自律人形しちゃいま症

 アリスが手に持ったままだった茶器を流し台に張った水に浸けると、まだ暖かかった茶器はすぐに冷え、一緒に水に浸けた手の指にも冷たさが走った。
 茶器は二人分あり、その内の一つはついさっきまで居座っていた魔理沙の分だった。アリスは徹夜明けだったが、そんなことを気にするような相手ではない。おかげで午前中の大半が潰れ、仮眠を取るタイミングも逸してしまった。
 おまけに「人形遊びのために徹夜ができるなんて羨ましい神経だぜ」と嫌味まで言われ、考えなくても良さそうなことにまで考えが及んでしまった。
 思い出しただけでも苛々する。気付いたらしわくちゃになっていた手拭を洗濯籠に放り込み、居間の日当たりの良い場所に置いた肘掛け椅子に座る。秋も終わりに迫った時期の陽光はもどかしげに足下を掠めるばかりで、大して気持ち良くなかった。
 室内の空気は些か埃っぽかったが、窓を開ける気にもなれない。試しに目を閉じてみたが、眠気らしい眠気は襲って来なかった。
 自室のベッドで横になるべきだろうかと思ってはみるものの、何かこう、すっきりと眠れる気がしない。
 昨夜の実験は特別に急ぐ必要の無い、簡単な確認のためのものに過ぎず、やり甲斐があったとは言い難い。そもそも、そんな実験をやる必要すら希薄だった。
 それでもやったのは、漠然とではあるが、どうにも落ち着かなかったからだ。
 泥棒や火事その他の心配があるわけでも、不眠症の気があるわけでもないのだが、気付くと薄目を開けたままで周囲の気配を追っている。
 単純に疲れているのかもしれないが、アリスの場合、疲労が精神的な活動に影響することは人間ほどに多くはなかった。
 冬に入るに当たって、やり残したことがあるような気がしているだけなのか。
 思い当たるのはたった一つ、人形のことだけだった。
 もっとも、それはやり残したことというより、他にやることが無いと言う方が正確だったが、そこまで自虐的に考えるような性格をアリスはしていなかった。
 人形絡みの目標は幾つかあるが、殊に重要なのは、相変わらず『人形の自律』だった。
 相変わらず?
 そうだ、去年の冬も同じだったのだ。アリスは自分の進歩の無さに溜息を吐いたが、落ち込むほどのことでもなかった。長い目で見れば、研究は不調どころか、むしろ順調だったからだ。
 何せ、この数年の間に、大きな取っ掛かりが出来たからだ。
 自律した人形がいるという噂を聞いたことも影響しているが、不老不死の実物に出会えたことが結果としては何より大きかった。

 人形というのは、一種の不老不死だ。しかし、イコールではない。何故なら、元々からして老いも死にもしないからだ。老いも死にもする存在が、老いも死にもしなくなってこそ、不老不死と言える。
 ここら辺を突き詰めると、そもそも人間と人形の境目は何処にあるのかという肩が凝りそうな問題に触れることになるが、幸い、アリスにとっては興味をそそられる問題ではなかった。
 要は自分の人形が自律さえすれば、それが何と呼ばれるかは問題ではない。ただ、思考を持たせるつもりはなかった。自分で考え、喋り、あたかも人間のように振舞う人形は、グロテスクな代物に思えた。
 とはいえ、アリスが『人間のような人形』を全く望んでいないかというと、そうでもなかった。それはそれで人形の可能性として興味はあるし、可能であればやってみたいとも考えているからだ。しかし、それは今の所、目標ではない。
 ぶっちゃけた話、『私の可愛い可愛い、お人形さん達』との未来のためなら、大抵の逡巡はうっちゃってしまえる。
 実の所、本来は自律行動ができないものを自律させること自体は簡単だった。だがそれは、ゴーレムに代表されるような、自律させるのに適した、素材からして人形とは異なるものだ。
 あんな不細工なものが自律したって可愛くもなんともない、という拘りがアリスの研究を厄介にしているのだが、本人としては譲り難いラインだった。それについて触れる前に、アリスはさっさと思考の矛先を変えた。

