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おひつに一杯、幸せを

八雲紫はある瞬間を待ち続けていた。今こうして存在しているのも、全てはそのためと云って良い。彼女ほどの妖怪が自身の能力を使わず、ただ待ち続ける……その異常さを理解できる者は、決して少なくはないだろう。

梅雨も明けて久しい中、締め切った障子から入る陽射しが部屋を這いずっている。その陽射しの頭が届かぬ暗闇で、紫は背筋を伸ばし、服の襟から伸びた細い首を扇いでいた。その様はまるで陽射しを誘っているようでもある。

そうして、陽射しがようやく首に噛み付こうとした頃、それまで閉じられていた紫の目が開いた。

時が満ちたのである。


******


橙は待っていた。崇敬する藍には、座して待つことの大事さを教わる日々である。それを覚えることは、元が猫である橙にとっては後々に至るまで有用であろうという、藍の考えがそこにはあった。橙もその点はよく理解している。

しかし。橙は思わずにはいられない。藍の帰りが遅すぎるのである。あの藍にあって、可愛い式を待たせるということは先ずありえない。橙は今にも駆け出し、主人の背中を追いかけたくなっていた。

それでも。橙が立ち上がろうとする度、藍の教えが重石となって彼女をその場に留まらせる。

橙が三度目に立ち上がろうと膝に力を込めたとき、迷い家が震えた。


******


迷い家の一室は修羅場と化していた。天井に仕掛けてあった金だらいが、一を見て十を知るには充分である。それが頭に直撃し、大童となった藍を、紫は愉快そうに相手にしていた。

「今日という今日は勘弁なりませぬぅ!」

スキマから頭を出しては引っ込めるを繰り返す紫に対し、彼女を捕まえようと藍はがばちょがばちょと腕を交差させるが、その度に紫に逃げられる。それを繰り返すこと既に二十、急に頭を出さなくなった紫に、藍は動きを止めた。

待つことの大事さ。それは橙だけに通じるわけではない。藍は尻尾の先をふわりと宙に預け、己を空間の流れに任せた。

刹那、尻尾の一つが流れを完全に捉えた。スキマが開くか開かないか、その僅かな隙を突き、藍が突撃する。

「わはははは! 紫様、召し捕ったりぃぃい――いいいいいいっ!?」

紫の頭が出ると思われたスキマはみるみると広がり、藍をその中に落とし込んだ。

「藍様、遅ーい!」
「先に食べてるわよ。藍もいい歳なんだから、一人遊びは夜になさいな」

スキマ経由で頭から居間に落ちた藍を出迎えたのは、紫と橙であった。藍の首は少々いけない方向に曲がっていたが、彼女は無言で席に着くと、用意しておいた昼食に手を合わせる。既に七割方は食べ尽くされていた。

「はい、橙、梅干あげるわよぉ」
「わーい」

紫は上座から身を乗り出して橙に嫌いな物をあげている。普段の藍であれば、行儀が悪い、梅干ぐらい食べてください、そんな言葉の数々が飛び出すところであるが、首が曲がった状態では、自分の分の食事を喉に通すだけで一苦労であった。

涙をおかずにしている藍を尻目に、紫と橙は箸を進めていく。主菜は大皿から消え、藍が楽しみにしていた、モロヘイヤと細く切り揃えた油揚げの味噌炒めは、紫の腹に収まった。

紫は橙の世話にも飽きると、手を後ろにつけて、足を伸ばす。片手で扇子を口元に当て、小さいゲップをかます様は、食事に招かれた者が見れば殴りかかってもおかしくないほどに礼を失していた。

「藍、もっと精のつきそうなものは無いの?」

その一言で、それまであらゆることを我慢していた藍も、自分の茶碗を置くに至った。

お、やるってんならやってやろうじゃないのさ。そんな眼差しを藍に向ける紫であったが、藍は疲れた風に溜息を吐くと、そのまま食器を片付け始めた。

「ちょっと、ねぇ、藍ってば」

紫のちょっかいに藍は応えず、お盆に食器を一通り載せ終えると、そのまま勝手場へと去っていった。それまで梅干を口に含んで酸味の後に残る甘味を楽しんでいた橙も、思わず紫に目を合わせる。

