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見ずの海

 何を書いたものか。妖夢がその問いに囚われてから、既に半刻もの時間が費やされていた。
 片手に握られた筆は硯の海に浸かったままで、根元まで真っ黒だったが、書初め用に敷かれた紙は白い。時間が過ぎるにつれ墨は匂い立ち、筆は毛羽立つ。そして、畳に膝を付けるまでは大らかだった心は、苛立っていた。
 精神統一にと、抽斗から祖父の伊達眼鏡を出してはみたものの、縁取られた光景には何の感慨も浮かばなかった。

 書初めに関して、これまではどうということもなかった。祖父の見様見真似で適当な文字を書き、主人である幽々子につまらない字だと虚仮にされ、生返事をしつつ空になった重箱を片付ける。それが毎年の光景だった。
 要するにただの慣例なわけだが、こういうものに限って、一度でも疑問に思うと大変だった。去年は何を書いたか。一昨年は。そんなことを考えても消去法にすらならず、世の中には文字が腐るほどあった。
 書道自体は小さい頃から嗜んでいる。何かと口の重たい祖父も、妖夢が手を動かしているときは違った。偉いだの殊勝だのと声をかけてくれ、機嫌の良いときには出涸らしではあったが、茶まで出してくれたことがある。もっとも、それは面倒な家の仕事を妖夢に押し付けるための所作だったわけだが、それがわかる今でも、筆を走らせていると頬が緩んだ。
 しかし、それはあくまでも日常の中で文字を繰るときの話だ。書初めとなると、頬は引き攣り、口は曲がり、眉間には皺が寄った。殊に今年は重症だった。それだけ色々なことを考えられる歳になったわけだが、いかんせん、益体もない。
 漠然とした思索はここ数年でするようになった。「斬ればわかる」だけで食っていけるほど、世の中は甘くないこともよくわかった。その証拠が目の前にある真っ白な紙だ。
 恐らく、自分は重要な時期にさしかかっているのだろう。妖夢は唸ったが、そうした考えがますます筆を重くした。
 あまり時間を取られると、いつ幽々子から声がかかるかわからない。出せるだけの酒と肴は出したが、飽きられればそれまでだ。
 妖夢が溜息を吐くと、敷いた紙がぱりぱりと音を立てる。それは早く墨を吸わせろと催促されているように思えた。
 疑心暗鬼もほどほどにしよう。筆を置き、痺れ始めた足を畳から離す。おもむろに雪見障子を開けると、室内の空気が逃げるように外に出て行く。視界が曇って初めて、未だに自分が眼鏡をかけていたことに気付いた。
 妖夢が支度を始めたのは、それから間も無くのことだった。


