「いやぁ、ご苦労様でした、遠野君。疲れたでしょう?」どさっ!!「そ、そりゃぁ、こんな、置いたときに『どさっ!!』なんて音がする量を持たせられれば疲れるって…」置いた買い物袋の中身を改めて見ると、卵に始まり、特売の肉やら魚に加え、牛乳やら味噌やら、普段自分では持ちたくないものまである。「あはは…まぁ、折角ですからね」「うっ…まぁ、ご馳走してくれる手前、文句も言えないけどさ」「…相変わらす、優しいですねぇ、遠野君は」眼鏡越しに艶のある瞳を見ながら、そんな言葉を聞くと、ドキっとする。「ん?どうしました遠野君。台所はアッチですよ」「えっ、ああ、わかったよ。これ運ばないとなっ」いくら恋人同士でも、やはり照れ臭い。他人が聞いたら笑うかもしれないけど、こういう初々しさみたいなのは大事だとも思う。「さて、遠野君は私の10倍くらいはお疲れのようですから、あちらで休んでいてくれていいですよ」「え?でもそれじゃぁ悪いよ」流石にどこぞの亭主関白でもあるまいし、女の子を1人台所に立たせるというのも、やはり抵抗がある「いいんですよ。私がそうしたいんですから。さ、男の子だったらグダグダ言わずにとっとと休んでください」「わかったよ。それじゃお言葉に甘えるとするよ」「よろしい」大の男を捕まえて男の子もないと思うが、この際細かいことは気にしないでおく。事実、俺は疲れていたし、手伝うといっても何を手伝ったらいいかもわからないのだ。ここは彼女言う通り、休ませてもらうのが吉だ。いつも通り、ベッドルームに行き、気兼ねなくベッドに横たわる。最初の頃は気が引けたが、今では勝手知ったるなんとやら、だ。……疲れに任せて横たわってみたが、やはり眠れない。考えることが多すぎるのだ。「もしこのまま就職ができなかったらどうするのか」「もしそうなれば、どうやってシエルを支えていくのか」もし、もし、もし、もし………仮定の上に仮定が積み重なり、不安がそれに比例して大きくなっていく。こういったものは、自分では抑えることができない。以前、自分を悩ませたロアによる反転衝動然り、だ。あの時はシエルのおかげで抑えることができたし、ロアも滅することもできた。しかし、今度はそうはいかない。自分の不安なんていうものには”死の点(線)”などというものはないし、シエルに頼るわけにもいかない。シエルといえば、先ほどの買い物の時は楽しかった。学生服の青年にシスターというのは、人の感心を寄せるには十分な組み合わせだったようで、通る人通る人が奇異の目を傾けた。俺はそれを気にしているというのに、シエルときたら、「皆さん、そんなにシスターが珍しいんですかねぇ?」だものな。まったく、鋭いんだか鋭くないんだか…。女の子というものはそういうものだとはよく言うが、本当にそう思う。気づくと、失笑し、心が穏やかになっている自分がいた。ギュッと自分の下唇を噛む。こんなことではいけないのだ。こんなことでは……「遠野君、起きてますか?」スッと、入り口からシエルが入ってきて、声を掛ける。少し驚いたが、そんな様子を見せないように平静さを装って返事をする。「ん、起きてるよ。いやぁ、どうも腹が減りすぎて寝付けないみたいだ」「ふふっ、そうですか。遠野君らしい、といえば、らしいですね」「それよりも、料理の方はどうしたんだ?」「ああ、ついでですから夕飯の分も作ろうと思って、仕込みをしていたんですが、それも終わったので味が食材に漬くまで暇なんで、ちょっとお話でもしようかと思いまして」「あ〜、久しぶりだものな、こうやって会うのってさ」「ええ、ですから、ね」「うん、わかった。俺も寝れそうにないから、ちょうどよかったよ」”ちょうどよかった”その言葉の持つ意味を自分で気づいたとき、どうしようもなく腹が立った。無意識にとはいえ、俺はシエルを利用しているのだ。シエルにそれを言えば、「違う」と答えるのだろうが、事実俺にはそうとしか思えないのだ。「…やっぱり、最近の遠野君は様子がオカシイですね」シエルが怪訝な顔をして聞いてきた。…気づかれるわけにはいかない。「……前にも言ったけど、そんなことはないよ。シエルは心配しすぎだよ」「嘘、です」まるで既に確信しているかのごとく言われ、俺は焦った。しかし、なんで……「『なんでわかったんだ』といった顔ですね」「!!??」「…遠野君自身は気づいてないみたいですけど、遠野君は嘘をついたり、困ったりすると眼鏡を無駄なまでに触るんですよ。何故かまではわかりませんけど」「……」そういえば、以前にも有馬の家の母さん…啓子さんにも同じことを言われたことがあった。その頃の自分は、こう思ったものだ。「ああ、僕は今でも先生を頼ってるんだな」って…。つまり、あの頃から僕…いや、俺は何も変わっていないんだ。先生に「素敵な大人になりなさい」と言われた頃の、幼い自分と。「…!!」そう思うと、先ほどの何十倍も自分に腹が立った。自分の下唇を噛み千切ってしまうのではないか、と思える程に、強く、強く噛んでいた。「!!遠野君…!」「?…!!」自分の口元をツゥっと何ともいえない感触が伝わり、それが唇からにじみ出た血によるものだと気づいたとき、すでに……すでに、”シエルは俺に口付けをしていた”。俺が驚いている2,3秒の間に、シエルは俺の口から離れた。そして、彼女は自分の口元に指を這わせると、こちらに指を見せた。「ほら、遠野君、血ですよ!血!!まったく、そんなに噛んだらこんな程度じゃ済まなくなるところでしたよ!!」あまりの事態の急変に、俺が未だに呆けていると、今度はふわぁっと、包み込むようにシエルが抱いてきた。その暖かさで、段々と俺は落ち着いてきた。「……」「落ち着きましたか?遠野君」「…うん」「それはよかった。でも、まだ心配なんで、しばらくこうしていますね」「…いや、それは……」「いいから、ね?」「…うん」なんだかずっとこんなやりとりばかりしているような気がする。「…なんで、あんなことしたんですか?」「……」「ほらっ、もう嘘をつく必要なんてないんですから。素直に言っちゃってください」「はははっ、先輩には適わないや」「…そう呼んでもらうのは、久しぶりですね」「ああ、今から言うことは、多分、”シエル”によりも、”先輩”の方が話し易いからね」「ふふっ、それでも良いですよ」「ありがとう」「いえいえ。それでは、”先輩”として聞きますね。なんで、あんなことしたんです?」「……俺、知らない内にいろんな人に頼ってることがわかったんだよ」「”いろんな人”というのは、誰です?」「先生と……」もう1人の名を言って良いのか。本当に良いのか。そう思いもしたが、どうせ”先輩”には逆らえないのだ。俺は意を決して、そのもう1人の名を言うことにした。「先生と……シエルに」