「紫様ぁ……いくらなんでも藍様が可哀想ですよ」
「まだ半人前のくせに、云うじゃないの。藍のことは私がよくわかってるんですから、あなたはそこらへんの虫や鳥とでも遊んでなさいな」
「わかりました、そうさせていただきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい」

二つに分かれた尻尾を怒りも顕に立たせ、橙が居間を出て行く。紫はそれを見送ると、どさりと背中を畳に着けた。

呆けた頭で天井の染みを眺めていると、勝手場から食器を水を張った桶で洗う音が聞こえてくる。ふと、紫の頭に、茶碗を片付けているときの藍の手が思い返される。その手は、随分と荒れてしまっていた。

橙のことにしても、彼女が遊びたい盛りであることを我慢して、毎朝毎夕、迷い家周辺に異常が無いか見回ってくれていることを、紫は知らないわけではなかった。

長く生きると、余計なことばかり考えてしまう。藍を式にしたのも、そういった余計な思索から自分を解放するためにしたことだ。実際、それは上手くいった、はずだった。煩わしいことは全て藍に任せて、気の向くままに寝て、起きて、スキマを漁り、結界を弄る。そんな日々が続く中で、藍はしっかりやっているだろうかと考えるようになった。それが余計なことでなくて、なんだろうか。

一人きりだった頃の方が、誰の事も考えなくて済んでいた。気楽だった。しかし、幸せだったろうか。

幸せ。人間が何かにつけて口にするその言葉が、紫は嫌いだった。自分こそは幸せになりたい、幸せでいて当たり前。そんな傲慢さが、人と人とに限らず、人と妖怪、人と世界の境界すら侵食したのだ。全体の幸せを実現できない人間が、幸せを語って何になろう。

冥界の友人のように、ただ己の内に幸せを見出すことこそが本懐に違いないのだ。紫はずっとそう思っていた。

その思い込みに亀裂を走らせたのは、あの博麗の巫女だ。冥界の奥で桜を愛でていただけの友人が倒されたとき、彼女は確かに笑っていた。よく笑うようになった。己と他人の境界を確かに守っていた友人は、その境界を侵されてもなお、いや、それまで以上に、幸せな顔をするようになった。

だからこそ、戯れに、満月の晩に巫女と行動を共にした。あのときに伴った藍は、とても嬉しそうに主人を手伝っていたように、紫には思い返された。

紫はごろんと寝返る。そうすると勝手場が居間からもよく見えた。かちゃかちゃという音がたつ度に、藍の尻尾が力無く揺れていた。

しばらくして、藍が紫のために茶を用意したときには、居間から主人の姿は消えていた。藍は余分に切ってしまった芋羊羹を口に放り込むと、主人にも食べさせたかったと思うのだった。


******


伊吹萃香は瓢箪から酒をらっぱに飲みながら、川岸に転がった大きな岩の上で寝転がっていた。ようやく梅雨が明けて、空気が軽くなってから、彼女は毎日のように、彼女が云うところの『疎』の状態で幻想郷を漂っていたのだが、幻想郷に流れる幾つかの急流の川の一本で、面白いものを見かけた。

最初こそ、戯れにでも水と遊んでいるのだろうと思っていたのだが、どうも様子がおかしい。あの妖怪が萃香の気配に気づかないわけがなかったから、彼女はこうして、岩の上から何事か見物しているのだった。それはもう、一時間も前からのことだ。

「いないんじゃないのぉ?」

云うだけ無駄か。毒づく萃香の視線の先には、スカートの端を結んで足を露わにし、袖をまくって水の中を探っている、紫の姿があった。そうはしてみても、長い事水の中にいれば、濡れないわけにはいかず、彼女の服の端々は苔で汚れていた。彼女は、鰻を獲ろうとしているのだった。

「大体、あれって針で一本釣りにしたり、網で獲ったりするものでしょう? それにあんたなら、スキマでも使えば良いじゃないのさ」
「黙って見ていられないなら、どこかに行ってもらえるかしら」

