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長恨歌

   一

「いやー、引っ越し用の片付け、お疲れ様でした」
 神子が頭に巻いていた手拭いをはずすと、馬耳のような髪がこれでもかと跳ね上がる。
 いつもの石帯や飾りを外して、身軽な普段着でいるから、親しい場合を除けば髪型以外で判別し難いだろう。
「引っ越し先は仙界なんでしょう? いくらでも物が置けるのに、どうして片付けが必要だったんですか……」
 肉体労働は布都が最も嫌うところであった。そんなものは家来や奴婢にやらせていたし、今ならキョンシーにでもやらせれば良い。
 大体、片付けの内容がおかしい。
 神子と布都が眠っている間、屠自古と青娥が暇つぶしに読みまくった書物がほとんどで、その量たるや、あろうことか神子の廟にまで及んでいた。
「私も読みたいので、片付けのついでに目録を作りたかったんですよ。キョンシーにやらせたら、二度手間になるのが落ちというものです。手とかも色々落ちます」
「なるほど、読書のための目録ですか。漠然とは知識が頭に入り続けていましたけど、勉強に敵うものではありませんからね。しかし……」
 どうも書物の種類が偏っている気がする。史書の類はそれなりにあるのだが、観光雑誌の方が圧倒的に多い。次に多いのが料理に関するもので、その次が物語小説である。
「さっき片付けながら少しだけ目を通したんですが、この電車とかいう乗り物の中でやたらと人が殺される物語の形式は何なんでしょう?」
「屠自古のお気に入りだそうです」
 その屠自古は神子を手伝わず、別のことをしている。
 ……まあ、二人きりにしておくと無暗に割って入れない状況になりかねないので、それはそれで良かった。
 この間なんて神子の部屋に入ったら、後ろから屠自古が抱き着いているのに出くわしてしまった。艶っぽい感じではなくて、神子の馬耳っぽい髪にじゃれていただけ。しかも本人たちは布都を全く気にしなかったから、かえって布都には気まずかった。
「それにしてもびっくりしましたよ。目が覚めたらあの子がいるんですから」
「……すみません」
 別に責任を感じているわけではなかったが、原因と結果というものを客観的に見れば、一応は謝っておきたかった。
「謝る必要はありませんよ。累代の仏教の影響で霊魂の意義が曲げられてしまいましたが、霊が現世に留まるのはおかしなことではありません」
「いえ、そういうことではなくてですね……太子様は屠自古のことを、忘れたかったんじゃないかな、って……」
「ほう、布都もそういう気遣いをするんですね。明日は箭の雨でも降るんじゃないですか?」
「茶化さないでくださいよ」
 とはいえ、神子も心中について説明する気はないようである。気にしていないらしいことはわかったから、それで十分なのかもしれない。
 そう片付けはしたが、神子と屠自古という特殊な関係に対する興味は、布都の中では消えなかった。
「できましたよー」
 話がちょうど落ち着いたところで、話題の人物の声が聞こえた。
 神子らが目覚めてからじきに行われた話し合いで、料理は屠自古がすることに決まり、今も昼飯を作ってくれていた。

 ――早く行かないと、怒り狂いそうだ。

 布都は神子と暗黙の裡に頷き合い、声のした方へと向かった。


   二

 ズゾゾゾゾゾ、ズズゾゾ。ズゾゾゾゾゾゾゾゾ。
 黙々と神子らが卓袱台で食べているのは、蕎麦だった。正確に言うならもりそばであり、そのシンプルさが故に、野菜の天麩羅が嬉しい。
 半分ぐらいまで食べるだけ食べてから、布都は一度箸を止めて、温くなった緑茶を啜った。
「ふう……庶民の食べ物も美味しくなったもんですなあ」
「まっふぁくふぇふふぉんふぁふぃふぉいふぃいほもほはめへひははへんほふへのふうひゃふなんへなくなるほほへほう」
「食べてから答えても遅くないですから」
 きっと神子が医者だったら、食事を中断するどころか、食事をしながら救急患者を治療していることだろう。それでも成功しそうだから怖い。箸にしたって、使い方を覚えたのはつい先日である。
 この中では箸に一番不慣れなのは布都である。油断すると、すぐに箸先がバッテンを作って、使い手の不器用さを窘める。
「こんなに美味しい物を食べられるなら、権力への執着なんて無くなってしまうのでしょう、と言ったのです」
「わざわざ言い直していただき、ありがとうございます」
 考えようによっては、『屠自古の作った料理、美味しいですよ』というノロケなのかもしれない。
 が、屠自古の方はモッチャモッチャと蕎麦を咀嚼しているだけで、特にリアクションは無い。
 布都は、少しからかってみたくなった。
「しかし、この食卓はどうです。蕎麦がこれでもかと盛られた大皿。天麩羅、昨日の夕飯の残り物、漬かり過ぎで臭いがちょいとばかし強くなってしまった糠漬け、何か物足りない気がしたのか胡瓜の千切りまであって……それらが皿に盛られて大皿を囲んでいる様は、神事のときの平瓮を彷彿とさせるではありませんか。ああ、でも皿の数が少な過ぎるか」
「でしたら、布都様には今度から蕎麦粉で固めた御柱を出しましょう。ああ、そうそう、他の皿には何も乗せないのが本来ですよね。布都様は食事を削ってでも物部連の真髄を現代においても伝えようとされている。私は亡父に、布都様は立派であると報告しとうございます」
「――い、いやあ、見立てなんて適当でいいんですよ適当で! 神事なんて堅苦しいこと、食事のときぐらい忘れないとね! 料理が美味しければ良いんですよ! ねえ、太子様? いやあ、本当に美味しいなあ!」
 眠りから覚めたのに、食事の楽しみが無くなるのは拷問でしかない。寝ている方がましである。