 二本の刀を茶店の長椅子に置いたとき、陽はまだ昇り切っていなかった。土手の上にある茶店には川上からの風が常に吹いていたが、着の身着のままで出て行った祖父が置いたままにしてあった着物を適当に仕立て直した外套は暖かかった。
 口まで覆った襟巻きを少しだけ引き下げ、露わになった唇に甘酒の杯を当てる。酒粕が多目だったが、それが喉に下るのは、心地良かった。
 一人になってみたところで書初めの足しになる確証は無く、だからといって自分から顔見知りに会いたいとも思えない。そういった機微があってここに来たのだった。
「つまみはいらんのか」
 赤味の強い傘を畳みつつ、他の客が隣に座る。妖夢はその客を一瞥したが、文句は言わなかった。別に知らない顔でもない。風よけには調度良いだろう。
「正月は雑煮だけでもつ」
「鯛は?」
「無駄が多い」
「寒鰤はどうだ」
「脂が合わない」
「おせちも忘れちゃならん」
「もう無い」
 一頻りのやり取りの後に隣の人物から溜息が漏れたが、すぐに風に紛れた。裂いた綿のような雲の下で、遠くに上がった凧が風に巻かれていた。
「そちらの御主人は相変わらずみたいだな」
「……相変わらず龍を食べたがっているのは確かかな」
 意地の悪い言い方に、上白沢慧音は肩を竦めた。正月だからか着物姿ではあったが、長い外套の裾には、欄間のように無数の穴の空いた意匠が、ちゃんと施されていた。
 妖夢が黙り込んでいる間に、店主から慧音の手に甘酒が渡った。しばらく、お互いに甘酒を啜りながら景色を眺める。その間、一度も目は合わなかったが、妖夢には自分が見る物を慧音も見ているような気がした。
 川岸の雑草に引っ掛かっていた雪が水中に落ち、白い頭をちょこんと出した格好で川下へと流れていく。ここら辺では一番大きな橋の桁に雪が引っ掛かったところで、慧音が口を開いた。
「海を見たことはあるか」
「ある……と思う」
 不安そうに眼鏡を触った妖夢に、慧音が目を細める。妖夢は川下の方を見たままで続けた。
「まだこちらに来る前、祖父と一緒にそこら中を回った記憶がある。どこが故郷で、どこが旅先だったのか……それはわからない。それでも海と聞くと、確かに海の光景が過ぎる。だから、見たことはあるんだろう」
 岩の多い河口に波が当たる。それが妖夢にとっての海だった。慧音の海がそれと同じかどうかは知らないが、彼女はそれ以外のものに想いを馳せたらしかった。
「孫に一度でも海を見せたかった、といったところか」
「そこまで風流な人じゃなかった。ただ……」
 それ以上は言葉が続かず、代わりに一際強い風が吹いた。橋桁に引っ掛かっていた雪が崩れ、川に飲まれる。妖夢が残り少なくなった甘酒に目を落とすのを見て、慧音は自分の杯を置いた。
「あれ、お帰りですかい?」
 店主が薪を手に持ったまま、顔を出す。慧音は傘にかけた手を止めた。店の奥から、甘ったるい匂いが漂っていた。
「作り直したのか?」
「折角だと思ったもんで……」
「別に責めてるわけじゃない」
 慧音は傘の頭で地面を何度か突いてから、肩に担いだ。その様子を胡散臭そうに眺めていた妖夢が、杯を揺らす。
「用事があるなら行けば良い。私はもうしばらくいる」
 慧音は鼻で笑うと、店主に四人分ほどもある金子を渡して川上へと向かった。
 あちらには何があったか。妖夢が店主に問おうと思ったとき、彼はもう店の奥に引っ込んだ後だった。


 帰り際を誤ったことに妖夢が気付いたのは、陽が傾き始めた頃だった。空に紅白の凧が見えたと思えば、その凧はふらふらとこちらに飛んで来て、店の前に落ちた。
 博麗霊夢は怒った風に腰に両手を当てて辺りを見回した後、ただ酒と聞くまでもなく、店主に出させた甘酒を呷った。
「正月からふらふらしてるんだな」
「好きでやってるように見える?」
「見える」
 寒そうな巫女服だけの格好で甘酒をがっつく姿は、そうとしか見えなかった。無頓着なのか当て付けなのか知らないが、もう少し服装には気を遣ってもらいたいものだ。
 妖夢が身ごろに垂れ下がった襟巻きを背中に流したところで、霊夢が目を合わせた。
「あんたって目が悪かったっけ?」
「ただの伊達」
「それじゃ、好きでやってるわけね」
「そう見えるか」
 霊夢は顔をにやつかせる。妖夢は眼鏡を指で押し上げてから、再び川面に目を遣った。雪で増水した川は深そうで、色は濃い。この川も海に繋がっているのだろうか。
 考え込もうとした妖夢に構わず、霊夢は話し続ける。
「今日は幽々子はいないんだ?」
「会いたいならそうすれば良い。お喜びになられるだろうから」
「それがそうもいかないのよね」
 巫女が冥界に年始参りもないのだろう。詮の無いことを言ったものだと、妖夢は自嘲を浮かべる。すると、霊夢がわざとらしく音を立てて甘酒を啜った。
「……むかつくわ」
「何が?」
「あんたの笑い方が」
 難癖に付き合うつもりはない。自分も音を立てて甘酒を啜り、慧音が向かった方向に目を向けた。自然、件の問いが口を突く。
「あちらには」
 何があったか、と続けようとしたとき、霊夢の気配が消えた。代わりに風以外の流れが起こり、妖夢はゆっくりと隣に目を遣った。
「これからどちらへ?」
「幽々子の所」
 八雲紫が宙に穿ったスキマから顔を見せていた。別に霊夢を連れて行かれるのは構わなかったが、件の問いは誰かに聞いてもらいたかった。例え、答えてもらえずとも。
「あちらには何がありましたか」
「じきにわかるわ。そうしたら一緒に飲みましょう」
 店主が甘酒を注ぎ直しに来たときには、紫は消えていた。店主は辺りを見回してから、低く唸る。
「餅を焼いちまったんですが」
 海苔の臭いがする。餅に巻くためのものだろう。妖夢が仕方なしに頷くと、店主は苦笑いを見せてから、また奥に引っ込んだ。


