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不思議の国のマリオネット

  一

 大きな車輪が倒れている。その車輪はついさっきまで馬車の車軸で回っていたが、今では乗っていた者達の運命と一緒に、止まっていた。
 追い詰められた引ったくりが放った魔法の矢は、道を走っていた馬車の御者を射抜いた。後は物理の法則に従っただけである。
 その車輪の下で、どこまでが自分の体か、そもそも何が起こったのかもわからないまま、少女が這い蹲っていた。
 そのすぐ傍では赤い服の女性が、やはり赤い服の女性を従え、立っていた。
 少女には、自分の回りにある赤い物が立ち上がっているように見えた。像を結ぶための視覚は、失われかけていた。
 都会でも珍しい悲惨な事故に集まり始めていた野次馬は、赤い主従の姿を見た途端、興味を封じ込めて、その場を通り過ぎた。
「……綺さ……の人間の子、まだ生……」
「……から下が無……でも……意思を繋……」
「……ました。お下がりください」
 赤い従者が流星のような光を放つと、大きな車輪が、真っ二つに割れた。


 パチリと目を覚ましたアリスは、目を閉じ直した。
 今の家に住んで以来使い続けているベッドの上を、朝日の光が撫でる。もう少しすれば残暑の暑さが籠り始めるだろう。
 アリスはベッドから起き上がると、窓を開け放った。露に浸っていた緑の香りが、風の中で踊っている。
「良い夢だったわ」
 あの時、あの瞬間、自分の人生は変わったのだ。そう確信できることは、大変に幸運なことだろう。
 キッチンの方から、物音がしている。目覚めへと向かうアリスの体のリズムが、人形達に朝食の準備をさせたのだった。糸を結んでおらずとも、日常生活を送るには十分な助けを得ることができる。
 寝室に注ぎ込む光の一筋一筋が、自分を繋ぐ糸のように見えた。
「ママ……夢子姉さん……」
 あまりベッドの中でぐずぐずしていると、怒られそうだ。
 アリスはじんわりと熱を帯びた体をベッドから下ろすと、顔を洗うために部屋を出た。

 アリス・マーガトロイドは事故で体の大部分を失ったが、神綺の神通力は、一人の少女の体を元通りにした。
「あのとき、もうちょっとだけアリスが大きくなっていたら、体が馴染まなくて、上手くいかなかったかもしれないわね」
 神綺は当時のことをそう語っていたが、謙遜なのはアリスにもよくわかっていた。
 元通りにするどころか、神綺の下で暮らす者達は彼女の手によって生み出されていたのだから。
 神綺は他にも、あらゆるものを作れたし、その力ゆえに、彼女の魔界都市は発展していた。そうでなければ、観光に訪れていたアリスが事故に遭うことも無かったのだろう。
 しかし体が元に戻っても、心は追い付かなかった。
 意識を取り戻して一ヶ月、アリスは誰とも口を利けずにいた。その隙間を満たしたのは、魔界の魔力だった。
 魔界の空気の成分は、魔力と酸素、アルゴンに二酸化炭素である。つまり、窒素が存在しない。魔界の微生物は魔力によって生きており、彼らこそが魔界を支えているとも言える。
 そんな魔界で、人間のアリスは寝ては起きてを繰り返していた。
 下手に構ってはいけない、とだけ言い続ける神綺に代わって、アリスの世話をし続けていたのは夢子だ。
 ある日、彼女がアリスの部屋の扉に手をかけたとき、ドアノブが回らなかった。
 ドアノブが飴細工みたいに歪んでいるのを見て、夢子は慌ててドアを蹴破った。中では常人が踏み入っただけで気が狂うほどの魔力が立ち込めており、ベッドはひしゃげ、アリスが床に投げ出されていた。
 アリスの中で膨れ続けていた魔力の強大さに夢子が気付いたとき、彼女は生まれて初めて、手に汗がにじんだ。
 アリスの目は事故のときと変わらず、光を灯していなかった。夢子は跪いて、アリスを抱き寄せると、そこに神綺がやってきた。
 神綺はアリスの様子に驚いたというより、夢子の挙止に驚いてから、アリスの手を握った。
「怖がらなくても大丈夫。使い方はゆっくり覚えていけばいいから」
 その声が届かなければ、アリスの体はいずれ自壊するか、魔力の海に呑み込まれていただろう。人間が魔界に、異常な状態で放り出されるのは、それだけのリスクがある。
 神綺が初めてアリスを見たときに感じたものは憐憫だけではない。血の海の中でも意思を繋ぎ止めた資質は、無粋な車輪の下敷きにしておくには、あまりに惜しかった。

