Hard Working Woman

  一

 その日は、じきに梅雨が来ることを忘れそうな良い天気だった。
 空と館の屋根とが、お互いを見詰め合う。湖は山や林を抱き、庭の洗濯物が窓に映る。
 こんな日に紅魔館の門番が役目を果たせるわけもない。
 他人事のようにそう思った紅美鈴は、力強く頷いて、門柱に背を預けて瞼を閉じた。

 ――それがそもそものはじまりであった。

 と、手記に残したのは十六夜咲夜だったが、起きていても美鈴が役目を果たせたかどうかについては一応考えた方が良いだろう。

 久々にその禍々しい黒き衣装を妖精メイドの目に入れた霧雨魔理沙は、館の中を蹂躙していた。
 本人は図書館に一直線に向かっているつもりで、蹂躙しているつもりも無かったが、仙人だの何だのに関わり合っている間に咲夜が館の中をいじったため、行く先々で妖精メイドに追い詰められ、片っ端から吹き飛ばしていた。
「ダンジョンばかりややこしくしやがって。オートマッピング機能ぐらいくれよ」
「それなら、首を跳ねてあげますわ」
 咲夜の声とナイフの光をかわした魔理沙は、箒という名の戦闘機を慌ててローリングさせ、攻撃をかわす。
 その間に咲夜は、魔理沙の後方に食らい付いた。
「吸血鬼の犬はドッグファイトが好きなのか?」
「悔しかったら尻から魔砲を出してごらんなさい」
「そんな下品な真似は出来ないぜ」
「盗人猛々しい!」
 恒例の口喧嘩を経て、弾幕ごっこ兼追いかけっこへと移行する。
 十五分の間に延べ二千四百七十三本のナイフが飛び交い、三十八体の妖精メイドが魔理沙の弾や流れ弾に当たり、双方三枚のスペルカードが消費された。
 咲夜にしてみればどれも自然な数字だったが、太陽の悪戯が、看過できない損害に繋がった。
 魔理沙が窓から差し込む光によろめいたとき、飾ってあった花瓶の一つを箒に引っ掛けた。
 タイミングの悪いことに、そのときの咲夜は妖精メイドのばら撒いた得点アイテムに視界を塞がれてしまっていた。
 ガシャン、と音がした途端、咲夜の表情が曇った。
 彼女は咄嗟に時間を止めると、回収した分も含めた全てのナイフを、これでもかと魔理沙の方向に投げた。
 再び時間が流れ出したとき、魔理沙の頭は迫りくるナイフの対処に追われた。その間に咲夜は空間をいじり、今いる廊下と図書館の通路を繋げた。
 魔理沙は見覚えのある通路を見て「これはめっけもの」とばかりにスペルカードを使ってナイフの網から脱すると、図書館へと入っていった。
 その背中を見届けもせず、咲夜は妖精メイド達に叫んだ。
「廊下が崩れるわよ!! 押し潰されたくなかったらさっさと逃げなさい!」
 潰されるダンボールを内側から見たような光景が、現出し始めていた。
 窓ガラスが枠ごと弾け、壁に罅が走り、天井がひしゃげる。普段は広過ぎるぐらいに感じる廊下だけに、崩れ始めると圧倒感は凄まじい。
 壊された花瓶は、事前に空間をいじった際に基点としたもの。それが壊されたために、追いかけっこの間に操作し続けた空間のひずみが、一挙に押し寄せてきたのだった。
 咲夜の名誉のために書いておくなら、最悪でも被害を廊下一つで済ませられるようにしてあるからこその事態だ。
 もっとも、そんなことは妖精メイドに一々教えていない。彼女らはわけもわからず恐怖したが、咲夜の怒声の方が怖かったし、彼女が下手な脅しを使ったことも無かったから、倒れていた仲間を担いで、大急ぎで図書館へと避難した。
 そんな中、咲夜はただ一人、割れた花瓶の破片を見下ろしていた。
 濡れた床に、花瓶の破片と、そこに挿してあったスミレが散らばっている。スミレの青が、胸にちくりと刺さった。
「……悪いことしたわね」
 咲夜は破片の幾つかをポケットに突っ込んだ。
 その頭上に天井が落下してきて、館の空間が一つ、息絶えた。


