箸休め

心残りが一つだけあるのです。――彼はそう云い、照れ臭そうに太い鼻先を掻いた。

そういったものが一つぐらいはあっても良いではありませんか。それも某かの思し召しでしょう。――そう答えてやると、彼は得るものがあったらしく、帯紐を締めて立ち上がり、部屋を辞した。

以来、妖忌の背中を見る機会は無かった。幽々子はそのときのことを少しだけ後悔している。あなたは何もかも一人で満足してどこかへ行ってしまうのですか。そういった想いがあったことが、今になってはよく自覚できるからだ。彼もそれを知っていたのかもしれない。そうでなければ、子供が言葉を間違えたようにして笑うことはできないはずだった。

「ほら、また」

目を閉じていても、幽々子には妖夢の所作がわかっていた。幽々子の一声に、同じ食卓に着いていた妖夢はびくりと手先を強張らせると、伸ばした箸を引っ込めてしまった。顔は伏せられ、膝の上に置いて重ねられた両の手に視線が落とされている。手には箸が握られていた。幽々子が妖夢の箸使いの拙さに気付いたのは、妖夢が妖忌に代わって庭を仕切るようになってからだった。

それは幽々子にとって信じ難いこととはいえ、思い返してみればそうでもない。妖夢は小さい頃から、師の食事を作り終えると賄いに一人で手を付けるという生活であった。今のように幽々子と共に食事を取るなど、妖忌がいた頃の妖夢には想像もつかない光景である。

躾が十全とならなかったのは、妖夢自身にも原因があった。何でも一人でならば気楽にやれると彼女は思い込んでいる節があったし、事実、そうなるように妖忌は教えていた。今にしてみても、青侍の身分では人に箸使いを見せる必要は無いに等しいのだからと、隙あらば一人で食事を済ませてしまおうとするのであった。

「そりゃ、上手い部分だけ人に見せられれば苦労はしないでしょうけど」

そう幽々子に嫌味を云われるのは好ましくなかったから、妖夢は耐えていた。自分の苦労はあくまでも西行寺家の庭、引いては幽々子のために為されるものであって、自分のためではない。握り締めた箸は、妖夢にはとても硬く感ぜられた。食卓の上では、ぐちゃぐちゃになった新じゃがの煮付が、小皿にみすぼらしく転がっていた。


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「それは君がおかしいね」
「おかしいですか」

妖夢から話を一頻り聞き終えた藍は、ぶっきらぼうに手を組んだ。彼女達がいる八雲家の勝手場は昼食の片付けが粗方終わった頃で、そこらには引っくり返された鍋や皿が水を落としている。

妖夢は勝手口の傍に座って、元々の用事である分けてもらった野菜を風呂敷で包んでい、そうしながら藍に近頃の悩みを話していたのであった。藍は土間から屋敷に上がる段に腰を下ろして、煙筒を口に咥えている。妖夢は煙草の匂いが好きになれないから、藍には気付かれないよう、少しだけ顔を背けた。それを藍は知ってか知らずか、煙を勢い良く吹いた。

「君の理屈は、主人のためになることは自分のためにもなるという考えと変わらないよ。それならば、自分のためになることが主人のためにもなるのだというのが、健全だろう」
「どう違うのでしょうか」
「傲慢という点では違いは無いな」

何がおかしいのか、藍は細い目を更に細め、口の端を吊り上げて笑った。自己の矜持と身の振り方に関しては、彼女がより苦労をしてきたのだ。また、だからこそ、苦労自慢などというのは彼女にとっては度し難いものの一つに数えられた。

「しかし、どれほど拙いのだろうね、君の箸使いは。そこらにある箸を試しに持ってみてくれないか」

妖夢は云われるまま、作業を止め、水に浸けてある箸を手に取った。それは箸を持つというよりは握るようであり、小さい手がわきわきと動く。なるほど、これまでよく気付かなかったものだ。藍が吹き出すと、いよいよ妖夢は腹を立てた。藍は眉を顰めた彼女を認めたが、笑いを堪えようとはしなかった。

「なんだい、そりゃ。猫の手でもそうはなるまいだろうに」

何故にこのようなことぐらいで馬鹿にされなければならないのか。妖夢には理解できない。藍は根拠無く人を貶めるようなことはしないと思ったからこそ、自分は彼女に気兼ね無く打ち明けたのだ。妖夢は一際強く風呂敷を締めると、頭も下げずに勝手口から出て行ってしまった。

「恥ってものがどういうものか、まだわからんらしいな」

藍は独り呟くと、煙草の火を落とした。主人が昼寝から起きる前に雑事を終わらせておかなければならない。陽が昇り切って、あまり間は空いていなかった。


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自分でも極端が過ぎるように思えた。それでも妖夢は傾げた首を元に戻すと、紅魔館の門を潜った。その傍では、徹夜明けで体力がほとんど残っていなかった門番が目を回していた。