上り鰻や下り鰻ならともかく、川に居ついた鰻の居場所を探すのは、名人にでも難しい。場所がわからないのでは、スキマを使っても意味が無い。川の生態系自体を壊すことも仕方の無いことと割り切れば鰻を捕らえることも可能だが、紫にはそうできない事情があった。

「この川、橙のお気に入りなのよ」
「あんたがそんなこと気にするような妖怪だとは知らなかった」
「私も」

一般のイメージとして、今に紫がしているように手づかみで獲るというものがあるが、それは漁場を荒らすだけの行為でしかない。時間をかければかけるほど、もがけばもがくほど、釣果はあがらないのである。しかし、そこまで気が回るほど、紫は気の利く性質ではなかった。その所為で、本日三度目の岩への予期せぬ頭突きをかましているわけだが、返事が返ってくるわけもない岩に対する叱咤もそこそこに、紫は水中に目を向け直す。

自然に立ち向かう方法は唯一つ。根気である。

先ほどから、ちらちらと鰻の姿らしき影は見えている。しかし、ずいと腕を突っ込むと、その度に逃げられてしまっていた。慣れない作業に流石に疲れてきた紫は動く量を減らしていたのだが、そこで気づくことがあった。

「なんなら私がこの岩を砕こうか。そうしたら――」

衝撃で気絶した鰻が浮かんでくる。冗談混じりの萃香の案を、紫は手で制した。

「ちょっと、黙っててもらえるかしら」

珍しく怒気の篭った声音に、萃香は喉を詰まらせる。

影を追うのではなく、待つ。スカートの結び目がほどけ、裾が川に着くが、それすらも気にしない。前屈みになった体勢で、五分、十分と水中に沈めた手の先を見つめ続ける。

陽射しが暑い。首筋には玉の汗が浮かび、背中の服が忌々しげに張り付く。水に濡れた綺麗な金色の髪は垂れ、違った妖怪にも見えた。

ああ、そうだ。藍に最初に教えたのは、待つことだったっけ。

紫が呆けた頭でそんなことを考えていると、手先に鰻が滑り込んだ。

萃香は豪快にあがった水しぶきに目を丸くした。あのスキマ妖怪ともあろう者が、水の中でじたばたと鰻と格闘しているのであるから、それも致し方の無いことである。

「気持ち悪いー、ぬるぬるするー!」

そりゃそうだろう。そんなことも知らずに、鰻を獲っていたのだろうか。ああ、そうに違いない。萃香は一人で納得すると、紫と鰻の死闘を見守る。かなりの大物だ。どうやら、この川はよほど人が近づかないらしく、その鰻は太く、黒々とし、焼いたときのことを考えるとそれだけで涎が垂れそうである。

そしてついに、紫の指が、鰻の首を捉えた。

「あっ!」

それでもなお暴れる鰻に気を取られて、紫が水中の石に蹴躓く。再び、大きく水しぶきがあがった。

「あーあ」

萃香は水の中で跪いている哀れな漁師を慰めようとしたが、それは杞憂に終わる。振り向いた紫の顔は、勝ち誇ったそれであった。紫の様子に萃香が訝しがる間も無く、彼女の首筋にぬらりとした感触が走った。

「うひゃあっ!」

萃香の服の中で、スキマから這い出た鰻が暴れ回る。紫は咄嗟に鰻をスキマに放り込むことに成功していたのであった。

「ひゃうぅん! いやぁ、ちょっ、ねぇ、取ってぇー!」

嬌声と笑い声が、川のせせらぎと共に泳いでいた。


******


全身水浸しになって帰ってきた主人に、藍は肝を冷やした。主人をこんな目に合わせるような輩がいるなんて。彼女はそう考えたわけだが、手渡された、紫がいつも着けているシルク製の長手袋の中で暴れている鰻を見て、得心した。傍から見ると気味が悪いにも程がある動く長手袋から鰻を桶に移し、大急ぎで風呂を沸かすと、縁側で濡れたまま佇んでいた主人に頭を垂れた。

「紫様がこれほどにああいったものを召し上がりになりたかったと気づけなかった私の不徳、どうぞ断じになってくださいませ」
「何を馬鹿なことを云ってるの。あなたのために獲って来たんだから、頭を下げるんじゃなくて、素直にありがとうって云いなさいな」
「し、しかし……」