 ――それに屠自古の父親である馬子の話は、あまりしたくない。

 神子はどの部分に呆れたのか、ふう、と溜息を吐いた。屠自古の負けん気の強さにか、布都の性状にか。
 そんなとき、どこから入ったのか、神子目当ての小神霊がふわふわと食卓に漂ってきた。
「さがれ下郎!」
 くわっ、と啖呵を切ったのは屠自古である。布都の顔に蕎麦の欠片が飛んできたが、気にしないことにする。折角、小神霊のおかげで、屠自古の怒りの矛先が変わってくれたのだから。
 パチンパチンと電流が迸る音まで聞こえたからには、小神霊たちは逃げ出すしかなかった。
「あの子たち、蕎麦が食べたいだけだったみたいですよ」
「余計に駄目です。そのようなことで神子の耳を煩わせるような下郎、相手にせずとも良いのです」
「そうやって区別していくと際限が無くなります。その内、彼らも姿を見せなくなるでしょう」
「では、せめて食事時は抜きにしてください」
「そうする」
 話が丸く収まった、と思えたとき、顔を出したのが青娥だった。
 小神霊が出ていったのと入れ違いになった彼女は、蕎麦を見付けると、当たり前のように食卓の席に加わった。
「そばつゆを持ってきます」
 と、屠自古が席を外す。
「うーん、見るからに美味しそう。屠自古様もすっかり料理名人になりましたね」
「そういえば、教えたのはあなたですって?」
 つゆが来るのを我慢できずに天麩羅を摘み食いした青娥に、布都が訊ねる。神子の耳毛が僅かに動いたようだった。
「基本的なことだけです。細かな味付けの段階になると、これはもう、教えようがありませんから」
「道術とそこら辺は一緒ですね」
「というより、料理はあらゆる要素を含んでいます。三皇五帝が皆、料理の達人だったとしても、私は驚きません」
 実際、三皇の一人とされる伏羲は料理を人に伝えたとされているし、そう突飛な話でもない。
「丹砂なども、もっと良いやり方があるのでしょうかね?」
 珍しく、神子が横から口を挟んだ。既に不老不死になった以上は丹砂の摂取は意味の無いことなのだが、自分の寿命を縮めた原因の一つだけに、神子も興味があるようだった。
「古くから知られている方法ではありますが、それだけに次元も低いのです。思い切って復活のための段取りを整えた豊聡耳様の判断は、賢明でしょう」
 それとなく話を変えたのは布都にもわかった。あえてそういう部分を説明しないことで、秘術を秘術として残すのである。それが理解できないものは体を壊して死ぬだけだ。
「現在も丹砂は用いられるようですが、外界の現代の食べ物だと面白い物が結構含まれていますよ」
「というと?」
「コエンザイムとかビフィズス菌とかコラーゲンとか――」
 聞いているだけで布都は頭が痛くなってきた。
 青娥が二つ目の天麩羅に手を伸ばしかけたとき、屠自古が戻ってきた。
「何の話ですか?」
「外の世界の食べ物の話です」
「それならこの間、緑色の巫女が置いていった菓子が面白かったですね」
 いつの間にそんなやり取りがあったのか知らないが、屠自古は食卓のある部屋の戸棚から、それの入った袋を取り出した。
「このハッピーターンといわれる菓子の表面に付いた粉は摩訶不思議で、神子もきっと気に入るでしょう」
「遠まわしに貶された気がするけど、一ついただきましょう」
「はい、どうぞ」
 神子以外の者にも一つずつ配られ、小袋を破き、小判上の菓子に齧りつく。
 袋から出したときには既に独特の香りがしていたが、噛み砕いた瞬間、口と鼻の中に風味が充満した。
「ほう、これは良いですね」
「唾に味が色移りするような感じがします」
「包みや形こそ目新しいですが、食べた瞬間に顔が綻ぶ、古式ゆかしい菓子といえます」
「太子様、意外と菓子に五月蠅いですからねえ」
「ええ、妹子君に隋へ行ったついでに菓子も調べてくるよう言ったら、調理法をこれでもかと持ってきてくれましたからねえ。向こうの天子の返書がどこにいったかわからなくなるぐらいでした」
「そんな理由で無くなってたんですか!?」
「ははは、冗談ですよ、冗談。そんなに調理法があったら、一枚ぐらい残ってますよ。渡来人に作らせたことはありますがね。秦君が家で作ったものを持ってきてくれたりもしたなあ」
 それに頷くかのごとく、屠自古も嬉しそうにハッピーターンを食べている。
「こういう米菓子も良いですが、京菓子なども食べてみたいですね。夢うつつで見る御供え物が、実に美味しそうでした」
「機会があれば、菓子職人の一人でも連れてきましょう。太子様のためとなれば、嫌とは言いますまい」
「お願いしますよ。屠自古も喜んでくれるでしょう」
 ぽろっと言った具合だが、当人は特に反応をしなかった。食べ終えたハッピーターンの包紙を、名残惜しそうに、綺麗に丸めている。
 さて、ごほん、と咳払いをしたのは、青娥である。いつの間にか蕎麦を食べるだけ食べたようで、卓袱台の皿に盛られていた蕎麦の山が、ほとんど崩されていた。
「片付けも終わりさえすれば、引っ越しはすぐにでも出来ます。必要なこととして、これからのことについて豊聡耳様に決断を仰ぎたいと存じます」
「そんなものは千年以上前からお決めになられているではないか。そのご決意が役立つ世になったからこそ、こうして眠りから覚めているのだ」
「あなたには聞いてません」
 にべもなく言われたところで、怯むような布都ではない。ただ恐れるのは、神子の前で醜態を見せること。
 やがて神子が口を開いた。
「しばらくは民の反応を見るべきでしょう。二つあるという神社だけでなく、今は上にある命蓮寺とも誼を通じておくのが肝要です」
「よろしいのですか?」
 少し、布都の声の温度は上がっていた。
「さきほど君が言ったように、私の決意は変わりません。それどころか、今の世に廃仏を唱えて正当性を得られるのは、私だけといって良いでしょう。しかし、民が仏教的な価値観に沿って生きてきた事実も、動かし難いものです。先程漁ってみたところ、私を仙人とみなす書物は一応、ずっと残っていたようです。にも関わらず、私は復活できませんでした。それはあくまでも、仙人に仮託することで、仏教の主催者としての私を想起したからでしょう。仙人としての私を望んだわけではないのです。それほどに、仏教に対する輿望があったのです」
 目録だけを作っていたわけではないようである。それにしても、あの短時間で?

