文牛

 下駄屋がこけたらしい。
 文がおやつに出陣餅でも食べようかと葛とタレをぐっちょぐっちょしていたとき、知り合いの河童が飛び込んできて知らせてくれた。
「へえ、下駄屋さんがね。とりあえず、にとりさんも食べますか?」
「いらないよ、喉がからからのときに食べたいもんじゃないよ」
「じゃあ信玄餅で」
「変わらないよ! 同じものだよ!」
 言ってはならないことを言う河童だ。越後と甲斐をそれぞれ代表してシメてやろうかと思ったが、誰より彼らが一番わかっていることなので、あえて無視することにした。
「それで、こけたこけたと仰いますが、どういう意味で?」
 転んだ、肉が落ちた、経営に行き詰った等々、色々と取り揃えられている。葛餅の名前よりバリエーションがあるではないか。
 にとりは置いてあった薬缶の口から直に麦茶を飲んでから、答えた。
「物理的に、バランスを崩して、二足歩行の不安定さを証明しつつ、地面に肉体をぶつけて、足を捻挫したんだよ」
「ご丁寧にどうも。ところで下駄屋って、あの下駄屋さんですよね? 下駄を作って五十五年、私も愛用している靴型下駄というわけのわからんながら微妙にニーズのある品を提供し続けている下駄屋(人間)。そういえば文章の会話とかで(なんたら)とか書いてあると、気になりません? いったいどうやって喋ってるんだよ、かっこなんたらかっことじとか言ってるのかよとか思いません?」
「そう、その下駄屋。あと私、そういうの読んだことないから」
 どちらについても素っ気無いものだった。
 しかしそれも仕方が無い。にとりはかつて天狗の次期主力一本下駄トライアルであの下駄屋に負けている。
 まあ、ローラーダッシュ機能とかいうわけのわからない物を付けて負けたのだから、自業自得なのだが。
 ちなみに下駄屋の方の下駄はというと、岩を蹴り砕いても欠けず、水上を疾駆しても安定し、かつ蒸れないという機能を突き詰めていた。正に匠の技。
 文もそれに替えてからは、以前にも増して取材活動を……、
「ちょっと待ってください。それ、いつの話ですか?」
「昨日の夕方らしいよ。豆腐屋のパーポーっていうサイレンが聞こえて奥さんに買い物を急かされたとき、慌てて飛び出したら、蹴躓いたんだって」
「それは弱りましたね……その調子だと、仕事してませんよね?」
「してないしてない。全然してない。俺はもう歳だー、里に婿に出した長男に戻って来てもらうだー、だーだー、なんて具合で、駄々こねてるんだもん。やってらんないよ」
 にとりのこの様子だと、どうやら見舞いに行ったらしい。やはり人間が好きなのだろう。
「それで、何で天狗様が弱るのさ?」
「……昨日の昼、私の下駄を預けましてね」
「あらら」
 どうせ三日間ぐらいは家で記事を書くだけの生活だし、梅雨明け前に一度手入れをしてもらおうと踏んだのだ。
「まいりましたねえ、あれが無いと出歩くのにも困るんですよ」
「普通の靴は無いの?」
「いや、あることはあるんですけどね、それがですね、ええ。まあ何ともはや」
「んー? まあいいけど、それより、そんなに困るなら……」
「結構です」
「むう……」
 ローラダッシュ機能なんて、御免である。
 この際、下駄屋の捻挫が治るまでの期間、このまま引き篭もっても良いのだけれど、一応は天狗全体でお世話になっている相手だ。見舞いに行くぐらいのことはした方が良い。もちろん、主な理由は下駄の様子見だ。
「じゃあ、そういうことで、行きましょうか」
「行きましょうか、って……天狗様」
「何でしょう」
「どうして当たり前のように私の背中に乗るんですか」
 がっしとにとりの両肩を掴んでいる文である。その顔に迷いは無い。
「ちゃんと両手でがしっと太股を支えてくれるにとりさんだからこそです」
「条件反射ですよ。重……軽くないんですから、降りてくださいよ」
「えー? そんなこと言うとアクセル握っちゃいますよー」
「あっ、きゃわっ」
