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こう見えても結構な読書家である、と比那名居天子は思っている。
元々、友達と遊び回るのは苦手だったし、天人になってからは他の者との反りも合わず、ますます読書に走っていった。大体、他にすることも無いのだ。
一時期には地上の様子を見ては一喜一憂していたのだが、それも事件の後には飽きたというか、こだわらなくなったというか、また読書癖が首をもたげていた。あのときやたらと色々な人妖と話したものだから、かえって知識面での欲求が刺激されたのかもしれなかった。
そして今日も、縁側の傍の畳でうつぶせに寝転がり、両足をパタパタさせながら、昼前から本を読んでいる。夜更かしも嫌いじゃないが、真面目に勉強しているなと思われるのも癪なのだった。
「鄭の連中の右往左往っぷりが一番読み応えあるわあ」
と、誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、パタパタやっていると、
「経書に娯楽を求めるのもどうかと思いますが」
開いた本に、影が差したのだった。
「逆よ逆、たかだか詩とか故事に経を求め過ぎるのがいけないのよ」
「聞く人が聞いたら怒りそうですから、少しは憚ってください」
「それなら、私に憚ってもらいたいものだわ」
「ああ、これは失礼」
縁側に立つ永江衣玖が、帽子を脱いで、腰を落とす。おかげで影が引っ込んだが、どうせなら畳の上に座れば良いのに、と天子は思った。
「今日は、総領娘様をお誘いにあがったのです」
「何のー?」
興味がない風に頬杖を突いているが、実際は足を大きくバタつかせていて、興味津々だった。
「行きつけのクラブで、ただ飲みのチケットが手に入りまして。普段なら他の者にあげてしまうのですが、今回はもらった本人と誰か、という形式でしてね」
「それは、私を誘う理由にはなってないわよね」
「いえ……近頃、熱心に読書をされていると聞きつけましたので」
じとりと、天子の本に視線を流す。どうせ父親辺りが喋ったことだろうと天子には察しが付いた。
それについて色々思うところはあった、が、
「気分転換には良いかもね」
本を閉じて、起き上がった。
「お待ちください」
意気揚々と出かけた天子を迎えたのは、くぐもった声の女だった。
夕方を過ぎてから、支度をするために一度帰った衣玖と一緒に出かけたら、クラブの前で止められたのである。いわゆるキーパーというやつなのだろう。大して派手でもないネオン管の下で、女は衣玖の方に顔を向けた。
「永江様のお連れ様なら本来は差し出がましいことを申しませんが……よろしいのですか?」
「ちょっと、どういう意味よ。ノーネクタイお断りだなんて言うんじゃないでしょうね」
衣玖を介さずに問い質す。黒いスラックスに、やはり黒いベスト、それにグラサンだなんていう地味な奴よりは店の雰囲気には合ってそうだが。そういう嫌味も含めて、相手の体をねめつける。
慣れてるのだろう、相手の女はしれっと答えた。
「私どもは誰よりもお客様を第一に考えています。なればこそ、あえてお引止めすることも厭わないのです」
そう言った彼女が、天子らの後ろの客を気にしたとき、天子は強引にドアを潜った。手なり肩なりを後ろから掴まれるぐらいのことは考えていたのだが、そういうことは全く無く、ドアはぱたりと閉まったのだった。
不思議に思う間も無く、強烈な音が耳を裂いた。クラブ慣れをしていないと、それだけで酔いそうな音量、そして人いきれ。視界はぼんやりと、それでいて熱っぽい。気圧されて壁際に逃れようとすると、今度はグラスを片手に錠剤を呑むヘラヘラした者や、綺麗所の肩に手を回して、煙草をやっているようなのが、落ち着けそうな場所を占めていた。幻想郷らしく、女性の比率が圧倒的ではあるが、人種そのものが違うような錯覚に陥る。
「上のフロアに行きましょう。そちらは私の同僚ばかりですので」
いつの間にかすぐ横にいた衣玖が、さりげなく腕を組んで、引っ張ってくれた。うかうかとしてられない状況ではあったが、咄嗟のことに興奮を隠せない。
それにしても、衣玖の同僚とはどんな者達だろうか。あまり意識して竜宮の使いを見たことがないので、印象が薄い。衣玖にしたって、先日の地上とのごたごたでようやく顔を覚えたぐらい。
まあ、こちらは天人、必要以上の気兼ねは無用だろう。直接の上下関係は無いが、貴族や士大夫、それと一般人のようなものである。
自分を納得させて、ぐねぐねとした階段を上がる。その踊り場などにも人がたまっていて、ぼうっとした眼差しで下のフロアを眺めている。何が楽しいのだろうと思うが、ここにいるだけで楽しいのかもしれないと考え直し、衣玖に引かれるままに階段を上がり続ける。
私もそう思えるようになるのだろうか。上のフロアの扉を抜けるとき、頭を過ぎったことである。
そして、直後に吹き飛んだ。
「ようこそ、総領娘様」
「ようこそ」
「ようこそー」
「よーこそ!」
「そこよー!」
顔、顔、顔。竜宮の使いが勢揃いしていた。
その全ての顔が、衣玖のものだった。
「え、あ……うっ、へえ?」
「どうしました?」
お前こそどうした。そう問う言葉も出てこない。
隅に逃れようとすると、反対側の方から腰に手を回される。衣玖だ。いや、同僚か。もう、わからなくなっていた。
「あはは、総領娘様、可愛いです」
「あー! 私もー!」
わらわらと、引っ付いてくる衣玖衣玖衣玖。
全てが衣玖。
衣玖=衣玖であり、天子=衣玖にもなってしまいそうな恐怖を覚える。
「うああ、あああ……」
天子の呻き声は、フロアからの爆音に溺れた。
翌朝、店の前に天子が放り投げられた。掃除の邪魔だと、夜はキーパーをやっている女が言い捨てる。
「だから止めたのに」
それを胡乱な意識の中で聞いた天子の頭に、新聞紙が被さる。
よろよろと起き上がった天子は、新聞紙をくしゃくしゃに丸めて、店のドアに投げつけた。
虚しさだけが込み上げる。
「……朝マック食べて、帰ろっと……」
日曜はまだ始まったばかりだ。そう思うと、土曜の夜の悪夢も、気にならなくなった。