 ――もしや太子様は、書物からも欲を読み取られるのだろうか。

 想像としてはあまりに飛躍していたが、布都は感嘆を隠せなかった。危うく話の続きを聞き逃しそうになって、改めて神子の顔を見つめた。
「我々は、この幻想郷という場所についても、詳しいわけではないのです。まずはそれらを頭だけでなく生活として味わった上で、行動すべきでしょう。最初から寺社と争っても、かえって付け込まれるだけです。押されれば引き、引かれれば押す。それが私の考えです」
 そうした神子の考えは、行動に移すタイミングを誤ることが無い自信が無ければ成り立たない。そうした点を考慮せず放言をするような人物ではない以上、布都が異論を挟む余地は無かった。
 思想面ではともかく、政治的な考えについては屠自古も理解しているようだ。蘇我一族の中でも傑物といって良い、嶋大臣……蘇我馬子が、重要人物の神子に寄越した女(むすめ)である。腹の据わり方は凡夫とは比べ物にならない。
 刀自古を屠自古というように、生前と文字を変えているのも、一族の一員として誇りを持って生きていた往時の自分を避諱してのことだろう。屠という文字自体にも、邪を祓う意味が込められているのは明白である。

 ――気高い女だな。

 それだけの女ならいくらでもいるが、理論によって裏付けられる者はそういない。
 布都は、そんな自分の推察について瑕疵が無い自信がある。彼女を最も正当に評価しているのは布都なのかもしれない。
 彼女の復活を下手に許さないでいるのも、高く買っているが故だ。対等な立場になってしまえば、折角の良好な関係が崩れてしまう。もっとも、本人はそんなことを言っても、鼻で笑うだろうが。
 一同の中で沈思から先に抜け出したのは、青娥だった。彼女も彼女で、周囲から活発さが失われないように努めている節がある。
 それが道術に必要だからしているだけだ、という考え方もできなくはない。
 しかし、頭に留めておくべきなのは、彼女は千年以上も大祀廟を護ってきたことだ。邪仙がどうだのという程度のことだけで語り切れるような、薄っぺらい人物ではない。根底には情の豊かさがある。
 彼女を信用した神子は、それを十分にわかっているだろう。
「誼を通じる、というお話はわかりましたが、具体的にどなたがそれをなさるのですか?」
「それはやはり――」
 布都が名乗りを上げようとしたところで、神子が先んじた。
「私がやりましょう」
「豊聡耳様が?」
 訊き返したのは青娥で、布都は取り残された形になってしまった。
 それを拾う形で、神子が答えた。
「私が行くのが、相手にとっても納得のいく方法でしょう。場合によっては皆に行ってもらう場合もあるでしょうけどね」
 そこで目を合わせられた布都は、こくこくと頷いた。
「それで、神子の話はこれで終わりでしょうか?」
「ああ、すみません。食事の片付けが出来ませんでしたね」
 屠自古に謝った神子は、自分で手早く食器類を重ねると、洗い場の方に歩いていった。
「――って、太子様がやらなくても!」
「まあまあ」
 布都は宥めたのは青娥で、その横を屠自古がふよふよと漂って、神子の後に付いていった。
 二人の姿が完全に見えなくなってから、青娥は布都に耳打ちした。
「気配を隠す術をお教えしますから、盗み聞きと洒落込もうじゃありませんか」
「……私はあなたのそういう所が嫌いだが、好きでもある」
「これはどうも」
 二人で口元を隠して静かに笑う様は、悪巧みの図そのものだった。


