紅茶革命

今にして思えば、咲夜がいなかったことがここまで事態をややこしくしたのだ。パチュリーはそう述懐している。単体でも辛くない女になる発言の後に『一ヶ月でどこまで伝説を作れるかin幻想郷。秘湯に揺らぐ黒白の影、安地に隠された弾幕トリックの謎……泥酔した神主の発言が血の涙を降らせた!』などというものに息巻いて出かけたのが、かれこれ三週間も前の出来事である。

咲夜がいなくなったことで、レミリアはフランドールを地下室から引き上げさせた。ただでさえ手間のかかる地下室でのフランドールの世話であるから、それならば良い機会なので傍に置き、フランドールを見守ろうというレミリアの考えであった。パチュリーも空気の悪い地下室へ出向く家庭教師役を務めるのは難儀であったから、さして疑問にも思わず、レミリアの考えに賛同した。

フランドールは最初こそ地下室から出られたことの喜びの余りに悪戯という名の弾幕によるメイドいびりを行ったが、じきにレミリアと一緒に生活できることが何より嬉しく思えるようになったらしかった。

太陽が沈んだ頃に起きればレミリアはフランドールの着替えを手伝い、一般よりもかなり遅い時間の朝食の際にはフランドールの拙いテーブルマナーを嗜めつつも笑い合う。そして、今日はどこに散歩しようか、どんな具合の紅茶が飲みたいか、そんなことを話し合う。

パチュリーは小悪魔や他の司書、それに一般のメイドから、図書館の外で行われている仲睦まじい姉妹のやり取りを聞き、自分は邪魔だろうからとレミリアに顔を見せることを控えるようにしていた。

それだから、三週間目にフランドールが癇癪を起こして、レミリアに紅茶をぶっかけたと聞いたときには、パチュリーは我が耳を疑ったのだった。


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パチュリーが咲夜の代わりにとレミリアの自室を訪れたとき、彼女は酷く落ち込んでいた。いや、へたれていた。レミリアはベッドの下に腰を着け、なにやらぶつぶつと独り言を繰りながら某と某の運命を繋ぎ合わせるという迷惑極まりないことを手作業でしていた。力の無い表情は笑っているのか悲しんでいるのか判然とせず、いつもきりりとしている目付きは尻が垂れ下がり、にへらにへらと口を動かす。

「フラン……フラン……フラフラ、ランラン……フ、フ、フ、ふふははは」

へたレミリア。

パチュリーは頭に浮かんだ単語を慌てて頭から振り払うと、レミリアの横に腰を落とした。レミリアはまだ手作業を続けている。

「大丈夫?」
「パチェは変な事を訊くわね」

途端、レミリアの目にいつもの光が戻った。ああ、なんだ、からかっていただけか。パチュリーはほっと胸を撫で下ろしたが、その間にもレミリアの表情は崩れていき、彼女は堪え切れずに叫んだ。

「大丈夫なわけないじゃない!」
「大丈夫じゃないのね!?」
「そうよ、大丈夫じゃないのよ!」
「いーやっほう!」
「……パチェは気楽で良いわね」

強引に励まそうとしたが、見事に失敗した。それにしても実にむかつく返し方である。こっちは片手を天に突き出してまでテンションを上げたのに、その哀れむような目はなんだ。持っていた大判の本でレミリアの脳天を三度ほど叩いてしまったではないか。しかしパチュリーは謝らない。そう、今のは因果応報という法則に乗っ取った当然の行為なのである。むしろまだ足りないぐらいだ。ああ、いっそ殺すぐらいの覚悟が必要だ。

パチュリーの目に篭った明らかな殺意を感じたのか、レミリアは痛む頭を押さえながら事の次第を語り始めた。気を逸らさなければ命の危機である。

レミリアによると、フランドールと紅茶を飲んでいたときに突然に紅茶をぶっかけたのだという。しかし、そんなことはパチュリーにもわかっているのである。彼女は再び本を構える。レミリアは必死に記憶をまさぐり、自分の頭に四度目の災難が訪れる前になんとかヒントになりそうなフランドールの発言を思い出したのだった。

「お姉様は私に構い過ぎる、って昨日に云ってたわ」
「あの妹様にしてはご立派な発言じゃないの」
「そう、あのフランが……あんなに可愛かったフランが……う、うう、ううううう、ぐがああああああ!」
「ぬがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「くけー!」
「くわー!」

人間には解し難い奇声を出しながらの爪と本の応酬が始まる。その戦いは凄まじく、双方に生傷やどす黒い痣がいくつも出来た。パチュリーが喘息の発作で苦しみ始めなければ、危うく血みどろの殺し合いに発展していたところである。彼女らは問題を解決する気が本当にあるのだろうか。

