報酬
埃っぽい室内では、ホワイトボードすらかげって見えた。肩を隣の者に当てながら席に座っている者達は配られた資料に目を落としていたが、吊られたランプは光源にしては心許無く、『第○回、紅魔館慰安遠足』という題字を読んだだけで目線を席の前に移していた。
広い紅魔館の中にあって、よりにもよってこんな所に集められるだけの人員を集めた張本人である咲夜は、咳払いを済ませてから喋り始めた。
出だしは順調であった。なんだかんだでレミリア公認の大規模なイベントは滅多に無いし、咲夜以外は全て妖怪とはいえ、女所帯だ。年長組は普段発揮できないような知識と経験を若年の者達に教える良い機会だと考えているし、その若年組はどうやって年長組の目を掻い潜って秘密の楽しみを実行に移すかの算段をしている。
誰もが、咲夜の説明を聞き流していた。咲夜も咲夜で、ときに微笑み、ときに苦笑いをしながら決められた手順で説明をしていく。そして最後に、すっかりペンで黒くなったホワイトボードを咲夜が叩いた。
突然のことに何があったかと後列の者が慌てたりもしたが、じきにそれも収まり、静寂だけが残る。咲夜は何事も無かったかのように話を続けた。
「遠足では、幻想郷っぽいものは全て禁止します」
その言葉にぴんとくる者は少なく、そんなことをわざわざする必要があるのかといった声がどこからか起こった。
「今回の遠足は幻想郷に住んでいる者が如何に非常識かを実感し、その中にあってお嬢様ただ一人が揺るぎ無い威厳の持ち主であることを再認識するのが目的なのです」
「じゃあ、空を飛ぶのも――」
「当然、駄目です。そもそも飛んだら遠足じゃありません」
「弾幕ごっこ――」
「一切の示威行為を禁じます。お嬢様さえそこにいれば、皆が避けて通ります」
ファッ○ン! 狂ってやがるぜ! 諸所で下品な物言いが飛び交う。そんな中にあっては、発言力を有している者に自然と皆の視線が集まる。その人……レミリアは毅然と立ち上がった。
「不夜城レッ――」
「そんな言葉はありません」
真っ青な顔をして椅子に崩れ落ちる主人を見ても、咲夜は冷静だった。
メイド長は本気だ。誰もが回避しえない現実を目の当たりにしていた。
若年のメイド達の絶望を他所に、今回の企画をメイド長に任せたのはどこの馬鹿者だと年長組は不満たらたらであったが、傍にいたパチュリーが『レミィよ』と告げると、途端に黙った。なお、パチュリーは持病による病欠が認められており、その代わりに紅魔館の主だったメイド達が留守の間は図書館詰めの者達と門番が留守を守らなければならない。
皆が自棄になって好き勝手なことを叫び始めたとき、咲夜が鶴の一声を放つ。
「静粛に! これは紅魔館、いえ、レミリアお嬢様の威厳が如何に素晴らしいものであるかを我々の心に残すためには必要なことなのです。誰かこれに反対するような者があれば、不敬罪を適用することも厭いませんよ」
そこまで言われては年長組も言い返そうなどとは思わない。紅魔館で勤めるようになった経緯は各々バラバラではあったが、誇り高い妖怪が主人を仰ぐ立場に自身を置き続けられるのは、その主人が誰あろうレミリアだからこそ。
若年組も負けてはいない。人間である十六夜咲夜がメイド長になれたのも、レミリアに対する忠誠心と貢献度を認められたからだと彼女達は考えている。この無茶苦茶な企画を上手く利用できれば、自分の立場を強くすることもできるはずだ。
妙なテンションで盛り上がり始めた者達の中で、肝心のレミリアだけが不夜城レッドを否定されたショックから未だ立ち直れずにいた。
******
遠足当日は快晴であった。これは吸血鬼であるレミリアのことを考えると喜ばしくはないのだが、冬季特有の曇天が長く続いた後では、快晴を喜ぶ者達が多かった。