 不老不死について……これは重要だ。
 古今東西、不老不死になった者はいても、不老不死として生まれた者は神や悪魔に類する存在を除いて、どこにもいなかった。
 ましてや、人形は大半の物が人間によって創造されたものだから、神や悪魔は研究の根拠として扱う必要が無かった。
 では、不老不死として生まれる人間、あるいはその類がいないのは何故か。単純に不老不死になった者が子供を産まず、産んだとしても不老不死が遺伝しないからだとも考えられるが、確証が無い。
 考えられるのは、不老不死が生命の流れを断ち切るから、というものだ。
 例えば人間が子供を産むとき、突然に子供がぽんと産まれるわけではない。生きた母体の中で成長し、ある段階に至ったときに体外に排出されている。これはホムンクルスのような人工生命でも同じことで、母体が試験管か生物かの違いしか無い。
 生きている者から生きている者が産まれる。ゼロから一が産まれるのではなく、一から一以下が産まれるとも言い変えられる。
 しかし、不老不死は完全な個体、常に一を保ち続ける存在が故に、流れが自己の中で完結してしまう。これでは流れて来たものを受け取ることも、自身から流出させることもできない。
 これは人形にも適応できる考えで、人間が不老不死になるのとは逆のことをすれば、自律させることができるはずだ。
 思考については観念的というか形而上学的というか、とにかくややこしいので、アリスは相手にしたくなかった。
 取り急ぎまとめてみると、物体でしかない人形を生命の流れの中に放り込めば良いということになる。
 だが、生命の流れと一口に言っても、それはどのようものだろうか。
 第一、不老不死にしてみても、モデルケースが圧倒的に不足している。いっそ、全人類不老不死計画でも発動したいぐらいに。
 しかしまぁ、不老不死を増やすのは霊夢辺りにちょっかいを出されそうだし、あまり増えられても面倒を看切れないだろうから、却下だ。
 ここは人形の自律を努力目標としてだけ掲げ、日夜、弛まなく研究を続けるということで良いだろう。
 それで良いじゃないか。ええじゃないかええじゃないかで文明開化もするというものだ。

「いけない、どうも考え方が魔理沙に似てきたわ」
 思わず独り言を呟いてしまい、アリスは再び溜息を吐いた。このテンションで一日を過ごすのは、我ながら不健康に思えた。
 重い腰を上げ、窓を開く。随分と冷たくなった風が一気に吹き込んだが、じきに大人しくなった。
 じっとしていても寒いだけなので、箒で簡単に埃を掃ってから、用意した雑巾で目に付いた端から拭いていく。居間や研究室以外にも部屋はあるが、そうした部屋は人形の素体やら書架やらが溜まっているため、下手に手を付ける気にはなれない。大掃除のときにでもやれば良いだろう。
 居間がすっかり綺麗になった頃には、アリスは適度に疲れを覚えており、今ならばすぐにでも眠れそうだった。
 でも、どうせなら昼食を取ってから、重くなった瞼に任せて眠るぐらいの贅沢はしたかった。

 食後に眠るのだからと、昼食はパンケーキだけで軽く済ませ、アリスは戸締りを始めた。魔理沙のことだから、ちょっと目を離した隙に戸や窓を開けていないとも限らない。
 紅茶を蒸らしている間に手早く家中を確認した結果、今日の魔理沙は客としての身分を弁えていたことが判明した。
 珍しいこともあるものだと訝しがりつつも、ベッドに座って紅茶に口を付ける。
 指先の感覚は鈍く、今にもカップが落ちそうで、慎重にソーサーごとベッド脇の小さなテーブルに置く。
 片手の親指と人差し指の腹を擦り合わせていると、澱んだはずの思考が流れ始めた。