  二

「ふうん……まあ、その空間自体が既に無いとなると、なあ?」
 レミリアは咲夜の報告を聞き終えると、食後の紅茶に口を付けた。
 咲夜の話はまるで子供の空想の話を聞くようなもので、被害として報告されても、実感が湧かない。
 レミリアが咲夜の他に家事を仕切る執事や家宰を置かないのも、咲夜がいると、彼女以外にはとてもではないが館の管理など出来ないからだ。
 かといって咲夜に今以上の仕事を任せても、幻想郷ではあまり意味が無い。
 こうして頭の体操をさせてくれる程度が、結局は調度良いのだった。
「それで、魔理沙の方はどうした?」
「本を盗るだけ盗ると、帰ったようです」
「そんなことだろうと思ったよ」
 レミリアは笑いを堪え切れなかったが、心中は大して愉快でもない。
 パチュリーは、腐れ縁とはいえ親友である。図書館の出入り口を外に設けないのも、パチュリーを館の賓客として遇していることの証である。
 その彼女の所にねずみが好き勝手に出入りしている……。こうして咲夜伝いに聞くならともかく、実際にその現場に居合わせたら、手加減するつもりは全く無い。

 ――案外、魔理沙もそこら辺は心得ているのかもしれないな。

 レミリアが盗人の意外な一面を想像していると、咲夜が紅茶を足しながら口を動かした。
「では、私はこれで失礼します。何かあれば、お呼びください――」
「ん」
 返事の後に横を見たときには、咲夜の姿は無くなっていた。
「あいつもわかりやすいな。気になることがあると、私の所にいたがらない」
 本当に子供のようだと、レミリアは思った。


 さて、子供のような咲夜は、ぐすぐすと泣いている少女に手を焼いていた。
 身長は人間の五歳児ぐらいで、咲夜の持ってきた花瓶の破片を見た途端に泣き始めたのだった。
 それはレミリアが起きてくる前のことだったが、主人の所から戻っても、まだ泣いていた。
 似たような背格好の少女達が慰めているはいるものの、当分はこのままだろう。
「出来ればほとんどの破片を持ってきたかったんだけど……」
 それで悲しみが薄れたかどうかはともかく、花瓶を作り直すことは出来たかもしれない。
 館の古くからある区画にはいわゆる職工の類の妖精が住み着いていて、他の妖精メイドからは「小人さん」と呼ばれていることからもわかる通り、百歳以上の年齢に比して、背丈がかなり小さい。
 弾幕ごっこや雑用には向かないが、幻想郷では大変に貴重な「真面目」という美点がある。
 レミリアが口にするワインやチーズ、服や靴、食器や家具に至るまで、彼女たちが製造やメンテナンスを行なっている。
 この泣いている小人は、つまり割れた花瓶を手入れしていた小人だった。暇さえあれば花瓶を磨いて回っていたので、悲しみはひとしおだ。付喪神との違いは、好きでやっているために
 咲夜も他の妖精とは違って彼女達には一定以上の信頼を置いているため、こうして気を遣うこともしばしばである。
 咲夜が談話室に集まっている八人分の紅茶を入れてやっていると、咲夜と似た髪の色の小人が、顔の高さまで浮かんで、話しかけてきた。
「咲夜ちゃんだっていつでも完全に時間操れるわけじゃないでしょ? 仕方ないわよ」
「そうよそうよ、だからあの魔理沙ってやつをぶっ殺しちゃえばいいのよ」
 物騒なことを言い出した小人は、先に喋った小人とは顔が似ていた。
「またそんなこと言って! 咲夜ちゃんのナイフに血が染みるでしょ!」
「お姉ちゃんは咲夜を甘やかし過ぎよ! ナイフは血を吸ってなんぼよ! なんぼ!」
 二人は専ら銀製品を扱っている小人の姉妹で、咲夜のナイフも手入れしてくれているため、話す機会も多い。
 名前も一応あるのだが、咲夜が昔「どうせ覚えても意味が無いから」と思って「銀の姉」「銀の妹」と適当に呼んでいたため、それなりに敬意を払うようになった現在でも、そう呼んでいる。
 二人の気持ちは咲夜も有難かったが、こちらの頭越しに口喧嘩を始めてくれやがったせいで、大変に五月蝿い。
「紅茶、入ったわよ」
「はーい」
 こういうときだけは素直なもので、テーブルの縁に腰掛けて仲良くお茶とお菓子をやり始める。
 彼女らのサイズに合わせた小さなカップは存在しないため、ソーサーを膝の上に置いて、両手でカップを持っている。カップに直に触れている手や顔にかかる湯気が熱そうに見えるが、人間より頑丈らしく、火傷や怪我をしたとかいう話は咲夜も聞いたことが無かった。
 あまり可愛いものを集めたりする趣味は無い咲夜だったが、たまにここに来て小人らが好きに過ごしているのを見られれば、十分と言える。
 さっきまで泣いていた小人も、温かいものを飲んだら落ち着いたようだ。隣にいた別の小人が自分のハンカチにつばを付けて、目元の汚れを拭いてやっていた。
「それで、どうするの?」
「何を?」
 咲夜が自分の分の紅茶を飲んでいると、銀食器の妹の方が訊いてきた。
「魔理沙を殺すの? 殺さないの?」
「ああ……」
 それをするのも考えるのも面倒臭い、というのが咲夜の本音だった。
 友人と言えなくもない相手だし、いつまでこういうことを続けるのか、本人だってわかっていないだろう。
 レミリアにしても「何が何でも殺せ」と命じるような狭量さは無い。「然るべき処理をいたしました」と報告すれば「そう」とだけ返事をするだろう。
 パチュリーも咲夜に嫌味を言ってきたり鬱憤を晴らすために付き合わせたりはするが、自分の研究や読書にかける情熱が全てに勝る。
 要するに咲夜には、立場上、魔理沙を殺さなければならない理由は無い。
 ならば考えるまでもないだろう、と片付けたくなるが、そう単純な話ではない。

