだが、首を縦に振ってくれた。自分はこんなにお節介な人間だっただろうかと自問する。そして、私の申し出にYESと応えた少女に、嬉しさすら覚えている自分に不可解さを覚えつつも、ただの退屈凌ぎの虫が騒いだということにして、先ほど座っていたベンチに彼女を連れて戻った。「名前はなんというんだ」少女は答えない。流石に、見ず知らずのお節介にまで従順というわけではないらしい。「そうか、答えたくないか。しかし、私の名前は教えておく。ナルバレックというんだ」「……ナルバ…レック?」発音し辛いという風ではなくて、何か、引っ掛かりを覚えているらしい。単に、名前の稀有故だと私は思った。「まぁ、あだ名みたいなものだよ。実を言うとね、自分でもこのあだ名は好きじゃないんだ」「じゃあ、その名前をつけた友達に、止めてくれって言えば良いのに」「ははは、面白いことを言うな。しかし……そうだな、今度、言ってみることにするよ」「きっと、そうすればもっと良くて、素敵だと思える名前で呼んでもらえるよ」「それは楽しみだ」告解とはこのようなものなのだろうか。生憎と、そのようなことをしようと思える相手にはめぐり合えなかったし、そもそも、それをしたいと思ったことすらない。よもや、このような場所でそういった感情を覚えるとは。「それにしても、友達が言うことを聞いてくれなかったらどうしたら良い?」「貴方の友達は、そんなに嫌な子なの?」「うん、まぁ、良い奴ではないな。ろくでもないことを私にけしかける」よくもまぁ、こうも上手く言える自分に笑いがこみ上げる。だがそれも、彼女との会話を続けたいという欲求がなせるものであると思うと、不快なものではなかった。「そんな子とは友達をやめちゃえばいいじゃない」「いや、それも確かだが……本当に悪いのは、そいつ以外に友達を作ることができない自分かもしれないんだ」「そんな自分は嫌い?」「何度かそう思ったことはあるな。だが、その度に思うのは、何だかんだ言って、私はそいつのことを気に入ってるのではないか、ということだ。だから、自分を嫌いだとは思わない」相手が相手とはいえ、論理立てて言葉を紡ぐ。彼女はしばらく首をかしげて考え込んでいたが、じきにこちらの眼を見据えてきっぱりと言った。「それは言い訳だと思うよ」「言い訳?」耳を疑った。彼女は、何を根拠にそのようなことを言うのだろうか。自分の苛立ちが、焦りによるものだとわかったのは呼吸を二度ほど繰り返して後だった。「新しい友達を作れない自分への言い訳。だって、本当にその子のことが気に入ってるんだとしたら、新しい友達を作ったって良いじゃない。貴方は、それが怖いだけなんだよ」「手厳しいな」「……ごめんなさい、私、思ったことを口に出しちゃうんだ」本当に申し訳なさそうに項垂れて言う彼女にかける言葉はすぐに見つからなかったが、私も彼女には何かしてあげたいという殊勝な心が欠片ほどは残っているらしく、口が勝手に動く。「気にしなくて良い。そういうことを言ってくれる奴は私の周りにはいないから」「そうだ!」突然、大声を出した。何事かと、周りの人間がこちらを見たが、すぐにそれぞれの暇つぶしに戻る。「どうした」「私が、貴方の新しい友達になってあげる。もう、会う事はないかもしれないけど、ずっと友達」「変わった友達だな」「でも、友達だよ」「……そうだな」友達とは随分と陳腐な言葉だったが、その分、純粋さがあった。彼女のような、純粋さが。「それで、今はその子のこと、どう思う?」「うん、やっぱり、嫌いになれないな」「なら、その子も友達なんだよ。私も友達。仲良くしようね」「ああ」彼女との一期一会はこういったよう終始こういった調子で、その後も何かと会話をしていたが、じきに私の乗る便のアナウンスが流れたのだった。私は手荷物を持って立ちあがると、彼女に手を差し出した。「私はもう行かなければならない。またどこかで会えたら、話しを聞いてくれるかい?」「うん、友達だものね。約束するよ」「ありがとう」彼女の手は、私が覚えている母のぬくもりと同じように、柔らかく、それでいて強い張りがあり、私には無いものを得られたような、そんな心地よい握手だった。「今度会ったとき、名前を教えてくれ」そう言い残して、私はゲートを抜けていった。「ええ、ビエラがナルバレックを見たと。最初はわからなかったらしいんですが、今になって私に言いまして―――ええ、残念ながらもう既に飛行機が出た後でした―――ですから、やはり、ゼフィールの例の試算は埋葬機関の動きと連動していると……はい、はい、わかりました。私はこれからイタリアに戻りますが、できるだけ調べてみたいと思います―――ええ、それでは。シエル達によろしく」よもやこのような場所にナルバレックが来ているとは思ってもみなかった。ゼフィールによると、どうやら埋葬機関が独自に資金を集めてる節があるとのことで、恐らく、今回ナルバレックがここサンフランシスコに現れたのも、西海岸沿いに多くいるカトリックらから資金を調達することが目的だったと考えられた。彼女自身が乗り出す必要があるのだから、これから何かと騒がしくなりそうだ。「ねえ、サン」電話を切って考え事をしていると、ビエラが私のスーツズボンを引っ張った。「どうした?」「私、ナルバと友達になったよ」「そうかい。それじゃ、今度会ったら紹介してくれないかな」「サンはもうナルバと友達だからその必要は無いよ」「えっ……?」ビエラは、私の驚く顔を見ると楽しそうにゲートの方へと走っていった。どうにも、最近ますますとわけがわからないときがある。何か、こう、目を離したら飛んでいってしまうような危うさがそこにはあった。釈然としないままでいると、以前、ナルバレックに話したことが思い浮かぶ。「蝶の羽をむしる」それが、彼女にとって幸せであるはずだと、私は自分に言い聞かせると、そのときが来ないことを願いもした。2003/7/30初稿