出来事の裏に彼女がある
 
 
 そこでは微かな光だけが頼りだった。目の前に零れる光の軌跡がアスファルトの影に溶け込んでいく。炎が泡立ち、血が沸き立つ。鋭き剣が影を縛り、俊敏な狼の体が軋みもたてずに飛び跳ねていた。
「……しぶとい」
シエルは舌打ちを禁じえなかった。今日、警ら中にたまたま発見した死徒がこれほどとは思いもしなかったからだ。黒鍵のストックはもう少ない。いざというときのために、いつでもセヴンを呼び出せるようにしながら、それは自身の能力がこの年端も行かない死徒に劣るかのようにすら思えて、癪(しゃく)でもある。
「意外と大したことないじゃない」
死徒の挑発にシエルは応えない。頭のどこかで、彼女を助ける算段をしていたが、この状況下で―――たった今もスプレーで落書きされた壁にクレーターが空いた―――そのような挑発的な言動を取れるということは、脳の浅い部分だけでなく、既に下垂体にまで侵食が進んでいる証左だった。それが悔やまれてならない。
「血ハ美味シカッタデスカ」
「……なに?」
手を擦りながらこちらを悠然と見ている死徒に合わせ、こちらも間合いを保つ意味も含めて動きを止めて声を出す。第一声は震えていて、壊れた無線機を介したかのようだった。周波数を合わせ、もう一度声を出す。
「血は美味しかったですか、と聞いているんですよ」
「美味シカッタヨ」
「真面目に聞いているんですよ、私は」
先ほどのシエルの声真似をする死徒に苛立ちを隠せない。それを知った上で、死徒は続ける。
「ダカラ、美味シカッタッテ言ッテルジャナイ。オカシナ人……人?人デナシモ人ノ内?アハ、アハハハハ」
もう救い難いのは明白だった。そう考えてシエルは足を踏み出そうとしたが、それは叶わなかった。救い難いだって?それは果たして誰のことだ。死徒か。いいや、この自分自身がだ。このような既視感を覚える死徒は久しぶりだった。シエルの深血が贄に狂喜を覚え始める。
 シエルはニヤリと笑いを一つ浮かべた。ハロウィンの出来の悪いカボチャにも似た、歪に誂えた口は全てを呑みこもうとしていた。少なくとも、死徒の心はもぎ取るに足りた。
 その死徒が後ずさりした瞬間をシエルは見逃さなかった。今まで手をつけていなかった種類の黒鍵、残り十七本全てを死徒をわざと外し、その手前に柵を形作るように投げ付ける。すると、影が上空に羽ばたいた。鳥葬式典の概念バージョンとでもいうべき、影の群れが死徒の目の前で踊り狂う。
「セヴン!」
相手の隙を作り出したシエルがとっておきを呼び出す。
「マスタァ〜、人参一本で超過勤務手当てというのはどうにかなりませんかぁ〜」
とっておきの割には本人に自覚が無いのは普段の扱いの所為であった。
「本当にあれやるんですかぁ〜?」
「いいからとっとと―――」
「はわわ……」
慌てて、巨大釘打機もとい第七聖典と化したセヴンを両手で持ち、構える。影に切れ目が見え、そこにターゲットが見えた瞬間、そこに飛びこんだ。
「パイラーセヴン!」
先ず、その重量だけを相手に叩き付ける。死徒は壁に正に釘付けとなり、この時点で肋骨は折れ、内臓をしたたかに圧迫、または傷つけるなどしている。それと同時に、第七聖典の先端に取り付けられたパイルも突き刺さるが、かろうじて心臓手前で止まっていた。
「インパクト!」
手首ほどの太さがある薬莢が、パイル部分の爆発と共に後方へ飛び出す。放出された爆発によって指向性を与えられたパイルが相手の心臓どころか脊髄部まで完全に貫通する。
「イジェクト!」
ぼろぼろに傷ついた血管ごと穿たれた心臓を引きずり出すと、再びセヴンが上体だけを本体部から外に出す。
「あ、あの、ほ、本当に―――」
「や・り・な・さ・い」
「―――不死、格好悪い!!」
それまで完全に沈黙していた死徒がそのときばかりは悲鳴を上げた。横隔膜の膨張によって外に押し出された内臓がびたびたと地面に落ちる。それを意に介さず、セヴンはパイルに突きたてられた心臓を光を漏らしながら浄化していく。
「ご苦労様です、セヴン」
完全に分子分解された様子を確認して、シエルはねぎらいの言葉をセヴンにかける。扱いが扱いだけにねぎらいになっていないのが問題ではある。当の死徒はというと、インパクトの際に貫通したパイルが炸裂して粉砕された壁の破片に呑みこまれる形で倒れていた。
「マスタァ〜、曲がりなりにも死徒をこんな風に趣味的に処理するのはどうかと……」
「いやー、流石にちょっとむかついちゃいまして」
ニコリと笑うマスターの顔に、過去何度も味わった恐怖をセヴンが反芻する。彼女の泣きっ面から漏れた涙の落下地点には生徒手帳が落ちていて、そこにはこのように名前が書かれていた―――
 
 
   弓塚さつき
 
 
 シエルは悠然と夜の街の路地裏を去っていった。そこにあったはずのモノは全て灰に帰す。破壊された壁や地面も、一週間後には元通りになっていることだろう。シエルは今日の夜食のメニューを鼻歌を奏でながら考えていた。今日もカレーにしようか。彼女にとって変わらない日常がそこにはあった。

2003/9/11初稿

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