恋して太子様
春の昼
畑子らが歩く道を、豊聡耳神子も歩いていた。その先に宮廷があるわけでもなく、雪がすっかりと払われた幻想郷の景色が広がっている。
「いくら仙人様でも寒そうだから」と里の者からもらった外套を羽織って、道端の岩に腰掛ける。そろそろ今年も、この外套をしまう陽気になってきた。
この岩のある場所は風通しが良く、居ながらにして幻想郷を漂う声を聞くことができた。
仙界の道場からもできることだが、それでは信仰を得られない。巷に姿を見せぬ者が敬われることは無い。
本邦の仙人は不老不死になったきり、巷に姿を見せなくなってしまう。仙人への信仰心が篤い中国では仙人は巷間にこそ現れるものと相場が決まっている。仙人との距離感が明らかに違っている。
仏教徒の活躍と比べると本邦の仙人は怠惰である。それは朝廷による政治と仏教による救済という二つの巨大な山が早くに成立してしまったことに由来するが、それにしても仙人は自分のことを考え過ぎている。
もっとも、こんな文句を大真面目に考えられるのは神子がその仕組みの大本を作った張本人だからで、皮肉といえば皮肉である。
何は無くとも草の根の運動から始めなくてはならない。この時期は畑作が始まるから、町中よりも都合が良い。
神子のことを知らぬ者も少なくなったので、姿を見かければ気さくに声をかけてくる。
今日も今日とて、畑仕事の合間の何人かがやってきた。
内容はといえば、生まれる子供の名前をどうしようか迷っているだとか、山菜の調理の仕方だとか、鳥は何故飛ぶのかだとか、まあ、本当に千差万別だ。
頼みごとらしい頼みごとをする者はまずいない。そこが神子としては不満だが、欲望を読み取ることは簡単だ。
丈夫な子供に育って欲しいと読み取ればそれに向いた名前の付け方を教えてやり、姑が料理を教えてくれないのだとわかればちょっとした気遣いを諭してやり、空を飛びたいのならば風の心を知れば良い。
打てば響くように答える神子に感心しない者はいなかったが、今日に限って、聞き捨てならないことを言った者がいた。
「太子様は本当に立派な方だな。白蓮様の言う通りだな」
「うんだな」
神子の目が鋭い光を放ったが、素朴な者達にはわからない。神子は尖らぬように抑えて、詳しいことをたずねた。
「白蓮様というと命蓮寺の尼公様ですね。いったい、私のことを何と仰っていたのですか?」
「はあ、まあ、大したことじゃございませんよ。私らは外のことや昔のことに疎いんですが、白蓮様は何かと私らにお話を聞かせてくれましてな。特に冬なんてすることも無いもんですから、どこぞの家で念仏をあげていただくとなれば、その家に集まってお話を聞かせてもらうわけです」
そのときによく、聖徳法王……神子の逸話を面白げに語るのだという。なお、弟子の一輪の話は堅苦しいのばかりで評判はいまいちだそうな。
「私は偉い人なんて苦労知らずばかりだと思ってましたが、そうでもないんですなあ」
「いえ……私の苦労なぞ大したものでは」
口ではそう言ったが、内心は複雑だった。慕ってもらえるのは嬉しいが、彼らの聞いたのは仏教の体現者としての聖徳法王のことだ。そういう先入観はややもすると新たな布教活動の障害となる。
――もしや、それを狙ってのことか。
仏教的な価値観を広めると同時に、敵の動きを封じる……これは一石二鳥の妙策である。
神子の微妙な雰囲気の変化に、周囲の者は「きっと嫌なことを思い出させてしまったのだろう」と話し合って、頭を下げて解散した。
彼らが去り際に振り返ったときには、神子の姿は消え失せていた。
春の夜
白蓮は春になると、定期的に滝行を行っている。その情報を得た神子は、単身で白蓮に話をつけることにした。
神子の方が幻想郷では後進で、搦め手を使われては敵わない。しかしそれ以上に、政治的な色の濃過ぎる策を用いる白蓮のことを許せない気持ちが強かった。
見損なった。一言、そう言ってやりたいのである。
滝行の間は白蓮は弟子を近付けさせない。場所は人里からも妖怪の山からも離れた山間。滝の落差は十メートル程度とそう大きなものではないが、小さいからいけないというものでもない。