 ……、……。

 アリスの指が、僅かに神綺の手を握り返した。
 そのときの確かな感触をアリスは今でも覚えているし、神綺もそうだった。


 アリスが少女として輝く季節を迎えた頃には、神綺とアリスは母娘であり、師弟となっていた。
 最初の頃は大きな力を持て余すことも多かったが、身体的にも成長し、書物による知識に加えて人形に魔力を留める方法を覚えてからは、一挙に安定した。人形を操る術は、元は自分を操るための術だった。
 そんな彼女が人間から魔法使いになるために選んだ方法は、精神を人形に移してから、再び戻って復活するというものだった。
 危険な方法ではあったが、これに成功したことで自分の体を制御することに関して何の懸念も無くなった。
 何より「自分の手でママと同じく『アリス』を復活させたのだ」という自信が、これからの彼女には必要だった。
 それだけの自信をアリスが欲していることを本人の口から夢子が聞かされたとき、「目の前から妹同然の子が旅立ってしまう」という確信に至った。
 夢子の転生成功を家族で最も喜んだのは夢子だったが、最も悲しんだのも彼女だった。

 ――何も言わずに旅立たせてくれたのは、それに耐えた自分を誇りにして、自分は魔界で暮らしていくためだったのかもしれない。

 目玉焼きに七味をかけて食べていたアリスは、姉についての考察がいつもと同じ推論に辿り着いたところで、回想を切り上げた。
「んー、目玉焼きには八幡屋のこれに限るわね」
「ショーユトカネーヨ」
 七味の入っている缶を持って、人形がテーブルの上をちょこちょこと歩いている。
 それを見て微笑んだアリスだったが、実は近頃、研究が行き詰っている。
 以前なら人形を作りかけているときに悩んでも「とりあえず作ってしまえ」という気持ちになれたが、どうにも手が止まる。今も一体、仕上げをされないままに作業台の上で寝転んでいる。それがまた不憫に思えたりする。まだ、魂は宿ってはいないのに。
 あくまでも人形の自立を目指すか、それ以外の可能性を模索すべきか。
 手帳にミミズのようなメモが増えるばかりだ。

 ふと、人形が持っている缶の軽さに、アリスは気付いた。
「それで最後だったっけ?」


  二

 人里に出る準備をするのと、人形劇の準備をするのとは、イコールだった。
 ただ買い物を済ませるだけなら往復で一時間しかかからないのに、四時間は費やすことになる。
 面倒臭いと思ったことはない。人が集まる場所は好きだったし、人間も嫌いじゃない。特に小さな子供を見ていると、自分の弟や妹のように思える。
 その感情は人形に注ぐものとは別種だったが、根っこは多分、一緒である。
 とりわけ、子供との接し方は夢子の影響が大きい。先回りし過ぎず話を聞き、完全にはわからなくても少しでもわかる所があれば共感する。ただ、何事も実践は難しい。
 夢子の場合は多少、強引な所があったから、その反動でアリスは受け手になることが多い。
 アリスが人里に来れば自然と子供が寄ってくるので、その場で人形劇は始まる。
 下手に新しい話をしようとはせず、慣れた演目をアドリブと試行を交えて行う。
 次第にわかってきたが、どちらかというと大人の方が新しい演目を求めるものらしい。大人は、人生に物語を求めているのかもしれない。
 子供は自分に湧き起こる感情の流れを、素直に楽しめる。
 彼らの目の光が瞬くのを見ると「はい、今日はここまで」と言うタイミングが難しい。

 ――まあ、今日はよく出来た方だろう。

 アリスは町屋を改造したカフェで、満足げに息を吐いた。
 近頃はようやく暑さが引いてきたから、道端のテーブル席が心地良い。乾いた砂利が、風に転がる。
 それを砕く車輪の音が聞こえて、アリスは視線をそちらに向けていた。
 荷を積んだ大八車を、馬が牽いている。ぽっくぽっくと歩く姿は愛嬌があった。
「馬車……今でも魔界にあるかしら」
 神綺の所ではわりと我儘を聞いてもらっていたが、馬車だけは乗せてもらえなかった。
 理由はアリスにもわかっていたし、「気にしないで」と言うのは嫌だった。