 指というのも面白いもので、身体の末端として、様々なものに比することができる。人形にもだ。
 アリスは人形を手足のように扱うことができるが、それは指よりも先へと意志を伝えているからだ。人間が鋏などの道具を使うのと同じこと
 集中すればするだけ、熟達すればするだけ、自由自在に扱うことができる。
 しかし、勘違いしてはいけない。人形は人形、鋏は鋏であって、それ自体に意志は存在しない。鋏程度の物だけを扱うなら別に勘違いしていても構わないのだが、人形のような魔術的な意志を媒介させる物となると、勘違いが命取りになる。
 余りにも人形に意志を伝え過ぎると、その人形が損傷したとき、自分にまで損傷が及ぶときがある。
 これはわかり易い例だから良いが、ややもすると、どこまでが自分で、どこからが人形かわからなくなってしまうこともある。そうなってしまうと、どうなるだろう。意志は際限無く膨らみ続け、やがて崩壊してしまう。
 ただし、これには利用法もあって、人形に自分の精神を移植してしまうというのが、それだ。
 移植ではなく複製する方法もあるにはあるのだが、この場合はリスクが増大し、下手を打てば同一性の矛盾から、やはり自我が崩壊してしまいかねない。
 魔理沙のように、端から道具や薬を扱い、作り出すだけなら、余裕はいらない。好きなだけ力を使えば良い。反対にアリスが何かと余裕を大事にするのは、半ば職業病に近いと言えた。
 こんなことを考えても、詮無いことではある。魔理沙にとって相手の事情なんてものは二の次だし、アリス自身もどちらかといえば魔理沙と似たような価値基準を持っている。
 だからといって、人の家の物を盗んで良いということにはならないのだが。

 アリスが尖り始めた唇を引っ込めようとしたとき、紅茶の湯気が微かに揺れるのが見えた。
 ははあん、そういうことか。アリスは指先でカップの縁を弾き、ベッドから立ち上がった。
 いくら無神経な魔理沙といえども、こちらが徹夜明けだったことぐらいは勘付いていたはずだ。帰ったと見せかけて、こちらが眠るのを手ぐすねひいて待っていたに違いない。
 この家の目ぼしい本は粗方手を付けたはずだから、今度狙うとすれば、日頃馬鹿にしている人形だろう。何だかんだ言って、興味はあるはずだ。
 ふふん、素直じゃないわね。でも、それがまた何とも可愛げがあって非常によろしい。
 徹夜明けの眠気に任せて暴走しかけているアリスだったが、それなりに理性は残っており、はだけていた着衣を直してから部屋を出た。


 なんて可愛くない。アリスは勝手に期待を膨らませた自分を誤魔化していたが、本人はそれを認めず、家の中をどかどかと無闇に歩いていた。
 かれこれ二十分にもなる捜索にも関わらず、魔理沙は見つからなかった。あのまま帰ったなら帰ったで、隠れ続けているなら隠れ続けているで、とにかく可愛くなかった。
 念のために、最初に確認した研究室にもう一度入ったが、人形達は整然と棚に並び、それらの素性や損失数を記録した書類も全くの無事だった。
 落ち着きを取り戻すのも兼ねて、アリスは人形達を一体ずつ手に取り、服を整え、頭を撫で、投げ飛ばした。そうした行為を終始、満面の笑顔でやっているのだから、例え魔理沙がいたとしても声をかけ辛かったことだろう。
「あらあら、勝手に私の手から逃げるなんて、元気な子だこと」
 床に転がった人形を拾い上げ、棚に戻すかと思いきや、滅茶苦茶に分解し始める。
「ああ、可愛いわぁ。この肌触り、間接の脆さ、危なげな首の傾げ方……どれもこれも! 魔理沙にもこれぐらいの可愛さがあればねぇ! おほ、おほ、おほほほほほほ!」
 ストレスから精神を病んだオランウータンのような声を上げて笑うアリスだったが、じきに疲れがピークに達し、途端に無気力になった。
 散らばった部品の数々を緩慢な動きで掻き集め、どばどばとゴミ箱に入れる。
「何やってんのかしら、私」
 今更なことを呟いてアリスは研究室を出た。
 寝室に戻ると、服を脱ぎ散らかしながらベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。