さて、一時は参加しないと駄々をこねたレミリアだったが、自分のために咲夜と他のメイド達が何かと準備をする様を見て、機嫌を直していた。
ロンググローブやタイツには糸が細く、白いものが幾つか選ばれた。メイドの中には日光量からD値を算出する係の者までおり、それ程にレミリアの身体に対する日光の影響は常日頃から心配される事柄であった。
そこから更にレミリアの気分に従ってメイド達がコーディネイトするのだが、予想された通り、御付としての役目に就く咲夜が玄関で大きめの日傘にレミリアを招き入れるまでにはかなりの時間がかかってしまった。
玄関前では百人近いメイドがレミリアの登場に合わせて一斉に頭を下げた。服装は普段通りのメイド服であり、これはあくまでも紅魔館の一員であることを忘れないためという、咲夜の考えからだった。
レミリアが隣で日傘を持っている咲夜に目配せをすると、咲夜は礼の終わりを皆に促した。
「では、遠足の始まりです。各自、お嬢様の威厳を損なうことの無いように」
そう注意してから、咲夜が回れ右の号令をかける。しかし、彼女らの眼前に広がっているのは湖ばかりだ。
これは仕方無いだろう。最前列のメイド数人が地面から浮いた瞬間、後頭部にダーツが突き刺さった。
「飛ぶなと言ったでしょう!」
「んな無茶な!」
予期せぬ痛みに転げ回る同僚を他の同僚が抱き起こしながら、メイド長に叫ぶ。矢の部分こそゴムのため、致命傷になる危険性は無いが、なんせ後頭部に対して垂直に当たるために衝撃が逃げない。妖怪でも痛いものは痛いのだ。
「お嬢様の威厳の前では湖も避けるということを知りなさい。あなた達はお嬢様を信頼していないから、安易に飛ぼうなどと試みるのよ」
言いたいことはわからなくもないが。――年長組の者が苦笑いをしていると、なんと本当に湖が避けた。具体的には、湖が割れて幅十メートル程の湖底が露出した。
「ねぇ、咲夜……あれって」
「さあ皆の者、いざ出発! 五分しかもたないわよ!」
レミリアの疑問を咲夜の鬨の声がかき消し、どうにでもなれ、うちらは道があればそれで良いとメイド達が駆け出す。その距離、実に三キロメートル。転倒したら後が無いことは全員が知っている。荒れ放題の湖底で躓く者があれば強引にでも腕を引っ張って救い出し、後列の者は身長の五倍はありそうな水の壁がいつ倒れてくるか知れない恐怖を味わった。
皆が渡り終えた先には、咲夜が待っていた。咲夜はレミリアをおんぶし、時間を停止した上で、先に渡り切っていたのだ。
「メイド長、それってアリなんですか!」
「あなたはお嬢様が水に濡れても良いと言うの?」
「ううっ……」
釈然としないまでも、下手に食い下がるとダーツが後頭部か眉間に負け犬フラッグを立てること請け合いである。肩を落として同僚の輪に戻ったメイド(以下マツ)の肩を叩く者がいた。それはマツからしてみれば先輩に当たるメイドであった(以下トメ)。トメがマツの耳に口を寄せて言う。
「これはハナっから出来レースなのよ」
「そ、そんなぁ」
「馬鹿!」
パアンと平手が炸裂する。何だ何だと興味深そうに眺める者は少なく、大多数が呼吸を整えるのに精一杯であった。一部では、若年組のあまりの不甲斐なさに呆れている者までおり、遠足はその開始から文字通りの波乱だった。
「この不遇を耐え抜いて初めて私達は一人前のメイドとして認められるのよ!」
「トメ先輩、私が間違ってました!」
「名前で呼ぶなぁ!」
パアン(以下ループ)。
のっけから脱落者二名を出すという、前代未聞の遠足はまだ続く。
空を飛べず、弾幕ごっこすら出来ず、果てはスペルカードを繰り出すこともできない。
そんな遠足に何の意味があろうか。
そもそも幻想郷である必要があろうか。
東方二次創作の意義とは。
