跡秘
広い庭に積もった雪が、淡い光を照り返している。縁側に硬い座布団を敷いただけの所に着けた腰は冷えていたが、心地良いダルさは悪くなかった。
「雪の下ってのは……」
隣にいた妖忌が、寒気で痒くなった二の腕を掻いた。
「春になんねぇとわからんな」
「雪を除ければ良いのでは?」
また変なことを言い出したと妖夢は呆れはしたが、それなりに答えてあげたくなる程度には師を尊敬していた。その尊敬する師である妖忌は弟子に茶を注がせるよう促した。
「そりゃ、もう雪の下じゃねぇだろ」
「春になっても雪の下ではないかと」
すっかり冷えてしまった急須から注いだ茶を、二人は無言で飲み始める。妖夢は少し、瞼が痒く思えた。
「そこに雪があるのに雪の下がわかんねぇってのは、納得がいかんな」
「いかんですか」
「いかんなぁ」
瞼が痒い。隣でまた妖忌が腕を掻いている。それに目を取られたとき、妖夢の手から湯飲みが落ちた。湯飲みは直に縁側の下に落ち、雪に緑色の染みを作った。
「眠いのか」
「眠いですけど」
「眠いのに眠らないのは、納得がいかんな」
「いかんですか」
妖忌は胡坐を掻いた自分の腿をばんばんと叩くと、いかんなぁと言った。
目を開けたとき、妖夢は硬い座布団に頭を乗せていた。瞼が痒い。妖忌はいない。
頭を座布団から起こすと、元々自分が座っていた座布団に腰を落ち着かせる。縁側の下に落ちていた湯飲みを拾う。
しばらく、空になった湯飲みを持ったまま呆けた後、妖夢は広い庭に向けて湯飲みを放り投げた。
落ちた所からカコーンという音が鳴る。その下から、雪を引っくり返して妖忌が起き上がった。
「よくわかったな」
赤みの差した入道頭を掻きながら、妖忌が縁側の座布団に腰を下ろす。雪の下でうつ伏せになっていた身体には雪がこびり付いており、それを妖夢は手で払ってやった。
「どれぐらいの間、ああしていたんですか」
「半刻程かな」
「雪の下はどうでしたか」
訊いた途端、妖夢がくしゃみをした。
「ここよりは温かかったな」
茶を入れ直して来ますと立ち上がった妖夢に妖忌は返事をせず、腕を掻くだけだった。相当に痒いらしく、二の腕と言わず、肩口から指先にかけて満遍なく掻いている。
妖夢が縁側と座敷を隔てる雪見障子を後ろ手に閉めようとしたとき、声がかかった。
「なぁ、まだ」
そこで口を噤む。ぼりぼりと腕を掻く音から逃げるように、妖夢は障子を閉めた。
座敷も暗かったが、廊下はもっと暗かった。妖夢の背中を見つけた幽々子が、からかうように顔を出した。
「ねぇ、縁側は寒い?」
「ここよりは」
ふうんと幽々子。彼女はもう一度、ねぇと言った。
「それはどうしたの?」
その言葉の意味を質そうと顔を横に向けたときには、幽々子はいなくなっていた。縁側にでも行ってしまったのだろう。
暗い廊下の向こうを見ると、立ち眩みがした。寒気に中ったのか。無精を悔いる暇も無く、前のめりに倒れた。
背中の冷たさに目をさました。辺りは暗く、上と下がどちらかということだけはわかるような具合だった。相当に調子が悪いのだろう。妖夢は早々に辞すことをわびなければと思ったが、身体が動かなかった。
瞼が痒い。でも、腕が動かなかった。頭に温かい感触がある。妖夢が見上げると、妖忌の顔が見えた。
「俺のことがわかるか」
「お師様のことですか」
「そうだ。わかるか」
答える前に、頭に触れている妖忌の腕を握った。掻き過ぎて爛れてしまった腕は、ぐちゅぐちゅとした感触だった。
「わかりません」
妖夢は立ち上がると、廊下を歩き始めた。
