番傘

昨日の夜から降り始めた雨は翌日の昼を過ぎても止まず、獣道には泥濘ができ、所々では小さな川ができ始めていた。上白沢慧音は地上から少しだけ浮いて、梅雨入り前に仕立て直した番傘を鳴らし、竹林を奥へ奥へと進んで行く。高く、早く飛べば時間を要す用事では無かったが、そんなことをすれば雨風で服が濡れてしまうのだった。

道中での苦労を妹紅に語ると、濡れたら私が乾かしてやったのにと笑われた。彼女は普段から瑣事を気にしない人柄だったが、梅雨に入ってから初めて友人に会った所為か、極端に明るい様子であった。

「この調子なら、梅雨明けには筍が豪いことになってるだろうね」
「そのときには分けてもらうぞ」
「私が採るの?」
「袴を穿いてるのはそのためだろう」

違いない。妹紅が愉快そうに笑うと、彼女の鼻っ面に滴が落ちた。慧音が天井を見上げると、雨漏りをしていることがわかった。

この宅は掘っ建て小屋というよりはバラックで、大黒柱の一本も無いような造りである。部屋は今に二人がいる一間しか無いし、布団も部屋の隅の筵の上に置いてある。床は土間敷きで、元々が貴族の出だとは思えないような住まいであった。その妹紅に云わせると、壊れ易いが直し易く、お茶を零しても拭かなくて良いとのことで、慧音が幾ら引越しを勧めても聞こうとしない。幸い、大雪が降るような気候ではないから、慧音もこうして季節の節目に訪れることで、友人に対する溜飲を下げていた。

しかし、家は痛む。慧音の記憶によればこの家はここ百年ほどで五回は潰れかけていて、二年程前の長い冬を越えられたのが奇跡と云えた。それだというのに妹紅は相変わらず引っ越す気も建て直す気も起きない。

今にしても、雨漏りをどうにかしようともせず、座る場所を楽しげに変えていて、慧音にはどうにも腹が立った。彼女の頭にも滴が垂れる段になって、慧音は湯飲みを置いた。ちょうどそこに滴が落ちる。それを見て妹紅が嬉しそうに拍手を立てたものだから、慧音は口を窄めた。

「雨漏りはいつからだ?」
「昨日から」
「嘘を吐け。壁板の下の染みから見ても、毎度のことだろう。腐っている所まである。これでは、朝起きたら家に潰されてました、なんてこともありうるぞ」
「そうなったら焚き木の代わりにするよ」
「寝床はどうするんだ、寝床は」
「この間、ちょうど良い場所を見つけたから、いざとなったらそこに行くよ」

そこで妹紅が口篭ったので慧音が問い質すと、彼女は洞窟と答えた。慧音はとりあえずは落ち着いて、友人の新天地での暮らしを想像してみる。

朝に寝藁の中から抜け出て、川で顔を洗う。腹が減ったら獣を捕まえ、その場で焼いて食べる。汚れの目立ち易い服の代わりに、毛皮を着込むのも良いだろう。じきにそんな生活にも慣れ、慧音が訪ねれば、原始人のような格好をした妹紅がいて……。

「却下」
「どんな想像したのよ」
「とにかく却下だ」

妹紅がそういう生活になったとしたら、慧音には友人関係を続けられる自信が持てない。まさかそこまで酷いことになるとは思えないが、今より良い生活になるとも思えない。慧音はいよいよ酷くなってきた雨漏りの中で、一大決心をした。

「私が人手を集めてこの家を建て直すから、その間は私の家に住むんだ」

その提案に、妹紅は嫌だと云い放った。彼女は入れ直したお茶を啜りながら、納得のいかなさそうな慧音が騒ぐ前に、自分の考えを話すことにした。

「私なんかが里の近くに住んだら、どうなるかわかったもんじゃない」
「そうか? 不老不死のことを気にしているなら、そこら辺にうじゃうじゃいる妖怪などに比べたら大したことは無いじゃないか。別に悪さをするわけでもなしに」
「あなたは変な所で抜けてるね。私みたいに人間に近いのは、下手な妖怪なんぞよりも嫌われるもんだよ。まぁ、私が源や安倍の某みたいな偉人だったら妖怪染みてようと拍手で迎えられるのかもしれない。そういったことは私なんかよりもそっちの方が詳しいだろう? 私なんかが居付いたら……」

