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ゲッツー、二遊間

 玄関を開けたら爺がいた。
 魂魄妖夢は「え、これ何のドッキリ?」といった具合に後ろを見返ったが、小憎ったらしい笑顔でプラカードを持った人物は見当たらず、ゼンマイが戻るようにして再び顔を前に向けた。
 灰色の中折れ帽を目深に被り、開襟シャツの上に茶色のレインコートを引っ掛けただけの中産階級風の格好は彼女の祖父、妖忌に相違無かった。
「久しいな」
 隠居してからこっち、まともに顔を出したことの無かった妖忌は、何かのついでに立ち寄りでもしたかのように、あっけらかんとしていた。
「あ、いえ、その……困ります」
「何がだ」
「爺様(じじさま)の扱い方そのものに」
「新年度の新展開で新キャラを出さざるを得なくなった漫画家みたいなことを言うな」
 妖忌が半ば強引に敷居を跨ぐ。妖夢は慌てて立ち塞がったが、倍近くある背に跳ね返された。
「ああ、困ります、今は主人がおらぬのです」
「おおおおお、奥さん、奥さーん!」
「……」
「……すまん。何を言ったら良いかさっぱりわからんのだ」
 だからといって昼メロの常套句を流用されても困った。人に見られても困るので、さしあたり妖夢は祖父を邸内に上げ、どすどすと廊下を歩いた。
「相変わらずちっこいのお。可愛いのお。私がセレクシヨンした服が似合ってるのお」
「黙って付いて来てください」
 今更、祖父の趣味を擦り込まれた件については蒸し返すつもりは無い。彼女自身、普段の格好は気に入っていたし、幽々子の受けも良い。
 どうせ二月の節分に合わせて顔を見せに来ただけだろうと、さっさと居間で茶を出し、おもむろに両手を差し出す。
 妖忌は神妙そうに唇を窄めてから、被っていた帽子を手渡した。
「いやいや、そうじゃなくてですね。手土産ですよ、手土産」
「私の元気な姿が一番の手土産だろう」
「……本気で仰ってますか? 今にも首を切り落としたくなるような腐れ爺が未だに元気なのを見て私が喜ぶと、本気で思っているのですか?」
「概ね」
「まあ、そうでしょうよ」
 でなければ、のこのこ顔を出したりはしないだろう。そういう人だ。
 妖夢がそれなりに育ったのは、幽々子の素行を見てきたからであり、祖父の尊敬できそうな点はほとんど無かった。大体、師匠とは名ばかりで、技を盗めと言えば格好は良いものの、実際は教える気が無いだけだった。
 唯一、尊敬している点は庭木の手入れ、引いては剣術の冴えである。それにしたって、唐突に隠居すると言って姿を消す数ヶ月前からは、刀が重くてダルイなどと言うようになり、やる気無さげに手刀を振るうようになったから、印象は最悪を極めていた。
「妖夢」
 真剣な声音を妖忌が出す。思わず冷や汗もかいたぐらいにして、妖夢が下がっていた顔を上げる。
「灰皿くれ」
 祖父の口には、いつの間にか煙草が咥えられていた。
 ――何ということだ、全く動きが見えなかった!
「とでも言うと思ったか、このクソ爺!」
「ヘブラーイ!」
 孫に思い切りビンタをかまされ、妖忌が横に倒れる。空中では二つの半霊が戸惑っていたが、妙に楽しげだった。
 妖忌は倒れたまま座卓に手をかけ、駄々をこね始める。
「おくれよう、灰皿おくれよう。お爺ちゃんの数少ない楽しみを奪わないでおくれよう」
「あー、わかりました、わかりましたから、その面で甘えた声を出さないでください。子どもが見たら泣きます」
「そうか、ならお前も泣け。そら泣け」
 構うだけ無駄だ。見切りを付けた妖夢は、さっさと灰皿を持って来て、祖父に向けて投げる。彼は危なげも無く灰皿を片手で受け止め、既に吸い始めていた煙草の灰を落とした。
 しばし、煙草の煙と庭から流れ込む早春の香りだけが居間を満たしていた。その中で茶を啜っている妖夢は、不思議と、昔からこうしているような気がしたのだった。
「爺様?」
「あ?」
「一本だけですからね」
「ああ」
 その一本をたっぷりと味わってから、妖忌は湯飲みを空けた。茶を足そうと急須を持った妖夢を、彼が手で制する。
「もうよろしいのですか」
「あまりのんびりしてられんのだ」
 そのわりにはこんな辺鄙な場所まで足を運んでいるのだから、どういう神経をしているのか全くわからない。
「何か用事でもおありで?」
「実は私も、そろそろ職場復帰しようかと思ってな。ショートライフってやつ?」
「セカンドです。遊んでどうするんですか」
「野球なら四番ライトの方が……」
「はいはい、好きにしてください」
 何にしても、この爆弾爺が一つ所に収まってくれるのなら、越したことは無い。この爺はこれでも百年単位で庭師をやってきたのだから、雇ってさえもらえれば問題は起こさないだろう。
 適当に思考を片付け、妖夢が自分の湯飲みにだけ茶を足す。
「それで面接ついでにこちらまで来たわけですね」
「物分りが良くて、お爺ちゃん嬉しいぞ」
「誰も説明してくれないことが多いですからね」
「そうだろうなあ」
 自分のことを思い切り棚に上げているのに、気付いているのだろうか。
「それで、どこに雇ってもらうおつもりで?」
「……その、なあ」
「名前ぐらいちゃんと覚えてないと、落とされますよ」
「いや、覚えてはいるんだ。でもなあ、私、空気を読める人間だからなあ」
「読めてないですから。全然」