「ふう、一時はどうなることかと思ったぜ」
 寝室の窓から中を覗き込んでいた魔理沙は、大きく息を吐いた。そろそろ頃合かと思った矢先にアリスが寝室から出て行ったときは、よもや勘付かれたのではと冷や汗をかいた。
 どうせトイレにでも行ったのだろう。寒空の下で待たせやがって、まったく可愛げの無い。
 好き勝手なことを考えつつ、魔理沙は事前に鍵を開けておいたトイレの窓から屋内に侵入した。
 アリスが寝る前にトイレに入ったのなら、どうして窓の鍵が開いていることに気付かなかったのか。その点について魔理沙は気になったが、どうせうつらうつらとしていたのだろうとタカを括っただけで終わってしまった。
 足音を立てないよう、慎重に廊下を進む。先ずはアリスに己の無防備さを教えてやらねばなるまい。魔理沙は寝室に忍び込むと、落ちていた下着を自分のポケットに突っ込んだ。
 それから再び廊下に出て、突き当たりにある研究室の扉に手をかける。鍵がかかっておらず、魔理沙は薄ら笑いを浮かべ、ドアノブを捻った。
 扉を引くと、アリスが頻繁に出入りしているはずなのに、埃が顔に付く。人のことをとやかく言うつもりはあんまり無いが、ちっとは掃除をしてもらいたい。
 被りっぱなしだった帽子を取り、顔を扇ぐ。扉は閉めておいたが、どうにも空気が濃い。だがそれも、部屋の中を物色する内に気にならなくなった。

 興味深そうなメモや記録の類を片っ端から机の上に並べ、暗がりの中でランプを灯す。
 アリスのあの様子からすると、夜まで起きないだろう。流石にこの手の類の物を持ち出したら、後でどうなるかわかったものではない。今の内に調べるだけ調べてしまおう。
 魔理沙は文面に集中し、小一時間が経つ頃には、アリスの研究の概要だけはわかった。
 予想通り、くそつまらない内容だった。魔理沙は、アリスがどれだけつまらない研究をしているか興味があったのだった。
 大体、生命の流れだなんてものについて思索を深めている暇があるなら、それらしいものを片っ端から作ってみれば良いのだ。まぐれ当たりでどうにかなることもあるし、それぐらいのチャレンジ・スピリットが無ければ研究をやる価値が無い。考えるだけなら、誰にだって出来るのだから。
「ああいう奴に限って気付かない所で凄いことやらかしてたりするんだけどなぁ」
 それは期待に近いものだったが、その期待は外れたらしい。
 これ以上、ここにいても無駄だな。魔理沙が頬杖を外そうとしたとき、後ろで物音がした。
 やばい、見つかったのだろうか。慌てて部屋の出入り口を見たが、扉は閉まったままだった。
 隙間風で人形が動いたのかもしれない。席を立ち、これといった感慨も無いままに棚の人形達を睥睨する。
 どいつもこいつも似たような顔と姿の人形が並んでいる。これもアリスの研究や蒐集の成果なのだろうが、いまひとつ共感し難い。
 他の棚はどうだろうかと後ずさったとき、足にゴミ箱が当たり、中身が辺りに散乱してしまった。先程にアリスが捨てた人形の部品の内の一つを魔理沙は拾い上げる。それはどうやら腕の部品らしく、手先がだらりと垂れ下がっていた。
「可愛くないね、本当に」

 ゴトン。

 一際大きな音が後ろからして、魔理沙は慌てて棚に振り返った。その下には人形が一体落ちているだけだった。
 今のでアリスが起きたかもしれない。魔理沙はゴミ箱に中身を戻してから、机に向かった。
 資料をあった場所に戻し、最後にランプを吹き消す。目がランプの明るさに慣れてしまったようで、カーテンの引かれた室内は入って来たときよりも暗く感じられた。

 ゴトン、ボトン。

 再三の物音に、魔理沙は完全に硬直してしまった。心臓が胸を何度も叩く。恐怖は感じなかったが、無駄に思考が回り始めた。
 心臓は流れの源だ。心臓があるからこそ血は流れ、頭も回る。
 回るといえば、風車はどうして回るのだろうか。簡単だ。風が流れているからだ。
 では、風はどうして流れるのだろうか。これも簡単だ。圧力や気温に差があるからだ。
 魔理沙は更に考えを深める。例えそれが無駄なことで、それよりもしなければならないことがあるとはわかっていても、いやだからこそ、考えは深まっていく。
 流れの源が無くても、差が生じれば物は動く。
 アリスは毎晩ここで、人形の研究に没頭している。記録がそれを証明している。研究の内容や姿勢に違いはあろうと、そこは魚心あれば水心というやつで、相当な熱意があるのは魔理沙にもわかる。
 ここで一つの仮説が立てられる。