誰の心にもそんな疑問が浮かんでいることだろう。しかし、しかしだ、ここで目を逸らしてはいけない。我々が目を逸らしたら、誰が彼女らを見守れば良いというのか。
可憐なメイド服に身を包んだ少女達がいる。――と思っていただきたい。
我々にはそれだけで十分なはずだ。
そんなメイド達は、沼があれば主人のための土台になれと言われ、服を泥に塗らした。
猛獣が襲い掛かってくれば『お嬢様の慈愛を示せ』と言われ、噛み傷や引っ掻き傷を無数に負いながら手懐けた。
立派な山があれば頂上にスカーレット印の旗を立てて来るよう背中を押され、谷底に綺麗な川があれば水を汲んで来いと小さなコップを渡された。
理不尽な苦難も然ることながら、行く先々で他の妖怪達に嗤われることが何より辛かった。
「帰るまでが遠足です」
涙ながらに帰宅の申し出をしたメイドに、咲夜はただ一言、そう告げた。折り返し地点を過ぎてなお八十名も残っていたが、立場がどうとか考えられる余裕は全く無くなっていた。
「やり過ぎじゃないかしら?」
「何を仰います!」
ズタボロになっている部下達を気遣うレミリアに、咲夜が返す。
「これも全てお嬢様のためなのです! お嬢様は彼女らの血肉の上でこそ輝くのですよ!」
「そ、そう?」
「そうです! そうでなくてはお嬢様ではないのです!」
咲夜の目は血走っていた。これでもなお食い下がった場合、『ああ、こんなの本物のお嬢様じゃないわ』と嘆き、日傘をどこかに放り投げそうな勢いが感じられる。いわばレミリアは日傘の陰という空間に監禁されているも同然であり、誰かそのことに気づいてほしくもあるが、メイド達はこの遠足をどう切り抜けたものかと必死で、それどころではない。
かつて紅魔館に紅白の巫女と黒白の魔法使いがダブルハリケーンよろしく襲来したときも大変だったが、まだ弾幕ごっこという救いがあった。落とされても、先輩諸氏から叱られる程度で済んだからだ。
しかし、今回はどうしようもない。必要なのは知恵でも勇気でもなく、ただただ耐え忍ぶことだけだった。
メイド達の目付きはすっかり鋭くなっていて、レミリアを陽の光に晒してしまう危険性さえ無ければ今すぐにでもメイド長に飛び掛りたかった。
「私、帰ったらあの子に告白しようと思うんだ……」
「しっかりしな! わざわざ告白しなくても皆もう知ってるから!」
「ええええええええええええええ!」
死亡フラグを強引に薙ぎ倒す荒療治がそこかしこで行われた。下手に希望を持つとやばいということを誰もが知っていたのである。
特に年長組の働きは素晴らしく、自分が殺した人間はこれこれこういうことを言って死んでいったなどという、あり難い経験談を語って聞かせたり、自分が沼や獣から死守した弁当を後輩に分け与えたりした。
そんなこんなで紅魔館の傍にある懐かしの湖が見える場所まで戻ってきたとき、誰の目からも涙が零れた。
陽がもう暮れようとしている。咲夜は背中に突き刺さる殺気の数々を感じながらも、このペースならばぎりぎりで紅魔館に辿り着き、美辞麗句でもって部下達を納得させられる自信があった。
咲夜は手鏡を取り出し、紅魔館に向けて陽射しをちらちらと反射させる。これを合図にして、パチュリーが出発の際にしたように湖を割る手筈になっていた。
ところが、どうしたことか数分しても湖は割れなかった。それもそのはずで、パチュリーは先の無理が祟り、小悪魔の看病を受けていたのである。
咲夜のシャツの襟に汗が滲んだ。手鏡を何度もちらつかせるが、それもじきに出来なくなった。いよいよ、陽が落ちたのだった。
「あれー、メイド長、どうしたんですかぁー?」
「お嬢様の威厳がどうしたとか言ってませんでしたっけねぇ?」
語尾を上げるイントネーションでもって、メイド達がプレッシャーをかける。すると咲夜は突然に笑い出した。