 餅を食べ終えた頃、風が気にならなくなった。飲み食いで暖まったのかとも思ったが、風自体が止まっていた。
「昼下がりはいつもこうなのか」
 どんどんと下がっていく遠くの凧を店先で見守っていた店主が、妖夢に振り返る。彼は苦笑いをしかけて、表情を強張らせた。
「風が吹いたら桶屋が儲かると言いますでしょう?」
「止んでしまったじゃないか」
「また吹きますよ」
 店主は店の中に置いてあった火鉢を妖夢の足下に置き、餅と海苔の載った盆を長椅子に用意すると、景気付けに手を叩いた。
「すいませんが、私はちょいと空けさせてもらいます」
 その間、好きにやっていろということか。妖夢が火箸で炭を突くのを後目に、店主はそそくさと里中の方へ走り去った。
 店主の背中を見送るでもなく、妖夢は海苔を手に取った。餅を食べる気はしないが、何もしないでいるのは気が滅入る。火に当てられた海苔が、ぱりぱりという音を立てた。
 そろそろ戻って、書初めを片付けてしまおうかとも思う。しかし、肝心の内容が未だに決まってはおらず、どうせ出て来たからにはという考えもあり、海苔を炙るばかり。いささか焦げがきつくなりかけたところで、海苔を上げる。それをまんじりと見つめてから、妖夢は角に齧り付いた。
 紙も食えれば良いのになどと思ってはみるが、あまり面白い想像でもなかった。
 舌にへばり付いた海苔を気にしていると、眼鏡が曇る。橋が轟音を立てて崩れたのは、直後のことだった。
「お前も店主も、最初からそのつもりだったんだな」
 襟巻きの端で眼鏡を拭いながら、戻って来たらしい慧音に言う。慧音が妖夢を傘の下に入れると、水飛沫が辺りに降り注いだ。
「たまに出るんだよ。ああいうのが」
 慧音が傘を除けると、橋の様子がよく見えた。川上側の橋桁が折れたために傾き、そのまま崩れたようだった。原因は明白で、橋の下敷きになりながらも手足をばたつかせている生き物が、それだった。
「あれは……ナマズか?」
「頭がでかいのは確かだが、だいだらぼっちの類だろうな」
 七丈はある川幅すら狭く見える体、それ自体が頭らしかった。川が増水していなければ、気配を感じ取ることもできただろう。
 手足に見えたものは黒ずんでおり、もしかしたら髪の毛かもしれない。目は利かないようで、眼球も認められない。闇雲に飛沫を上げ、懸命に橋の残骸を乗り越えようとしている。
「どこに行こうとしているんだ?」
 言ってみてから、妖夢は愚問だと首を振った。置いたままにしてあった刀の内、一振りを手に取る。鞘に挿されたままの刀を慧音の前に遣すと、彼女が鞘を掴んだ。
「悪いな」
「相伴の礼ということにしておく」
 手際良く鞘と鍔にかかった紐を解き、刀身を引き抜く。構えを取ってから、襟巻きで口を覆った。
 暴れ狂っている手足のようなものを見切ったところで、妖夢は地面を蹴った。それから獲物が真っ二つになるまでが、どれだけ一瞬のことだったか。
 妖夢の体には、血や水の飛沫が全くかからず、返す刀で斬られた妖怪の端々が、残骸の間で痙攣していた。形を失ってから、体は雪崩を打って川面に消えていく。そして、真っ赤な筋が川下に向かって流れた。
 凄惨というには哀れに過ぎる。その哀れさに自分の影が重なり、妖夢は海苔が付いた舌を持て余した。
「あちらには何があったか」
 慧音から鞘を受け取り、刀を納める。
「川だけだ」
 鍔が鯉口に当たった音が、再び吹き始めた風に流されていった。


 妖夢は西行寺邸に帰ると、玄関ではなく自室沿いの縁側から中に入った。夕餉の支度をしなければならない時間だったが、座敷の方から漏れ聞こえる幾人かの笑い声から察するに、急ぐ必要は無さそうだった。
 曇った眼鏡を外し、妖夢は筆を取る。紙に筆先を置いた途端、墨が走った。どこにも無いものを文字に託し終えた妖夢は、大の字に寝そべる。
 今頃はどこにいるのか。机に置いた眼鏡を一瞥してから、妖夢は瞼を下ろす。
 紙には一文字、海とだけ書かれていた。