「まぁ、妹様も複雑なお年頃だもの。そういうこともあるんじゃないかしら」
「パチェには妹がいないからそんなことを云えるのよ」
「紅魔館の主がそんなことじゃ困るわ。私も安心して研究ができないじゃないの」
「パチェは私と研究のどっちが大切なのよ!」
「比べられないわ! でもあえて比べるなら、研究かな!」
「あー、やっぱりー?」
「うん、やっぱりー!」
「あははははははははははは」
「うふふふふふふふふふふふ」

誰かこいつらを地下室に閉じ込めてくれ。二人が話の落とし所を心得るまで、何度か危険なシーンを挟む必要があった。夜から始まった相談であったが、外が朝を迎えるまで続いたのだった。


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「それで、結局はどうなったんだ?」

そう問うのは朝になってから図書館へ手ごろな資料を物色しに訪れた魔理沙である。生傷を顔につけたまま、「だりーねみーきつーかったるー」とうわ言のように繰り返すパチュリーを見た魔理沙は色々と自分の付き合いを見直す必要性を感じなくもなかったが、後生だからと小悪魔に引き止められたからには、さっさと退散するわけにもいかなかった。小悪魔も苦労しているらしい。

苦労といえば、毎夜のように霧雨邸へ温泉に入りに寄る咲夜もそうである。修行の旅だのなんだのと云っていたが、ここで入浴許可をけちっては色々とやかましいので、夕食の用意という条件を付けて温泉に入らせ、自分は覗き見している次第である。ああ、苦労しているのは私の所為か。魔理沙は他人事のように思った。

「どっちにも時間が必要だから気分転換に遊びにでも行きなさいって云ったわよ」

パチュリーの答えに魔理沙は納得すると、それじゃ霊夢の所にでも行ったかなと考えた。しかしだ。魔理沙は自分の帽子を手に持って眺める。それはぐっしょりと濡れていた。

「外は雨だぜ」
「知ってるわよ」

こいつもなかなかやるもんだ。魔理沙は雨が上がるまでは帰れそうに無いことに頭を悩ませる。外では雷さえ鳴っていて、門の傍では魔理沙にやられた美鈴が転がっていた。


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「馬鹿じゃないの?」

ずぶ濡れになりながらも意地と根性とパチュリーへの復讐を誓うことでなんとか博麗神社までたどり着いたレミリアに、雨よりも冷たい霊夢の言葉が突き刺さる。ああ、きっと杭を刺されるってこんな感じなのね。レミリアは力の無い笑みを浮かべた。実際、力なんてどこにも残っていなかった。

さすがに云い過ぎたと思ったのか後々の報復を恐れたのか、霊夢はレミリアを社に上げると、濡れてしまった彼女の服を脱がせ、体を拭いてやった。顕わになった背中では張りの無い翼が垂れていて、それを最後に拭いてから暖かいお茶を入れてやると、ようやくレミリアの顔に表情が戻ったのだった。途端にレミリアは泣き出して、これまでのことを霊夢に語った。

「やっぱり馬鹿よ、大馬鹿。救いようがないわ。処置の仕様が無いわ。死ぬべきよ。良い自殺名所を知ってるから、案内しようか」

話を聞き終えた霊夢の容赦の無い言葉がレミリアを次々と貫く。お母様、世間はレミリアが思っている以上に辛い場所でございました。霊夢はこの状況を楽しんだ上で性質の悪い冗談を云っているに違いなかったが、レミリアは精神的にショックを受けたために床に横になってぐったりとしてしまって、そのまま眠ってしまった。

「うん、こういうときは眠るべきよ」

起きたら特別に食事をご馳走するわ。寝息を立てるレミリアに膝枕をしてあげながら、霊夢が呟く。レミリアは何度か苦しそうに体を捩る。膝枕では体に悪いだろう。霊夢は膝を片方ずつ慎重にレミリアの頭から引き抜くと、空いた空間に自分が腰掛けていた座布団を挟んだ。

そうして、霊夢が布団の準備をしようと立ち上がったとき、レミリアが唸った。

「フラン……」
「あらあら」

雨はじきに上がりそうだ。霊夢は蝉が鳴き始める様を思い浮かべる。騒がしいのには慣れっこだった。


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「邪魔するぜ」

泣きながら地下室に篭ってしまったというメイドの話を頼りに、魔理沙はフランドールに会いに来た。彼女はベッドの上で枕に顔を埋めていて、どうやら寝ている様子だった。

魔理沙は後頭部を掻きながらどうしたものかと部屋を見渡した。初夏だというのにひんやりとした室内には掃除の跡が無く、咲夜が修行に出てからは一度も手が入れられていないことがわかった。まぁ、自分の家よりはマシか。そんなことを思っていると、ベッドの下に布らしきものを見つけたのだった。

魔理沙はフランドールを起こさないよう、そっとベッドに近寄ると、腰を落としてベッドの下へと手を伸ばした。出てきたのは、布ではなく服だった。それも一着ではない。十着程がずるずると引っ張る度に鮮やかな色を見せた。どれもフランドールのために用意したものらしいことは、色合い等からわかった。