そこで妹紅が舌を打った。自虐的な話で口を滑らせたようだ。彼女はそれから先を云いたくは無かったのだが、慧音は興味深そうに妹紅の目を見ている。妹紅は溜息をし、目を逸らした。

「私なんかが居付いたら、あなたの信用まで無くなってしまうよ」
「馬鹿な。あの里の者達に限って、そんなことがあるわけがないだろう。考え過ぎさ」
「誰々に限って。――よく聞いた台詞だね」
「何が云いたいんだ。お前が自分のことを悪く云うのは構わないが、里の者を悪く云いたいとなれば、話は別だ」

雨脚が強くなったようだが、慧音はもう気にしなくなっていた。どんな形で生きていようと、人間ならば自分にとっては守るべき対象だ。それは妹紅も例外ではない。誰々のことを悪く云ったから。常軌を逸しているから。そういった理由で差別していては、いつか立ち行かなくなってしまうということを、慧音は知っていた。しかし、それこそが慧音の傲慢なのかもしれない。彼女はそれもわかっている。

妹紅との付き合いは、いつ壊れるか知れない橋を行き来しているようなものだ。妹紅が一般の人間に対して敵意を剥けば、慧音は人間側に立たなければならない。では、人間が妹紅を敵として見たらどうか。自分は妹紅側にいて、橋が壊れる様を眺めていられるのか。我慢できずに人間側へ渡り切って、後ろを振り向くと、そこにはもう妹紅の所まで行ける橋は無い。

妹紅に対する怒りは、自分の底知れない不安からの逃避だった。慧音が妹紅から目を逸らすと、妹紅が笑った。彼女には、慧音の考えが見通せるようだった。

「わかってるじゃないか」
「五月蝿い」
「まぁ、良いさ。そういうわけだから、私は里には行かないよ。自分から嫌われたくはないからね」

慧音ががっくりと頭を垂れる。自分がどうしようと、妹紅を変えることはできないに違いないのだろう。彼女は不変なのだから。そう慧音が諦めかけていると、置いてあった湯飲みが目に留まった。

湯飲みの中の茶には波紋が浮かび、波紋と波紋の間隔が徐々に詰まっていく。神妙な顔をして湯飲みを覗き込んでいる友人を見た妹紅は、何事かと首を傾げた。試しに自分の湯飲みを覗くと、茶柱が立っていた。

「おお、縁起が良い!」

妹紅の声に、慧音が顔を上げた。その表情はなんとも複雑そうで、まだ悩んでいるようにも見て取れた。妹紅が励まそうとしたところで、轟音が耳に入る。

雨で流れ出した土砂が宅に襲いかかるまで、時間はそうかからなかった。


******


妹紅が慧音の家に居候するようになって、一週間が過ぎた。土砂にそのまま川まで流され、二人とも生き埋めにならずに済んだのは良かったが、妹紅は家と代えの服の全てを、慧音は愛用の番傘を失った。夜になる前には慧音の家に着いたのだが、急なことに何かと里の者に用立ててもらったため、竹林の不死人が慧音の宅に居ることは直ぐに里中に知れ渡ってしまった。

得体の知れない輩を追い出そうとすることは無かったが、慧音の宅には人が寄り付かなくなってしまった。彼女から妹紅が以前に聞いていた所によれば、里の者が山仕事から帰る際には必ず顔を出していたし、読み書きを習いに来る子供までいたらしい。しかし、慧音自身には気に病んでいる様子は無く、それがまた妹紅には心配の種であった。

「何か企んでるの?」

思慮深い友人が状況に流されるままであるはずがない。そう思っての言葉だったが、慧音は答えずに里から届けてもらった服や日用品をまとめ続ける。もう何度も訊いたが、一度もきちんとした答えを得られていなかった。

妹紅は見切りをつけて、風呂と飯を作るための薪を取りに行くことにした。外は快晴で、こちらに来てからはまとまった雨が降っていなかった。上に被った藁を取り払い、薪を取り出していると、林の方で音がした。何事かと妹紅が顔を上げると、じっとこちらを見つめる子供がいた。まだ十を越えていないような年格好だったが、目付きは鋭く、利発そうに見える。