   三

「こうして自分で洗い物をするのは、久しぶりですねえ」
「前はいつ?」
「嶋大臣と外で食事をしたときですね。といっても、盃を洗っただけなのですが。大臣もそのときは私のために柿を取ってくれたりしました」
「ああ、私も取ってもらった覚えがあります……それがまた渋くて」
「あっ、それ私のときもですよ。あれ絶対に、わかってて楽しんでましたよね、大臣は」
 神子が水桶に浸けた食器の汚れを手で落とすと、それを屠自子が手拭いで拭く。
 洗い場といってもキッチンシンクがあるわけではないので、低い椅子に腰かけて、地面に置いた桶で洗っている。
 それを壁と一体化して眺めているのが、青娥と布都だ。
『あの二人は睦まじいだけでなく、郤氏の夫婦のような所がありますね』
『またすぐに古い話を持ち出す……渡来人というのは、まったく』
『あなたも今では動いているだけで埃が出るんですから、気にしないでください。儒者の古典狂いに比べたら、私なんて優しい方ですよ』
『ふん……』
 儒者というと、布都には神子の教師の一人を務めた覚?(カクカ。ガッカとも。『カ』の字は環境依存文字。『加』の下に『可』)が思い当たる。この人物は長安へ逃れてきたペルシア人だったともいわれ、布都からすると、青娥以上に謎が多い。
 郤夫妻は覚?や青娥よりも古い時代の人で、貧しい身になってもお互いに対する礼を欠かさなかったという。後に夫の郤缺が出世したことから、青娥はそこまで考えて引き合いに出したのだろう。
 とはいえ、神子と屠自古の二人は青娥が今付け加えた部分よりも、素直に睦まじさの方を賞したくなる。
 馬子は布都のことを最大限尊重してくれたにも関わらず、神子と屠自古のような睦まじさは持ち得なかった。
 所詮、布都が馬子を計画に利用しただけだからか? それは少し、物を単純に言い過ぎている。
 伝統と武力の権化である兄を見て育った布都にとっては、馬子のような人物は当代きっての開明的な人物であり、添い遂げたいと思える相手だった。その機会が自分に巡ってきたとき、彼女はためらわなかった。
 しかし、兄は婚姻によって衝突を回避する方法を考えられるだけの知恵を持っていたが、一族を率いる人物は、畢竟、やるかやられるかの決断をしなければならない。

 ――兄は時が来れば、私諸共に、馬子様を殺す。

 神子からの提案に乗ったのは、危機から脱する光を、そこに見出したからだ。
 同じ道教を信奉しながらも、神子に言われるまで考え付かなかったことを、布都は恥じた。
 蘇我氏の戦力を温存しつつ、あえて物部氏に焼き討ちなどをさせたのも、布都だ。
 守屋の剛毅さは、生半可な犠牲が出たぐらいでは損なわれない。それならば一旦勢いに乗らせた上で一挙に劣勢へ追い込めば、少なくない一族諸共に自滅の道を選ぶ。それが誇り高き最期だと信じて。
 個人の性質も利用した計略を聞かされた馬子は、頷きつつもこう訊ねた。
「お前が今言ったこと自体が私を陥れるものでないという証は、どうやって立てるのだ?」
 当然の疑問だろう。布都はしばし思案した上で、答えた。
「私は、子を産める体ではないのです。それを知った上で、兄は貴方様に、私を――」
 最後まで言おうとしたとき、布都の腕を馬子が掴んだ。
「許せ。お前の財を守屋が不当に押さえていることを言うものだと私は考えて、お前を試したのだ。まさか、そのようなことをお前の口から言わせてしまうとは」
「全てご存知だった……?」
「それぐらいの備えは常にしてある。悪く思うな」
「滅相も、ございません」
「ならば、その今にも死にそうな顔は、何なのだ?」
 はっとして自身の強張った顔を手でなぞるが、わからない。
 しかしその手に熱いものが触れたとき、布都の表面を覆っていた氷は、剥がれ落ちてしまった。
 顔を伏せながら肩を震わせ、言葉を繰っていた。
「私は、馬子様の子が、欲しい」
「……お前には子以上のものを与えよう」
 それが布都にとっての、真の契りの言葉となった。
 神子から与えられた光で馬子を照らしてみれば、彼は布都に微笑んでくれたのだった。