「美鈴の断末魔がチャイムの代わりか」

咲夜は掃除を終えたばかりの玄関正面の廊下を進んでくる妖夢を見遣りながら、あの使い物にならない門番の役目を少しでも引き出そうと頭を捻った。しかし、結論は一つ。レミリアに門番を変えることを勧めることだ。チャイムにしても、風情が無さ過ぎるのである。

とりあえずは掃除を終えた箇所を荒らすのは得策ではないと考え、妖夢を茶室として使っている部屋に通した。レミリアがまだ寝ていることを妖夢に伝えたものの、彼女が気にした様子は無い。近くに来たから寄っただけだと妖夢は取り繕うと、二杯目の紅茶を飲む辺りで、ラズベリーパイを突いていたフォークを止めた。掃除を部下に任せた咲夜がそれを見咎める。

「ここまで食べておいて、口に合わなかったとか云わないわよね。それ、私が食べようと思っていた分なんですから」
「それは悪かった。――美味しくいただいているよ」
「それは良かった」

咲夜が軽口を終えてもなお、妖夢はフォークを止めたままで、手に持ったそれを見つめていた。咲夜は食器の手入れは他人に任せていたから、それが銀製品であること以外は何もわからなかった。それでも、今の妖夢のように、まじまじと見つめるほどの価値があるものでもないことはわかっていた。咲夜の視線を気にした妖夢が再びパイにフォークを付けると、ようやく場の緊張が解けたのだった。

「こういったものは、どこで仕入れているんだ?」
「パイの材料のことじゃないわよね」
「もちろん」

折角、時間を作って用意したものなのに。咲夜は残念そうに溜息を吐いたが、神妙な顔をしてフォークと咲夜を交互に見つめる妖夢に、あまり気を立てることは無かった。

「フォークなら、大体は人里のものよ。フォークだけじゃないわ。スプーン、ナイフ、カップ、ソーサー……人間が作れるものは人間のものを使っているの。それが何より効率的でしょう?」
「ああ、そうか。フォークだけじゃ食事ができないんだ」
「当たり前じゃないの」

子供でもわかりそうなものだ。咲夜は自分で呟こうとした言葉に笑いを堪えることができなかった。実年齢はともかく、妖夢はまだ子供じゃないか。妖夢も咲夜の笑いで彼女の云わんとしていることに気付いたのか、藍に笑われたときのように腹を立てた。

「気が変わったから、帰らせてもらう」
「私の気が変わらない内に帰ると良いわ」
「そうさせてもらう」

やはりバテレンの使うような物は、箸以上に、性に合わない。自分の背中を狙い続けている咲夜の手元のナイフの気配を感じ取りながら、妖夢はそそくさと館から出た。口元に付いたラズベリーを舐め取ると、少しだけ幸せな気がした。


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妖夢が寄り道を切り上げて西行寺家に戻ると、幽々子がところてんを肴にして居間の縁側で酒を飲んでいた。妖夢にはそのところてんに覚えが無かったから、風呂敷を部屋の隅に置いて、幽々子に訊ねた。

「紫がね、妖夢に渡しそびれたって云って、さっき持って来てくれたのよ」

それならば最初から全部持って来てくれれば良いのに。妖夢はその言葉を呑み込んだ。紫に挨拶もせずに八雲家を出た後ろめたさがあったからだ。もっとも、紫はもちろん、あの家に住んでいる者にそのような瑣事を気にする輩はいないのだが。

幽々子は困ったような顔をしたまま立ちんぼになってしまった妖夢に微笑むと、自分の横の床板を優しく叩いた。座れということだろう。妖夢はその通りにした。

「あちらを早く出たにしては、遅かったわよね」
「はあ、夏の野山というのは綺麗なもので」
「嘘を仰い。口元に菓子が付いていてよ」

まだ残っていたのか。妖夢が咄嗟に口元に手を遣ると、幽々子が再び笑った。元より、何も妖夢の顔には付いていないのだった。妖夢は咎めがあると思い、膝の上で揃えた拳を強く握った。しかし、幽々子はそれについては何も云わず、杯を呷った。

「ねぇ、妖夢。一人での食事というのは、なかなか寂しいものよ」
「そうでしょうか。食事などというものは、食べてしまえばそれで終わってしまいます。それだけのことではないですか」
「でも、一人ぼっちは終わらないわ」
「ですが――」

更に云おうとした口を、妖夢は押し留めた。自分は何をむきになっているのだろう。彼女は変に苛立って、綺麗に揃えられた髪が生えた頭を掻いた。

「健やかに時を過ごす。そのための作法、そのための食事よ」
「私は健やかではないのでしょうか」
「そうやって腐っている内は、そうでしょうね」

妖夢にとって、幽々子は厳しい。師としての妖忌とは別の意味でだ。それは彼女が常に憐れみを持っているからなのかもしれない。それは妖夢に対してであり、誰に対してでもあり、そして自分自身に対してでもそうである。

「だから、ね?」

幽々子が妖夢の手を優しげに取って、自分の持っていた箸を持たせた。ぎこちなくではあったが、動かさなければサマにはなっているようだった。

苦労して口に入れたところてんは、妖夢にはとても酸っぱく感ぜられた。