 ここは素直に言う所であるし、そもそも手土産も無しでやって来ている時点で駄目だろう。
「物分りの良い妖夢なら、大体想像は付くだろう? 先ず、庭があるのは大前提だ」
「爺様のことだから、どうせ住み込み目当てでしょう?」
「おお、わかってるじゃないか。その調子だ」
 例えこのような形でも、祖父と会話が弾むのは孫にとっても嫌な気がしない。妖夢は机に肘を突いて上体を乗り出した。
「この御時勢にどこの馬の骨とも知れない怪しい爺を雇う余裕があって」
「そうそう」
「どうせなら可愛い子が一杯いると良いなあ、とか思ってみたりして」
「あー、最高だねえ」
「いっそ流行に乗っかってメイドとかどうだろう!」
「だーいせーかーい!」
「――ちょっと待てい!」
 バスケ風に「まだ慌てるような時間じゃない」という意味のジェスチャーをして、二人でテンションを落とす。
 それが済んでから妖夢はちょいちょいと手招きをし、祖父に顔を寄せさせた。
「選りにも選って、紅魔館ですか?」
「ああ、紅魔館だ。庭師、掃除、洗濯、厨房、それに用心棒と、私は何でもできるからな。きっと歓迎してくれるだろうよ」
「でも、あの紅魔館ですよ? 魑魅魍魎が跋扈してますよ?」
「良いんじゃないか? どうせ私もお前も化け物みたいなもんだし」
 二人揃って、半霊を見上げる。二つの半霊は照れたのか、くるくると回り始めた。
「……わかりました。止めても無駄でしょう」
「無駄だ」
「少し待っていてください。渡す物があります」
 中座した妖夢だったが、すぐに持つべき物を持って、戻った。手には丈夫そうな蝙蝠傘が握られており、妖夢の背丈を超える長さを誇っている。
「これ、爺様のでしょう? ちゃんと干しておきましたから、今でも使えます」
「悪いな」
 もっとも、これが何の役に立つわけでもない。
 ほんの手土産……そう思って妖夢は手渡したのだが、カチンという妙な音がしたかと思うと、蝙蝠傘に異変が起こった。
 見る見る内に、柄に付いた直刀が引き抜かれたのだった
「おうおう、錆びておらんな。さすがレアメタル製だ」
「あの……爺様?」
「あれ、言っておらんかった? これが私の本来の獲物だぞ」
 聞いてないと、手を振る妖夢。やけに嵩張る点は気になっていたが、まさか物騒な刀が入っているとは思いもしなかった。それだけ、大きさの割に軽いのだ。
「お前に渡した楼観剣と白楼剣は、代々に渡って受け継ぐものだからな。自分用のが欲しいと思って、武者修行時代に旅先で仕立てさせた」
「どこで?」
「西欧だったか、自称ロマ人とかいうのに作ってもらった。ついでに私のタッパに合う傘も欲しかったから、その骨にも同じ材料を使ってある」
「……実際にお使いになった所を、私は見たことがありませんが」
「孫に本気の姿を見せたら、怖がられるだろ?」
 飄々と言って、妖忌が立ち上がる。
 妖夢は預かっていた帽子とコートを渡し、御武運をと頭を垂れた。


 あのとき止めておけば良かった。
 一週間後、妖夢は買い出しついでに足を伸ばした紅魔館で、肩身の狭い想いをしていた。
 通された喫茶室は広かったが、中にはテーブルが一つしかなかった。赤一食の壁紙や絨緞とも相俟って部屋全体には圧迫感が立ち込めていた。
 椅子に腰掛けた妖夢の斜向かいでは、咲夜が無言で茶を入れている。妖夢は今にも刀を振り回して帰りたい衝動に駆られていたが、流石にそれは堪えた。
 事情はよくわかっていないが、碌なことではないだろう。手元のクッキーを齧っている妖夢に、横から紅茶を注いだカップが差し出された。
「玄米の葉で仕上げたお手製よ。飲んでみて」
「うん?」
 茶も珍しかったが、咲夜の態度も気になった。
 それでも促されるまま、カップに口を付ける。玄米というから香ばしいばかりと思ったが、これがなかなか甘味と渋味が整っており、緑茶党の妖夢の舌には合った。
「おいしい……」
「でしょう?」
「よく私の好みが」
 言いかけて、そういうことかと眉を顰める。
「こういうやり方は卑怯だろう」
「何か気に障ったかしら」
「爺様が粗相をしたのだろう? だからこうして、爺様から聞き出した好みに合わせて紅茶を入れた。違うか?」
「違うわね。手間をかけてまで嫌がらせをするような趣味は無いわ。そうするぐらいなら、さっさと貴方に死体を渡した方が効果的だもの」
 つい頷きかけた妖夢を咲夜が睨んだ。納得されても嬉しくないのだろう。再度、紅茶の味を讃えて誤魔化す。咲夜もそれで満足したらしく、瞬きをした後には、いつもの柔らかい目元に戻った。
「妖忌はまだ寝てるわ。朝方まで、妹様の相手をしていたから」
「相手になれたのか?」
「弾幕ごっこについて無知なのが幸いしたわね。おまけに丈夫だし、手取り足取り、教えてもらったみたいよ」
「ふーん」
 どうせ小さい子と遊んでもらって、フランドール以上に楽しんでいたに違いない。そう思う一方で、どこかつまらない感情を覚える。妖夢は妙に椅子が硬く思え、腰を上げた。
「部屋はどこだ。肩ぐらいは揉んでやりたい」
「それは殊勝な心がけね」
 咲夜は部屋の外でメイドを捕まえて来ると妖夢を案内するように指示し、自分は紅茶の片付けを始めた。
 咲夜が案内してくれるものだとばかり思っていた妖夢は戸惑ったが、自分よりも背丈の低いメイドがちょこちょこと足を進めたので、素直に付いて行った。
