これ捨てれる?
魂魄妖夢は卵かけご飯が好物である。
幻想郷においては鶏卵が大変貴重なものだから、十分に贅沢といえる。それでもまあ、知り合いの八雲紫が頻繁に外の品を持ってきてくれ、その中に卵もあったから、一週間に一度ぐらいは口にすることができた。
ありがたいことだ、と、妖夢は思っている。いっそ鶏を二羽ほど都合してくれれば毎度手をかけさせなくて済むのだが、生憎とここは冥界、ほとんどの生物は長生きできない。ちょっと遊びに来た人間などなら影響なんて出ようがないのだが、鶏はそうもいかない。やがて死ぬ。
そういえば小さい頃、顕界から仔犬を拾ってきたことがあった。今でも思い出しただけで切なくなるので、顛末は置いておく。
明るい話にすると、やはり卵の話なのだが、冥界は卵を保存しておくのに最適である。もちろん気温自体が低いので食物全般の保存には適しているのだが、殊にである。二週間程度なら、放っておいても平気だ。
どうも気温だけでなく、冥界特有の要件が作用しているようなのだが、そんなのは閻魔にでも聞かないとわかりそうにもない。
「あっ、醤油取って」
とか言ってくる主人も知らないだろう。
妖夢から醤油差しをもらった西行寺幽々子は、それを千切りにしたとろろ芋にかけて、ずるずるやり始める。
本当なら妖夢もさっさと食事を片付けたいのだが、問題がある。
妖夢の前の食卓にはほかほかとしたご飯と味噌汁、それに生卵が置いてある。これと海苔や山菜、足りなければ干物で賄うのが、妖夢の日常である。
今日は幸い、好物の卵である。余計なものはいらない。
しかし、余計なものがある。
妖夢はとうとう我慢できずに、幽々子に問うた。
「あの、この方々はいつまでいらっしゃるのでしょう?」
左右の卓、斜向かいの席に、それぞれ客が座っている。
「塩スルメは渡さん!」
「ぜ、ぜんまいぃいい!」
おかずを取り合っているのは、射命丸文とミスティア・ローレライ。かれこれ一週間も居座っている所為か、お客気分が完全に抜けている。
文はともかくミスティア辺りは、三日会わざれば何とやらで、久々に顔を合わせたらずいぶんと大人っぽくなったと思っていたのだが、根本的には変わっていない。幽々子を必要以上に怖がらないので扱いが楽なのが救いである。
この二人のどちらかを、どうも手篭めにしたアホがいるらしい。
アホの顔を思い浮かべようと何気なく視線を投げた先に、例の卵があった。
張り紙がしてある。
「魂魄鴦夢」
それは、祖父の手跡であった。
「何? 名前が気に入らない?」
そういう問題でもないのだが、主人に聞かれたからには、一応答えておく。
「確かに声真似しそうではありますが、鴦という字には瑞祥があって、男と女のどちらでも幼名としては良いでしょう。長じてからは好きなように名乗るでしょうし、問題ありません」
「紫みたいなこと言うのね。つまらないわ」
「紫様のようならば、面白いのでは?」
「あなたが紫みたいなこと言ってもつまらないのよ」
ははあ、そういうものか、と思う一方、いっそ今回も紫様の仕業なら、と言いたくなる。
しかしながら、今回は完全に身内の問題である。それも幽々子のならともかく、よりにもよって祖父が元凶だ。はいはい、なんて生返事で放っておけない。
文とミスティアの二人が屋敷を訪ねてきたのは、一週間前、早朝のことだ。
その日も先ずは掃除からと門の外に出てみれば、お互いの顔を引っ掴んでは押し合っている二人と鉢合わせた。珍しい取り合わせだったが、ここで相手をすると図に乗る虞がある。
「おっと、塵取りを忘れた」
いつもは掃くだけ掃いてから取りにいくものを口にして、踵を返した。
が、一歩進んでから、またすぐに振り返った。
取っ組み合う二人の胸元に挟まれる形で、張り紙のされた卵があるではないか。
ここで「祖父をどうしたのだ」と怒ったのだから、まだ孫としての感性が妖夢には生きていたのだろう。しかし正座した二人から仔細を聞くにつれ、青ざめ、最後には無表情になった。
文は長年、妖夢の祖父に当たる妖忌に取材しようと、幽居先を探し回っていたらしい。そしてついに、見つけたのである。
時を同じくして、ミスティアは屋台をいつもと違う場所に引っ張っていき、一人の客に遅くまで居座られた。仕方ないと割り切って自分も酒を飲み、最後には眠ってしまった。
文も妖忌が住処に戻ってくるまではと張り込んでいたが、やはり懐中にあった酒で体を温めている内に、眠ってしまった。