勝手場は開け放たれた裏口や窓から光が入り、とても明るかった。薪を突っ込んだ鉄の塊の上では薬缶が湯気を昇らせている。布巾越しに取っ手を持って重さを確かめると、中にはまだ、たっぷりと湯があるようだった。
用の済んだ布巾を水の張ったタライに投げ入れる。
赤い色が、水に混じった。
自分の手の平を見ると、血がこびり付いていた。
妖夢は薬缶をひっくり返し、廊下を走った。
瞼が痒い。掻いてしまえ。そうして初めて、自分が泣いていたことがわかった。
縁側には払い落とした雪が、赤い色に溶けていた。
広い庭の真ん中に立っていた妖忌が、妖夢に振り向く。
「茶は入ったか」
彼は妖夢の投げた湯飲みを片手で弄びながら言う。
「なんだ、“まだ”泣いているのか」
彼が湯飲みを妖夢に投げた。彼女はずっと持っていた楼観剣を鞘から引き抜くと、そのまま居合いの要領で湯飲みを真っ二つに割った。その刀身には、血が曇っていた。
「俺のことがわかるか? ……わかんねぇだろうなぁ」
言いながら、足下にあったものを蹴たぐる。肩口から切り落とされた片腕だった。
「ふと思ったことは無いか」
妖忌は落ちた片腕を拾う。
「頭に過ぎったことを実現した瞬間、どうなるだろうってな。気に食わねぇことを言った野郎の顔を大勢の前でぶん殴るとか、自分を信頼しているはずの相手を裏切るとかだ」
妖夢は鞘を捨て、両手で太刀を構える。
「自棄って言っちまえばそれまでだ。しかしな、そこから流れ出すものってのもあるんだよ」
「お師様の血なんて見たくなかった!」
「お前じゃなきゃ、片腕をやらさせやしねぇよ」
ただの模擬仕合のはずの稽古で、妖忌は片腕を失った。不覚というわけではない。彼にとっては早いか遅いかの違いでしかなかった。なまじ両腕があるから、未練が残っていた。
「もう一度だけ言う。――わかるだろ」
「あなたのことなんてわかりたくない!」
「そうだ、それで良い。お前は俺と違う道を行け」
妖忌が満足気にある方向を見遣った瞬間、その方向から風が吹いた。積もった雪の上の部分が飛ぶ。濡れた瞳に一際の寒気が走り、妖夢が目を閉じた。
「痒いの?」
寝惚け眼を擦っていた妖夢に、幽々子が言う。自分が主人の膝を枕にしていたことに気付いた妖夢は、慌てて立ち上がった。足に湯飲みが当たり、縁側の下に落ちる。夢と同じ場所で、緑茶が雪の染みになっていた。
「あら、もったいない」
普段から玉露だろうと出がらしだろうとがぶ飲みしている癖に、よく言えるものだ。
「幽々子様は……」
「何?」
「いえ、何でもありません」
首を傾げている幽々子に背中を向け、妖夢は湯飲みを拾った。何気なく、夢とも思えぬ夢で見た場所に、湯飲みを投げる。
カコーンという音が鳴る。
雪の下から、紫が現れた。
「あいたた……よくわかったわね。折角、驚かせようと思ったのに」
服の雪を払い落としながら、紫がとぼける。妖夢はお盆に余分に置いてある湯飲みに茶を注ぐと、紫に渡した。
「わかりたくありませんでしたけどね」
「まぁ、そういうものよね」
「何? 何なの?」
珍しく話の合っている妖夢と紫に、幽々子が割って入る。
「あなたはお土産の御菓子でも食べてなさい」
「え、どこどこ?」
「あそこ」
紫が指し示したのは、彼女がつい先程まで埋まっていた場所だった。そこへ幽々子が飛んで行くと、行儀もへったくれも無く掘り返し始める。
「ずっと、わからなければ良いのにね」
紫が幽々子の丸まった背中を見遣りながら呟く。
陽射しが照り返す雪の上を、妖夢はずっと眺めていた。