 随分と奥まで入っても陽が射す廊下を、二人で歩く。先を行くメイドはたまに振り返ったが、特に何も言わず、歩き続ける。
 首の辺りで揃えられたメイドの髪を見下ろしていると、自分も昔はこうだったのだろうかと思えた。
 ある部屋の前に来た所でメイドは妖夢に体を向け、ぺこりと大仰に頭を下げたと思った途端、脱兎の如く逃げ出した。
 途中で一度だけこちらに向き、再びぺこりと頭を下げたが、結局は走り去ってしまう。
「何なんだ、あれは……」
 とりあえずこの部屋で間違い無さそうなので、少々乱暴に扉を叩く。
「爺様、妖夢です。様子を見に来ました。爺様、爺様ー?」
 よっぽど疲れているのだろうか、全く返事が無い。案外、あれで年寄りだから、無理のし過ぎでぽっくり逝ってしまったということも考えられた。
 ここは無理矢理にでも、と体当たりのために扉から離れたとき、扉が内側から開かれた。妖夢が呆気に取られている間に、室内から次々とメイド達が飛び出した。
 その数、ざっと二十。これが左右の廊下に分かれて逃げたため、妖夢が捕まえようと思ったときには、姿が見えなくなっていた。
 廊下には点々と肌着の類が落ちており、それを見た妖夢は顔を引き攣らせた。
「じじいぃいい!」
 室内に入ると同時に刀を抜き、ベッドに向けて構える。膨らんだ布団がもぞもぞと動き、隙間から妖忌が頭を出した。
「何だ、妖夢か」
「何だじゃないですよ! 何ですかあれは!」
 妖夢が顎をしゃくった部屋の隅にも、肌着が落ちていた。それも一つや二つではない。痴漢が入った後の更衣室のごとき惨状だった。
「ああ、忘れて行ったんだな。ったく、お前が追い払ったんだろ!」
「どうして私が怒られなければならんのですか!」
「凝りに凝った肩やら首やら足やらを揉んでくれた者に対して無礼を働いたんだ、当然だろう」
「揉むだけで肌着を脱ぐ必要がどこにあるんです?」
「風習とか文化の違いだろう。一々気にしていたら、添い寝……げほげほ、交流もままならんぞ」
「母上が草葉の陰で泣くようなことをしないでくださいよう」
「あれはそんなタマじゃなかったがな。お前以外には興味を持たずに、そのまま死んだぐらいにして」
 のらりくらりとした受け答えをしつつも、手際良く服を着ていく。すっかり気を抜かれた妖夢は刀をしまい、窓際の椅子に腰を下ろした。
 昼下がりの陽は高く、上空では鳶が白々しく滑空している。おまけに糞まで落とし、下にいたメイドに当たった。
 その様子を見ていた妖夢を、妖忌が呼んだ。
「ほーれ見てみろ、妹様直伝の弾幕を」
「昼間から頭の痛くなるようなものを見せないでくださいよ」
 孫の話を聞いているのか聞いていないのか、妖忌は嬉々として腕を振るう。
 幾何学的な模様を描いて弾が飛び、流れ弾を妖夢が首の振りだけでかわす。威力は加減してあるらしく、壁に当たった端から弾は消えていった。
「折角だから相手をしてくれないか。これに関してはお前にも勝ち目があるぞ」
「はいはい、どうせ剣術では勝てませんよ」
「そういうつもりで言ったわけじゃないんだが」
 年甲斐も無く傷付いたのか、妖忌が弾を止める。メイドの誰かが用意しておいたらしい洗面器で顔を洗い、短い髪を水で慣らす。
 コートと帽子を身に付けると、最後に皮手袋をはめた。表情は、かつて庭で剣を振るっていた頃よりも、引き締まっている。
「どこかに行かれるんですか?」
「庭を見る。お前も来い」
 悠然とした足取りで部屋を出て行く祖父に引き付けられるようにして、妖夢も続いた。

 紅魔館の裏庭は山と半ば同化しており、木々も背の高い物が多かった。主にアカマツが根付いているらしく、その影に隠れない場所を狙ってヤブツバキなどが群生している。
「一度ざっと手は入れたんだが、まだ余分な枝が何本かあるな」
「屋敷に面した枝だけ刈れば良いのでは?」
「いや、これ以上手を入れると、かえって景観を損なう。ツバキが咲いてみてから加減を考えても、遅くはないだろう」
 二人で庭を闊歩しつつ、目に付いた端から言葉を繰る。それらの言葉が記憶の枝葉を打ち、雫を落としていく。
「斬ってしまえばそれまで、ですか。相変わらずですね」
「とりあえず無心で斬れば良いのは、修行の身にある者だけだ」
「心得ています」
「なら良い」
 無意識なのか、妖忌の手が妖夢の頭に乗る。撫でるでもなく置かれただけの手が、妖夢には十分な意味を成していた。
「幽々子様は、お元気か」
「ええ、爺様のことを話したら余計に」
「顔は見せなくて良いと伝えておいてくれ。私からも会うつもりは無い。お前がいれば、今の幽々子様には足りる」
 相変わらずなのは、口を挟む余地すら与えてくれない点もだった。態度が不真面目にしろ何にしろ、妖忌は妖忌以外の何者でもなかった。
 例えどうあっても自らを良しとする覚悟は、生半な経験では身に付けられないのだった。
「今は平和なのでしょうか」
「平和だよ。好き勝手やって痛い目を見た馬鹿が、のんびり過ごせるぐらいだ。だから、そう不安げな顔をするな」
 妖夢の頭を一際強く叩き、手袋を直す。気付けば裏庭は一通り回ってしまい、前庭の端にさしかかっていた。
 十全な陽射しに誘われるままに妖夢が顔を上げると、二つの半霊が視界に入った。妖忌のそれは、妖夢の記憶にあるものよりも、随分と小さくなっていた。
「私の全くの最期は、お前にしか看取れないのかもしれんな」
