白河印地

 足下に置いた虫除けを焚こうとして、上白沢慧音は顔を上げた。開け放ってある勝手口の戸から入る風に、涼しさは感じられなくなっていた。普段、立秋だの節目だのと人には言っていても、秋を感じたのは、これが初めてだった。
 もう入る虫もいないだろう。いたとしても、可愛げのある鈴虫ぐらいなものか。手元のマッチ箱をかしゃかしゃと揺り鳴らす。
 すると戸口から客が倒れ込んできて、慧音は嘆息した。


「また随分と……」
 何だろう。続きを言おうとして、言うべき対象が多過ぎることに気付いた。
 まず、客は怪我をしていた。しているらしい。
 というのも、患部が見えないためである。包帯などをしているのではない。帽子で隠れている。その陰から顔に、血の跡が垂れているのだった。跡が完全に消えてないことから、満足な手当をしていないのは明白である。水や酒で洗ったかどうかも怪しい。
 いったい何があったか。ざっと考えてみたが、心当たりがありすぎて、まとまらなかった。本人にしたって、落ち着いてはいても真っ青な顔をしており、当て推量で言えたものではない。万が一、当たったら当たったで、泣き出す可能性だってある。
 よって、向こうから何か言うまで、とりあえず茶を出して向かい合っていたのだが、
『弾幕ごっこ、って何なんですか?』
 こう言われて、いよいよ進退、窮まったのだった。