 ――紅魔館に住む者として、人間を殺すことに躊躇いを覚えること自体、問題があるのではないか。

 そんな疑問が頭の片隅に張り付いているのである。
 つまり必要かどうかではなく、適切かどうかという問題で、これは咲夜の性格の根本に関わっているから、容易には片付けられないのだった。
「あまりしつこくしないの。咲夜ちゃんは勘違い屋さんなんだから、難しいこと考えさせちゃ駄目よ」
 姉の方がフォローしてくれたが、馬鹿にされた気がしないでもない。
 しかし妹の方も納得はしたようで(それもそれで咲夜は腹が立った)、姉からもらったクッキーの欠片をポリポリと齧り始めた。

 ――なんだか、居辛くなっちゃったわ。

 咲夜はスカートのポケットから懐中時計を取り出すと、さも時間が来たかのように頷いて見せて、その場を後にした。


  三

 味噌屋なら桶磨き、銭湯なら浴室磨き。
 どんな仕事にも基礎はあるが、紅魔館のような館での仕事の場合、食器磨きがそれに当たると言われる。
 食器は館の住人が使うだけでなく、招かれた客人も実際に手にとって使うため、扱いには特別な注意を要する。
 招かれたパーティでの食器の磨き具合の素晴らしさを見て、その館の食器を磨いていた人物をヘッドハンティングした者もいたという。
 その話を咲夜が知っていたわけではないが、紅魔館に来た頃から、食器磨きは日課となっていた。

 厨房の隣にある食器の並んだ部屋のテーブルに、銀食器が整然と並べられている。テーブルは六人用のもので、ここに並べられた食器でワンセットとなる。重ねて置いておく皿も多いため、皿の数を正確に把握しておかなければ二度手間になってしまう。
 時間は午前五時過ぎ。窓からは朝日が差し込み、レミリアも自室で横になっている。何か思い付きでもしない限り、そのまま眠りに落ちて、たっぷり十時間は寝ることとなる。
 レミリアは「あまり起きていても邪魔だろう?」と咲夜やパチュリーに言っているが、冗談なのか本気なのかは、気持ち良さそうに眠る顔を見てしまうと、わからなくなる。
 咲夜がこの時間に食器を磨くのは、レミリアに手がかからなくなる時間だからというだけでなく、ぼんやりとしたランプの明かりよりも日差しの方が磨き具合の確認をし易いからだ。
 食器磨きと簡単に言うが、銀食器の場合、僅かな曇りも出ぬよう、これでもかと力を込めて布で拭う必要がある。超能力者の真似をしてスプーンに力を込めた経験があるなら、あれを常時やっているようなものだと思ってもらって良い。
 咲夜が来るまでは例の姉妹の姉の方が鼻歌交じりにやっていたが、それも彼女が人間でない力で出来るからで、咲夜がやる場合、銀ナイフを拭く加減を間違えて、何度も手を怪我している。
 すっかり慣れた今でも、ワンセット一時間は最低でもかかる。
 食器は何セットもあるので毎日やる必要は無いのだが、よほど疲労が溜まっていない限りは、咲夜はやるようにしていた。
 この作業で培われた手や指の力が、投げナイフの技術にも活用されている。もし彼女がナイフを捨てても、その握力で成人男性を縊り殺すぐらいはできるだろう。