 妖忌は呟き、帽子を持ち上げる。その隙間に彼の半霊が入り込むと、帽子をそっと被せた。
「そろそろ、私は行きます。いくつか買わなければならない物がありますので」
「ああ」
 残念そうな返事だと受け取るのは、傲慢だろうか。妖夢は前庭に出てからは、一度も振り返らずに門を潜った。
 さてと気を取り直して飛び立とうとした際、横合いから声がかかった。見れば、門番の紅美鈴が魔法瓶片手に佇んでいた。
「用事か?」
「私は無いわ。ただ、差し入れの恩は返さないと」
 そう言って体を横にずらし、後ろに隠れていた人物を見せる。そこにいたのは、隠れずとも目立たない、先程に妖夢を案内したメイドだった。
 美鈴は一人、門柱に寄りかかり、魔法瓶から紅茶を注いだ。
「ほーらほら、黙ってたらわからないわよ?」
「あ、う……」
 要領を得ない二人に、妖夢の目付きが鋭くなる。それを見たメイドが怯んだため、妖夢は肩を竦めた。
「どうせ爺様のことだろう? 言ってみろ。呆れはしても、怒りはしないんだから」
 メイドが妖夢に近寄り、彼女の服の裾を軽く引っ張る。妖夢は膝を曲げ、メイドに耳を貸した。
「――爺様の茶の好みぃ?」
「ひいっ」
 忌々しそうに内容を反復した妖夢に、メイドが余計に怯んだ。美鈴はというとニヤニヤしながら茶を飲んでおり、事前に話を聞いていたらしかった。
 教えるのは構わなかったが、好意が悪い結果に結び付くことが妖夢にはよくあったから、少しだけ考え込んだ。
 まあ、この子は変にベタベタするようにも見えないから。そう自分を納得させて、メイドに答える。
「熱い麦茶だ。あの人は舌で舐めずる癖があるから、濃いのは合わないんだ」
「……ありあと、ありがと」
 言葉遣いの舌足らずさは、単に気が弱いだけとも思えなかった。それとなく美鈴を見遣ると、難しげな表情をした。
「その子ね、白百合の妖精なのよ。ここらじゃほとんど見かけないから、力が弱くって。未だに言葉が胡乱なのよ。今は季節でもないし、余計にそうね」
「あるのは化け物の口みたいなものばかりだものな」
「そうそう、咲夜さんの口みたいな」
 直後、突如として現れた未確認飛行物体により、美鈴が門柱に縫い付けられた。
「はいはい、見ちゃ駄目だ。爺様の所に行け」
 メイドに回れ右をさせてから、妖夢はいよいよ飛び立ったのだった。


 次に妖夢が紅魔館を訪れるのは、日付が彼岸にかかるまで待たなければならなかった。
 一ヶ月も間を開けた理由は、祖父と会えば会うほど、自分の中から張り合いが無くなっていくような気がしたからだった。
 どこか自分の知らない所で好き勝手にやっているだろうと想像するのではなく、身近で好き勝手しているのだと実感するのは、祖父が自分の手に届く程度の人物に思えた。
 親類としてはそれに越したことはない。しかし、妖忌は祖父としてよりも師匠として、妖夢には覚えられていた。確かにやる気の無い変態爺だったが、反面教師も教師であるらしく、今更になって影響の深刻さを痛感している有様だった。
 実際的には、あまり頻繁に通っても意味が無いというものがあった。祖父に甘えているのだと幽々子に取られるのも本意ではない。
 こうして、彼岸中に飾る花をもらいに、と言い訳する始末となった。
 冥界にも花はあるのだが、これがなかなか曲者で、一晩立つと枯れていたり、逆に増殖したりと、取り回しが利かなかった。
 それも普段の妖夢は大して気にはしないのだから、幽々子から見れば明け透けではあった。
 顕界においては、雪解けによって本来の艶を湛えつつある草木が風に撫で付けられているのが、上空からも認められた。
 風は地を這うに従って色づき、それは言わば淡い春色とでも称すことができた。
 冥界にも風はあったが、地形の流れを沿うようにして生じる顕界の風には、地勢の力が感じられるのだった。あるいは風によって、土地の形は繰られたのかもしれない。
 そうしたことは、長らく外の世界を見分した彼女の祖父の方が、詳しかった。
 風に煽られつつ、妖夢は紅魔館の前面を縁取る湖に出た。湖面には風によって僅かな波があり、何匹かの妖精が波間を縫い、遊んでいるのが見える。
 祖父の懐で、自分は遊んでいただけなのだろうか。そこまで考えたとき、やにわに咳き込んだ。
「少し塵が入ったか」
 襟巻きで口元を覆い、高度を落とす。湖面に映った自身の姿は、おぼろげなものだ。
 湖の尽きた先では、紅魔館の陰が裾を広げていた。

 門番の美鈴に用件を伝えると、彼女は意味深に含み笑いをした。その意味を問い質す間も無く、すぐに館内へと通される。
 美鈴の案内は玄関までだったが、そこからはメイドが引き継ぐ。前回と違って背は高く、衣服以上によく仕立てられた挙動は、いかにもメイド然とした女性と言えた。
 首筋で揃えられた髪型は、それに関した決まりでもあるのだろうか。詮の無いことを考えながら、メイドに続く。
「ああ、そうそう」
 ぽんとメイドが手を叩き、振り返る。突然のことに妖夢は面食らったが、何とか後ずさらずに堪えた。
「先日は、どうもありがとうございました」
「はあ?」
 自分よりも長身の相手にぺこりと直角に頭を下げられ、優越感を覚えたものの、肝心の何に対する礼なのかは心当たりが無かった。そもそも大概の場合は斬って捨ててしまうため、覚えていても意味が無かった。
「覚えてないんですか?」