その晩に卵はできた、というのが二人の言い分である。
言い分などと訝るのも当然で、この時点で決定的な矛盾があった。
卵が一つしかないではないか。
片方は既に処分されてしまった、とかいうサスペンスなら話はわかるのだが、どうも片方がたばかっているらしい。
いやいや、まあお互いが独立した個人なのだし、一人が一人を謀るも謀られるも人生ではないか、と片付けてしまいたい妖夢であるが、その希望は張り紙の理由によって完全に打ち砕かれた。
文が預かったとかいう手紙を読んでみれば、「親の最低限の義務として名前だけ付けたので、後は任せた」とあるではないか。無責任というよか、既に暴虐の域に達していた。
一応その後には「両親が争う姿を見せたくない」だの「前から子どもが出来たらこの名前を付けようと思っていた」だの、微妙に感動できそうな要素が散りばめられていたのだが、妖夢の心は完全に凍えてしまった。もしその永久凍土がとけたなら、天変地異が起こるであろう。孫とかいう以前に関わりのあることが恥ずかしい。
やがて騒ぎを聞きつけた幽々子が出てきたので良かったが、さもなければ視線だけで正座した二人を殺していたかもしれない。
ややこだややこだ、と大喜びの幽々子に卵を任せ、妖夢は親戚候補の二人を屋敷に上げた。まさか放逐して、またこじれでもしたら大変だからだ。
大体、母親がどちらであるにせよ、祖父が親なのはまず間違いが無いのだ。
それから一週間。卵は孵らない。
この時期、仕事は暇だ。元々季節の移ろいが薄い冥界ではあるが、春と秋は明確である。その分、秋から春にかけてはひんやりとしてばかりいて、老木などがやられていく。
治療はしない。冥界の木々にそういうことをするのは小人の愛というやつで、礼に悖る。酷く痛んだ部分を切り落とし、ゆっくりと枯死を待つ。これもこれで、労は要る。それでも全体からすれば一割にも満たない数である。他の元気な木はほとんど枝が伸びず、流石に妖夢は、これを午前中の二時間程度で終わらせてしまう。
昼前には春に向けて蔵の野菜の状態を調べて小間使い達に伝え、献立とする。
このとき幽々子にやる気が見えるようであれば、食事の前に剣術を指南したいと申し出る。そんなもの承諾するわけがないと思われるかもしれないが、宴会が近くなると隠し芸の練習の一環になる。もう少し自分に威厳があれば、と妖夢は思うのだが、詮無いことだ。
これで、一日の仕事が終わる。平素なら午後は個人的な修行や手習いに使え、妖夢にとって冬は好きな季節である。
が、今は違った。
騒がしい朝食の後、いつもより急いで庭の手入れを終え、屋敷に戻る。この一週間こそ卵のことでいがみ合ってばかりの二人だったが、そろそろ妖怪としての性分が頭をもたげてくるはず。一時も目を離したくないのが本音である。
現時点で怪しいのが、やはり文だ。ミスティアも妖怪であるから油断できないが、そうまどろっこしい手段に訴えるようにも思えない、という印象である。何せ、以前には散々に痛めつけられた相手がいる場所に自分から来ているのだ。
では文がたばかっているとして、その理由は何か。取材ならば話は早いのだが、ここまで自分が表に出るような形にしたがるものなのだろうか。
その一方、妖夢に犯人を言い当てるつもりは無かったりする。
自分も生まれには自信が無い。両親の記憶は曖昧だし、祖父だと思っている妖忌が実の父親である可能性も捨てきれない。それでも半人半霊ということで、いつの間にか居着いている。
生まれた子がどのような姿か。それを見定めるだけだった。
そう腹を括ったのが、三日前の夜だ。それまでは何とか祖父を呼び寄せる手段は無いものかと半紙相手に筆を振るっては破くを繰り返していた。
来るなら、最初から来る人だ。
どうして来ないのか。
今でもそう思う。
面目無いから、などと殊勝なことを考える人ではない。困らせてやろう、などと意地悪をする人でもない。
ではどういう人か、といえば、わからない。
祖父はどういう人なのか。改めて問い直した頃、屋敷の上空に差し掛かった。
縁側を狙って降りていくと、やがて軒下の状況が見えた。客が二人、増えている。
紫……は、いつか来るとは思っていた。こういう騒ぎに敏い人だ。
ただしそこに閻魔までいたから、妖夢はつんのめるようにして、着地した。
「これはこれは、お日柄も良く」
顔面を引きつらせるようにして笑顔を向けると、閻魔がにわかに口端を緩める。