 出されたホットコーヒーの口当たりは、軟らかい。
 買い物のメモや今後の研究の予定、何でも書き込んでいる手帳を開いていたアリスは、店員以外の影が来ると、自然に声をかけた。
「今日はね、夢見が良かったの。だから、あなたみたいなのと会うのはわかっていたわ」
「そうですか。こんにちは、アリスさん。楽しい劇でしたね」
 まだ日差しの強い季節にも関わらず、長袖に外套という姿で、聖白蓮は会釈をした。汗一つかいていない姿は、陶磁器のようである。彼女に注いだ日差しは艶にしかならない。
「なんだ、見てたんだ……ねえ、尼さんって、コーヒー飲めるの?」
「前にも同じ質問をされましたね。――アイスティーを。甘いのは要りません」
 白蓮を見付けて奥から出てきた店員が、注文を取って戻っていく。
 それから白蓮はアリスの向かい側の席に座った。
「奢ったりはしないからね」
「そういうつもりではありませんよ。ただ、おしゃべりぐらいは付き合っていただけるのでしょう?」
「……まあ、ちょうど聞きたいことあったし、いいわよ」
「というと?」
「魔界って、今でも馬車は走ってるの?」
 白蓮が魔界にいたとき、何度か会っている。魔界は時間軸がこちらとは少し違うので、「何年前」と正確に表現するのは難しいし、それをする意味もあまり無い。
 アリスが魔界から出られて、白蓮が出られなかったのは、人間の側から入国を拒否されていたようなものだ。それぐらい白蓮の封印は強固なものだった。
 もっとも、そのおかげで白蓮は割り切れて、魔界での修行に集中できた面はあった。万事塞翁が馬である。
 白蓮は背中のマントを畳んで、テーブルに置いた。
「馬車はまだありますよ。あそこの名物みたいなものですからね」
「そう……」
「馬車に限らずとも、あそこは賑やかでした」
「そうね」
 気遣ってくれたのか、どうなのか。どちらにせよ自分から訊ねるのは変だったから、アリスは頷いた。
 人里の中心といえど、ここに喧騒というものは無い。商売人の呼び込みやおしゃべりをする女性の声が、たまに聞こえてくるぐらいである。
 年末年始など、時期によって往来が激しくなるときはあるが、呑気さは変わらない。
 ここの生活は白蓮に向いているのか、いないのか。
「どう? こっちの暮らしは」
 まるで先輩気取りだな、とアリスは自嘲する。事実そうなのだが、年齢自体は向こうの方が格段に上である。
 白蓮は話を振ってくれたこと自体が嬉しいらしく、すぐに答えた。
「勝手がわからないことも多いですが、仲間もいますし、やるべきこともありますから……ただ、これを楽しいと言って良いのかどうかは難しいです」
「言って良いんじゃないかなあ」
 白蓮の微笑みに、アリスの問いは有耶無耶になる。
 尼というのは本当にややこしい。アリスからしてみると、仏教なんていうややこしいものはさっさと捨ててしまった方が、白蓮の目的のためには手っ取り早く思えてしまう。
 そこにアイスティーが出てきて、会話は一度止まった。

 会話のきっかけを探しながら白蓮の髪の毛を眺めていると、彼女に訊きたいことが新しく出来た。
「閻魔って、会ったことある?」
「何かの宴会で賓客としていらしてるのは見た覚えがあるんですが、私がご挨拶するのも変ですからねえ」
 私は死ぬ気はありません、と顔に書いているのが閻魔に会いに行くのは、喧嘩を売っているも同然である。
 閻魔の方も喧嘩を買いたくないからなのか、何か考えでもあるのか、白蓮に声をかけてはこないという。
「ここって地獄と繋がりが深いみたいなのよね。ハブられてるってほどじゃないけど、異物として扱われてる感じがするわ」
「地獄の方が魔界よりも人間的ということではないでしょうか。幻想郷にも人は論理と理性を求めるという見立てを最初からした上で地獄の協力を取り付けたのだとしたら、八雲紫という方は凄いです」
「あれをあんまり褒めると馬鹿見るわよ。面倒臭いったらないんだから」
 とはいえ、白蓮の言っていることは理解できる。
 魔法は魔法の理屈で成り立っている。人はそれをファンタジーと呼ぶ。その中心地が魔界であり、そこと結んでも、幻想郷は拡大し辛い。
 生と死という強烈な概念の象徴である地獄を基盤に据えたからこそ、幻想郷は外の世界で失われたものの捌け口となることができた。
 また人間も、たとえファンタジーを信じずとも、いや信じないからこそ、巨大な輪廻転生の論理に魂は吸い込まれる。
 魔界はそうではない。

 求めよ! 願え! 信じよ!