 メイドが頭を下げた状態のままで、顔だけを上げる。眼前に潤んだ瞳を突き付けられた妖夢はしばらく考えてから、僅かな可能性に賭け、唯一思い当たった件に触れた。
「もしや、麦茶の……」
「だーいせーかーい!」
 どこかで聞いたような口調で歓喜し、エプロンドレスを翻してくるくる回る。そしてそのまま、どんどんと廊下の向こうへ行ってしまう。
 今にも倒れそうで、妖夢がハラハラとしながら見守っていると、出し抜けに開いた廊下沿いの部屋の扉が、メイドに直撃した。
「おお、すまんすまん」
 扉から顔を出した妖忌が適当に謝る。それからすぐメイドに手を差し伸べ、抱き起こす様を見た妖夢は「あの爺、狙いやがった」と確信したのだった。
 呆れ半分の妖夢だったが、メイドが入れてくれた熱い麦茶を妖忌の部屋で飲み、何とか落ち着いた。
 妖忌によると、麦茶を入れてくれたメイドのことを何となく気にかけていたら「こんなに大きくなった」らしい。
「どれだけ気にかけたらこんなに大きくなるんですかね」
 嫌味を込められたのにも構わず、妖忌は煙草を吹かし始める。
「青少年がベッドの中で美人女教師とのことを妄想する程度じゃないか?」
「相当じゃないですか!」
「それぐらい純粋だったということだ」
「不潔ですって」
「いやあ、純粋だ。どうせならちっちゃいままの方が良かったと私は思っているんだからな」
 やはり不潔だと思うのだが、この爺、これでなかなか強かである。他人に邪推させておいて、その実、全くそういうことをしない。殊に自分からチラつかせた場合は、尚更だった。
「これは他のメイドに聞いたんだが、妖精はかなり気紛れな存在らしくてなあ。何らかのきっかけさえあれば、どうとでもなるらしいぞ」
「そうです、どうとでもなるんです」
 胸を張ったメイドの額には絆創膏が貼られている。この調子だと本当にちょっとしたことでどうとでもなってしまいそうで、妖忌が気にかける理由が、妖夢にも少しだけ理解できた。
「それで、こちらの方は何とお呼びすれば?」
「大根」
「は?」
 聞き間違えたかと思い、麦茶を飲み干してから、改めて聞き直す。
「だから大根だ。他にも人参、胡瓜、牛蒡と、色々おるぞ」
「どれもこれも食材ですよ? 百合ならユリネとか、色々あるでしょう。それを大根! あまつさえ牛蒡! ほとんどいじめですよ」
「凝った名前はくすぐったくていかん。大根は白い肌が綺麗だからだ。人参はほっぺたを赤くして笑うのが可愛い。胡瓜はつんとした所が堪らんくてな。牛蒡なんか味があって良いぞ。ちょっと暗めの眼鏡っ娘だ。それでいて歩きながら読書をするのが趣味という逞しさもある」
「いやいやいやいや……」
 それで良いのかと大根に話を振ると、咲夜辺りは「そこのメイド」だの「足の太いの」としか呼ばないため、名前を付けてもらえるだけで嬉しいとのことだった。
 うっかり人権問題について考え込みそうになった妖夢だが、あははうふふと笑いながら話す妖忌と大根を見るにつけ、馬鹿らしくなった。
 一度でもこの状況を受け容れてしまうと、今度は列挙された人物を実際に見たくなってきた。
「見たいのか?」
「わ、私は爺様と違って、人を見て楽しむような趣味はありません」
 図星を突かれ、つい邪険にしてしまう妖夢であった。

「それにしても、近頃はレミリアを見ないな」
 例によって咲夜に入れてもらった茶を飲んでいたとき、妖夢が思い出した。
 咲夜はカップを傾ける手を止め、窓の向こうに視線を投げる。陽射しは陰っており、雲がかかっているらしかった。
「雨が降らないと嘆いても、待つことしかできないのよ」
「降ってほしいのか?」
「さあ……普段ならどっちでも良いんだけど、今は降らないでほしいと思ってるのよね」
「よくわからんが、外を見る限りでは降りそうだ」
 咲夜はしばらく外を眺め続けていたが、やおらカップを空けた。
「降ってきたわ」
「そのようだな」
 ぽつぽつと、雨粒が窓に当たり始めている。この降り始めの様子だと、今の季節には長雨になりそうだった。
「今日は泊っていきなさい」
 突然の申し出だった。妖夢は口に含んでいたクッキーを咀嚼し切ってから、言葉を返した。
「私もそうしたいが、幽々子さまが待っておいでだろうから」
「遣いを出すわ。手土産を持たせれば、後になって咎められることは無いでしょう?」
「ちょっとやそっとの土産ではな……それに、誰を遣わせるんだ? こんな雨の中を」
「ウチには雨が好きな子もいるから、気にしなくて良いわよ」
 そこまで勧められて断るのは、無礼に当たった。
 妖夢が観念したのを見て取った咲夜が、レミリアを起こす前に夕食の指示をするからと、席を外した。
 思いもかけず持て余すことになった時間を、妖夢は雨音を聞くことで費やす。
「夕食に、箸は使わせてもらえるんだろうかな」
 どうでも良いことを呟くに至った頃、廊下が騒がしくなった。誰が来たかは、大体の見当が付いた。
 テーブルに置いた楼観剣を手元に寄せたとき、部屋の扉が開いた。
 室内に雷光が走る。真っ直ぐに顔面に向けられた切っ先を刀の腹で受け流すと、妖夢の横髪が何本か千切れた。
「一の太刀を外すとは、らしくありませんね」
「うっかり当ててしまうほど、耄碌はしとらんよ」
 示し合わせたようにして、お互いが剣を鞘に収める。妖夢が祖父との力の差をはっきりと知ったのはそのときであり、妖忌は刀身に光がはためく間も無く、傘を兼ねた鞘に剣を入れてみせた。