 兄が死に、政争が落ち着いてからは、神子と共に道術を学び続けたが、その間、馬子は一度も布都を怪しむような言動を示さず、時折、邸の池を眺めようと誘うばかりだった。
「そこに映るお前は、いつまでも若々しい。私ももう、六十を過ぎた。お前は子を成せないことで自分を羞じたが、お前ほどの器量の者から子が生まれていれば、蝦夷と争っておったかもしれん。全て、仏の導きだろうか」
「そういったお考えを抱くことのできる馬子様こそ、仏に優りましょう」
「ははは……お前は昔から、愉しいことを言う」
 馬子はこの頃になると、決まり文句を口にするようになっていた。それは、自分というものについてだった。
「かつて父の稲目は仏を祀ることを許されたが、私もそれに倣った。倭国の政は、どうにも狭い。父にはそれが危ういと、わかったのだろう。この歳になると、父の考えがよくわかる。しかし、私は父には及ばぬだろう」 
「どうして及ばぬことがありましょう。馬子様は、稲目様以上に、仏の教えを広められたではありませんか」
 いつもはここで「そうかもな」といって笑ったものだが、このときは違っていた。
「いや……太子を見ていると、思うのだ。あれの生き方は広い。所詮、私は政の中にしか生きておらぬ。生きられぬ。だからこそ、仏を崇めることが出来たのだろうよ。あるいは、民草も、その想いは同じだろうか? 己が生に、留まるしかない身を哀れんでこそ、仏のことを考えるのではないか?」
「それは……」
 布都には答えられない。神子のことが絡んでいる以上、下手なことは言えないのである。民草の心を自分が理解しているとも、思えない。
 歴史的に見れば、蘇我馬子という人物は、多少ひいき目に見ても、権力欲の旺盛な人物である点は拭い難い。外戚の権威を守るためならば、邪魔者は容赦なく殺し尽くした。
 しかしそこにこそ、人間本来の哀れさがあり、仏教と結びつく要素があった。彼が父親や息子などと決定的に違う点は、そのために修羅となったことであり、徹し切ることができなかった蝦夷と入鹿は宗家の夢と共に滅んだ。ただし今上天皇にまで蘇我氏の血は残っている。
 今や一族の重荷を捨て去った布都だけが、馬子を哀れむことができたのかもしれない。馬子はそれに気付いていたのだろう。彼女が彼の想いに、答えることはできないことも。
 布都はただ、いつまでもこの時が続けばと、願うしかなかった。

 ところが、神子は眠りにつくことを決心してしまった。
『吾れ、久しくは濁世に遊ぶこと能はず』
 神子がいなくなれば、協力者を失った布都は、一人で磨滅するしかなくなる。そこで馬子に頼るような真似は出来ない。
 したく、ない。
 けれども、

 ――馬子様と、別れるのか。

 布都の絶望を、馬子は感じ取ってくれたのだろう。近頃は一族に対する責任を重く感じ、身を処したい。そう嘘の告白をした晩、馬子はずっと一緒にいてくれた。
 彼の優しさこそが、布都の身を斬った。
「馬子様も、共に参りましょう」
 そう言いたくなるのを、どれ程にこらえたことか。ただその体に、布都はしがみ続けるしかなかった。
 仮に真実を告白したとしても、何も変わらない。馬子ならば「太子をよろしく」とだけ言って、自分は政治に殉じる覚悟を示したに違いないのだから。神子の計画に全く気付いていなかったというのも、考え辛い。
 それでも言わなかったのは、自分の口から告白することで、馬子を情念の虜にするのを、恐れたのかもしれない。いざ眠りにつくことに恐怖を覚えなかったのも、未練の強さの裏返しだったのだろうか。

 ……諸々の想いを思い出そうとしても、もう忘れてしまった。最期の晩に、馬子と共に眺めた池の姿を、瞼の裏に留めるのみである。
 その池では、屠自古も遊んだことがある。
 すぐそこで、その屠自古が目を潤ませていた。