 そんな咲夜の作業を、食器棚に腰掛けた銀姉が眺めていた。
 ちょうど五人分の作業が終わったところで、銀姉は嬉しそうに息を吐いた。
「咲夜ちゃん、本当に真面目よね」
「自分でもそう思うわ。だから、じろじろ見てなくて良いのよ?」
 遠回しながら「見られているとやり辛いの」と言っているつもりだが、銀姉は全く気にしない。
 ふわふわの長い銀髪が朝日に透けている。黙っていれば、上等な人形にしか見えないだろう。
「私、知ってるもの。咲夜ちゃんは楽しいときは時間止めたりしないって。だから私もこうして眺めてられるんだわ」
「そんなことないわ。お嬢様と一緒にいるときでも、止めるときはあるもの」
「もうっ、そうやって揚げ足取るのね」
 時間を止めない云々も揚げ足を取っていると思うのだが、取り合っても共倒れになるだけだ。
 また、それなりに正鵠を射ているのも事実だった。
 自分の能力を使うことに躊躇いを覚えたことはないが、使い過ぎては興ざめしてしまうことがある。
 例えば今日、魔理沙を追いかけたときにしても、本気で魔理沙をつまみ出すなら、時間を止めてさっさと捕えてしまえば良かった。
 そうしなかったのは、やはり楽しかったからで、それが花瓶の壊れる結果を招いている。
 弾幕ごっこでは一定の制限が加わるし、魔理沙の妨害もあるから、時間を止めても魔理沙を捕まえられるとは限らない。が、何が何でも捕まえようとしていたと言えば嘘になる。
 先程、妹がいる前で姉の方は「咲夜ちゃんだっていつでも完全に時間操れるわけじゃない」と言っていた。これも言い方を変えているだけで、咲夜の感情の表れ方をよく捉えている発言だった。
 咲夜は磨いたばかりの食器に映る自分の顔を覗き込んでいた。
 最後の分に取り掛かろうとして、その手が引っ込んだ。
「私、魔理沙を殺さないと駄目かしら?」

 ――こんなことを聞くこと自体、馬鹿らしいことだ。

 咲夜はそう思ったが、銀姉の方は柔和な表情のままで答えた。
「食べられない料理を食べさせようとする給仕はいないわよ」
「でも、コックの仕事は調理することだわ」
 切り返しの言葉としては、稚拙さがあった。
 咲夜は妙に惨めな気持ちになって、残りの食器を手に取った。
 気付くと銀姉はいなくなっていて、彼女が腰掛けていた場所では、銀製のハーモニカが朝日に撫でられていた。


「これでよし」
 銀食器を元の場所に戻し終えた咲夜は、棚の鍵をかけてから、部屋の窓を開けた。
 庭の緑の香りが朝日に混じって、咲夜の顔をさする。疲労感と心地良さが、一時、時間の概念を忘れさせる。
 案外、永遠という奴は庭を散歩しているものなのかもしれない。そして、目のあった相手に昔からの友人のように挨拶をしてくるのだ。
 その永遠は、中国人みたいな格好をしていた。
「あっ、おはようございまーす」
 こちらに気付いた美鈴が、いつも被っている帽子を脱ぐ。
 チャイナ服の下にはハーフパンツを穿いていて、ファッションの混交ぶりが凄まじい。スタイルは良いので何を着てもそれなりに似合ってしまうのが、最大の原因かもしれない。
「どうですか、これ古くなったやつを切って、裾を繕ったんですけど」
 パンツの方が咲夜の目に留まったと美鈴は思ったようで、そんなことを聞いてきた。
 咲夜は自分のヘッドドレスを外しながら、答えた。
「気軽そうで良いわねー」
「でしょー」
 嫌味の成分は美鈴の脳内で完全に濾過されたらしい。
 咲夜は髪の癖を整えてから、美鈴の目に視線を向け直した。
「あなた、暇?」
「昼前ぐらいまでは妖怪も人間も来ませんからねえ」
 早朝は人間にとっては出歩くのに早く、妖怪にとってはピークを過ぎた時間帯となる。門番としては最も気の休まる時間で、この間に美鈴は庭の水遣りなどをしている。
「私はこれからお嬢様の寝室を確認してから、お風呂に入って寝ようと思うんだけど……その前にお茶でも入れてくれる?」
「良いですよ。ちょうど、軽く食べようかと思ってましたから」
 咲夜が勝手口の鍵を開けてやると、美鈴はすぐに準備を始めた。
 その間、咲夜は銀姉の置いていったハーモニカを眺めていた。
 ほとんどの部分が銀製のそれは、一つの調度品のような存在感がある。