「覗いてないで、仕事に戻れ。じきに御館様が起きるぞ」
 廊下から顔を出していた何人かのメイドが、鶴の一声で戻って行く。騒がしかったのは、主に彼女達らしかった。
「愛されてますね」
「仕事もそれぐらい愛してくれると、メイド長の負担も減るだろうにな」
 今のは惚気なのだろうかと妖夢が思ったときには、妖忌は窓際に立っていた。温い息を吐いて、妖夢が席を立つ。
「庭を見ているのですか?」
 妖忌は無言だったが、代わりに窓を開けた。妖夢は念のために刀を持ち、妖忌の傍に立った。それを見計らい、彼女の体に妖忌が腕を回した。
「下りるぞ」
 問答無用で、妖忌が窓を乗り越える。彼も飛行術は使えるはずだったが、全く重力に逆らわず、五階もの高さから地面へと着地した。
 傘を開く音で、妖夢が我に返る。妖忌は落ち着きが無さそうに辺りを見回してから、妖夢に傘を手渡した。
「もう帰るんだ」
「いや、しかし」
「帰るんだ」
 妖忌は言うだけ言うと、ぷいと反対を向き、前庭に向かった。一人残された妖夢は傘に当たる雨粒の音に耳を奪われていたが、また咳き込んだ。
「大丈夫?」
 丸くなった彼女の背中を、誰かがぽんと叩いた。


 コートの襟を立てた妖忌は、前庭に佇んでいた。帽子はすっかり濡れてしまっていたが、気にした様子は無い。短い夕暮れの間に、館には明かりが灯り始めている。
 前庭には花壇こそ無いものの花々が咲いており、花弁や葉に雨粒が跳ねていた。
 妖忌は傘を差し出されるまで、考え事に耽っていた。
「まだいたのか」
 妖忌の声は厳しかったが、彼に似合わず、それは的外れなものだった。傘は赤く、彼の横には大根が立っていただけだった。
「すまん」
「いえ……それより、風邪を引いてしまいますよ?」
「私はギャグキャラだからな、一コマ後には乾いてるだろ」
 減らず口は相手にせず、大根が妖忌の肩口をタオルで拭く。妖忌は彼女の代わりに傘を持とうとしたが、柄を握る手は固く、譲ってはもらえなかった。
「わかった、中に入ろう」
「はい」
 妖精というのは繊細なものなのだな。今更に実感を得ている妖忌だったが、扱いには慣れていた。大根の肩に手を回し、雨に濡れないようにしてから、玄関ホールに入る。そして、他の者に見られて何か言われる前に、大根を自分から離した。
 ホールは静かなもので、明かりの周辺以外には、壁や床を陰鬱な影が這っていた。
「人参らはどうした?」
「それが、急に妖夢様がいなくなったとかで、皆で探しているんです。こんなときにメイド長も見当たりませんし……」
「メイド長は知らんが、妖夢なら帰ったんだろう。あれで結構、気紛れだからな」
 大根は釈然としないまでも、自分も他の者を手伝うために、その場を去った。何度も服を乾かすよう妖忌に言いながら、片手の閉じた傘を手と一緒に振っていた。
「そんなに濡れていたのか」
 他人事みたく言って、妖忌もホールを離れる。彼は自分の部屋にではなく、館の中心部へと足を向けている。そちらにはレミリアがくつろぐサロンがあり、今頃はそちらで頭を醒ましているはずだった。
 最後の角を曲がった先の廊下は、恐ろしく長かった。明かりはあったが、妖忌は足を止める。このような場所は記憶に無かった。
 彼が帽子を手で押さえ、前方に飛ぶ。彼がついさっきまで立っていた場所に、弾幕と化したナイフが殺到した。
 妖忌が床に足を着けようとしたとき、廊下の空間が縦横に引き伸ばされる。床は妖忌の足から遥か下にまで下がり、彼は少しだけつんのめったが、すぐに体勢を立て直した。
「はは、怖い怖い。これがメイド長の特技ですか」
「直に見せるのは初めてだったかしらね」
 妖忌に対して逆さまの状態で、咲夜が現れる。スカートはきちんと腿を隠しており、どの方向が地面かも曖昧になっているらしかった。
 妖忌は帽子の唾を利用して距離を測る。凡そ、十七メートル。攻めるには不利だが、避けるだけなら十分な間合いだった。
「私が勝ったら通って良いということですかな?」
「それだと貴方が不利よ。貴方が教えてもらった妹様の弾幕は、プレイヤー用じゃないから」
「そうでしたか」
 無知を装う妖忌に、咲夜が細長い得物を投げる。それを難無くかわした妖忌は、飛んできた物を掴む。
 彼愛用の、蝙蝠傘だ。彼は中から剣を取り出し、傘は上に向けて掲げた。
「メリー・ポピンズの真似」
「ふざける暇があったら、どうしてそれを私が持っていたのか、気にしたらどうなの?」
「そんなことは――」
 妖忌から受ける気配の質が変わるのを、咲夜は感じ取った。一挙に勝負を決めるために、先ほどの倍以上のナイフを時を止めた上で妖忌の周囲にばら撒く。
「斬らずともわかる」
 時が動き出すと同時に、妖忌が尋常ではない速度で、縦横の基点となっているいくつかのナイフを正確に切り払った。
 ナイフ同士が衝突し、軌道を変え、目標を掠めただけで通過してしまう。ただ避けられた場合と違い、ナイフが方々に散らばったことで、咲夜は戦法を変えざるをえなかった。
 再び時を止めれば回収はできるが、次に時を止めるまでの間に、妖忌に攻めさせる余裕を与えてしまう。
 ここはスペルカードを使い、それらのためにストックしてあるナイフでもって、勝負を決してしまうのが肝要だった。
 そうはさせまいと、開いた傘を前方にかざし、妖忌が突っ込む。