 肩から前の方に手を伸ばし、胸の辺りをわしゃわしゃやる。
 ふははははは、どうだ、これでお前は嫌でも進まねばなるまいぞ、と調子に乗ったところで、
「ふがごっ!」
 文が後頭部から土間の地面に落ちた。にとりが文の太股から手を外したのだから、当然の結果と言える。
「くっ……切り捨てるのは慣れてますが切り捨てられるのは大ダメージです」
「最低過ぎるよ、それ」
 微妙に距離を置かれてしまった。これでは負ぶってもらうどころか、道端で挨拶しても無視されかねない。
「じゃあ、ちょっと靴履いてきますから、待っててくださいよ」
「はあ、まあ、良いですけど……」
「嫌なら帰って良いんですよ?」
「いや、そうじゃなくて。着替えもしてきた方が良いと思うんだ」
「あやややや、本当ですね」
 今の今まで、下着姿だったことを忘れていた。
 何せしがない烏天狗、お洒落のために服こそ揃えてあるけれど、そうすると普段着を節約しなければならない。部屋着なんてもってのほかで、洗濯の手間も省けるから、引き篭もるときは大抵、この格好である。
「これはこれで自分のプロポーションを常に意識できるので美しさを保とうという心理が働いて」
「言い訳は良いですからさっさと準備をしてくださいよ。あとちゃんと私のお夕飯を奢るお金も持ってこないと」
 露骨な要求をされた気がするが、言われたままにしてしまう。
 念のため顔を洗い、着替えを済ませ、靴紐も結び、さあ出発というところで、
「けぷらっ!」
 今度は顔面から地面に落ちた。
「わわわわわわわっ! 大丈夫? 汚い顔が綺麗になっちゃう?」
「どれだけ私は大地に癒されるんですか」
 さすがににとりも慌てた様子で、手を貸してくれる。
 靴紐でも切れたのかと確認してきたが、生憎とそういうことではない。
「靴が原因ですね」
「靴が? いやあ、可愛いじゃない、これ。ベタなローファーだけど似合ってるよ。舐めるよ」
「舐めないでくださいよ。こんなときに変な属性をカミングアウトしないでほしいですね」
「冗談だよ。で、この靴の何が悪いの?」
「この靴、履くのは二十年ぶりなんですよ」
 正確には、一本下駄以外のものを履くのが、だ。
「あ、なんですかその、同じ少女の形をしているのも気に食わないみたいな、げんなりした表情。傷付きますよ。舐めなさい」
「いやいや、そんな趣味じゃないから。さっきのは冗談だから。冗談なんだよ。まあ、私らみたいなのにとって、格好は大事だもんね」
「おわかりいただけて恐縮ですが、ご自分の服装を慌ててチェックし始めるの止してくれます? 心が化膿しそうですよ」
「天狗様は膿を出すか出さないかの違いしかないよ」
「化膿してること自体は肯定された!」
「天狗の化膿性は無限大だよ」
「下手な駄洒落で誤魔化そうとしないでください! 上司に慰められるより惨めです!」
 はあ、と二人でため息を吐く。普段はあまり話さないものだから、距離感が上手く掴めていないのだった。
 さしあたり、また顔を洗ってきて、仕切り直す。
 今度は順調に歩みを進め、玄関を出た。
「良し、これなら明日の朝までには着けそうです」
「悠長過ぎるよ! ある意味で謙虚だけど!」
「ああ、なんか靴擦れしたみたいです」
「私の心が擦り切れそうだよ」
 その歩み、時速にして0.5キロメートル。なめくじよりは速いかもしれないが、ちょっと自信が無い。
 なお文の全身からは汗が噴き出ていて、ある意味でなめくじみたいになっている。スポーツ漫画だと大したことにはならないが文章でそれを具体的に表現すると成人向けになりかねないので自重させていただく。
「くっ……この私が会議での投票のとき以外にまでこんな真似をすることになるとは」
「それもそれで格好悪いよ。とにかくさあ、徐々にでも良いから、ペースを上げてかないと。まさかこれから一生、一本下駄が無いと満足に散歩も出来ないままでいる気?」
「飛ぶから良いもん」
「またそんな駄々を……あっ」
 そうだ、飛べるじゃないか!