その滝で何も身に付けずに肌を曝す白蓮を、神子は術で気配を消した上で見張っていた。
――うーん、でかい。
滝の勢いで二つの小山がぷるんぷるん。あれは屠自子よりも大きいかしら……と、余計なことを考えている内に日が暮れはじめた。
身内には何も言わずに出てきたが、朝までだろうと見張るつもりだった。
その意気込みが報われて、じきに白蓮が滝行を終えた。白蓮が服を整え終えた瞬間、太子は狼のような素早さで飛びかかり、仰向けに組み伏せた。
「ほ、法王様?」
「その呼び名は止めなさい……!」
屈辱でしかない。白蓮は神子の勢いに圧倒されて、言葉を失った。
……かのように思われた。
白蓮が目を閉じて、こう呟いた。
「まさかこんな風に奪っていただけるなんて」
「……は?」
滅多に動揺しない神子が、間抜けな声を出した。
「わざわざ一人きりになるときを狙ってくれるだなんて、私、感動ですっ!」
「まちままま待ちなさい、何をおっしゃるうさぎさん」
「まあ、うさぎだなんて! さあ、食べなさって!」
「食べないよ!?」
今まで相手にしたことがないテンションに、神子は為す術が無かった。
――いや、何もしなくて良いのだ。
ようやく気付いて、神子は白蓮から離れた。すると物凄い腹筋の力で白蓮が跳ね起きて、神子の目の前に飛んできた
「うわああああ! ひぃいいいい!」
青娥に初めてキョンシーを見せてもらったとき以上にびびった。屠自古を嫁にしろと迫ってきた馬子並に怖かった。女同士じゃ難易度高過ぎるってウブだった私は断ったのに。
怖がってる間にも、白蓮は神子の手を握ってきた。
「ああ、どうして恐れるのです! 私、出家した頃より法王様をお慕い続けておりました。信貴山にいる間も法王様が何度も夢に現れたのです。あのときは楽しかったですね……! あなた様の黒い馬(意味深)にまたがって、桃源郷へ旅立って!」
「知らないから! それあなただけの夢だから! 夢は夢のままで!」
「そんな……」
白蓮の手から力が抜けたが、不思議なもので、かえって振りほどくことができなくなった。神子は神子だからこそ、白蓮をぞんざいに扱うことがなかった。
――間近でみると、やっぱりでかいなあ……。
酷いことを考えている神子に、白蓮は言った。
「そう、ですよね……法王様、いえ、神子さん。好き勝手に騒いだら、すっきりしました。今日の所は、失礼させていただきます」
「えっ、あ、そう?」
とりあえず、法王とは呼ばないでくれるらしい。言いたいことは色々あったが、藪蛇になりかねないので黙っていることにした。
白蓮が衣服を整え、去り際にこう言った。
「あの、次の満月の晩……もう一度だけ、ここでお会いできますか?」
「……わかりました」
春の企み
話の次第を説明をし終えるまでに、神子は数えきれないぐらいの雷を浴びるはめになった。
仙人の体のおかげですっかり慣れたが、常人であれば塵も残らないだろう。
しかし、言うべきことはちゃんと言うべきだ。
「屠自古、いい加減になさい。最後まで聞いても、私が不埒な真似をしたと思えるのですか」
「……」
「素直でよろしい。私はあなたのおっぱいも大好きなのですから」
余計な一言により、今度は手刀が神子の首に入った。この新鮮な角度の攻撃に意識と首の骨が一瞬外れたが、すぐに戻った。
一人で呑気に緑茶を飲んでいた布都が、ここでようやく口を開いた。
「太子様の貞操なぞ今更心配しませぬが、これはチャンスなのではありませぬか?」
「酷いことを言われた気がしますが、チャンスとはどういうことです?」
「聡明な太子様らしくもない。あの住職を手籠めにできれば、我々の布教活動の幅は一挙に広がるではありませんか。城を攻めるは下策、心を攻めるは上策というものです」
「むむむ」
まさかこんな所に来てまで、そんな謀略を使う機会が巡ってくるとは。
布都に言われるまで気付かなかった自分は、まだ寝ぼけていたのかもしれない。
だが、本当に幻想郷でそんなことをしていいのだろうか? 戻れない一線を越えてしまうのでは?