その子供は、妹紅が声をかけようとすると後退り、近づこうとした段になって、里の方角へ走り去ってしまった。早く次の住居を見つけるか建てるかしなければならない。妹紅が決意を新たにしていると、顔に雨が当たった。最初は気のせいかと思えるぐらいの小さな雨粒だったが、すぐに地面から音が立つ程のものが轟々と降ってきた。

妹紅が慌てて家の中に駆け込むと、湿気が篭る前に、得意の炎を出して必要な量の薪を燃した。これができるために、慧音は妹紅にそういった当番を任せていたのだった。

「久しぶりの雨だ。梅雨はこうでなくてはな」

様子を見るために勝手場に来た慧音が呟く。妹紅は先程に見た子供のことを思い出した。きっと今頃は、雨に追われて家に駆け込み、夕飯までの退屈を会話で紛らわせていることだろう。親とはどんな話をするのだろうか。妹紅にはあまり親と話した記憶が無かったから、親子らしい会話というのがわからなかった。

「どうかしたのか」

珍しく考え込んでいる妹紅に慧音が声をかけると、妹紅は先程の子供のことを話した。背丈や顔つきに加えて、自分のことをどのように話すだろうかと冗談めかす。慧音は目を閉じて聞いていたが、じきに外の雨を見遣りながら、重々しく口を開く。

あの子は喋れないんだ。そう云った慧音に、妹紅は大した驚きを示さなかった。別に珍しいことじゃない。幻想郷が幾ら幸せな所だろうと、それはどんな者でも受け容れられるだけの話で、不幸の種が無いわけではない。そういう考えが妹紅にはあった。

「太吉は――ああ、あれの名だが――産まれたときに高熱をやってな。幸い、耳は聞こえるし、体が弱いわけでもないんだが……小さいなりに悩んでいたのだろう。親に遠出を許される歳になってからは、毎週のようにここに来て、字を習っているよ」
「それじゃ、入れてやれば良かったかな」
「いや、この雨では帰るに帰れなくなってしまう。入れなくて正解だよ。そうそう、太吉の家は傘張りをやっていてな。この間の傘も、そこで仕立ててもらったのさ。そういえば、あれが帰ると必ず雨が降るんだ。もしかしたら、天気がわかるのかもしれんな」
「私を怖がって帰ったんじゃなくて、雨が降るから帰ったってこと?」
「今度、訊いてみれば良い」
「でも、喋れないんでしょ?」
「訊けばわかるさ」

妹紅には慧音がそう云う理由がよくわからなかったが、きっと筆記で答えでもするのだろうと考えをまとめて、再び火加減に気を遣った。飯が炊き上がっても、風呂が沸いても、雨は止まなかった。村の顔役が慧音宅に駆け込んで来たのは、夕食を片付け始めた頃だった。


******


「それで、堤防は持ちそうなのか」
「はぁ、それが……」

妹紅を残して、雨の中に顔役と出張った慧音の視線の先では土で出来た堤防があった。この里は妖怪が嫌うような場所、つまりは水害が酷い所にあって、そこで堤防を築いてなんとか住めるようにしてある。それは慧音が里を守るようになる前からされていたことだったが、効率的な堤防を築くとなると生半な知識では不可能だったため、元々あった堤防を土台に慧音が指揮し、現在の堤防が出来ている。

顔役の持つ傘が震えている。慧音はその中で雨を凌いでいたから、彼の云わんとしていることがわかった。慧音も彼と同じ結論に達していた。ここ五十年で、これ程の大雨はそうは無い。豪雨が襲う都度、土嚢などでなんとか誤魔化してきたが、以前にあった長い冬の所為で改修工事が遅れていた。今回ばかりは危ないかもしれない。

「朝までが勝負だな」
「正吉もそう見立てていましたよ」
「それは心強い」

正吉は太吉の父親だ。彼の家とは四代前からの付き合いだが、正吉は歴代で最もよく天気を当てた。ただ、頑固さでも歴代一で、以前に堤防に決壊の危険があったときにも、周りが逃げ出しても土嚢を積む事を止めず、崩れた土砂の所為で片足をやってしまった程だ。今回の大雨にしても、顔役の話では「この役立たずが!」と叫んで片足を叩いては、家から出ようとしていたらしい。

慧音は思い出し笑いを浮かべてから、集めておいた人員に作業の開始を促した。彼女の指揮は正鵠を射った。堤防の他に川沿いにも人を遣り、必要であれば木を切り倒して流れを変えた。作業の全てを慧音は高台から見下ろし、逐次、伝令を走らせる。