 それが魔界である。大概の者にはハードルが高い。
 そういえば以前、魔界と幻想郷との繋がりが表向きは断たれたというようなことを神綺は聞かせてくれた。意識して付き合う相手ではない、と判断されたのだろう。
 こういうことを霊夢や魔理沙は気にしないので、こちらも深く考えたことは無かった。
 あの二人は、魔界は魔界、地獄は地獄、それでオーライなのである。たとえば今またぽっかりと魔界への入り口が開いたら、気にせず飛び込んでいくに決まっている。その積極性は、幻想郷こそが彼女たちの基準だからだろう。人間は本来、ああいう強さを持っている。
「でもま、幻想郷がどうあれ、あなたは成仏を説くんでしょうね」
「他に救いはありませんから」
 軽く言ったアリスに対し、はっきりと答えた。その陶磁器の美しさに、罅は見えない。
 白蓮の前だから下手なことを口にはしないが、仏教というのも突き詰めれば、論理では説明しきれない領域に入らざるを得ないのかもしれない。
 そうしたものを求める人の美しさを、神綺は愛していた。その神綺を、アリスは求めた。だからこそ、アリスは魔界から出るしかなかった。
「アリスさん、折角ですから何か食べませんか?」
「……賛成だわ」
 考えてばかりいたら、お腹が空いた。
 注文してじきに、野菜サンドがやってきた。ここのは塩がしっかり振ってあるので、肉を食べられる人にもおすすめだ。
「いつの間にかメニューに『修行中の方も食べられます』マークがついてるんだけど」
「ありがたいことです」
「商売人は呆れるぐらい逞しいわねえ」
 この『修行中』には白蓮の寺に関係した者だけでなく、仙人とかも混じっているのだろう。連中も、近頃は平気で里に出てくる。
「外から神様が来たと思ったら、今度は仙人がわらわらと……あのスキマ妖怪、本当に考えてやってるのかしら?」
「眠くなるぐらい考えてますわよ」
 日差しと日陰のスキマに、影が立つ。
 アリスは面倒臭いのが出てきたのと、その予感が元からあったのと、両方が嫌になって、溜息を吐いた。
 白蓮に着席を促されて、八雲紫が腰を下ろす。
 まだ肝心の買い物が済んでいないのに、いつ行けるのか。アリスは不安になってきた。
「アイスコーヒー。ミルクとシロップもね」
「太るわよ」
「考えて飲んでるから大丈夫よ」
「その思考そのものが考えてないわよね」
 品が運ばれてくると、紫は藁で出来たストローでクルクルと混ぜる。
 お代わりを頼んだアリスが、自分もストローを使える飲み物にすれば良かったなんてことを思っていると、紫が先程の続きを話し始めた。
「いくらお仕事をしても、それを無視して勝手なことを始める方々ばかりで……困ったものよ」
「私はその中に含まれないはずなのに、こうしてお茶の席で絡まれるなんて、困ったものだと思わない?」
「思わないわねえ。お茶とおしゃべりは最高の娯楽だもの。宴会と違って、気を遣わなくて良いのが最高ね」
「付き合いの広い御方は大変だわ」
 幻想郷の妖怪同士だと普通のギスギスとした会話なのだが、白蓮は居辛そうにしている。
 慣れてないからというよりも、彼女自身、話が上手い方ではない。
 何かの会談で山の神と聖徳太子と同席したとき、一人だけホエホエとしていたと風の噂で聞いた。
 それというのも、言葉で適当に誤魔化すことが下手なためで、封印された経緯もそこら辺が祟ったように思えてならない。そういう所が人に好かれ易い面もあるのだろうが。
 そんな白蓮に、紫が話を振った。
「ときにご住職」
「ぷえっ?」
 アイスティーをストローで吸っていた白蓮の口から、変な声が出た。
 アリスは自分で自分の腿を抓って堪えたが、紫の顔も白蓮から見えない側が引き攣っていた。
「こ、今度、精進料理会でもやりましょう。うちの子も作れるんだけど、レパートリーを増やしたいみたいでね」
「そういうことなら、いつでもよろしいですよ。こちらも寺で揃って料理を作る機会はあまり無かったので、今になって勉強しているぐらいです」
 意外とまともなお誘いである。アリスも食べてみたい欲求に駆られてきた。
「あれって美味しいの?」
「料理は魔法と同じです。食材と手間のバランスで成り立っていますから、素材が肉でも野菜でも、美味しさの水準には影響しません」
「後は好みの問題か……」
 目玉焼きに七味をかける食べ方は、精進料理的にはセーフなのかアウトなのか。そもそも卵の時点でアウトである。
 一人暮らしを始めてから、どうも凝った料理を作っていない。
 魔界では、普段は忙しくて話す機会の無い夢子も料理中はどこにもいかないので、一緒に作りながらおしゃべりしていた。
 夢子の作るアップルパイは絶品で、アリスも教わったが、いまいち再現しきれていない。もしかしたら魔界のリンゴとこちらのリンゴで、違いがあるのかもしれない。
 家を出るときには、レシピがびっしり書かれたノートを知らぬ間に鞄に入れられていた。あれ自体、そこら辺の魔術書よりも価値のあるものだ。
「たまには私も何か作ろうかしら」
「精進料理を?」
「まさか」
 アリスと白蓮のやり取りに、紫は笑いを零していた。


