駁芽

 高い物は嫌いだが、長い物は好きだ。

 鈴仙は小高い丘にかかった長い階段を上りながら、自分の頭の上にある耳を触った。
 階段というのは、坂もそうだが、高さを長さにしてしまう。丘へと上ろうとする意志がそうさせると言っても良い。
 これが崖となると、それは高いとなってしまって、どうにも上る気が失せる。
 月から地上へと逃れてからは幾つかの土地を転々としたが、坂や階段を整備する者はいても、崖に梯子が掛かった景色は見た事が無い。
 もっとも、自分は飛べるのだから、そういった人間達の努力とは関係が無いように考えていた。しかし、輝夜が聞いたら良い顔はしないだろうが――この世は良くも悪くも人間によって作られている。
 あの世も、そうだろう。人の意志が天国と地獄、それに類する物を発見したとき、既に人間はそれらを制覇している。人は膨らみ続ける風船のようなものだ。膨らめば膨らむ程、自らが破裂する緊張によって寒々しく震えるのである。
 飛べるからといって、何だと言うのか。

 鈴仙は階段を上っていた。この階段は一本の丸太の両端を杭で止めて土で固めただけのものだったから、幾つかの段は雨や風化によって崩れ落ちてしまっていた。それでも全体としては機能していて、遠くから眺めればそれなりに見える。
 階段の先には鳥居があり、階段側からは更に先にある空を四角く切り取っているように見えた。空は赤くなり始めており、鳥居との境は曖昧になっていた。
 いよいよ博麗神社の境内に入ると、上ってきた階段を振り返る。何段あったろうか。鈴仙は溜息を吐き、再び社へと向き直った。
 賽銭箱の前では巫女である霊夢が巫女らしく箒を持ち、巫女巫女と埃を払っている。掃除をするには、時間が遅い。大方、腹が空き始めた頃になって、掃除でもしておこうかと思ったのだろう。
 鈴仙が霊夢に歩み寄ると、彼女は挨拶もそこそこに鈴仙が片手に下げていた風呂敷包みを気にした。
「お土産かしらね」
 冗談ぶった口調だが、期待しているのは確かである。鈴仙が風呂敷包みを霊夢に手渡すと、その拍子に、カチンという軽い音が鳴る。中には、瓶ビールが二本ばかり入っていた。
「手ブラじゃ悪いから」
「殊勝な心がけだわ」
 これが魔理沙あたりなら、栓抜きぐらいしか用意して来ないだろう。
「それにしても瓶ビールなんて……どこで?」
「師匠がワーハクタクと賭けをやったらしくて。その戦利品だって」
「どうせ輝夜と妹紅が賭けの対象だったんでしょ」
「多分。私は留守番だったから、はっきりとはわからないの」
 姫を賭けにすることよりも問題だったのは、その戦利品の始末だ。慧音が処分に困っていたからこその賭けの賞品だったらしく、実に二十ダースもの瓶ビールが永琳の部屋の一角に陣取ることとなった。
 もしそれが輝夜に見つかることがあれば、出所が明るみに出てしまう。当初は永琳と鈴仙だけで片付けるつもりもあったのだが、永琳は元からなのか不死だからなのか、とにかくザルであったから、却って自分が飲むのは勿体無いことのように思えたらしく、鈴仙が暇を見て知人に配り歩くこととなったのだった。
「それで、私は何人目なわけ?」
 鈴仙から事の次第を聞き終えた霊夢が、開けた風呂敷を再び締めながら言う。鈴仙は勿体振ろうとも思ったのだが、外が暗くなりはじめていたので、手早く答えた。
「記念すべき一人目だよ」
「あなたも大変ねぇ」
「まるで自分も大変みたいな言い草だ」
「掃除をしている最中にお客の相手もしなくちゃならないなんて、大変なことだと思わない?」
 肝心の箒はというと、とっくに地面に転がっていた。