 ハーモニカの歴史は意外と新しく、誕生は古くても十九世紀とされる。吹くだけでなく吸うことでも音を出すのが楽器の中でも特異な点である。
 ともあれ、咲夜にとってはこれこそが唯一無二のハーモニカであり、種類や歴史は問題にならない。
 穴の数がいくつだろうと、ただ吹いて覚えるだけだった。
 ……そんな話をサンドイッチと紅茶を持って戻ってきた美鈴にしてやると、彼女は食事をしながら頷いていた。
「私も、何度も聞いてますから」
「別に聞かせようと思って聞かせたわけじゃないわよ。音を出さないわけにはいかないから、聞こえちゃっただけなんだから」
 若干、怒ったような口調になってしまった。というのも、咲夜は自分では上手だとは思っていないからだった。
 ただ、有名なハーモニカ奏者でも独学は珍しくないため、天才がどこに潜んでいるかは音を聞いてみるまではわからない。
 天才とまではいかずとも、咲夜本人は恥ずかしがって人の顔を見ながら演奏したことが無いために気付いていないが、普段は生意気な妖精達も、その音の余韻が残る間はお喋りを止めているのだった。
「元々、銀姉が気に入って、どこかで手に入れたものらしいんだけど……たまに私に貸してくれるのよね」
「いやー、それはー、咲夜さんがー、可愛いからじゃないですかー?」
「何よ、その言い方」
 美鈴は楽しそうにサンドイッチを頬張っている。それが、どうにも癪だった。
「あのね、銀姉は私とは吹き方が違うから、私のを聞いて面白がってるのよ。案外、下手さ加減を楽しんでるかもしれないわ。あなたが考えてるようなのとは違うんだから」
 その熱弁が成果を出したとは言い難い。
 美鈴が満足な表情で出ていくと、咲夜は迷いに迷ってから、ハーモニカを奏で始めた。
 人間、言葉で説明しようとすると余計なことばかりが出てくるものらしい。
 自分の内側を揺らすハーモニカの音色は、悪いものではなかった。


  四

「それで結局、どうするの? 魔理沙のこと」
 パチュリーは単刀直入に言って、咲夜に紅茶のおかわりを頼んだ。
『何か面白い話は無いか』
 と、お茶の時間にパチュリーが何気なく訊いてみたら、「魔理沙を殺すかどうかの話なら」と返されて、読みかけの本は棚上げとなった。
 咲夜に自覚は無いが、彼女は隠し事というものに価値を全く見出していないので、嘘を吐くこともなければ、その場を誤魔化したりすることもない。それが瀟洒と呼ばれる遠因にもなっている。
 さて、今日で魔理沙の襲来から、既に三日が経過している。
 ハーモニカはまだ、咲夜の懐にしまわれていた。
「とりあえず、『次に魔理沙が来たら、その場で決めてしまおう』ということだけ決めました」
「それは棚上げというのではないかしら?」
「なるほど」
 傍からすると間抜けな受け答えだったが、本人は大真面目だった。
「魔理沙が切り裂かれてレミィの食卓に出されるか、あなたが消し炭になるか。どっちになるかもわからないのに、随分といい加減ねえ」
「パチュリー様でもわかりませんか?」
「私は安易に『わかった』とか言いたくないのよ」
 そう言ったパチュリーの仏頂面から、咲夜は察するものがあった。
 パチュリーはある程度、どちらが勝つかの予想は出来ているのだろう。ただ、それを口にすることで結果が左右されるのを嫌ったのである。
 咲夜にしてみれば、客観的な事実はどうでも良かった。『魔理沙を殺す』と決意したのであれば、それが全てである。
 もし『健康な状態』というのが個人ごとに定義できるならば、咲夜の場合は『悩んでいない状態』と言える。
 悩んだ末に決断した瞬間、『不健康な咲夜』は『健康な咲夜』になるのであり、結果として自己の死が訪れても、それは寿命を迎えるのと違わない。
 青白い頬に片手をあてがっていたパチュリーが、やがてその手を下ろした。
「……あなたって、ナイフが無くても、人を殺そうと思ったのかしら?」
「どんな場合でもあることでは?」
 殺害のための準備をしたかしないかでは大違いだが、殺害の手段にナイフを用いたかどうかは大した問題ではない。
 道具の扱い方を間違えれば人が死にかねないのは、頭をぶつければ人が死ぬことと同じぐらい、当たり前のことだ。
 しかし、パチュリーが訊いているのは、そういうことではなかった。
「言い方を変えるわ。あなたがナイフを得意でなければ、魔理沙を殺すかどうかという選択にこだわることは無かったんじゃないの?」
「ふむ……?」
 顎に人差し指を当てて、咲夜は考えてみた。
 確かに、刃物ほど殺傷を連想しやすい物も無い。だからこそ扱い方に慎重が求められる。
 だが、そんなことは咲夜も十分に承知している。