  三

「ご家族のこと、聞かなくてもよろしいんですか?」
 白蓮は別れ際に、アリスにそっと訊ねてきた。アリスは紫の姿がもう無いのを確認してから、白蓮に向き直った。
 アリスは白蓮の質問を微笑みで誤魔化して、買い物へと向かった。
 愛用の七味を扱っている店で買うものは手帳に書いてある。
 店の前でもう一度確認しようと、鞄から手帳を取り出したとき、手から零れてしまった。
「あっ」
 慣れない相手と、長くしゃべり過ぎたろうか。
 アリスが拾おうとしたとき、先に別の人が拾ってくれた。
 お礼を言おうと相手の顔を見たとき、アリスは鞄そのものを地面に落とした。
 赤い服を着た金髪の女性は、アリスの手帳をぺらぺらとめくっていた。
「魔法と人形のことばかり……買い出しの内容もいい加減……困ったものね」
「ゆ、ゆゆゆっ、ゆっ」
 アリスが相手の名前を呼ぼうとしても、上手くいかない。
 曲がり角の所にさっき別れたばかりの白蓮が隠れていた。彼女は目が合うと、物凄い速度で逃げ去った。
「あの子、ああいう所が可愛いわよねえ」
「そんなのどうでもいいわよ! 夢子姉さん、何してるの!?」
「……あなたに会いに来たんだけど?」
 見ればわかるだろう、とでも言いたげである。
 エプロンこそしていないが、真っ赤なワイシャツに細長いスラックスを穿いた鋭い印象は、魔界で毎日見ていたときと全く変わらない。
 ピクニックに出かけたりするときは、いつもこういう格好をしていた。
 アリスはすぐ傍にある目当ての店と、周囲の視線と、手帳と、夢子を見比べた。
 どれを優先すべきか、という自問に対し、アリスは鞄を拾って逃げ去った。
 飛んで逃げれば良いものを、ひたすら走った。
 息が上がってきたところでようやく飛行のことを思い出し、地面を蹴った。
 家に辿り着いたアリスを待っていたのは、先回りしていた夢子だった。
「おかえり」
「た……ただいま」
 滅多に乱さないペースも、ガタガタである。体の制御には人一倍気を遣っているせいで、こういう姿を人に見せてしまうのを一番嫌う。

 ――よりにもよって、姉さんの前で。

 そう思うと、今度は怒りが込み上げてきた。
「来るなら来るって、手紙ぐらいよこしなさいよ!」
「魔界からこっちに送るときの手数料、あなたも知ってるでしょ? 通信も触媒が勿体無いし、神綺様なんかに頼んだら直通巨大トンネルでも繋げかねないしで、結局、こうやって直に来るのが穏便なのよ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「じゃあ、どういう問題なのよ……」
 あまり私を困らせないでほしい、と、人を困らせている側が言っている。
 人が通るような場所ではないが、アリスはとりあえず、自宅の鍵を開けた。それを契機に家全体を覆っていた障壁が解除される。
「とにかく入ってちょうだい。知り合いに見られると、説明するのが面倒だから」
「それはいいけど、喉が渇いたわ」
「勝手にキッチン使って良いから、お茶でも何でも入れてよ」
 キッチンの方向を指差して夢子の背中を押すと、自分はリビングのテーブルへ向かった。
 途端に人形達が動き出して、アリスの周囲で踊り始めた。
「オネエチャン!」
「オネエチャンキター!」
 小憎らしかったので、人形を指で弾く。
 それを見て大人しくなった人形達の顔を見てられなくて、アリスはテーブルに腕枕を作り、自分の顔を埋めた。
「やだな、こういうの……」
 会いたくなかったわけじゃないのに、会った途端に嫌になる。
 それだけ自分が過去の思い出を大事に扱っているのがわかってしまうから、そういう自分が、今の自分には煩わしい。っていうかややこしい。
 世の中にはアルバムを楽しんで見られるタイプと見られないタイプがいるそうだが、自分は後者に違いない。
「ほら、起きなさい」
 しばらくして声をかけられると、アリスは顔を上げた。
 目の前には良い香りの紅茶があって、ソーサーには角砂糖が一個半だけ置いてあった。
「こっちにもこの葉っぱがあるのは嬉しいわよね」
「……うん」
 恐る恐る角砂糖を溶かして、紅茶を口に運ぶ。
 香ばしさと酸っぱさのバランスが完璧に取れたその味は、夢子でないと無理なものだった。
 その味によって、夢子が目の前にいるのだ、という実感がようやく湧いてきたた。
 アリスは人形達に散らかっている本の整理をさせながら、夢子の話を聞くことにした。
「いつからこっちに?」
「一週間ぐらい前。白蓮が封印解けたとき、『何かあれば寄って』って手紙遣したから、甘えさせてもらったわ」
「私の所に来れば良かったのに」
「私だって、こっちの事情はそれなりに知ってるつもりだから、すぐに会わない方が良いと思ったのよ」
「それがどうして、今日になって――」
 訊きかけて、すぐに自分で気付いた。
「あのスキマ妖怪……!」
「ま、そういうこと。白蓮が気を利かせて、話を通してくれてね。そこまでしなくても、会ったらさっさと帰るだけなのに」
 最後の言葉を聞いて、アリスの頭のスイッチが入った。
「帰っちゃうの?」
「そりゃあ、来たからには帰るわよ。神綺様のことも心配だもの」
「そ、そういえばママはどうしてるの? 食事は?」
「『ダイエットするから気にしないで』とか言ってたわ。食べなくても死なないのに」
 アリスの予想だと夢子がいないからといって、街の店に新作ケーキとか食べに出かけてばかりいる気がする。
 そういうことを考えているのが夢子にも伝わったようで、鼻で笑った。
「あっちじゃあまり妖怪らしい妖怪も見られないから、もう少しいたいんだけどね」
「うん……」
 アリスが俯いて気持ちの整理をしていると、テーブルに置いてある手を、夢子が取った。
「……」
「しばらく会わない内に、綺麗な手になったわね」
 本当ならもう片方の手で夢子の手を包み返したかったが、なんだか照れ臭かったので、自分の頬をかくために使った。


