ウチゲバ

 膳を前にした友人の様子は普段と変わる所が無い。正座をし、心持ち後ろに重心をやった姿勢はゆったりとしているし、箸の運びも軽やかだ。生憎と急な訪問で鯵の干物や味噌汁ぐらいしか用意させられなかったが、量だけはある。
 藍が何杯目かの御飯を茶碗に盛って幽々子に手渡した。紫が目配せをすると、藍はすっかり空になった御櫃を持って勝手場へと急ぐ。炊き直すにしても幽々子と話をするにしても、一度だけ席を外してもらいたかった。
「あれじゃ藍が誰の持ち物かわからないわね」
 中庭に面した廊下を勝手場に向かって走り去っていく藍を肘掛けに身体を預けたまま見遣る。たまの来客にでさえこうなのだから、幽々子の従者である妖夢の苦労たるや相当なものだろう。
 その妖夢はこの場にいない。大方、何か庭や屋敷の手入れの仕事があるから手が放せないのだろう。そう思ったままに問うてみると、幽々子はむうと唸って箸を止めてしまった。
「喧嘩でもしたの?」
「私はともかく、あの子は喧嘩なんてできる性格じゃないわ」
 大人しいという意味ではない。喧嘩というのはお互いの思惑が衝突するか行き違った場合に起こるわけだが、そういう状況になったら妖夢の場合は斬りかかって来る。その心理は他人から見れば複雑怪奇なのだが、彼女をよく知っている者にとっては単純一直に尽きた。実際、幽々子の服には汚れや解れは全く無かった。
「それじゃ、休暇でもあげたの?」
「ああ、近いわね」
 それはまた珍しいことだ。あの妖夢にただ休暇をやると言っても、聞くわけがない。いったいどのような手を使ったのか、興味が湧いたので問い質してみると、幽々子はまたも唸ってしまった。
「結果的にそうなっちゃっただけなんだけど……ほら、雪が解けたじゃない?」
 意味がよくわからなかったので、とりあえず中庭を見る。たしかに雪は解けたが、そうなるとむしろ仕事は増える。冬の間に傷んだ家屋の手入れもある。話がそこに至ると、幽々子がそれよそれと箸を持った手を動かした。
「屋根瓦の様子を見るって言って、朝から上ってたのよ」
「相変わらずマメねぇ」
「マメもマメ、オオマメよ」
 そういって菜っ葉と豆腐の入った味噌汁を啜る。『大豆』は『オオマメ』とは読まないだろうと思ったが、そこを突くと話が逸れそうだったので止めた。
「しかも飛んで適当に確認すれば良いのに『それでは見落とさないとも限りません』とか言っちゃって、屋根の上で四つん這いになってたんだから。妖怪でもそういうのいるじゃない? 私もうあれにしか見えなくなっちゃって、笑い転げちゃった」
 頭が痛くなってきた。その妖怪の名前を思い出せないこともあったが、わざわざ屋根に上って仕事をしている者を指差して大笑いする主人というのもなかなかに酷い。しかし紫も紫で他人から見れば藍に酷い仕打ちをしているように見えるらしく、この場合も幽々子なりの従者の上手い使い方なのではないかと考え直した。
「それで拗ねた妖夢が不貞寝でもしたって話なわけだ」
「惜しい! 寝たって所だけ合ってるわ」
「ふうん?」
「妖夢ったら何か言おうとして勢い良く立ち上がったのよ。そしたら足下の瓦が外れて、庭に頭から落ちたの。正に頭にキタね」

 それは、マズイのではないか。

 お待たせしましたと嬉しそうに御櫃に入れた御飯を持ってきた藍と目が合う。誰のものかわかったものではない。紫は開いたスキマに身体を滑り込ませた。


  ******

 妖夢の容態は深刻であった。とてもではないが人様に見せられるような状態ではない。
 彼女は幽々子その他大勢に対する罵詈雑言を寝ながら言い続けており、時折、思い出したように枕元に置いたゲロ袋に吐く。