 ――ナイフはナイフ。道具の役目を果たすだけなのだ。

 心中で呟くと、咲夜の伏せられていた視線が、パチュリーに向いた。
「私は、私にこだわっているのでしょうか?」
 自分の役目と、ナイフの役目。それらは本来、同一ではないはずなのだが、必然か偶然か、今に限って言えば、それらは重なっているように感じられた。
 ……いや、そういう風に感じられる自分が、殺意を抱くのか?
 咲夜の困惑に、パチュリーは首を振った。
「わからない。私はカウンセラーじゃないもの」
「では、どうしてお訊ねに?」
「単純に、興味が出たからよ。私も魔理沙も、得意なのは魔法だから、それなりに通じるものはあるわ。ただ、あなたについては、わからない」
「それなら、お嬢様もでは?」
「レミィのことを理解しないなんて、どんな奴に出来るのかしら?」
 冗談とも本気ともつかないが、咲夜は同意できた。
 レミリアという吸血鬼は、圧倒的であり、運命的である。
 彼女の力に起因するのはもちろんだが、あの純粋な双眸は、人は何者かに縋って生きるしかないのだという真実を、認識させてくれる。
 パチュリーは微かに笑ってから、話を戻した。
「ずばり、あなたにとってナイフとは?」
「『刺す』ですわ」
「なるほど……『針』の意味も持たせて、『時針』にもしているのね……」
「そういう風に考えるものなのですか?」
「見立てなんて、そういうものよ。あなたが理屈を抜きにして扱っていても、関係がない。『こういう風に使えたから使っているだけ』でも、機能には影響が無いのだもの。でもそれは、あなたの経験則であって、私は言葉にできない。言葉は単語にばかり目が向けられがちだけど、実際には単語と単語による行間、その連続によって形作られる文章こそが本体であって、文章という名の紐自体よりも単語という結び目の方が判別しやすいから、単語が目立つだけね。魔法の詠唱が最終的に詠唱すらいらなくなるのは、今言ったようなことを逆に行なっていると思ってちょうだい。一般的な例だと、読書が近いかしら」
 相変わらず、スイッチが入ると饒舌だった。
 今まで、「如何にパチュリーの役に立つか」ということは考えたことがあったが、「パチュリーは何の役に立つか」はあまり考えたことが無かった。
 咲夜にとってはもてなすべき客人なのだから、当たり前といえば当たり前だが、長らく生活を共にしていると、気付かない内に役割を与えているものだ。
 パチュリーがいることで、咲夜は知識に対して貪欲さを発揮しないで済んでいる。
 こうして何かの拍子に、新鮮な驚きを与えてくれる。咲夜にとって知識とはそういう驚きの積み重ねであり、それは好奇心を健全に保つための良策だ。魔理沙のように、自分から必要以上に求めたりはしない。
 それを助けてくれているのが、パチュリーの存在なのだった。
 咲夜のそうした捉え方はレミリアのものと一致していたが、咲夜の知る所ではない。
「あなたのナイフが銀製なのも、無視できない点の一つね」
「銀なら、お嬢様を殺せるからですか?」
「あの子に一般的な対策がどれぐらい通用するか、考えても意味無いわよ。あなたは尚更じゃないかしら?」