 作業室に入ったアリスは、ドアを後ろ手に閉めた途端、全身から力が抜けてしまった。
 夢子は夕飯を一緒に過ごしたら、命蓮寺へ一度戻るという。
 調理器具や食材の在り処を確かめているのか、戸棚を開け閉めする音が聞こえてきた。
 さっき握られた手に、視線を落とす。
「綺麗になった……のかな?」
 自分ではよくわからない。アリスにとっては、神綺の手や夢子の手の方が、綺麗に思える。
 生命の輝きそのものを作り出してきた手、それを育んできた手だ。
 アリスは暗がりの中で自分の手を見詰めていたが、やおら立ち上がって、指を鳴らした。
 部屋の灯りが一斉に点く。
 中央の作業台には布が被せてあり、それを両手でそっと取り去る。
 そこには上海人形達よりも大きいが、ゴリアテなどよりはずっと小さい、人間でいう五歳児ぐらいの大きさの素体が眠っていた。
 このサイズが、人形の自立と人形の巨大化、双方の基礎研究に使うには調度良い。
 最近になってわかってきたことだが、人形はいくら手間をかけても、小さいサイズでは意思が細い。それはそれで繊細なのだが、人間のように柔軟な精神には育たない。
 それは大きさそのものではなく、注がれる意思の問題である。
 長年の人形劇の実演中に、人間から精気を注がれる感触を味わったことが、何度もある。
 そうしたときの人形の動きは、自分で操っているだけのときより、艶めかしいものとなる。
 人形を使っての勝負のときにも、そういう傾向はあった。相手が激しくなれば、より激しく。大人しくなれば、より大人しく。
 注がれる意思の量は体の大小に関係は無いはずだが、それを内部で増幅させるとなると、ある程度の大きさが必要になってくる。
 今までに、このサイズの人形を一度だけ作ったことがある。
 自分が魔法使いとして生まれ変わったときだ。
 それは一度自分の魂を人形に退避させ、本来の体に再び魔力を戻すためのもので、一見無意味な作業に思えるが、自己とそれ以外に同様に魔力を注げるのは、生命の理を魔力によって脱することに通じる。
 そのときの人形は最終段階で燃やし、跡形も無くなった。万が一にも自分の精神の断片が残った場合、もう一人の自分が発生してしまう危険があったからだ。
 アリスはかつての自分の手を取るように、眠り続ける人形の手を取った。
 掌の部品を外すと、みっしりと糸が詰まっている。
「子守りの時間だわ」
 アリスがアーカイブを開く呪文を唱えると、本棚から無数の本が浮かび、普通では読み取れない速度でページがめくられ始めた。
 それらは不規則に、それでいてリズミカルに、部屋の空気を指向性のある魔力へと変化させていく。窒素を魔力に置き換えていくと思えば良い。
 それに合わせてアリスが人形に魔力を注ぎ始めると、人形は横向きのままで作業台から僅かに浮き、静止した。
 人形の節々から糸の束が噴き出し、うねる。色とりどりの光が糸から溢れ出し、部屋の中に虹を映し出す。一本として千切れないのは、アリスの魔術あってのこと。
 これから生まれるのは、自分自身を操る人形だ。宿った魂を練り上げていく柔軟さを持った、真の生命。
 次第に、足や手といった末端からうねりが治まっていき、空っぽだった眼孔に糸が出てきた。それは毛玉でも造るかのように眼球を形作ったかと思えば、表面が溶けだし、本物の瞳を作った。
 この糸は魔力によって状態を変化させる特質を持っているが、ここまでの造形は容易いものではない。
 そして体が作業台にゆっくりと下ろされる。
 アリスはまだ詠唱を止めない。
 彼女が人形の目の上で手をかざす。その手が退かされると、人形の目には瞼が出来ていて、眠るように閉じられていた。
 最後にアリスは素体の節々が完全に閉じていることを確認し、掌の部品をはめた。
「怖がらなくても、大丈夫よ」
 その言葉を呟いて、アリスは力尽きた。
 消耗しきった彼女は、人形に寄り添うようにして眠りこけた。