 ミステリアスジャック。投げられたナイフの軌道から無数の粒弾が流れ出る。相手の突進力を削ぐには打って付けだったが、妖忌はそのまま軌道上に飛び込んだ。
 その時点で咲夜は妖忌の動きを予想しており、天頂方向に逃れて、次のスペル発動に備える。
 妖忌は傘を捨て、そこにナイフが突き刺さっている間に、咲夜を追う。スペル発動が遅れたのか、咲夜は妖忌に向けてナイフを構え、寸での所で直刀を払い、場所を入れ替える。
 少々危険ではあったが、これで決まりだった。天上付近にいた妖忌に対し、今度こそスペルを発動する。
 殺人ドール。溜め込まれた夥しい数のナイフが、天上に追い詰められた妖忌に切っ先を向ける。速度、量、共に十分。これならほぼ確実に仕留められた。
 が、そこで妖忌がコートを脱いだ。古いコートは存分に雨を吸っており、それを彼が振るうと、構築した陣形の一角が崩れた。
 それがどうした。まだスペルはある。突破されても未だに余力を残していた咲夜に対し十メートルほど離れていた妖忌が、自分の帽子に手をかけ、外した。
「何も入ってないじゃないの」
「ありゃ、本当だ」
 どこに行ったんでしょうね。そう惚ける妖忌に、咲夜が後ろを振り返った。
「チェックメイドってやつですか?」
 咲夜の後ろでは、傘に隠れていた妖忌の半霊が今にも弾を吐こうと体を震わせていた。 状況を理解した咲夜が、思わず吹き出した。
「馬鹿ね、私はボス側なんだから、数発ぐらい当てても意味無いわよ」
「そうなんですか?」
「そうよ、本当に馬鹿なんだから」
 口ではそう言っても、彼女にも妖忌が馬鹿ではないことはわかっていた。彼は勝負が無事に終われば良かったのである。弾幕ごっこさえ受けて立てば、真剣勝負などという事態にもならずに済む。
 咲夜は空間を元に戻すと、散らばったナイフを片付けてから、妖忌の傍に立った。
「ところで、相手の弾の軌道をずらすのは反則じゃなくって?」
「まあ、それぐらいはハンデということにしておいてください。何せ、ほとんどやったことが無いもので」
 ハンデも何も、妖忌は一発も弾を放ってはおらず、それこそハンデと言えた。それについては不問に伏し、咲夜は溜息を吐く。
「貴方はね、余計な気を回さなくて良いの。言わなくても仕事をしてくれるし、結構、助かってるのよ?」
「しかし、主の役に立ってこその召使でしょうに」
「……よっぽど、主の役に立てたことが無いのね」
「あ、わかります?」
 力無く笑ってみせて、妖忌が踵を返す。そちらは、彼の部屋がある方向だった。
「部屋で妖夢が待ってるわ」
 仔細を問われる前に、咲夜は姿を消す。妖忌は心底困り果てた顔をしたが、半霊を帽子に入れ、それを被った。

 妖忌のベッドで、妖夢は横になっていた。彼女の容態を診たメイドによれば(どうやらこのメイドが牛蒡だったらしいのだが)、普段は使わない頭を使った所為で風邪を引いたとのことだった。
「後で斬る」
「そう言える元気があるなら、大丈夫だろう」
 大根にコートや帽子を預けた妖忌が、ベッドの横に置かれた椅子に腰掛ける。彼はちらりと大根を見遣ったが、別に良いかと呟いた。
「何が良いのです?」
「この子にも聞かせて良いものかと、ちょっと思ってな。でもなあ、コーシー飲みたいしなあ」
「そういう理由で人払いをしないというのは、どうかと」
「薄いの頼むぞ」
「……たまには私の言うことも聞いてくださいよ」
 部屋の隅では大根が嬉々としてコーヒーを淹れ始める。妖忌は慎重な手付きで自分の口元を擦ったが、じきにそれを下ろした。
「メイド長にここまで運んでもらったんだろ?」
「そうらしいんですが、不覚にもほとんど記憶がありません」
「あの人もなかなか複雑な神経をしているな。純粋に主人の身辺に混乱が無いよう、努めているだけなのかもしれないが」
「楽しんでいるだけでは?」
「多分な」
 冗談めいた話になってしまったが、メイドや召使としては、それこそが最も得難い資質だった。
「爺様も楽しまれているのでしょう?」
 何をか況やといったつもりでの言葉だったが、妖忌は卓に置いてあった煙草を取り、火を点けた。
「実はな、妖夢」
「はあ」
「私はまだ、ここの御館様に会ったことが無いんだ」
「それはまたおかしな話ですね」
「メイド長が会わせてくれなくてな。今日は囮まで用意したんだが、結局、ばれてしまった」
 囮という言葉に、妖夢が上体を起こした。
「わ、私を囮にしたんですか!」
 妖忌には悪びれた様子も無い。しかし、ぽつりと呟いた言葉が、妖夢を黙らせた。
「せめて、主の役に立ってから死にたくてな」
 二人の目が、自然と妖忌の半霊に向く。
「何かそこにあるんですか?」
 コーヒーを持って来た大根が、首を傾げる。半霊は既に、魂魄家の者の目にしか写らないまでになっていた。
「さっき、最後の力を使い切った。明日の御天道様は見られんよ」
「ね、寝ればまた回復しますよ」
「なあ、妖夢」
「だから、たまには私の話を」
 また起きようとした妖夢を優しく押さえつけ、妖忌が微笑んだ。
「私は孫に看取られるよりも、孫を見守りながら死にたいんだ」
「……どうなっても知りませんからね」
 妖夢は目を布団で覆った。祖父はあのとき、囮のためなどではなく、本当に帰ってほしかったのだろう。
 できることなら、このまま起きていたかった。しかし妖夢は妖忌の孫で、彼女は祖父に見守られているのだと思うと、それだけで自然に寝入ってしまった。