云い淀んでいる藍を放って置いて、紫は風呂場に向かった。廊下を濡らしてしまったが、あれだけ苦労したのだから良いだろう、と勝手に見切りをつけ、替えの服をスキマから取り出してから、浴室に入った。

小さな格子窓から外を見遣ると、空にはもう朱が注していた。こんな時間に風呂に入るのは初めてだったが、暖かい湯に反して頬を撫でる夕方の空気が、とても心地好く感ぜられた。

体を洗っていると、随分と傷がついていることに気づく。どうせ自分のことだから、また気づかない内に治ってしまうのだろう。そうは思っても、やはり自慢の肌に傷がついたのは、どうにも落ち込んでしまう。

「迷惑だったかしらね……」

主人である自分が藍のためにと何かをすれば、それは藍にとっては心安らかなことではないのかもしれない。そう思って再び傷を見ると、何故か涙が零れてきた。

どうして、あの子を従者にしてしまったのだろう。道具として扱え切れないのであれば、式としてではなく、化け狐のままにしておけば良かったのだ。傍に置こうとしたから、あの子は自分の式になってしまった。そんなジレンマに今更に気づくなんて。紫の慟哭は、藍が食事の用意が出来たことを告げに来るまで続いた。

「もうできたの?」

涙で腫れた瞼を見せないよう、振り返らずに藍に応える。彼女は、急ぎましたから、といつもの淡々とした口調で返した。きっとまた、仏頂面でもしているのだろう。紫は急に不機嫌になって、藍に云った。

「寒いから、早く閉めてもらえるかしら」
「かしこまりました」

藍が浴室の扉を閉めるとき、紫は溜息を吐いた。そのとき、藍はこう云った。

「ありがとうございました」

それは闊達な藍にしては消え入りそうな声音だったが、紫にはたしかに聞こえた。ぴしゃんという扉を閉める音が、浴室に響く。

紫はもう一度だけ風呂に浸かった。漂う湯気を見て、萃香はどうしただろうかと考える余裕が、紫には戻っていた。


******


頭にタオルを巻いたまま居間に入ると、既に藍と橙は席についていて、上座の紫の席にも、膳が整えられていた。

「紫様にはこれが良いだろうと思いまして」

藍が指し示した場所には、鰻のひつまぶしがその名の通り、お櫃に詰まっていた。紫は藍の用意した熱燗を一杯やってから、彼女の持ってくれたひつまぶしに手を付ける。藍はもちろんだが、橙すらも、自分の分には手を付けず、じっと紫を見守っていた。

「美味しいわ」

素っ気無い言葉であったが、藍にあっては充分であった。藍が橙に食べるよう促すと、ずっと我慢していたのだろう、がつがつとやりはじめる。橙は鰻を食べたことが無かったせいか、しきりに首を傾げたが、とても嬉しそうに食べていた。

「ところで、なんでひつまぶしなのかしら」

二杯目、わさびと三つ葉を乗せたものをかきこんでから、紫が呟く。藍は基本的に、味よりも匂いを珍重するきらいがあったから、蒲焼にでもするものだと紫は思っていたのだ。

「紫様が獲って来た鰻ですから、やはりこれだろう、と」
「どういうこと?」

三杯目を茶漬けに仕立てるために、藍が紫の茶碗に茶を注ぎながら、応えた。

「これが本当の、ひまつぶしってやつです」
「云うわねぇ。洒落自体はつまらないけど」
「なっ、失敬な! これでも結構、悩んだんですよ! なぁ、橙も面白かったろう?」
「ふぇ?」

一人、食うのに忙しかった橙が、茶碗を口から離した。口元には御飯粒がついていて、それに紫が笑うと、藍は困ったような顔をしながら、橙の御飯粒を取ってやった。

「熱燗、もういっぽーん」
「はい、ただいま」

人が迷い込む、ここ迷い家。それはきっと、幸せな空気が流れているからかもしれない。



なお、食後に梅干を盗み食いした橙が腹を壊したのは、翌日になってのことだった。