自分に何ができて、何ができないか。そんなことは今までのいわば「試練」とでも言うべきものでわかっている。いや、悟っている。
 これがわかるまでが、人間にとっては辛い道程なのだろう。今までの自分を反省し、自分が何故ここに生まれ、この時代に生きて、ここで育ち、そしてこの人に出会ったのかを正しく理解した。
 これから自分はようやく「どう生きるのか」の期間から脱し、「どう為(な)すのか」という、死ぬまで続く期間に入る。
 為したことによってことが成すのかどうか、それは問題ではない。その道を模索し続けることが大事なのだろう。
 どこかの聖人は、この期間のことを、こう名づけたそうだ。
 
「浄化」と…
 
   浄化の一幕(一話完結)
 
 冬から春へ季節が移るとき、人は年度の交替と共に様々な転機を迎える。高校3年である自分は卒業がそれだ。学校内にいる限り、それに向けての心構えは、作文やら抱負やら期末試験やら説教やらで受動的ながらも確実に意識していく。人によって意識の程度はまちまちではあるが、その良い例が、俺と目の前にいる「今は黒の」短髪の親友だ。そんなことを机に頬杖をつきながら思い、立っているそいつの顔を見上げると、その視線に感じるものがあったらしいそいつは自分から声を掛けてきた。
「なんだよ、遠野…やっぱり変か?」
そいつは自分の髪をわしゃわしゃと乱雑に構う。
「いや、有彦、その……うん、変だ」
そいつ、乾(いぬい)有彦は、つい昨日までは短髪を毛根部分から毛先まで綺麗に赤く染め上げていたのだ。それが今日になって会えば、何時の間にか黒毛になっている。変というしかない。
「いやな、姉貴に『卒業式で私に恥かかせるんじゃないよ!』なんて言われちまってなぁ…昨日、染め直したんだよ」
「まぁ、一子(いちご)さんにそう言われたら、いくらお前でも流石に逆らえないわな」
そう、今日は卒業式。直前まで、そんなもの屁とも思ってなくても、いざとなると嫌が応にも気が張ってしまう儀式。有彦としては、そんな心境になっているときに姉である一子さんにそんなことを言われたものだから、鬱積した様々な感情と共に、すっきりしてみたのだろう。こいつの家は両親が事故で亡くなってるものだから、一子さんの言うことにはかなりの影響力があるのも手伝ったかもしれない。
 かくいう俺も、普段はあの人と会う日以外は手入れもしない癖毛に櫛を通したのには、妹である秋葉に、私の目が届かないからといって遠野家の人間としての尊厳を損なうような真似はおよしになってくださいね、など昨夜の夕食後に言われたためだったりする。
 やはり、まだ周囲に影響を受けなければけじめがつけられない甘さが残っているのかもしれない。これからはそうもいかないのだなぁ、と思いながら梳(と)いてある髪を一つ摘んで引く抜くと、有彦が悟ったような笑いをしやがった。
 
 卒業式の風景なんてのは、わざわざ解説するまでもないと俺は思う。こういうのはそれぞれがそれぞれに状況に見合った反応をするものなのだから。
 そして、式が終わり、卒業証書を我が物顔で手にしながら、式が開かれていた講堂から出る。知っている顔の連中が親や教師、友人と話したりしている。俺は親はいないし、これといって恩義を感じている教師もいないし、わざわざ大げさに別れを告げる相手もいないから、そのまま帰ろうと思い、校門へと向かったが、途中で一人だけ大げさにする必要がある人間がいることを思い出し、そいつの顔を探すと、じきに見つかった。
「おい、有彦、話があるんだ…それにしても、お前、周りの連中と同じ黒髪なもんだから、探すのに苦労したぞ…」
冗談半分本気半分、といったところである。実際、人混みが激しいなかを探すのには多少苦労した。
「ふん、この馬鹿は今まで目立ちすぎたんだ。これで調度いいんだよ、志貴くん」
有彦の体に隠れて見えなかったが、一子さんが喫煙場所を探しているようにキョロキョロと周りを見回しながら俺に応えた。
 今日は珍しくフォーマルな格好をしている。まぁ、流石に普段着で来るほど世間ずれはしていないか。
 一子さんは何の仕事をしているかしらないが、どうやら室内での作業が多いらしく、タバコを愛煙している。
 そんな様子の一子さんを、仕方無ぇなぁ、といった調子で見ながら、有彦がようやく口を開いた。
「あ〜、姉貴、挨拶がてら職員室にでも行けよ。あそこならアンタにも負けない愛煙家どもがプカプカやってるからよ」
有彦が言い終わった後で、一子さんの鉄拳が有彦のみぞおちに入る。有彦よりも彼女は身長が低いので、かなり良い角度で入ったものだから、有彦はうっと呻き声を上げた。
「あ・り・が・と・よ、有彦。じゃ、私は職員室に行って待ってるから、話が終わったら来なさいよ」
髪を後ろでまとめたポニーテールを翻しながら、彼女は職員室へと挨拶へといった。色々な意味で煙たがれるであろう…。
「よし、有彦。ここじゃなんだから体育館の裏でも行くか」
「な、なにぃ!まさか、お前、最後のけじめとして俺の貞操をいただく気か!?」
そう、これで俺も色々な意味で世間とけじめをつけることができる。さよなら、一般社会。こんにちは、魅惑の世界……ってそんなわけがあるかぁっ!
 今の会話を聞きつけた連中への見せしめのためにも、俺は渾身の一撃を先程一子さんが一撃をかました部分へと叩き込む。
「ぐはぁっ!」
思わず地に膝をつけた有彦を、襟首を掴んで体育館裏へと引っ張っていった。これで俺の潔白も周囲へと印象づけることに成功しただろう。
 