一度でも里に水が流れ込めば、盆地であるそこはひとたまりも無い。それだというのに容赦なく堤防は削られ、雨は降り止もうとはしない。慧音は焦りを覚えながらも、指揮に徹した。下手に飛び出せば、一方は治まっても、もう一方が決壊する危険性がある。

そうして疲れが目立ち始めた頃、妹紅のことが頭を過ぎった。しかし、すぐに伝令の悲鳴のような声に目を覚ます。何事か。毅然と答えた慧音に、伝令は青ざめて答えた。山側から木を切り出していた班が、土砂崩れにあったらしい。幸い、巻き込まれる者は無かったが、これでは堤防を守れても土砂で里が埋まる可能性があった。

慧音は山側に振り返った。川と山の間で土砂が崩れたということは、次は里側の土砂が崩れるかもしれない。再び、妹紅のことが頭を過ぎる。山と里の間にあるのは、慧音の家だった。


******


妹紅は珍客に難儀していた。こんなことなら慧音についていけば良かったと思っても、もう遅い。慧音達が出て行ってしばらくしてから訪れたのは、昼間に会った太吉だった。妹紅はとりあえず濡れた彼を布で拭いてやると、お茶を出したのだが、そこでいよいよ困ってしまった。なんせ、口が利けない。

慧音の話では耳は聞こえると云っていたから、何か面白い話でもしてやろうかと思う。思うのだが、太吉は何やらそわそわしていて、そのくせ目だけは相変わらず光が強かったから、どうにも話をしようと云う気になれなかった。

仕方が無いので、慧音が帰ってくるまでだとばかりに開き直って、漬け物とお茶で時間を潰すことにした。ぼりぼりという音が立つ度、太吉が妹紅を睨む。妹紅が睨み返すと太吉が目を逸らす。その繰り返しで、時間だけが過ぎて行った。

「お前は何をしに来たのさ」

何度も訊いたことだが、太吉は表情を変えない。何が訊けばわかるだ。妹紅は慧音に対して毒づきながら、湯飲みを見遣った。すると、茶柱が立っていた。

「うわ、縁起が悪い」

太吉はそこで初めて不思議そうな顔をした。茶柱が立ってそんなことを云う輩はそうはいない。妹紅が訳を説明してやろうとしたところで湯飲みを覗き込んでいた太吉は立ち上がり、妹紅の腕を引っ張った。

「なんだよ、そんなにこの家から出て行ってほしいのか」

妹紅が訊くと、太吉は首をぶんぶんと振って、湯飲みを指差した。湯飲みの茶には、波紋が浮いていた。慌てて妹紅は太吉と共に家を出ると、直ぐに山側を見遣った。暗闇と雨風で視界は悪かったが、ある方角の木々が倒れていくのが見えた。それは真っ直ぐ、こちらへと向かっている。

「このために来たのか」

背の低い太吉の顔を見下ろすと、彼は申し訳無さそうに顔を上げた。彼は妹紅に一人で大丈夫なだけの能力があることを知らなかったから、危険を教えるためだけに来たに違いなかった。

太吉が先日の帰りに山を歩いていると、緩んだ土砂が中途半端に乾いているのが目に入った。そのときは子供らしくあまり気にしなかったのだが、この大雨で思い出した。かといって、子供一人で行くのはたまらなく怖かった。そんな彼が見たのが、里に危険が迫っているというのに何も出来ず、悔しそうに足を叩き続ける父親の姿だった。

里のために自分ができることはないが、誰か一人ぐらいを助けることはできるのではないか。太吉はそう思うと、勝手場にある裏口から両親の目を盗んで、飛び出していた。

太吉は泣きそうだった。やはり自分には何も出来なかった。慧音が堤防へと出張っているのは知っていたから、妹紅を助けようと思ったのだが、それにも関わらず、妹紅のことが怖くて直ぐに家を離れることができなかった自分に、雨の中で涙を流した。

「勇気のあるお前に、涙は似合わんよ」

妹紅は彼の目元で得意の火を起こすと、涙だけを蒸発させた。太吉はこれまでに無く不思議そうな顔をしたが、山へ向き直った妹紅を見て、逃げ出そうとする気持ちが無くなっていた。そこで彼には思い立つことがあった。