「さっき、この妖怪からも同じ挨拶をされました」
「あっ」
苦手意識があるのが完全にばれた。幽々子を挟んで反対側に腰掛けていた紫が扇子で口元を隠す。見ざる聞かざる言わざるを表す、古い所作である。
その扇子を閉じて、紫は閻魔を見た。
「では、後のことはお任せしましたわよ」
何だか祖父みたいな言い草で、妖夢は嫌な予感がした。また何か、厄介ごとを持ち込まれるのだろうか。
紫は妖夢の切なそうな顔を見て何か言おうとしたが、目を伏せて、立ち上がった。
「お、お帰りで?」
「そうよ、喜びなさいな」
「はあ」
ため息のようなものが出る。失礼ではあったが、引き留める理由も無い。開いたスキマに転がり込んで、紫は去った。
本当に帰ってしまった。拍子抜けだったが、いじられて怒らないでいられる自信は無い。言われた通り喜んでおこうか。
閻魔は時間でも気にしているのか、曇天に浮かぶぼんやりとした太陽を目で捉えている。
背負っている鞘を下ろしながらその姿を見ていて、あっ、と思うことがあった。
「閻魔様、卵の親を見分けられますか?」
「……曲直庁の職場見学でもしたいんですか? 1ヶ月ぐらいたっぷりと」
あんまりにもストレートに聞いてしまったので、勘違いされたらしい。が、一刻も早く真実がわかるならそれで良い。
そう考える妖夢の表情は一定せず、閻魔も思わず笑ったようだった。
からかわれた、と気付くのに、少しかかった。妖夢以上に、ここは庭同然の閻魔である。
じゃあ、それで来てくれたのだろうか。
「残念ながら」
……だそうである。
ならば幽々子に用事だろう、と思い、ここでようやくその様子を注視する。
手に豆大福を持ったまま俯いていた。皿も確認してみると、まだ五個も残っている。
「何かあったんですか?」
「はあ。あなたは少し、鈍感過ぎる」
「はあ」
二人とも気付いていないだろうが、性質は似ている。言う側か言われる側かの違いで、大きく違ってくるものらしい。
「魂魄妖忌が亡くなりました」
「あっ」
妖夢が自分から太刀を落としたのは、それを受け取ったとき以来だった。
紫が妖忌の様子に気付いたのは、つい二日前のことらしい。というか、彼女以外には閻魔ぐらいしか幽居先を知らない。でなくば、幽居にも隠居にもならない。
何かあったら報告が行き届くようになっていたとかで、今回は紫から閻魔へと連絡が行った。
本人が死んでいた布団以外は綺麗に片付いていたとかで、衰弱から死ぬまでに過誤は無かったと思われる。やはりあれぐらいの使い手になると、自分の死期ぐらいはわかるのだろう。
台所や縁の下の様子から物忌みまでしていたようだというから、文句の付けようがない。
「詩経の大雅に『初有らざる靡【な】きも克【よ】く終り有ること鮮【すくな】し』とあります。惜しい人を亡くしました」
閻魔はそうした仰々しいことを言って、商が終わる後には周が立つものだが、という意味の皮肉を作った。
妖夢は今、縁側で閻魔と二人で座っている。大きな帽子をやれやれと置くと、やがて笑顔を作った。
「まあ、これで肩の荷が下りたと思うことです」
「はあ……」
ぴんとこない、というのが実際である。遺体を見てもいないのだから当たり前といえば当たり前なのだが、その遺体は既に紫が処分したらしい。それも閻魔との間で決めてあったことだとかで、妖夢が口を差し挟める余地はなかった。
そこで初めて、閻魔が顔を顰めた。
「もしかして、何も聞いていないのですか」
返事を待たず、閻魔の眉間が狭まる。あの痴れ者が、と舌打ちをしてから、立ち上がる。
「卵はどこです?」
妖夢は縁側から転がり落ちるようにして、足を地面に立たせた。
居間の隣の座敷、そこの床の間に卵は置いてある。二人が縁側伝いに座敷に入ると、居間で茶を飲み直していた幽々子の他、文とミスティアも出てきた。
「あれは何ですか」
閻魔が、座布団の上の丸い物体を勺で指す。
「卵です」
ごん、という音がして、閻魔の勺が妖夢の頭を叩いた。
「割りなさい」
「は?」
「割りなさい、と言っているのです。それとも卵も割れないほど未熟ですか?」
どう返事をしたものか、妖夢にはわからない。未熟とか以前に、あれは卵だ。割ろうと思えば割れてしまう。
それは……。
例の二人に思わず視線がいきかけたとき、その視線に先んじて、陰が走った。
振り返った妖夢にしてみれば完全に不意打ちだったが、閻魔が足を引っ掛けただけで、その陰は転倒した。この程度が天狗の速さではない。