   ――*――*――*――*――*――*――*――*――*――*――

「どうかしましたか?」
「いえ、先程のお話について、少し……」
「聞きましょう」
 神子ならば皿洗いをしながらでも聞き逃さないだろうに、屠自古から手拭いをもらって、一度切り上げた。
「神子の考えがどのようなものであったにしろ、仏教が根付き、その風土と共に民が生きてきたのを、私はよく存じています。私は神子がその点を見誤るのではないかと、内心、心配していたのです」
 神子ならば水も留まらないほど滑らかに答えられただろうが、二拍ほども置いた。
 屠自古が、自らの言葉を噛み砕くのを待ったといえる。
 言うまで聞こえない、ということが、人にはままある。生来、聞くことに精通した神子は、言うことの重大さにも通じているのだった。
「教えの種類だけで人の心は分けられません。民の声を聞いていれば、そんなことはすぐにわかります。傍から眺め続けた歴史においても、それは明らかです。仏教が窮地に陥ったことなら大小問わず、末法の世に限らずとも、事例はいくらでもありました。しかし、結局、私を眠りから覚ましたのは、人間本来の知的欲求でした。この点だけを見ても、事が単純でないことは童子でもわかるでしょう」
 ――と言いたいところなのですが。
 神子が恥ずかしそうに鼻頭を掻くのを見て、屠自古が首を傾げる。
「漠然とはわかっていたのですが、はっきりと確信したのは、寝起きに君を見たからなんですよ」
「私、ですか?」
 不安そうな訊ね方に、神子はすぐに答えた。
「私は明確な目的があって眠りにつきましたが……君は自分の死後も、一族や、腹を痛めた子らの死をただ受け止め続けるしかなかったでしょう? そうした境遇というのは、むしろ仏教的ですらあります」
「たとえそうだったとしても、どうしてみようもありません」
 頑なな反応に、神子が言い方を少し変える。
「私は何も、君を責めているのではありません。私や布都のように寄る辺となる身体も無い中、存在し続けてきた君を見て……それでも昔と変わらない君を見て……私はそこに、民の情に通じる物を見たのです」
 冷静に聞けば、この神子の言葉はかなり際どいものである。
 彼の根本には「道教的な行いでも仏法でも、救い切れない人々」という像がある。そんな民を救済できるのは自分である。そう彼は考えて、準備を整え、長き眠りについた。
 その考えにあてはめた場合、「民の情」という温かなはずの物言いも、冷えたものになる。
 慎重に、問わねばならなかった。
「……私は、どこが変わっていないのでしょう?」
「こうして、一緒にいてくれることです」
 屠自古はこの一言によって、疑いを捨てた。
 民の情に通じる物を持った屠自古は、神子といることこそ、神子の本意に適う。
 救うべき対象である民のことを、一方では信じ切ることができない矛盾を、神子は人生の早い段階で持ってしまった。
 そんな存在にとって屠自古のような特別な相手は、必要だった。最初の妃を早く亡くしたことも、影響が無かったとはいえまい。
 つまり、神子は神子なりに、迂遠な言い方ではあったが、今も屠自古を求め続けていることを告白したのだった。
 神子にじっと見詰められていることに気付いて、屠自古は反射的に目を逸らしてしまった。しかし彼女は、神子の握っていた手拭いの端を、無意識の裡に、ぎゅっと掴んでいた。
 世の人は超人的な事柄で神子の存在を認識したが、屠自古にとっては、今こうして見詰められている二つの眼だけで、十分だった。

 ――その瞳に何か一言、添えたい。

 そう願ったとき、ある秘密を打ち明ける決心が付いた。
「神子の私に対する気持ちを、少し裏切るかもしれませんが……今言わねば、二度とは言えぬでしょう」
「聞きましょう」
 その台詞をいうときの神子は、決して杓子定規ではなく、それ以上に彼女が示せる誠意は無いのである。彼女が聞くだけで、それは救いになる。
 屠自古はそれをよく知っていた。知っていたが故に、救いに頼るようなことはしたくないという、彼女の気性が働いていたといえる。
「父が生前に『これだけは刀自古、お前によく言い聞かせておく』と、仰せになられたことがあるのです」
「私のことでしょうか?」
「いえ、それが、神子のことは不思議と、ああせよこうせよと、仰せになられたことはないのです。私が神子と同じ道を歩み、一族に背を向け始めても、何も言わなかったくらいなのです。万事にそつがなかった父のことですから、これも何かお考えがあってのことでしょう。とはいえ、今となっては知る由の無いことです」
 神子は頷きつつも、目を伏せた。
 馬子……いや、蘇我氏という亡霊が、頭の中に住み着いている。

 神子には、蘇我氏の血も流れている。父も母も、蘇我稲目の二人の娘の流れを汲んでいる。この二人の娘が共に欽明天皇と子を成しているため、神子の血はかなり濃い。血脈が天才の根拠となるとは限らないが、本人は意識せざるをえなかったに違いない。
 長らく仕えた推古天皇も、神子の父方の伯母に当たり、当然、蘇我氏の血縁である。
 なお、母方は悲惨で、穴穂部皇子は物部氏と接近したがために馬子に殺され、崇峻天皇も馬子の手の者に殺されている。
 どうしようもないぐらいの狭さで展開する政治権力によって、当時の倭国は成り立っていた。そこにおいては、仏教は政争に利用されるだけの存在でしかなかった。
 では、もし神子が殺意を覚える相手がいたとするなら、それは馬子だったろうか? そういう物の見方をする人物ではない。
 冠位十二階も十七条憲法も、仙人として濁世から逃れ復活するという奇想天外なアイディアすらもが、その狭さ、引いては血という呪縛から逃れようとする、神子の精神に基づいている。
 白蓮のいた朝護孫子寺の開基は神子とされているが、恐らく白蓮は、神子の偉大な点を重々承知しているだろう。封印という、長い思索の時間を持てた後は尚更ではないか。 
 仏教がここまで広く、深くなったのは、神子にとって計算違いだったかもしれないが、彼女の純粋さが無ければ、後進が続くことも有り得なかっただろう。
 彼女が真に褒め称えられるべきは、そうした精神性である。
 そんな彼女の裡に、屠自古もいる。今となっては、彼女だけが親族と呼べる相手である。
 たとえ、亡霊そのものだったとしても。