「馬鹿ねぇ。夜はお嬢様の時間。わざわざ湖を割らなくても、その雄大な翼で夜空を羽ばたいていただければ、それが威厳になるのよ。そうですよね、お嬢様?」
にっこりとレミリアに微笑む。すると、レミリアも微笑みを返した。
「咲夜のおかげで、私がどれ程素晴らしい威厳の持ち主かよくわかったわ。ありがとう」
勿体無い言葉である。これは流石に誤魔化せなかったかと思っていた咲夜にとって、何よりの報酬だった。
だが、その続きこそが彼女への正当な報酬だった。
「だから……咲夜も私の言うこと、聞いてくれるよね?」
「はい?」
「不夜城レッド!」
地響きがあった。それと同時に、普段の数十倍もの高さになる不夜城レッドが発動する。やはり、そんな言葉は無いと言われたことを根に持っていたらしい。
巨大な紅い十字架は、咲夜以外のメイドにとっては今日一日我慢を重ねた甲斐のある程の神々しさであり、一方、その咲夜にとっては畏怖そのものであった。
「咲夜ぁああああああああ!」
「は、はいぃいいいいいい!」
上空三十メートル超から大声で呼ばれるのは、天の声とはこういうものかと思う程の威圧感があった。
「そこを、すっぽんぽんで泳いで渡りなさい!」
「すっ、すっぽ――!」
「すっぽんぽんよ、すっぽんぽん! すぽぽぽぽーーーん!」
それは遠くの山々に木霊する程の声量であった。メイド達の他、何事かと寄ってきた妖怪達まで混じり、レミリアを見上げた後、じっとりとした眼差しで咲夜を見た。
「ひいいいい!」
その段になってようやく、咲夜が根を上げた。最初は純粋に主人の威厳を示そうと思っていたのだが、どこをどう間違えてしまったのか……ああ、多分全部だ。
彼女はプライドも何もかもかなぐり捨てて、土下座をした。
「メ、メイド長……」
周囲に動揺が走った。いくらなんでも土下座までするとは、誰も思っていなかった。紅魔館でただ一人の人間として、逞しく生きてきた彼女を知らないわけではないのだ。
あるメイドが前に出た。その姿は凛々しく、顔には優しさが滲み出ていた。彼女は一度だけ皆に振り向き、頷いた。すると、全員が頷き返した。
「さぁ、頭を上げてください」
咲夜の前で跪いて言う。このメイドは決して目立つタイプではなかったが、その声には確かな存在感があった。誰より、咲夜がそのことを実感していた。
咲夜が涙目になってそのメイドを見た。
「帰るまでが遠足ですよ」
満面の笑顔がそこにあった。
******
寒中水泳を裸一貫で慣行したメイド長が風邪を引いたのは自明のことであった。そのためにメイド長の辞任を迫る声はメイド長不在の忙しさに掻き消されてしまった。
レミリアは久しぶりに一人きりの夜風を自室の窓際で楽しんでいたが、じきにパチュリーが部屋のドアを開いた。
「あら、今回の功労者の登場だわ」
「まぁね。仮病なんて、病気持ちには酷だわ。小悪魔が手伝ってくれなきゃ、誰かにバレてたかもしれない」
レミリアが手筈を整えたのは、遠足の前日だった。咲夜の考えることは手に取るようにわかるレミリアだからこそ、できたことだった。
「じきに誰かしら今回の真相に気付くわ。でも、それで良いの。それは、この館に居る者全員が私の可愛い玩具でしかないってことに気付くのと、同義なんだから」
「気付くにしろ、気付かないにしろ、咲夜に責任は及ばないってこと?」
そういった考えでなければ、咲夜に風邪を引かせる必要は無い。レミリアは答えず、パチュリーも追究しなかった。代わりに、パチュリーは大きな溜息を吐いた。
「私もあなたの玩具なのかしらね」
「誰もが運命の前では玩具でしかないのよ」
「そういうことにしとくわ」
恐らく、それは真理なのだろう。誰よりも運命を知る友人の横顔を見て、パチュリーは思った。