「それ、お姉様がくれたの」
「なんだ、起きてたのか」

魔理沙は服の塊を抱えたままベッドに腰掛ける。フランドールは横になりながらじっと魔理沙の背中を見、何をしているのかと訊いた。魔理沙の手は忙しなく動いていて、フランドールからはよく見えなかったのだった。

「服を畳んでいるのさ」
「いいよ、もう着ないんだから」
「勿体無いだろ」
「いいってば」

ふうん。魔理沙は素っ気無く云うと、また服を畳み始めた。慣れない手付きではあったが、手の平で撫でるようにしてシワを伸ばし、最後にぽんぽんと叩いてから隣に置く。彼女は鼻歌を歌いながら、それを繰り返す。フランドールは体を起こした。

「いいって云ってるじゃない」
「もう着ないんだろ? なら私が持ってくよ」
「……どうするの?」
「まさか私が着るわけにはいかないからな。知り合いの店にでも売るさ」

ふうん。今度はフランドールが素っ気無く云う。そうして、しばらくは沈黙だけが漂ったのだが、突然、フランドールは魔理沙の畳んだ服を手で払ったのだった。畳んだ服は床に落ち、またぼろきれのように散らばった。

「何をするんだよ」
「畳まなくていいよ」
「畳まなくちゃ持って帰れないだろ。それで困るのはお前じゃないか」
「困らないもん」
「困るぜ?」
「困らないってば! 困らせてるのは魔理沙じゃないのさ!」

興奮して今にも飛びかかりそうなフランドールに対し、魔理沙は冷静だった。いや、冷たささえ感じられた。目は細められ、いつも不敵に笑う口元も閉じられている。フランドールが居た堪れなくなって魔理沙に声をかけようとしたとき、彼女が先手を取った。

「それじゃ、他所で畳むよ。邪魔したな」

魔理沙はベッドから立ち上がると服をかき集め、よいしょと持ち上げた。持ち難くいし視界も利かないが、持てないわけでもなかった。すたすたと出入り口の扉へと歩いていく魔理沙に業を煮やしたフランドールは、魔理沙の前に立ちはだかって、再び手を払った。

魔理沙は服を拾おうとはせず、ただそれを見下ろす。言葉の出ないフランドールは、それに倣うしかなかった。

「なんとも思わないのか?」
「な、なにが?」
「これを見て何も感じないのかって訊いてるんだよ」

そう云って、魔理沙は散らばった服の一着を踏みにじった。彼女は土足だったから、服にはシワだけでなく、土の汚れも着いた。フランドールは何も云わない。ただ、涙を浮かべるだけだった。

「ほら、これも、これも」

魔理沙は足を止めない。一着、二着と楽しそうに踏む。しかし、彼女が本当に楽しそうな笑顔を浮かべたのは、彼女をフランドールが突き飛ばして、汚れてしまった服を抱き締めたときだった。

「今度は本当に帰るぜ」

何事も無かったかのように立ち上がった魔理沙は、去り際に「家族は大事にな」と云い残した。悪役は辞めたはずなんだけどなぁ。後頭部を掻きながら、手紙でも書こうかと思い始めていた。


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「それで、結局どうなったの?」

そう問うのは魔理沙に夕食を用意した咲夜である。あれから五日が経ち、咲夜が魔理沙の宅に来るのも今日が最後だった。魔理沙は美味そうに食事にがっつきながら、これまでのことを説明した。これまで一度も咲夜にその話をしなかったのは、彼女に心配をかけないようにという配慮からだった。

「パチュリーの話じゃ、翌日になって霊夢に連れられてレミリアが帰ってきたとき、フランが泣きながら抱きついたらしい」
「……良かった」

咲夜本人は聞こえないように呟いたつもりだろうが、魔理沙にはちゃんと聞こえていた。彼女はわざと音を立ててスープを飲み始めた。

「帰ったら、あいつの服を洗ってやってくれよ。そんなに強く踏んでないから、生地は大丈夫だろうしさ」
「あなたの食事を作るよりはやり甲斐がありそうだわ」
「ああ、そうだろうな」

魔理沙は一通り皿を空にすると、ご馳走様と云ってから咲夜に紅茶を頼んだ。じきにその紅茶がテーブルに出される。魔理沙がそれを飲み始めると、咲夜も自分の分に手を伸ばした。

「つまるところ、お前さんの入れる紅茶があの館には必要だってことだな」
「上手く締めようとしなくて良いわよ」
「まったく。こういうのは霊夢の役目だな」
「でも、そうとも云い切れないかもね」

魔理沙は首を傾げる。そして咲夜はナイフを取り出すと、こう呟いた。それは先ほどよりもはっきりと魔理沙の耳に残る言葉であった。

「私の入浴を覗くのは楽しかったかしら」

修行の成果は上々であったらしい。魔理沙の絶叫が、平和な幻想郷の夜に響いた。