 神子は一先ず、余計な思考を捨てた。せめて今ぐらいは、自分と親しかった者達の影と、戯れても良い気がしたからだ。
 神子のぱちりと開いた瞼が、僅かに緩む。それだけでこの場の緊張は、完全に解けた。
 花弁が開く瞬間のたわみを、彷彿とさせる。
 そんな神子の様を見た屠自古は、感激に打ち震えた。
 こうした姿態を間近で見られる女は、過去と現在、未来において、自分以外には存在しないのだ、と。

「……父の話というのは、布都様のことでした。『彼女にはいつまでも健やかに過ごしてほしいが、男にはわからぬこともある、それで酷く傷付けてしまったこともあるから、どうかお前から気を付けてほしい。他に私は何もお前に頼まぬから、これだけは聞いてくれ』という具合のものでした」
「何だか、私と君を取り持ったときよりも気合いが入っているような」
 あえて軽めの口を利いて、神子は笑った。屠自古もそれに倣う。
「ふふふ、まあ、父も男だったということでしょう。そういえば神子は、どちらの気持ちもわかるのでしょうか?」
「あまり意地悪を言わないでください。君を傷付けたことは、幾度もあるでしょう?」
 先程も危うかった。そう言いたいのかもしれない。
 はにかんだかと思えば、それからすぐに真面目な顔をして、本題について訊ねた。
「では、噛み付くことはあるにせよ、布都の言うことを聞いているのも、そのためなのですか?」
「いえ、それは完全に布都様の勝手の所為です。ただ、私から彼女を恨むようなことは無いでしょうね。父の影響は否定しませんが、どうもあの方は、可愛い所があるので……」
「ああ、わかります。ええ、わかりますとも」
 深々と頷く神子を見て、屠自古は安堵していた。
 布都に対する気持ちの整理が、神子に聞いてもらったおかげで、出来たような気がした。
 そんなとき、ふと壁の様子に目が留まった


   ――壁――壁――壁――壁―布都――青娥―壁――壁――壁――壁――

『あれ? こっちに気付いた?』
 青娥には信じ難いことだった。この壁と同化する術は、得意なものの一つだ。
 たとえ神子でも相当に注意深くしなければ気付かないはずで、屠自古にそれができるはずなどないのである。
 ただ、もっと信じ難いことが隣で起こっていたので、青娥は肝が冷えた。
 ちょうど布都の顔の辺りから、涙が滂沱となっているではないか。
「み、神子。あの壁……」
 屠自古が、震える指先で神子に異変を教える。
 神子は初めて、壁の方に振り返った。
「壁? ――って、うわああああああ! 壁が泣いてる!!!!」
 知らない者が見れば壁の黒ずんだ部分から水が滴り落ちているわけで、心臓が止まっても不思議ではない。
『ちょっと! 何泣いてるんですか!!!』
『うぐ、うぅ……だってあなた、あんなの聞かされて泣くなって方が……えぐっ』
 馬子のことを思い出してすっかりナイーブになっていた布都に、今の会話は沁みに沁みた。が、青娥には与り知らぬことである。
『だからって泣き過ぎでしょ!?』
 青娥が取り乱した所為で、術に解れが生じてきたが、珍しく狼狽えている神子は気付かない。滴る涙の量は増える一方である。
「あわわわわ、さっき追い払った小神霊の仕業では……神霊現象とでも名付けましょうか」
 神霊のことを熟知しているだけに、予想外の出来事に相当驚いたようだ。妙なことを口走る。
 傍らにいる屠自古の目が、刃物のように鋭くなっている。神子のしょうもない駄洒落に怒ったわけではない。
 彼女は、既に気付いていた。術を見破ったというより、状況から推理したというのが正確である。
「神子、下がっていてください。今から壁ごと、『低俗霊』を祓ってしまいますから」
「あ、あまりやり過ぎないよう――」
 そうした言葉はほとんど聞かずに、屠自古はこれでもかと雷を壁にぶつけた。
 術の効いている場所とそうでない場所との境目が真っ先に砕け、焦げ落ち、ある程度の大きさの面積が二人分の人型にくりぬかれた形で、壁の向こう側に倒れた。布都の流した涙の痕跡など、どこにも無い。
 流石にここまでやると神子も状況を察したようで、青くなったと思ったら、すぐに真っ赤になった。赤を通り越して、紫色にも見える。