座敷に転がったのは、ミスティアだった。
「あ、あれは私のじゃないんです! 割っちゃダメですよ!」
「なっ」
消去法で、文を見る妖夢である。しかしその姿はもう無い。これが天狗の速さであるが、彼女が本当に母親ならミスティアが白状した時点で勝ち誇っているはずで、逃げるわけがない。
ああ、そうか、と合点がいく。何か企んだのではなく、ミスティアに便乗しただけなのだ。なるほど積極性に欠けて、平素の露骨さがなかったわけだ。
「じゃあ、これは誰の」
「妖忌のものです」
「でも、二人のどちらも母親じゃないんですよね?」
「確かに、母親が要りますよね。あれが卵なら」
「……は?」
「言ったでしょう? 割れるものなら割ってごらんなさい、と」
まさかと思いつつ、卵に手を伸ばす。すると妖夢の足首を、転んだままのミスティアが掴んだ。
「ダメです、頼まれたんです!」
「ええ、わかってますよ」
代わりに答えたのは閻魔で、懐から鏡のようなものを取り出す。妖夢も見るのは初めてだったが、浄玻璃の鏡とはあれを言うのだろう。全て、見通しているのだった。
「それは、半霊の死骸です」
卵に届きかけた妖夢の手が止まる。その手は僅かに宙を泳いでから、張り紙を引き剥がした。
裏にも、手跡が見えた。そこには魂魄妖忌の幼名を鴦夢という旨が、書かれていた。
ミスティア・ローレライが遅い客を屋台に迎えたのは、片付けを始めようかというときだった。
幽霊みたいな客だ、というのが印象である。頬はこけていて、着物の袂も浮ついている。しかし皺は少なく、力も強そうである。油を絞りきられる前の菜種のようだったが、真っ向から勝負して勝てるかというと、どうもそういう気がしない。
小脇には大事そうに、大きな卵を抱えている。なにやら張り紙もしてあるようだったが、暖簾の外ではわからない。客は大きなため息を吐いて屋台の席に座ると、卵を卓に置いた。残念なことに、張り紙は陰になっている。
暖簾の内側に来ると、尚更に客の衰弱が見て取れる。ミスティアも色んな客を見てきたからわかるが、これは先が長くない。そうした考えを巡らせるようになってから、彼女には大人しさが出ている。
「冷酒……つまみはいらん」
それより帰って寝たほうが良いのでは、と思ったが、口には出さない。言って聞くようなタイプには見えない。
客は徳利を受け取るや、そのまま一挙に飲み干した。
「おかわりは?」
「いや、いい。その代わり、この卵を届けてもらいたい」
「どこに?」
どうして、とは聞かなかった。次の瞬間には二度と口を開かなくなってしまいそうで、先に要件を聞いておきたく思えた。
「見る奴が見れば、ぴんとくる名前が書いてある。届けた先で何日かぐらいは世話もしてもらえるはずだ」
「ああ、うん。いいよ」
卵を大事そうにしている相手に、悪い気はしない。二つ返事で答えてやると、客は不思議そうにしていたが、やがて口を開いた。
「ここらにはよく来るのか」
「たまに」
「そうか。もっと早く知ってれば、贔屓にしたんだがな」
自嘲するように笑ってから、客は勘定にしては多い路銀を卓に置いて、帰っていった。頼みごとの分だろうと思ったが、今ならわかる。あれは、懐に入っていた金を全て置いていったのだ。
その客が死んだ、と、今の今まで知らなかった。
啜り泣きながらのミスティアから事の経緯を聞き終えた妖夢は、やはりため息を吐いた。
閻魔は微かに口を開きかけたが、妖夢と目が合うと、背を向けた。幽々子に挨拶をして、座敷を出る。
「お帰りで?」
「大事な仕事がありますので」
つくづく嫌味というか、何というか。わざわざここまで来てる時点で厚意は感じられるのだが。
とりあえず、この奇妙な客人を外まで送ってやろう。
それから……、
「妖夢、お酒を買ってきなさい」
「はあ」
その時点で何も疑問に思わなかったのが、不覚といえば不覚である。
妖夢が帰ってきたとき、幽々子はさっさと寝てしまっていた。
仕方ないので、簡単につまみを作ってから、自分も部屋に引っ込んだ。来るときちょうど卵、もとい死骸が目に付いたので、部屋に運んでおいた。何かがはっきりした以上、主人の前に置いておくものでもない。
いつも頭に着けているリボンを解いて、酒をやり始める。夕方を回った部屋は薄暗く、しかし灯りは点けずにいた。
ピシリ。
卵が割れるような音がして、妖夢はため息を吐いた。