******


 誰が置いていったか今となっては知れない栓抜きを使って、霊夢が瓶ビールの蓋を開ける。鈴仙が持ったグラスにビールを注ぐと、今度は自分のグラスを傾けた。
 グラスの内側を、ビールと少々の泡が滑り落ちる。それを嬉々としてやっている霊夢の格好は、はだけたブラウスに赤パン一丁というもので、もう境内をどうこうするつもりは無いようだった。
 一方、鈴仙の格好はワイシャツにベスト、それにネクタイとピンのおまけまで付いた正装であり、下は膝上辺りで裾が止まっているスカートであった。袖の二の腕の辺りには細いベルトを巻いてい、近頃はこういった格好で永琳から授かった書架を消化する毎日である。
 そんな鈴仙と自分との差異を霊夢は気にしたらしく、ごとりと瓶を机に置いた。
「言っておくけど、こんな格好、昼間はしていないんだからね」
「わかってるわよ」
 赤パン一丁で外を歩いて許されるのは五歳児までである。それに、鈴仙は人が家の中でどんな格好をしていようと、とやかく言うつもりは無かった。つもりといえば、瓶ビールを霊夢に渡した後はそのまま帰るつもりであった。一々に瓶ビールを渡す度に相伴に与っていたのでは、キリが無い。家庭訪問をする教師が行く先々で茶と菓子をご馳走にならないのと同じ理屈である。
 しかし、霊夢の誘いを断ることができたかというと、それも難しい。気付いたときには霊夢に片腕を引っ張られていて、着替えや支度の時間を挟んで現在に至っているのである。
「ま、大した物は無いけどさ、やっちゃってよ」
「それじゃ、ありがたく」
 軽い乾杯を終えて一口呷ると、焼酎柿がどっさりと盛られている皿に鈴仙が手を伸ばす。それから再びビールを喉にぐいぐいと流し込むと、霊夢の視線が気になった。どうしたのと鈴仙が訊ねると、霊夢は自分のグラスを揺らし、口に運ぶ。
 訊かれるまでもない。鈴仙はグラスを置いた。
「月に居た頃は全然だったんだよ」
 それが今では、飲む・撃つ・飛ぶの三拍子である。そうなった原因は間違い無く永琳にあった。
「別に飲んじゃいけないなんて思ってないわよ」
「でしょう、ね」
 霊夢は何も訊いてはいない。鈴仙が気にしただけのことだ。
 ――あまり、楽しい会話じゃない。鈴仙が中身が少なくなったグラスを手に取ると、霊夢がビールを注ぎ足した。
「あなた、人の視線を気にし過ぎるわよね」
「まぁ、目を合わせないようにはしてるよ」
「そういうことじゃなくって」
「ああ、そう?」
 もう酔っているのだろうか。鈴仙は緩んだ頬に手を添える。じくじくとした温かさが指先に触った。
「今日さ、階段を上ってきたでしょう」
「人目につくと困るでしょ? 余計なのが付いて来たら、ビールなんてあっと言う間に」
「それだけかしらね」
「多分」
 実を言うと、どうして階段を上ってきたかなんて、鈴仙は意識していなかった。
 ただ、なんとなく……なんだろう。
 なんとなく……そう、一人で霊夢に会いたかった。
 それは確かだと、鈴仙は語った。
「話したいことでもあったの」
 まんじりとした視線が霊夢から届く。鈴仙はグラスに自分の視線を落とした。薄い泡の膜が弾けている。ずずりと汚い音を立てて、それを啜る。それから視線を上げると、霊夢と目が合った。
 霊夢は目を細め、笑ったようにして、口を動かす。彼女のグラスの中身は、減っていなかった。
「話したいことと、話せることって、一緒じゃないわ」
「話せるように、一人で来たんでしょ」
「話させたいだけでしょう? あなたが」
「多分」
 からかっているのだろうか。鈴仙が眉根を顰めると、霊夢はグラスを空け、それを鈴仙に突き出した。
「注いでくれるんでしょ?」
 鈴仙は躊躇う。グラス越しに、霊夢の視線が届く。淵に残った泡が内側を伝う。
 しばらく悩んでから、鈴仙はテーブルに置かれたビール瓶を手に取った。
「私はねぇ」
 筋は通すから。それは早ければ早い程に良い。
 霊夢はビールを注がれながら、そんなことを呟いて、
「巫女だからってわけじゃないけど、私は私のやり方を神様に認めさせる自信があるの」
 胸を張った。はぁ。鈴仙が気の無い返事をしても、霊夢は話とビールを飲むのを止めようとしない。
「反省とか後悔とか、あるでしょ、そういう言葉。私はねぇ、人に認められないものには平等に価値が無いと思うわ」
「それは他人にって意味?」
 人という範疇そのものを指すこともできるだろう。鈴仙の問いに、霊夢は首を振った。
「どっちでも良いわ。とにかく、認められないものは、無いのと同じなのよ。幾ら反省とか後悔とか言ってもさ、認められなきゃだわ。残酷よね。認めてもらわないと、そこから前に歩けないんだから。歩いても歩いても、例え飛んだって、そこに囚われる」
 そこ。もう一度そう言うと、霊夢がグラスを『そこ』に置いた。
「そこ以外はそこじゃないわよね。これで言うと、机だわ。まぁ焼酎柿もあるけど……」
 気に障ったらしく、霊夢は焼酎柿の乗った皿を机から下げてしまった。
「そこ以外は全て誰かに認められているのよ。あるいは、見過ごされている。でも、『そこ』、そこだけは認められていないから、『そこ』になるのよ。『そこ』がそこにいる人の全てになる。これは怖いわよ。そこにいる人が何やったって、他人からしてみれば、そこにいる人なんだから」
「つまり、認められていない人になってしまうんだ」
「そういうこと」
 話が通じたことが嬉しかったのか、霊夢は自分の横に置いておいた焼酎柿の皿を再び机に上げると、ぱくりと一つ、口に放り込んだ。
「私にもちょうだい」
「うんうん。甘い物はビールに合うわ」
 そう言って、霊夢がまだ焼酎柿の残っている口にビールを流し込む。共感し難い味覚に鈴仙は苦笑いをすると、焼酎柿を口に入れた。
「神様は良いわよ。認めさせることができるんだからね」
「良くないってば。それって逃げじゃないの」
「良いでしょ。誰にも認められない自分を認めなくても良いんだから。――それなら前に歩ける。飛ぶことだって」
「あなたは何を認めさせたの?」
「甘い物とビールが合うこと」
「違いないわ」
 鈴仙が試してみると、やはり口の中がひん曲がるような味がした。けらけらと、霊夢が笑う。鈴仙は自分の頬に手を沿えた。心地良い熱が、指を伝った。


******


「あなたの御師さんにも、よろしくね」
 まだ朝日が眩しい時間に、鈴仙は境内を飛び立った。結局、昨晩はあのまま二本とも空けてしまって、気付いたら日まで明けていた。
「たった二本で楽しめるんだから、安いもんよね」
 上空から社を見返りながら、鈴仙が毒吐く。
 来るときに色々と考え込んだ階段を見遣ったが、何も思い浮かばなかった。

 そこには、ただ、階段があって。その先には。――

 鈴仙は帰路の途中、甘い物を買って帰ることにした。