そんな戸惑いに答えたのは、屠自古だった。
彼女は神子の湯呑にお茶を足してやりながら、優しげに囁いた。
「私は、目的のためなら手段を選ばないお前が好きだな……」
「あ、はい」
こうして、未だに強大な蘇我家の力の前に方針は決定された。
春の終わり
――どうして私は、誘いを断らなかったのだろう。
見上げた満月に問うてみるが、答えは下りてこなかった。
滝壺を囲む森は影の中に沈み、夜風が水気を清めていた。鳥達の声に欲は無く、傍には伴侶がいるのかもしれない。
ふと、こう思った。長年に渡って眠り続けた自分には理解しえない孤独が、白蓮にはあるのかもしれない。そういう風に捉えたとき、初めて彼女の欲がわかったような気がした。
だから自分は断れなかったのかもしれない。彼女もまた、手を差し伸べるべき相手なのだ。
「すっきりしたところで、思う存分に揉んでくれましょうぞ……」
切り替えの早い御方である。
それを待っていたわけではあるまいが、白蓮が一人で森の影の中から現れた。
……いや、白蓮は一人ではなかった。小脇に人影を抱えていて、よくよく見てみると、それは天狗の文だった。何だかぐったりしている。
「白蓮、どういうことです? まさか私をはめたのですか?」
「とんでもない! 文さんにはご協力いただくために説得をしたので、こうなったのです」
どこをどうすれば説得の結果、死にそうな顔で小脇に抱えられるはめになるのだろう。
白蓮はぺしぺしと文のほっぺたを叩いて、気合いを入れた。
「ほら、文さん! お願いします」
「ああ、はい、はい……わかりました、わかりましたから……念仏を唱えながらの海老反り固めは、もう……」
「今晩のことを他言しなければ絶対にしません」
「良かった、本当に良かった……ああ……」
文の心の中には、もはや白蓮に解放されること以外の欲が残っていなかった。天狗みたいなのが心を磨り潰されるほどの時間、固め技を食らい続けていたのだった。
呆れている太子の手を、白蓮が取る。
「さ、太子様。ちーずです、ちーず」
「え? ちーず?」
「写真を撮るときの祝詞です。ほら、ちーず」
「え、あ、はい。ち、ちーずっ?」
――パシャッ。
フラッシュが焚かれて、睦まじく手と手を取った二人の姿がフィルムに残された。
更に二度、三度と構図を変えて撮影される。文はほとんど本能だけで動いているらしく、ここまでいくと尊敬の念を抱かざるを得ない。
そして白蓮が神子から離れて、文に微笑んだ。すると彼女は、にへらと笑って倒れた。
今晩のことは永遠の悪夢として、彼女を苦しめ続けるのではなかろうか。
白蓮は文をおんぶしてやると、神子に向かってぺこりと頭を下げた。
「我儘を聞いていただき、ありがとうございました。これで良い思い出とけじめができました」
「思い出はわかりますが、けじめとは?」
「はい。太子様のことを慕っていたあの頃の自分に対してです。これで私は、私なりの仏道に邁進できるでしょう」
「ふふ、では私は、敵に力を貸してしまったわけですか」
「私だって、人に見せたことの無い姿を太子様に見せたのですよ?」
滝行を見られていたことに気付いていたようだ。神子はやれやれと頭を掻いた。
「……じゃあ、また見せてもらえます?」
「……はい?」
「今日の私はあなたのおっぱいを触るって決めてきたんですよ!? このまま帰れだなんて殺生にも程がありますよ! 私だってけじめつけたいんです! 揉む、絶対揉む! その御山を揉んで新たな信貴山を開山しちゃいますからね!」
「ひっ!?」
白蓮の悲鳴に構わず、神子はにじり寄った。
――この昂ぶり、いつ以来だろう。体が燃えるようだ。
事実、神子の体は真っ赤に燃えた。滝壺に火が映り、周囲が明るくなった。巨大な火の玉と化した神子が悲鳴を上げた。
「もげげげげげげ!!!!!!」
「やれやれ、こうなるとは思っておったが、困ったもんじゃのう」
いつの間にか、滝壺には磐舟が浮かんでいた。その上に布都が腕組みをして立っていた。
「ふどーーーーーーーーーーーー!!!!」
神子は燃え上がりながら滝壺に突っ込む。難を逃れた白蓮が、何事かと布都に目を合わせた。
「ふっ、太子様をけしかけたものの、寂しそうにして帰りを待っておる困り者がおってな。お邪魔に来たんじゃよ」
何この布都ちゃん、格好良過ぎる。
そう思ったのは本人だけで、彼女の柔らかいほっぺたに白蓮の拳が炸裂した。
「私の太子様に何をするんですかぁああ!」
「ブッダーーーーーーーーーーー!?」
……この日、阿鼻叫喚の地獄絵図となった滝壺のことは後に噂となり、この滝は「血の池滝」と名付けられた。
その現場に信仰を集めているはずの重要人物が関わっていたことを知る者は、ついぞ名乗り出ることが無かった。
白蓮の書斎に飾られた写真立てだけが、美しいままの光景を留めていた。