 ――お嬢様ですから。

 その一言で全ての謎が解決されてしまうのは、確かだった。
「ま、他の吸血鬼に効くかどうかは興味あるけど、ああいう連中って縄張りを気にするから……当分は機会が無いんじゃないかしら。それで、銀だけど。銀は清潔さと変化のし易さの両方を備えていて、金や銅よりもバランスが取れているわ。鉄は組成に幅が有り過ぎるから、とりあえず考えに入れないでおきましょう。それで、銀だけど。清潔さと変化のし易さ、と聞いて、思い浮かぶものがある?」

 ――それは、私じゃないか?

 ふと頭に過ぎった自問は、すぐに別の物へと変化した。
 それは普段、持ち歩いている物だった。
 咲夜はハーモニカを入れてあるポケットとは別のポケットから、懐中時計を取り出した。
「これなんか、どうでしょう」
「そうね。あなたはわかりやすくて良いわ」
「馬鹿にしてます?」
「馬鹿とハサミは使いよう。まともぶってる奴は使えないわ」
 褒めてるつもり……らしい。
 とにかく、懐中時計である。
 時間とは、それ自体が移ろうものである一方、厳然でもある。
 厳然と清潔が一致するのは、その二つが同一であるレミリアが咲夜の中にいるためだが、そこまでは自覚していない。パチュリーも言葉にはしなかった。
「色々言ったけど、結局、あなたはあなた以上のものではないみたいね。これからもハサミらしくしていてちょうだい」
「はい、そうさせていただきます」
 パチュリーの興味が薄れたのはわかったので、茶器を片付けた。
 会釈して図書館を去る咲夜の頭には、レミリアが紐をハサミで切るイメージが浮かんでいた。
 紐が切れたとき、図書館に飛び込んできた妖精メイドが、顔にぶつかった。
「わぷっ!」
「出た! 魔理沙が、出た!」
 妖精メイドが慌てて言い終えたときには、咲夜は消え失せていた。


  五

 侵入者があった場合、幾つかのチェックポイントが存在する。十五個ある内の五個目で、咲夜は魔理沙を見付けた。
 前回の侵入のときより駆け付けるのが遅くなったが、前回よりも浅い場所で魔理沙の侵入が食い止められていた。

 ――いつもより多いわね。

 咲夜でなく魔理沙も、同じ事を考えているだろう。
 弾幕ごっこに参加している妖精メイドの数が、明らかに多い。
 前回を十とするなら、今回は十六ぐらいいる。読者に一番わかりやすいように表現すると、ノーマルとルナティックぐらい違う。
 ここの所、咲夜が物憂げそうにしながら館の中をぶらついている姿が目撃されていたため、妖精メイド達の間で「メイド長はこの間のことを怒ってるんだ」という噂が広まっていた。
 普段ならそんなこと全く気にしない連中だったが、
「ねえ、聞いた? 門番も折檻されてないんだって」
「ええ!?」
「きっと、怒りをためてるんだよ!」
「じゃあ、次何かあったら、私達も酷い目に遭うの!?」
「お洋服が汚れるの嫌だなー」
 といった具合に話が大きくなってしまい、今回の動員数に繋がっている。
 しかし、妖精メイドは妖精メイドなので、足止めにしかならない。
 数の多さもパターン化が済んでしまえば、魔理沙にとっては的が多いだけだ。更にはアイテムがガンガン出るため、かえってテンションが上がり、普段より性質が悪くなっていた。
「わははは! 次は咲夜かー!」
 既に図書館に向かうのは二の次のようで、咲夜を見付けた途端、いきなり決め打ちでマスタースパークを放ってきた。
「ふにゃーーーーーーーーー!」
「あーーん!!!」
 マスタースパークの軸線から逃れた咲夜の耳に、回避が間に合わなかった妖精メイドの悲鳴が一斉に聞こえてきた。
 陣形に大穴が空く。
 その中心に、咲夜が立ち塞がった。
 咲夜が顔の横で人差し指をくるくると回すと、妖精メイドの二割程度が意図に気付いて、墜ちた仲間をベッドへと引っ張っていった。
 残った連中は「咲夜を置いていくのが怖いから」という理由が大半である。
「あなたたち、私のナイフに当たるわよ?」
 それを聞いて、ようやく頭が冷えたようだ。十秒以内に、廊下から咲夜以外のメイド服が消えた。
「信頼されてるんだな」
「泣けるわね」
 冗談が合図となった。