 ――わあ、太子様、お顔の色が冠位十二階ですよ。

 薄れゆく意識の中で、布都は精一杯の冗談を呟いたのだった。


   四

「まあ、そんなことだと思いましたよ」
 布都の釈明を聞いた青娥の言葉とは、そういうものだった。

 ――迷惑をかけてしまったからには、せめてちゃんと話しておこう。

 青娥の一言は、布都の謝罪の念に比べてあまりに軽く聞こえた。
 二人は今、月夜を狙って湖に舟を出している。心得があるのかどうかは定かではないが、青娥は釣糸を湖面に垂れていた。
 布都が不快に思ったのを察して、彼女は溜息を吐いた。
「何も、くだらない話だ、などと言うつもりはありませんよ。ただねえ……」
「はっきり言ってみたらどうだ」
「そんな虞美人や楊貴妃みたいな話を聞かされても、私のような者にはぴんとこないのですよ。その手の話は、惚れた腫れたすら、どこか力量を計るかのような所があって、苦手なのです。女すら男として扱ってるというか、ねえ?」
 言いたいことはわからなくもない。ましてや好みの問題とあれば、突いても喧嘩にしかならない。青娥と自分とでは、味わってきた人生の幅自体が違う、ということも布都にはわかっている。
 言わせたのはこちらの方だから、布都は別の気になったことについて訊ねた。
「虞美人はわかるが、楊貴妃とは誰か?」
「ああ……隋の後の、唐の時代の貴妃(皇后の次)ですよ。いわゆる傾国の美女の一人ですわね」
 それから青娥は、暗記している詩文を、諳んじ始めた。
 楊貴妃は時の皇帝・玄宗に気に入られたものの、反乱からの逃避行の最中、死を賜った。死後は蓬莱山で仙女となっていた彼女は、仙界にまで探しに来た皇帝の使者に、思い出の品を半分に割り、託した。
 名高き詩人、白居易の長恨歌とは、そういう内容である。
 楊貴妃の詩文ならば、謫仙人の異名を持つ李白が玄宗皇帝本人に直接奉じたものも有名だが、こちらは簡潔なものであり、長恨歌の方が布都に説明するには適当だろう。
「倭国の言葉では、なかなか上手く伝わらなかったかもしれませんが、本来はとても綺麗な詩なのです」
「ふむ……」
 布都はあまり、詩文には詳しくない。そうしたものが流行ったのは、自分が眠りに付いた後だったからだ。
「私から逆に訊ねたいのですが」
「うん?」
「布都様が屠自古様の父上からもらった、子以上のものとは、何でしょうか?」
「……あなたなら、もう察しが付いてるだろう?」
「さあ、どうでしょうね。何せ私、仙界にも行かなかったような、邪仙なもので」
 それっきり、青娥は黙ってしまった。

 ――正直に言ったものか、凝ったものか。

 どちらも気恥ずかしさでは変わらないのだが、言わなければ女が廃る……ような気がした。
 ああ、うん、ああ、と、水呑み鳥のように、上を見て、下を見て、上を見て、題を捻る。
 今宵の空には満月があって、元々、それを狙って舟を出した。ならば、それに合わせるべきだろう。
「やはり、あれかなあ」
 指差した先には、湖面に映る月があった。
 夜空ではなく湖面を差したのは、湖がある限り、夜空の月が欠けようとも、湖面を見れば満月を思い出せるからだった。
 布都は馬子に、無限の愛情を見た。少なくとも彼女にとっては、欠けることのないものだった。
「今ならあの湖に帛を浸して、着物にしてしまえる気がするよ」
 月明かりを布いた湖面は、それ自体が帛にも見える。青娥は顎に手をやって考え込んでから、布都に言葉に付け加えた。
「ご存知ではないと思いますが、月は遠くの人を想う際に、引き合いに出すものなのです。たとえ、それが遠い昔に別れた相手でも」
「……覚えておく」
 布都がそう呟いた途端、青娥が盛大に吹き出した。
「ブフゥーーーーー!」
 あまりのことに、布都は初め、湖の底にいる化け物でも鳴いたのかと思った。
 それが爆笑だと理解すると、血の気が昇った。
「ななななな、何を笑う!」
「いや、だってあなた……覚えておく、って……うふ、うふふふ、ぶはっ、今でも相手のことで未練たらたらなのがバレバレで、うへ、うへははは!」
 腹がよじれるとはこのことで、狭い舟の中で、腹を抱えてのた打ち回っている。
 釣竿は湖面に放り出され、舟が波を立て始めた。
「くそ、この! 家族を捨てるような奴はこれだから!」
「おやおや、人のことを言えるんですかねー」
「むぎぎ! こいつめ!」


 ぎゃあぎゃあと醜く争い始めた舟の二人を、遠くから眺めていたのは、神子と屠自古だった。
 いい加減、先日の無礼を許してやろうと思って佳日を選んだのだが、あの通りである。
「帰って、寝ましょうか?」
「ああ、それでしたら、青娥様が取ってある酒でも飲みながら……というのはいかがでしょう」
「うん」
 しばらくは酒を楽しんで暮らしてみるのも、良いかもしれない。
 湖面の月が波に遊ばれるのを見て、神子は屠自古の手を取った。