 雨の音は、もう聞こえなかった。


 翌朝、妖忌の姿は無かった。
 ここが紅魔館でなければ、朝露のごとき夢でも見たのかと思えたのだろうか。平素よりも多い目尻のカスを除き、妖夢はベッドから出た。
 窓からは以前よりも更に手を入れられた裏庭が見えた。昨晩までの雨に濡れたそれらは朝陽を浴び、爛漫であった。
「あの方は、全てを終えられたのだな」
 悲しみよりも安堵が勝る呟きだったが、直後、その安堵は打ち破られた。
 猪のごとく室内に飛び込んだ咲夜が、妖忌はどこかと叫んだのだった。
「爺様は旅立たれた」
「そんなことは知ってるわよ」
「承知の上で、騒ぎ立てるか」
 妖夢は楼観剣を構えたが、咲夜はナイフではなく、便箋でもって妖夢に答えた。
「読んでみなさい」
「遺書か?」
 妖夢の淡々とした口調を、咲夜は鼻で笑った。
「これが遺書なら、私も泣いてあげるわよ」
 咲夜の様子を訝しげに見た妖夢だったが、刀をしまって便箋を開いて見れば、彼女の態度も自明だった。
 手紙には暇を請う旨が書かれており、最後に追伸として、妖夢宛らしき言葉が綴られていた。
『お前の間抜けな寝顔を見ていたら元気が出た。間抜けな孫を産んでくれた娘に感謝』
 祖父の直筆に間違いない文面に、妖夢がはにかむ。
「……良かった」
「親しかったメイドも連れて行ったことを聞いても、そう言える?」
「私としては構わないな。まあ、お前さんには悪いと思うが」
「私も別に良いわよ。あんまりにも急に出て行ったから、慌てただけなんだから。どうせあの子達だけ残ったって、またサボるようになるだけだもの。いえ、もっと酷くなってたわね、きっと」
 微笑みとも諦観とも取れる表情をして、咲夜が息をゆっくりと吐く。妖夢は手近にあった水差しでコップに水を入れ、咲夜に渡した。
「悪いわね。後で朝食を用意するわ。帰るのはそれからでも良いでしょう?」
「それは嬉しいが……余程に懐かれていたのだな、爺様は」
「専ら、植物に縁がある子達にだけどね。桜や向日葵みたいに季節ごとに咲き誇る花以外のその手の妖精って、基本的に使い辛いのよ。私も自分で出来ることは自分でやっちゃうから、扱いも邪険になるわけ。その点、妖忌みたいなのが来て、嬉しかったんじゃないの?」
 大根は言わずもがな白百合。人参はコスモス。胡瓜はたんぽぽ……そして牛蒡に至ってはオウレンと、興味の無い者には名前すら覚えてもらえなさそうなものの妖精だった。
「合計で何人だ?」
「えっと、ひのふのみの……」
 どんどんと折られ、また立っては折れるを繰り返す咲夜の指を眺めていた妖夢は、額に段々と汗を噴いていった。
「とりあえず私が確認しただけで、四十六人。討ち入りにでも行く気かしらね」
「正直、すまなかった」
 床に蹲っていた妖夢が、そのまま土下座をする。いくらなんでも人数が多過ぎる。風邪による頭痛は無かったが、頭は昨晩よりも重かった。
「まあまあ。それだけ食費が削れたと思えば、大したことないわよ」
「……どれだけいるんだ、この館には」
「数えるのも馬鹿らしいくらい」
 冗談ではないようで、咲夜も困った顔付きになっていた。妖夢はよれよれとしながらも椅子に座る。すると気付いたときには、熱い紅茶が出されていた。
「わざわざ能力を使わなくても」
 横目で咲夜を見たが、彼女は妖夢の方を向いていなかった。咲夜は折目正しく、部屋に入ってきた主人に頭を下げていた。
 レミリアは予定に従っているかのごとく悠然とテーブルの椅子に座り、紅茶の香りを嗅いだ。
「爺様には一度も会わなかったくせに、こんな時間に起きてくるとはな」
 つんけんとした口調にも動じず、レミリアは紅茶を啜る。咲夜は無言で傍らに従っており、会話に参加する気は無いようだった。
「昨日からずっと、起きてたわよ」
「それなら尚更だ。どうして爺様に会わなかったんだ」
「ああいうタイプはね、思い通りにさせない方が面白いのよ。それに私を畏れない者に会っても、つまらないわ」
「会ってもいないのに、よくわかるな」
「風が吹けば、その方角で天気がわかるものよ」
 確かに紅魔館に自分から来る時点で、少なくとも畏れてはいないのだとわかる。ましてや妖忌の場合は引き際を心得てもいたから、屈服させることもできない。
 レミリアのように楽しむためだけなら、妖忌には会わない方が得策だった。
「でも、私も少しばかり意識し過ぎたわ。まさか手土産を持たせて帰らせることになるなんてね」
「それについては、祖父に代わって謝らせてもらう」
「馬鹿ね、感謝ならわかるけど、謝罪してもらっても意味が無いわ。メイドのことを言っているわけじゃないもの」
「ほ、他にも何か持っていったのか!」
 思わず咲夜にも視線を走らせたが、彼女は首を振るだけだった。
「それは貴方が一番よくわかっているはずだけど」
 レミリアは二口ほど飲んだだけのカップを置き、席を立つ。咲夜に夜まで寝直すと言って、彼女は部屋を去った。
「お前の主人は相変わらず、持って回った言い方をするな」
「そこでボロを出すのが、あの方の可愛い所なのよ」
「そういうものかね」
 昨日よりもずっと調子の良い頭で妖夢は考えてみたが、どうにもわからない。
 斬ればわかるのだろうか。ついそんなことを考えてしまう修行中の自分に気付き、妖夢は半霊を見上げたのだった。