 まあ、随分と……乱暴な質問なのは間違いない。
 慧音が困ったように言葉を切ったのを見たからか、相手も付け加えた。
「何であるんですか?」
 いくらか限定した内容になったが、答え難さはあまり変わっていないように思えた。
 もちろん、わからないわけではない。事例だけならいくらでも教えてあげられる。
 ただ単に、そしてそれが一番の問題なのだが、どう答えたら良いのかがわからなかった。
 例えばの話、勉強嫌いの子がいたとして、
『何で勉強なんてあるの?』
 と聞いてきた場合、勉強の意義を教えてもあまり意味がない。あってほしくないから、聞いているのだ。これに答えるのは、とても難しい。
 勉強しなければならないから、ある。そう答えるのは及第点だろう。かといってこれ以上踏み込んだ回答をしようとすると、子どもには理解しきれなくなる。ややもすると大人にもわからない。
 現実的な対処として、相手の要求を汲んで好みの答えをやるというのもある。あるのだが、じっと相手の目を覗いた限り、この問いはかなり純粋なものらしかった。瞳からは清冽な光さえ見て取れた。
 これは喋りながら適当な答えを探った方が良いだろう、と当たりを付けて、慧音は湯飲みを置いた。
「そうだなあ、そもそも、弾幕についてだが」
 ようやく話し始めた慧音に、相手は幾分か緊張を和らげた。
「弾幕を構成するのは、当然ながら、弾だ。弾は当てるものだが、一発ではなかなか当たらない。そこで数を撃つわけだが、特に弾幕ごっこの場合、様々な形式に則って弾幕を形作ることになる。古戦場でも射撃は儀式の要素を孕んでいたから、その点で、外の世界の弾幕よりも古めかしい形式と言えるかもしれない」
 最後の部分については自分の知識との摺り合わせで、通じなくても良かったが、相手は律儀に頷いた。わりと聞き手寄りの性質らしい。
「例えば坂東の雄、将門公はその手の弓射撃に長じていたし、下って南朝は正成公も、飛礫【つぶて】でもって山上から寄せ手を追い落としている。そうそう、この飛礫というのはなかなか面白くてな、呪術的な意味もあったようで、僧が武家のお偉いさんに投げかけた事件なんてのも、幾つかある。武術では敵わないが、呪術ならお手の物ということなのかもしれないな。威力自体もなかなかでな、熟練した者が投げると鎧兜を貫通したらしい。戸板もぶち抜いたそうだ。こうした諸々の影響を証明するように、北条三代執権泰時も刃傷沙汰について触れた六波羅探題宛の幕府法で『飛礫に於いては、制の限りに非ず』と例外的な扱いをするように言って……」
 探り探り、相手の表情を見ながらの解説である。わりと細かい話を嫌がらないようで、慧音は確かめてみることにした。
「……もしかして、飛礫に思い入れがあるのか?」
 一言一句聞き逃すまいと、目でも聞く勢いの相手が、俄に表情を曇らせた。膝の上に置かれた手も、僅かに動く。
 これはと思い、あえて見なかった振りをして、慧音は続けた。
「さて、その飛礫だが」
 鉾先を逸らされて、相手の呑んだ息が吐かれる。いじめるつもりは無いにしても、楽しい反応ではあった。
「洛中では特に印地【いんじ】と言って、合戦のとき以外にも、よく抗議文と一緒に公卿の屋敷に投げ入れられたりしたそうだ。これもわからんでない。何せ庶民にとって『制の限りに非ず』の方法だったんだからな。政治の中心、富貴の者の住処である洛中は、おあつらえ向きの場所だったわけだ。もっとも、これが公武一体の室町幕府となると、取り締まる側の方が決定的に強くなって、印地打ちも廃れていったそうだ」
 めでたしめでたしとでも言いそうな慧音に、相手が首を傾げる。今のは一体何だったのか。
 しかし慧音は、わざと間を置いていたのだった。
「が、まとめてみると興味深い。先ず、合戦での用法。次に、庶民の支配層に対する行動。この二つの点を兼ね備えているのが飛礫なわけだ。さあ、何かに似てると思わないか? 圧倒的な力を持つ相手に、別の形の力で対抗する。そしてときに、倒しすら……」
 答えは聞くまでもなく、そして慧音の本意も、その結論に行き着くことではない。
 大事なのはここからだった。
「ときに君。印地打ちが職能でもあった以上、根強い地域とそうでない地域というのが必ず出てくる。職能集団というのは、特に一所に集まるものだからな。印地打ちの場合、そこはどこだかわかるか?」
 急に質問を振られて、相手は戸惑った。そしてそれ以上に、心当たりがあるようだった。まさかという具合に、口端が引きつる。
「そうだな、ああいう場所は小石が多い。私も子どもだった時分は、よく男子と混ざって石を投げたものだ。専ら、今みたいに水が冷たくなってくる時期には、な。それとは別に、子どもらにはよく言い聞かせてある。飛礫の練習は欠かすな……と」
 誰が、どこで、何を、どうしたか。
 相手の中で全てが繋がったらしい。
 途端、勝手口の方から声がした。
「せんせー! 妖怪がこっち来なかったー?」
「ほら、おいでなすったぞ」
 忠告してやったときには、客人はもう窓から飛び出していた。
 残ったのは落ちた帽子だけで、慧音はやれやれと呟いた。
「おーい、お前ら! ちょっとこっちに来い」
 怒られると思ったのか、間が空く。しかし、どうせ明日にはまた顔を合わせる相手である。
 やがて数人の子どもが居間の隣の土間までやってきて、顔を見せた。
 慧音はややわざとらしく背筋を伸ばすと、子どもらに件の帽子を差し出した。
「明日の朝一番に、この中に野菜を入れて、石を投げていた川原に置いておけ。できるだけ沢山だ」
「何でさー。これ、あの妖怪のだろ?」
「馬鹿を言うな。追い払うぐらいなら良いが、怪我までさせるのは可哀想だ。それほど悪意のある奴じゃない」
 子どもらは渋々ながらも、逃げる妖怪の姿に思う所があったのだろう。帽子を受け取ってからは、うちの野菜が一番の出来だ、いやうちだ、と言い合いながら、長屋の方に駆けていった。
「さあて、後は皿が無事だと良いんだがな」
 あの様子なら大丈夫だろうとも思う。子どもらの野菜も、喜んで食べてくれるだろう。
 河童というのは、そういう妖怪なのだった。