「ねぇ、遠野くんと乾くんって、やっぱりそういう仲だったんだね」
「うん、最後の最後に疑惑がかたづいて、良かったね」
「そうだねぇ〜」
などという会話がその場にいた連中の間で交わされたのを知ったのは、数年後の同窓会でのことだ…。
 
「で、なんの用事だ、遠野」
相変わらずの転換の早さで有彦が体育館裏に着くと話し掛けてきた。俺は呆れたが、その分落ち着いて話す準備ができた。たまに、こいつは全てを見通してわざと騒いだりしてるのかと思ったりもする。
「有彦、俺が就職も進学もしないのは知ってるよな」
「あ?ああ、遠野家の当主の秋葉ちゃんを助けて働くんだろ」
そう、俺は周囲にはそう言ってある。当の秋葉本人にも、だ。しかし、本当は違う。
「いや、すまん、あれ、嘘」
「はぁ!?」
驚きから呆れ、そして苛立ちへと次々に替わる有彦を見ながら、罪悪感が募る。今の今まで黙っていたのも、その罪悪感から逃げてのことだ。
「実はな、俺、あの人と一緒に…」
「なあんてな、実はわかってんだよ!」
今度は俺が先の有彦と同じ反応をすることになった。
「お前がどうするかなんてな、俺にはわかってんだよ……」
そう言うと、有彦は俺を背にして校舎へと戻ろうと歩き始めた。
「じゃぁな、たまには顔見せに来いよ」
そういい残して体育館の角を曲がると、有彦の姿は見えなくなった。俺は、有彦にありがとう、と心底から想った。声に出すのは野暮だろう、そう思って、俺は有彦が曲がった角とは反対の方向へと歩いていった。
 
 校門を出ると、俺は事前に頼んでおいた遠野の屋敷専属の運転手の車に乗った。
「もういいんですか、坊ちゃん…っと、高校を卒業したのに坊ちゃんなんて、失礼でしたな」
運転手の田中が帽子を調えて後部座席に座った俺に冗談交じりに話してきた。六十歳過ぎに相応しい、柔らか味のある、しかし運転手らしい緊張感を備えた表情が、俺は気に入っている。
「はは、田中さんに我が侭を言ってるんだから、まだ坊ちゃんだよ。ところで、荷物は大丈夫?」
後部座席の後ろ、つまりトランクへ気をやると、田中が応える。
「ええ、もちろん。大変でしたよ、翡翠嬢ちゃんはともかくとして、琥珀嬢ちゃんの目を誤魔化すのは、苦労しました」
「あはは、あの二人は元気だった?…って、朝別れたばかりだけどね」
二人の使用人姉妹の顔が俺の頭を掠める。
「…本当に良いんですか、秋葉様がまた正に髪を振り乱して憤慨するでしょうよ」
別れの寂しさを帳消しにするほどの悪寒が俺の胸に刺さる。
「ここで止めたら、それこそ坊ちゃんですよ…」
それを聞いて田中がやられたなぁと言った表情をする。
「私をやり込めるようになれたんだ、もう坊ちゃんじゃないですよ。さて、それじゃいきますよ」
アイドリング防止のために止めていたエンジンを、キーを回しセルモーターで起動させる。昔から、この瞬間が好きだった。出発の期待を強めるからだ。
「それじゃぁ、手はずどおり、空港まで」
「はい、了解しました」
滑らかにクラッチが繋がり、車はゆっくりと走り始めた。
 
 県唯一の国際空港。日頃から税金の無駄遣いだの色々言われているが、そんなことは今の俺にはどうでも良かった。
「それじゃ、お元気で、志貴様」
そう言って、田中は屋敷へと戻っていった。
 入り口の自動ドアを抜け、国際線の受付所へと思い荷物を片手に急ぐ。そこにはあの人が待合の椅子に座っていた。いや、待っていた。
 
 短く切った青い髪。柔らかな表情に落ち着きを与える眼鏡。旅立ちへの期待と不安を孕ませたチェックのスカートを基として整えた冬服。
 俺は声を掛けた。
「シエルっ!」
それまで眠ったような状態だった彼女が、跳ねたように椅子から立ち上がると俺の方へと目を見やった。
 そのままとことこと何も言わずに走り寄ってきて、ようやく口を開いた。
「本当に…良いんですか、私と一緒に行って…」
開口一番から、また弱気な台詞である。だが、これはあくまで確認みたいなものだ。俺ははっきりと応えた。
「ああ、もちろんだ。さぁ、行こう、シエル」
自分でもこれまでに無いくらいの笑みを彼女に向ける。それに応えた彼女が、いつものようにニパっと破顔した。
 
 俺はこれから彼女の所属している特務宗教機関である埋葬機関のあるイタリア、ローマはバチカンへと旅立つ。そこで彼女と共に自分にしかできないことをやってみようと思う。危険だ、止めるべきだ、そういうことを、彼女からも自分自身の感情からも今まで訴えられてきた。けど、俺が最終的な決意した途端、彼女は、しかたないですねぇ、と、先程のように破顔したのだ。
 浄化。それが彼女と出会って今までに総合した彼女に対する考えだ。彼女は人に浄化を促す不思議な女性だ。そして、自分自身もその浄化に対して苦しんでいる。
 俺は、その手助けがしたかった。そして、共に歩みたかった。結果がどうなるかなんて知らない。知ることができたとしても、関係無い。
 
 そう、関係無いのだ…。
 

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