太吉が指差した方向を妹紅が見遣る。なるほど。彼女は太吉に下がっているように云うと、いよいよ腕を組んだ。

「我が鳳凰の羽ばたき、永遠也!」

妹紅が叫ぶと、轟音が立ち、炎が巨大な鳳凰を形作る。腰を抜かした太吉を見て妹紅は笑うと、再び叫んだ。

「鳳翼天翔!」

土砂が迫る前に、火の鳥が木々を燃やしながら山を駆け上がっていく。そうすることによって、土砂の流れる方向を自分に集中させた。火の鳥は土砂にぶち当たると、もがくだけもがいてから、虚空に姿を消した。土砂の勢いが緩んだ様子は無い。

妹紅は鼻で笑うと、間近に迫った土砂を睨んだ。後先を考えず、一撃に全てを賭け、再び鳳凰を形作る。それは両翼の全長が二百メートル近い、自分すらも飲み込む大きさであったが、彼女は肉の焼ける感触すら鋭気への供物とした。

土砂が鳳凰と真正面からぶち当たった。ぶすぶすという嫌な音が立つが、土砂の勢いは弱まるどころか次第に強くなってさえいた。既に妹紅の体の七割は燃え尽き、片腕と胸、それに頭を残すだけである。太吉が何かを叫んでいるようだったが、妹紅には気にしていられるだけの余裕は無くなっていた。

土砂がついに勢いの頂点を向かえ、鳳凰を押し流そうとしたとき、その左の翼が角度を変えた。それにより、ほぼ全ての土砂が、ある左の翼が向く方角へ流れていく。一箇所に溜められた力は、己が行き着く先なぞ思いも知らず、ただ真っ直ぐに山を下りて行く。

土砂の向いた先には、堤防があった。妹紅が頭を燃やされながら最期に大きく羽ばたくと、それは慧音のいる位置からも見えた。彼女は既に堤防に見切りを付け、作業員と里の全体に避難を伝達してあったのだが、彼女だけは里の最期を見届けようと、そこに居残っていたのだった。

鳳凰の羽ばたきは、里からも見えた。息子がいなくなったことに気づいて大騒ぎになっていた正吉の家からも。それを見た正吉は、未だに騒いでいる妻を叱り付けて、太吉も里も無事だと云った。

慧音が危険に気づき、上空へ逃れると、直ぐに土砂が通過した。それは真っ直ぐに堤防へと向かい、切り出した木の間を縫って、上手いこと堤防を避けて川に流れ込んだ。

壮観としか表現しようの無い光景が見える。暴れ合う川と土砂は、お互いの首元に噛み付こうとする絵巻の中の竜と虎のようにも見えた。巻き込まれた全ての物がうねり、砕け、一つの形に納まっていく。

雨が止み、朝焼けが人々の目を刺す頃には、川と土砂は泥となり、その動きを止めていた。


******


妹紅が目を覚ますと、そこは慧音の家だった。普段であれば死んだ直後には蘇るのだが、力を使い切った後では、それも叶わなかったようだ。妹紅が枕元に置いてあった服に着替えていると、その音を聞きつけた慧音が寝室に飛び込んできた。妹紅は慧音が騒ぎ立てる前に、必要なことを訊くことにした。

「あれから、何日経ったの?」
「四日だ」

慧音によると、身体を復元した妹紅を家まで運んだのは太吉らしい。慧音が後始末や里の者達への説明をして自宅へ戻ったときには、布団まで敷いてあったらしいが、太吉は既にいなくなっていたとのことだった。

「あれを見られたから、嫌われたのかもな」
「そんなことはないさ」

やけに自信たっぷりに云う慧音に、妹紅は今一度問い質すことにした。何を企んでいる。そうすると、これまで何度訊いても答えなかった慧音が、いやにあっけらかんと答えたのだった。

「お前さんの家を建てていたのさ。里の者がここに寄り付かなくなったのは、人手をそっちに割いてもらっていたからだ。残念ながら、折角に終わった基礎工事が、例の土砂で無駄になってしまったのだがな」
「そんなことだと思ったよ」