 ――私は、魔理沙を。

 咲夜の決意が、言葉となることは無かった。
 廊下を、銀の煌きが、満たした。

 魔理沙がギョっとするような量のナイフが、咲夜の周囲から飛んだ。息を吹きかけられた綿胞子のごとくだが、指向性と速度は比べ物にならない。
 いくら時間を操れるとはいえ、一度に操れるナイフの量には限界があるから、第一波、第二波という風に、間隙は生じる。
 その間隙を、ナイフを引き付けることで更に広げて、切り返し、魔理沙は避ける。
 それでも、顔のすぐ横を刃物が通過するようなスペースを縫う必要があって、魔理沙は冷や汗をかく暇も無かった。
「殺す気か?」
「少し違うわね」
 咲夜はここに至って、言葉を選ぶ必要を感じていた。
 殺すかどうかでは、今の心境を説明し切れないことに気付いたからだった。
「私はね、自分があなたを殺してしまえるかどうかわからないの。それが楽しくて仕方ないのよ」
「前から思ってたが、危ない奴だな」
 言い終わるや否や、魔理沙は弾をばらまきながら咲夜に突っ込んだ。
「やれるものなら、やってみろ!」
 清々しいまでの魔理沙の返答に、咲夜の顔が喜悦に染まる。

 ――これが、ゲームというものだわ。

 仕事や役目、時間や友人。時には命。
 全てを投げ打ち、興じるゲームだ。
 自分がしていることの再確認が終わった咲夜に、投げるナイフはいくらでもあった。


  六

「咲夜、今日の献立は?」
「豚肉の生姜焼きです」
「……豚ねえ」
 やけに家庭的な料理だったから、「何かの暗喩だろうか?」とレミリアは思ってしまった。
 が、出てきたのは正に、豚肉の生姜焼きだった。ご飯とお味噌汁まで付いている。
 ナイフとフォークで、というのは何か違う気がしたので、レミリアは銀製の箸を取って、料理を口に運び始めた。
「ところで、今日は騒がしかったな」
「申し訳ございません。少し、はしゃぎ過ぎました」
 咲夜の報告に頼るまでもなく、レミリアの耳にも弾幕ごっこのときに生じる轟音が届いていた。
 被害は前回の五倍に達し、一方の魔理沙の収穫はいつもの半分だったというから、割に合わない。
 だというのに咲夜の表情に曇りは無く、レミリアはいつも通り、頭の体操をすることとなった。
 今日はそのためだけに時間が費やされそうだ。
「ま、わかったわ。食事が終わったら、休んでいて良いわよ」


 自室に戻った咲夜は、厨房で作ってきた軽食と紅茶を机に置いて、重くなった体を椅子に下ろした。
 紅茶の香りが無ければ、そのまま夢の中へ入ってしまいそうだ。
 ポケットの中身を全て、テーブルに出す。
 ハーモニカを机に出した所で、咲夜はベッドの方に顔を向けた。
「何してるの?」
 銀食器の姉妹が、咲夜のベッドで寝転がっている。
 話があるのかと思って咲夜は喋り出すまで黙っていたのだった。
「お姉ちゃんが咲夜と一緒に寝たいって言うからさー」
「ええー! 言い出しっぺは私じゃないわよー!」
「わ、私は提案しただけだもの!」
 人のベッドの上で、姉妹喧嘩が始まった。お互いの柔らかいほっぺたをつねり合って「むー」とか「にー」とかいう声を上げている。

 ――私にとっては、こういうのも含めて、館の時間なのだわね。

 もしこの館を出て一人で住むようになったら、時間を操れなくなってしまうかもしれない。
 いや、操る価値が無くなってしまうだろう。
 ゲームを楽しむことも、できなくなる。

 咲夜は深々と溜息を吐くと、ハーモニカを奏で始めた。
 夜露を払うその音色は、部屋を満たす紅茶の香りのように、館のひとときを彩ったのだった。