  四

 夢子は命蓮寺で精進料理会が開かれた晩、アリスの家にやってきた。
 この日は満月だったから、この晩に魔界へと繋がるゲートを開いて帰るのが最も効率的である。
 この方法の問題点は、開いたゲートから魔界の外に出ようとする有象無象全てを完全に斬り伏せながら中を進める技量が必要なことだが、夢子には何の心配も無かった。ピクニックのための準備をする方が、よっぽど手間に思える。
「あんまりアリスと一緒にいられなかったけど、精進料理もそこそこ覚えたし、収穫だったわね」
 夢子の軽口にアリスは黙っている。
 再会してからの一週間、ようやく整理できた質問があった。
「姉さん、私に会いに来ただけじゃないでしょう? 姉さんにしては、いくらなんでも手間がかかり過ぎているもの」
「微妙に馬鹿にされてる気がするんだけど……ま、気付いたご褒美に教えてあげる。魔界の方でね、幻想郷との行き来が再開されるんじゃないか、って噂が出回ってるのよ」
 それはあくまでも噂に過ぎなかったが、放っておくと噂に便乗した連中が悪さをしかねないので、代表して夢子が調べに来たのだという。
「そんなのルイズにでもやらせればいいのに」
「あの子じゃそれこそ、あなたに会って、お酒飲んで、あっはははのはーって酔っ払って、帰ってきても『夢子ちゃーん、二日酔いのお薬ちょーだーい』とか言うだけよ」
「ああ……うん、まあ」
 フォローしてやりたいが、無理だった。夢子の物真似に悪意が込められていたので、多分似たようなことは既にあったのだろう。
「それで結局、噂の真偽はどうだったの? スキマ妖怪にも確かめたんでしょ?」
「あんなの、端からアテにしてないわよ。言質が取れたからといって、信用できるものでもないわ。私は見て感じたままを報告するだけ」
 それ以上はアリスに話す気は無いようだ。夢子が片手を宙に掲げると、無数の剣が月下に現れた。それらは月の光を滴らせ、いつでも存分に振るうことができそうだった。
「準備よし、っと」
「あっ、姉さん、ちょっと待って!」
 アリスが慌てて糸を操ると、中から数体の人形が、大きな木箱を抱えて家の中から出てきた。
「この箱と一緒に、この子たちも連れて行って。箱を守るぐらいのことは出来るはずだから」
「ツレテケー」
「オネエチャントイッショー」
「ワーイ」
 人形達が好き勝手喋るのに夢子は失笑したが、アリスの申し出を断らなかった。
「中身は大体わかるわ。あの日、シチューも食べないで部屋に籠ったままだったじゃないの……そんなに集中するの、一つだけでしょ」
「ごめんね。それと……ごめん」
「どれとどれを謝ってるのかしら」
 責めるようなものではなく、嬉しそうな訊ね方をする。
 アリスは箱を渡すことだけは決めていたが、ある質問だけは、するかどうか迷っていた。
 だが、やはり聞いておきたかった。
「姉さん、私が事故に遭う前、ママとほとんど話したことなかったって、本当?」
「ああ、まあね。というか、誰ともまともに話したこと無かったわよ。神綺様の人形でいられるだけで、私は満足だったわ」
 完全なる創造主。その恩恵を最大限に幸福に思うには、自分が人形だと割り切る方が良かったのだった。今でも神綺様と呼ぶのも、その名残だ。
「ただねえ……あのときのあなた見てたら、口と手が動くようになったのよ」
「……なら、良かったわ。この箱の中身、姉さんのこと考えて作ったから」
「あら、そうなの? それじゃあ、名前は私が決めても良いのかしらね」
「ちゃんと中も見てないのに、気が早いわよ」
「それもそうね」
 夢子は笑いながら、自分のハンカチを取り出して、端っこをぺろりと舐めた。
 月の滴に汚れた妹の顔を、ハンカチで拭ってやる。
 そしてそのハンカチを空中に放り投げると、そこに魔界へのゲートが出現した。
 先発隊の剣達が、無数の光目掛けて突撃していく。夢子が指示すると、それに箱を抱えた人形達が続いた。
 夢子は最も愛用している一本を握り締め、飛び立った。
「さようなら、愛しいアリス。そして、綺麗なアリス」
 残されたのはハンカチと、満月だった。