 ゴトンゴトン。

 人の意志は空間に影響しているという説があるが、これは人間本意の考えでもある。だが、アリスは妖怪と言っても良い存在だ。得体の知れない所がある。

 ゴトゴトゴットン……ガチャガチャ、ゴチャリ。

 そんな奴が、毎晩毎晩、一つのことに没頭しているのであれば、人間では認識できるだけの変化を与えられないはずの空間にも、何らかの影響を与えることができるのではないだろうか。
 いやいや、そこまで抽象的に考えずとも、実験のために用いる魔術などで部屋の空間が変質し、そのままになることは十分に考えられる。
 アリスは昨夜、徹夜で作業に当たっていた。そして今は、糸の切れた人形のように眠りこけている。
 彼女が埋めていた、いや膨張させていた空間は今、急速に縮み始めている。すると、残された人形達はどうなる。
 それはつまり……流れの中にいることになるのではないか。

 カーテンから僅かに透けている光が、床にひしめく人形達を浮かび上がらせていた。ゴミ箱の中の人形だった物も、今では不気味な形に組み上がり、間接を動かしている。もげた手首にちょん切られた頭がくっ付いている様子は、不気味としか形容できない。

 自律に成功しないはずだ。アリスが自分の目で人形の動く場面を見ることは無いのだから。
「お前ら、可愛いぜ」
 人形達は一斉に首を傾げたが、すぐに元に戻った。

 ナラ マリサモ カワイクシテアゲル

 来世があるのなら、今よりももっと美少女に生まれたいものだ。
 あ、待てよ。どうせなら美少女天才魔砲使いが良い。
 でもなぁ、これだと今と変わらないしなぁ。私って欲が無いなぁ。

 ――魔理沙が年貢の納め時をかなり手前味噌に心得たとき、人形達が我先にと魔理沙に殺到した。
 その迫力たるや、「そういう所が可愛くねぇんだよ、このゴキブリが!」とでも言いたげだった。
 だが、彼女は正にゴキブリであった。人形が一杯で自由に身動きが取れないはずの室内において、己の四肢を最大限に活用し、要するに四つん這いになって床やら壁、終いには天井にまで逃げ、信じられない程のタフさを人形達に見せ付けていた。
 人間とはここまでプライドを捨てて生に執着できるものなのか。人権とそれに付随する尊厳に囚われた人々がこの光景を見たならば、涙で憲法を水に浸からせることさえできよう。
 しかし哀しいかな、相手は人形。涙鼻水、夜雀ほどにもありはせぬ。聞いておくれよ、おっかさん。郷里を捨てて、今は何処。
 歌ってもらいましょう。霧雨魔理沙、『ティッシュ配りが生業さ』。

 ピンチの余りに頭がノリノリになっている魔理沙に対し、人形達は冷静だった。というか、最初と変わらなかった。じりじりと間合いを詰め、槍やら剣やら物騒な得物を抱えて飛び付いてくる。
 それをゴキブリ拳法でかわし、即興歌を口ずさみながら、人形同士の相討ちを誘う。

 結構ですと袖にされ、これ見よがしに無視される。これが生業、私の生業。なりたいわけじゃなかったわ。

 歌が三度目のサビにさしかかったとき、剣人形がモーニングスター人形の鎖に引っ掛かり、槍人形と火縄人形を巻き込んで、大袈裟に吹き飛んだ。
 魔理沙はガッツポーズをしかけたが、特攻のために今か今かと後方に控えていた回天人形の手に、火縄人形の持っていた火の付いた火縄銃がぽてりと落ち、思わず舌を噛んだ。
 次の瞬間、滅茶苦茶に幸せそうなアルカイック・スマイルを湛えた回天人形が光に包まれ、その光は部屋中に及んだ。

 幸せって何だろう。そんなどうでもいいことを魔理沙は思った。


「あー、もう! こんなにしてぇ!」
 シーツを体に纏って被災現場に顔を出したアリスは魔理沙が人形達を散らかしたのだと思い込んでいたが、それよりも何よりも、魔理沙の横には、彼女のポケットから零れたアリスの下着が落ちていた。
 魔理沙以外の以外の物体は大なり小なり損壊しており、家屋が倒壊しなかっただけ奇跡と言えた。
「……もう好きにしてくれ」
 それは韜晦するまでもないことだった。

 魔理沙がアリスの大掃除を三日三晩寝ずに手伝ったという噂は、その年の最後を飾る話題となった。