とりあえずは茶でも飲もうという話になって、二人は居間で時間を潰した。その間、慧音がやたらと茶受けを勧めてきたが、それも里の者からの差し入れとのことだった。

「今も工事ってやってるんだ?」
「そうだ。まぁ、この梅雨は大分雨が降っているから、田畑の手間がかからなくてな。結構、暇なんだよ」
「畑はわかるけど、田んぼなんてあったっけ?」
「ああ、お前はまだ見ていないのか」

慧音は立ち上がると妹紅の腕を引っ張っる。妹紅は太吉のことを思い出しながらも、慧音に引っ張られるがまま、家の外に出た。

里側には木々が立ち並んでいて、妹紅はずっと、それが里まで続いているのだと思っていた。しかし、慧音はずいずいとそちらの方向へと妹紅を引っ張って踏み込んで行く。いい加減に煩わしくなって、妹紅が慧音の腕を振り解くと、そこが終着点だった。

「どうだ、綺麗なもんだろう」

そこからは、斜面に広がる棚田が一望できた。水を溜めたそれらは空を流れる雲を映し、頭を伸ばし始めた米の苗が陽射しにくすぐられている。里の男達は妹紅の家を建てるために出払っているようだったが、棚田には女衆がほっかむりをして、作業をしているのが見えた。慧音が手を振り、大声で呼びかけると、遠くから手を振り返す。

「水害というのは怖いが、ここにこれだけの田畑を作れたのも水害のおかげさ。あれが無ければ水は淀み、土は腐る。お前が守ったものは、とっくに守られていたものなんだよ」
「それ、自分のことも当てはめてるよね」
「お前は私のことに関しては鋭いんだな」

慧音は笑うが、彼女がやってきたことは決して余計なことではない。自然と人間とでは、圧倒的に人間が不利だ。その自然の中にあって、人間が如何に自然と打ち解けるか。その方法の一つとして、堤防があり、慧音がいる。それは妖怪と人間との関係にも云えるかもしれない。

少し休むと云い、その場で寝転んだ慧音を置いて、妹紅はその場を離れた。慧音も大分疲れていることはわかっていたし、それが自分を看病するためだったということもわかっていた。妹紅が宅まで戻ると、そこでは太吉が所在無さげに方々を見遣りながら、突っ立っていた。

「どうしたんだ?」

妹紅の言葉に、太吉が振り向く。その顔は相変わらずのものだったが、妹紅は気にせずに彼に歩み寄った。彼は逃げ出したりはせず、妹紅が近寄ってくるまで、その場にじっとしていた。太吉は妹紅を見上げると、後ろ手に持っていたものを妹紅に渡したのだった。

それは番傘だった。妹紅は最初、それは慧音のものだと思ったのだが、そう訊ねると太吉は首を振った。

「もしかして、私に?」

訊ねると、太吉は満面の笑顔を浮かべた。なるほど、これなら訊けばわかるな。妹紅が一人で納得していると、太吉は恥かしかったのか、急に走り出して、里の方角に去っていった。

一人取り残された妹紅は、手に持った、閉じられたままの番傘をしばらく眺めてから、それを開いてみることにした。糊の効いた音が立ち、骨がしっかりと紙を支えている。陽にかざすと、少しだけ光が透けて見えた。傘には、慧音から聞いたのか、妹紅という字まで入れてあった。

ふと、本骨の付け根にくくりつけられていた手紙に気づく。それには、太吉が初めて人様のために作った傘であることと、感謝の気持ちを込めた言葉が、丁寧な筆で書かれていた。

「ふん、可愛いもんじゃないか」

そう呟きながら、妹紅は傘を見上げた。あの子も、私を置いて死んで行く。自分は人間達から明らかに外れてしまった。それは哀しいことだったが、以前のように、斜に構えて考えようとも思わなかった。

じきに雨が降り始めた。番傘はしっかりと雨を防ぎ、端から滴を垂らして行く。音の洪水の中で呆けていると、木々の間から慧音が走り出てきた。

「おお、良い傘じゃないか。ちょうど良い、私も入れてくれ」
「嫌だ」
「な、何故だ!?」

今度は妹紅が答えない番である。新しい家が完成し、ここを発つまでの間、傘については自分と太吉だけの秘密にしておきたかった。その間、慧音は何度も訊いてくるだろうが、答えてやるものか。

強引に傘に入ろうとする慧音をいなしながら、妹紅が笑う。雨音も、それに答えるように傘の上で跳ねていた。