  五

 人の噂も七十五日。人など少ない魔界においては、もっと短かった。
 夢子が魔界に帰ってきたときには、噂はほとんど消えかけていた。
 噂自体、そこそこ有名だった白蓮が魔界から出て行ったことで起こったもののようだ。幻想郷でも怪しい動きは見られなかった。
 そう報告した夢子は、その後に自分の推論を述べた。
「話に聞いていた幻想郷と比べると、Lowに傾き過ぎているように思います。あれではいくら土地があろうと、じきに息苦しくなるでしょう」
 新たな神、聖白蓮、聖徳太子……地底の忌み嫌われた妖怪達との間にも交流が再開されたというし、事象が整理されるには速度が出過ぎている。
「つまり、向こう側で何か手を打つ可能性はある、と」
「はい。それに備えておくのは、間違いではないでしょう」
 ランニングマシーンで汗を流しながら話を聞いていた神綺の体を、夢子はまじまじと見詰める。
 二キロ……いや、一キロぐらいは痩せたか。
 夢子からすると無意味な行為に見えるのだが、神綺本人は楽しそうなので、放っておくことにした。
 辞儀をして退出しようとした夢子に、神綺が走りながら告げた。
「今日明日は、好きにしてていいからね」
「ありがとうございます。神綺様は、豪華ディナーの予約に遅れないようにしてくださいね」
 神綺が派手にすっ転ぶ音を無視して、夢子は廊下に出た。
 主人に会う前に行動や予定を確認するぐらいのことは、帰ってきて手を洗うぐらい当たり前で、簡単なことだ。
 夢子は館の窓から、摩天楼と空を渡る光の帯を眺めながら、これからの自分の予定を考えた。


「あなたにプライベートで乗車していただけるとは、光栄ですよ」
 たまに用事で呼んでいる御者の世辞はわざとらしいものではなく、素朴な喜びが感じられた。
 馬車の良い所は、馬と車輪、御者、そして乗客も一体になったかのような感覚だろう。
 窓の外の喧騒は車輪の音にかき消される。
 夢子は隣に座らせた、アリスからもらった箱の中身を眺めた。
 箱の中身は予想通り人形だったが、御者がそれと気付かないぐらい、よく出来ていた。
 命じずとも歩くし、会釈もする。ただ、口はまだ利けないようだ。
 髪は長いが、夢子のような腰までの長さは無い。服は真っ赤な色のドレスで、透明さすら感じられる面差しに、よく似合っていた。
 車輪の音が、夢子の記憶の糸を巻き取っていく。

 ……あの日は、神綺が散策に行くと言って聞かなかった。
 そんな意味も無いことは夢子は嫌いだったし、あの五月蠅いだけの連中がいる街の中を歩くのも嫌いだった。

 ――ほら、やっぱりひったくりなんかに遭った。

 よりにもよって神綺の荷物をひったくった相手を追い詰めた夢子が、忌々しい糞虫にとどめを刺そうとしたとき、苦し紛れの一発が夢子の横髪を掠めた。

 ……、……。

 そこからの記憶は、あまりにこんがらがっていて、自分でもどう扱ったら良いかわからないままに過ぎ去った。
 常に瞼に浮かぶのは、目の前で手を握り合ったアリスと神綺の姿である。自分も誰かの手を握りたいと思うようになったのは、あれからのことだ。
 神綺の下にいる者達の中でもまとめ役だった夢子が精神的に豊かになったことで、他の姉妹も感化されていった。

 今向かっているのは、神綺が気晴らしのために建てた、郊外の一軒家である。ピクニックに出かけた日は、そこで泊まったりしていた。
 館と比べれば比較にならない小ささだが、アリスは気に入っていたようだ。現に、幻想郷の自宅の雰囲気はそことよく似ていた。
 それにしても、妹の前なものだから気楽に受け取ってしまったが、この人形をどうしたものだろうか。
 いや、そもそも、自分はどういうつもりでこの馬車に乗せたのだろうか。
 この子はアリスが作ったものだが、アリスではない。
 それに、魂が宿っているにしては他の人形とは様子が違う。何か仕掛けでもあるのだろうか。そんなものを魔界に帰ってきた勢いで連れ出してしまったが、果たして正解だったのかどうか……。

 ガゴ! という音と振動に、馬車が軽く突き上げられた。
 何のことは無い、ちょっとした段差を拾っただけだ。しかし人形は、夢子の膝に頭を埋めていた。
「怖がらなくても、大丈夫よ。――アリス」
 夢子が背中を擦ってやると、人形はそっと頭を上げた。
 その瞳に、喜びの光が宿っていた。それは魂の光だった。
 魔界という環境でその名を呼んだことが、人形に真の生命を与えていた。
「……しまったわね。まあ、アリスなんてどこにでもある名前だわ」
 うっかり名付けてしまった自分に言い訳しておいてから、夢子は人形の頭を抱いた。
 名前そのものよりも、夢子にとっての呪文がアリスという名前であった。そうでなければ、魂が目覚めることは無かっただろう。
 それはまだ弱々しいものだから、しばらくは夢子が子守りをしなくてはいけないだろう。
 ……幻想郷のアリスは、ここに帰っては来ない。そんな気が夢子にはする。
 たとえどんな形でも、生命を生み出そうとするのであれば、神綺の傍にはいられない。魔界の神は、同じ場所に二人もいられない。
 ただ、もし彼女が研究に迷って戻ってきたら、この子に会わせてあげよう。
 そんな夢を乗せて、馬車の車輪は回り続けた。