 悲惨。その一言である。

 とりあえず命に別状は無いらしいのだが、紫が煙草をやりながら看病して早一時間……もう色々と吐くものが無くなった妖夢は言葉にならぬ言葉と胃液をゲロ袋に苦しそうに吐いていて、見ている側が辛くなる程だった。
 紫は臭いがきついゲロ袋を摘んでスキマに放り込むと、妖夢に布団をかけ直した。
「黒白……白黒、うう、どっちなんだぁ……」
 かわいそうに。とうとうどうでも良いことまで口走り始めている。
 そろそろ楽にしてやるべきだろうか。そんな縁起でもないことを紫が考えていると、妖夢が急に起き上がった。
「このなんちゃって少女趣味の年増がぁ!」
 そのとき屋根の上の瓦の一枚が割れた。それ以外に音らしい音は立たず、数秒が経過する。
 何を言われたのか紫が理解した頃には妖夢はすやすやと眠ってしまっていた。先程までの具合の悪さが嘘のようである。これはどういうことだろう。先程に言われたことを意識的に忘れるためにも、考えに耽る。しばらくして、また妖夢が苦しみ始めた。
 物は試しと紫はスキマに手を突っ込むと、既知の間柄である萃香を引っ張り出した。
「何よぉ」
 萃香は不満だ。霧状になって気分良く雪解け後のなんともいえない空気を楽しんでいたというのに、強引に形作られてしまった。
「まぁちょっとここにお座んなさい」
「ん」
 とりあえず一緒に飲むのも良いかと萃香は思い直したが、なんとも辛気臭い場所である。第一、目の前には病人らしい者までいるではないか。ああ、これは通夜の前借だろうかなんてチャラけて瓢箪から酒を飲もうとすると、紫に奪われてしまった。片手にはちゃっかり、自分の分の杯を用意してある。
「あのさぁ――」
「しー! そろそろよ!」
 むくりと妖夢が起き上がり、萃香を見据える。呆気に取られている萃香を他所に、紫は酒を飲みながら様子を見守った。
「このゴボウ頭が! お前なんぞ酒が無きゃただのゴボウだぁ!」
 妖夢は満足したようで、再び眠り始めた。萃香も萃香で悪口を言われるのは慣れていたので、どうということもなく溜息を吐き、紫から瓢箪を奪い返そうと顔を向ける。その紫は、満面の笑みを浮かべていた。
「もしかして、面白いとか思ってる?」
 こくこくと紫が頷く。
「もしかして、他の奴も呼ぼうなんて思ってる?」
 こくこくと紫が頷く。
 数瞬の間を置いて、紫がスキマを開く。萃香が思わず紫を羽交い絞めにした。
「やばいってばぁ! 私だったから良かったようなものの、他の奴だったらぶちキレて何仕出かすかわからないじゃないの!」
「それが良いんじゃなーい」
 完全に目が笑っている。こうなるとヤクが切れたヒッピーより手がかかる。萃香は責任者を出せと叫びたくなったが、出てきてもあまり事態が好転するようにも思えず、とにかく紫を組み伏せることに専念する。
 火事場の馬鹿力の出番でもなく、鬼である萃香の力は元から強いために紫は思うようにスキマを扱えない。それでも流石はスキマ妖怪、指だろうと足だろうと鼻毛だろうと、とにかく何かが使えればスキマを開くことができる。それが開きかける度に萃香はバックドロップやジャーマンスープレックスをかましてなんとか防いでいたが、技と技の間にできるわずかな隙を紫は見逃さなかった。
「そーれ、愉快な仲間達よ出ておいでー!」
 テンションは最高潮。天に向けて指を掲げ、幅およそ十メートルにもなろうかというスキマを作り出した。こうなるともう何が何でも何かが出てきてしまう。
 せめて一矢報いねば。萃香の決死の覚悟が渾身の体当たりとなって紫の背中を襲う。
 二人は壁際まで一緒に転がり、花瓶や掛け軸をメチャクチャにした所でようやく止まった。
 肝心のスキマは一度だけ大きくたわむと、次から次へと幻想郷中の見知った者達を吐き出し始める。そして最後に、幽々子が落ちてきた。
 幽々子はお腹一杯の状況で急に動かされたものだから、少し気分が悪かった。それとなく周囲を見渡すと、紫が手を合わせて謝っている様子が見えた。どうやら正気を取り戻したらしい。
 ふと、あるものを見つけた紫の表情が曇った。その目線を追おうとした幽々子に紫は待てと叫んだが、もう遅い。一緒にスキマから落ちてきたゲロ袋を見た幽々子は、つられて盛大にゲロを吐いた。
 霊夢は咄嗟に結界を張り、魔理沙は障子をぶち破って庭に逃げたが庭石とご対面。パチュリーはもう何がなんだかわからない状態で咳き込んでいて、レミリアは咲夜を踏み台にして天井へ逃れた。その咲夜はというともろにゲロを浴びてしまい、なにくそと手を伸ばした先にはウドンゲの耳があり、引っ張られて頭からゲロに突っ伏した。永琳はせめて輝夜だけでもと思い『失礼』の一言と共に姫に体当たり。ふっ飛んだ輝夜はチルノを薙ぎ倒し、妹紅にボレーシュートよろしく頭を蹴られる。――
 阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、妖夢ただ一人が寝巻き姿で笑っていた。
「何笑ってんのよ!」
 霊夢の渾身の一撃が妖夢の脳天に突き刺さり、彼女は昏倒した。

 それから一週間も目を覚まさなかった妖夢は事件のことを覚えておらず、いつの間にか取り替えられた屋根瓦を不思議そうに見上げた。それが紫の手によるものだということを妖夢が聞かされたのは、ずっと後のことである。