ドッグデイズ

 滝の裏にある洞窟の、光が十分に届く入り口付近。
 そこで犬走椛が大将棋用の盤前に座っている時間は、待つのも役目とはいえ、仕事をしている時間よりも長い。紅白やら黒白やらが殴り込んでくるような非常事態でも起こらない限り、哨戒の役は順繰りに交替するのだった。
 近頃は暑いばかりで雨が無く、発明に没頭していたこともあって、河城にとりは久々に椛の所へ足を運ぶこととなった。あれは鴉天狗よりも呆っとした風だが、一度見た棋譜はほとんど記憶していたりする。一人で詰め将棋でもしているだろう。
 そういうときに訪ねると、にとりは決まって、
「一人で寂しく何してたのかなあ?」
 と、にやけた面でからかっている。大概の場合、「ん」だの「む」だの、滝の音で紛れてしまいそうな声量で返事をされて終わる。多分、意味がわかってない。だがそれが良い。
 それだから今日は、久々ということもあり、
「寂しいモミモミに最適の胡瓜をプレゼントだあ」
 最低最悪の挨拶をして洞窟に入った。

 返事が無い。
 椛は将棋盤に突っ伏していた。
「ちょっ!」
 足下に散乱している駒も気にせず駆け寄る。すると口をぱくぱく動かして、何かを訴えかけてきた。
「……8三、盲虎。王手、悪狼取り……ふひひ」
「ただのやり過ぎかいっ!」
 掴み取った駒を、砂掛けよろしく全力でぶつけてやる。その内の一つが目玉を直撃。椛は奇声を上げて転がり、洞窟の壁に何度かぶつかり、最後は滝に落ちて、数分後に戻ってきた。
「ただいまー」
「おかえり。はい、お茶」
「んー」
 言われるまま、食卓も兼ねている将棋盤に置かれた湯飲みを手に取る椛である。
 こんな危機感の無い輩に哨戒なんてやらせていて大丈夫なのだろうかと、にとりは思う。
 いやまあ、こんな楽園みたいな所で危機感も何も……。

 ぐぎゅるるるるるるるんぎんごんがんごろろろろろーん。

 椛の腹から、危機的なまでの音が出た。
 にとりは顔を梅干しみたいにしたが、当の本人は「あ、玄米茶美味しい」とか呟いている。
 外では瀑布から響く異常な音に驚いた新聞記者が滝に突っ込んで落ちていったりしたのに、呑気なものだった。
「あの、さあ?」
「ん」
「最後にご飯食べたの、いつ?」
 いつもならとぼけて済ませる椛も、それとなくにとりの真剣さを察して、答えた。
「一緒に山女魚を食べた」
「それ、二週間前でしょーっ!」
 盛大に将棋盤がひっくり返される。ちゃっかり急須と湯飲みは死守した椛が、湯飲みに茶を足した。
 にとりを怒らせてしまったらしい、と一応は了解したようだ。
 彼女なりに必死に考えたのだろう。茶をゆっくりと飲んでから、空気を和ませるようにして、はにかんだ。
「ご飯は一緒に食べた方が美味しい」
「まあ、そりゃそうだけどさ。一人でもちゃんと食べてよね」
 妙に気恥ずかしさを覚えて、にとりはそっぽを向いた。
 それからリュックサックからおかずを入れたタッパを取り出し、椛に手渡してやる。
 椛はにとりとタッパの間で視線を往復させた。
「河童とタッパって似てるなあ、とか言ったら怒るよ?」
「……ん」
 言うつもりだったらしい。
 とにかくタッパを開けると、魚と胡瓜を酢や酒で漬け込んだものを食べ始めた。
「ほら、おにぎりも。半分こだけど」
「んぐんぐ」
「ああもう、ご飯粒が飛ぶでしょ。一々返事しなくて良いから」
「みまみま」
 言っても聞かないため、仕方なく自分が黙る。
 二人での静かな食事が終わると、将棋が指され始めた。


 将棋が終わったのは、さほど後のことではなかった。警笛が鳴り響いたためだ。
 椛が滝の勢いを物ともせず飛び出していったため、にとりはひっくり返った盤を見てようやく、友人は仕事に出たのだと気付いたぐらいだった。
「……帰ろうっと」
 誰に聞かせるでもなく、呟く。空になったタッパを片付けているとき、彼女の口元は緩んでいるようだった。
 それにしても警笛だなんて、いったい何があったのだろう。帰り道の途中、それとなく辺りを窺ったが、これといって騒ぎが起こっている様子も無かった。
 何はともあれ、今度からはもっと頻繁に顔を出すようにしよう。その日にとりはタッパを洗ってから、早めに寝たのだった。


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『記者、襲撃される?』
 昨日、同志・射命丸が滝壺に浮いているのが発見された。現場は一時、同志の羽根が散乱。厳戒態勢が敷かれた。山中での事件でありながら犯人と思しき人物を目撃した者が皆無だったため、ステルス迷彩に定評のある某河童が疑われたほどである。しかし同日中、これが同志による過失事故であることが判明。もし同志・犬走の数十分に及ぶ熱烈な弁護が無ければ、某河童には強制執行がなされてしまっていたことだろう。なお、同志・射命丸には一ヶ月の謹慎処分が下されたが、そのほとんどが治療期間と重なっている。(会報誌・天安文より)