 ぱあっと表情を明るくしたにとりだが、肝心の文は暗いままだった。頭の回転が速い文が察しないとも思えず、にとりは首を傾げた。
「飛ばないの?」
「飛んだら落ちないといけないんですよ。それが自然の理(ことわり)です」
「天狗に理とか言われても……」
「良いですか? 今の私が万が一飛んでみなさい。幻想郷に大穴が空きますよ」
「着地で下手し過ぎでしょ!」
 そもそも普段からそんな勢いで着地してるのだと思うと、ぞっとした。隣の家が実は花火工場でした並の衝撃がにとりの体を揺さ振る。
「えっ? ちょっと待ってよ。もしかしてそれって天狗様だけじゃなくて、他の天狗様も」
「当然です」
 まるで冷戦構造の真っ只中に落とされた気分である。誰かが下手を打てばそのまま全面的な崩壊に繋がるのだ。
「……私、もうふざけた商品売り付けようとしない。だから許して」
「ふざけてたんですか……」
「うん……」
「良いですよ。良いですから、負ぶってください」
「わかった、いいよ」
 長い長い、和平交渉が、ついに実を結んだ。
 にとりが準備万端とばかりに構えると、文が飛び乗ろうとした。

 飛び乗ろうと、してしまった。

「あっ」




 妖怪の山の麓に、下駄屋は店を構えている。そこいらに生えている木々は下駄向きの堅さで、粘りもある。
 その点、自分はどうだ。下駄屋は包帯を巻いた足首を眺め、嘆息した。
「俺ぁもう、引退だな」
「あんまり駄々ばっかりこねるんじゃないよ」
 こんな会話を、下駄屋とその妻は一日中繰り返している。たかだか捻挫と思う妻ではあるが、一方で、これまで瑕疵の無かった夫が仕事以外のことで躓いたとき、想像以上のショックを受けたろうことも、長年の付き合いで察していた。
 蓄えもあるし、畑もある。この際、店を畳んでも良いかもしれない。
 妻も折れかけたとき、玄関戸が勢い良く開き、あまりのことに枠から外れた。
「親父、弱気になんじゃねえよ!」
「お、お前ぇ……」
 婿に行ったはずの長男だった。
 次男は病弱なままさっさと逝去してしまったから、この長男だけが頼りだった。その長男が家を出ると言い出したとき、下駄屋は怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ仕事に打ち込んだのである。彼の頑なさがそうさせたといえよう。
「けっ、今更手伝うなんて言うんじゃねえだろうな」
「連れ合いとは前々から話し合ってたことなんだよ。ただ、親父にそんなこと言ったら、かえって怒るだろ?」
 実際、その通りである。息子が帰ってきただけでこうなのだから、下駄屋もすっかりやられてしまった。
 天狗に協力的にする一方、下駄の衝撃が分散するように工夫をして、無駄な被害が出たりしないようにしてきた下駄屋魂、継いでくれるというのなら、それに心が揺れるのである。
「親父の下駄は一本下駄だが、鼻緒は二つで一つだぜ!」
「……」
 下駄屋の視界が揺れる。
 ああ、涙が浮かんできたのか。やっぱり俺も歳なのだ、涙もろくなって、いけねえや。
 あの河童にも悪いことしたなあ、と反省しかけたときのこと。
「お、親父……あれは客か? 客なのか?」
「あ? ……ああ、あれが客だ。あれが天狗だ。河童もいるが、あれと比べたらまだまだだ」
「俺は、あんなのと商売をやってくわけか……」
 材料に使っている木々を、文とにとりが団子になって薙ぎ倒していく。所々で粉塵が舞い上がり、空では鉄砲喰らった鳩のごとく有象無象が騒ぐ。
 木の幹が破れ、川面は弾け、地肌が渦を巻く。
 その日そのときの被害によって、しばらくの間、下駄の品不足が続いたという。
 文が謹慎を食らったのは言うまでもない。