夷戒

 本多は妻のぽてりとした腹を見て、服の襟が締まるような感を覚えた。

 服といえば、鎮台に配されてからもう数日が経つというのに、本多は未だに近衛の服が自分には似合うような気がしていた。この制服のおかげで帝都に残れたのも確かで、西南の役でかつての同胞の血に染まった近衛服のことを思い出す勇気も無い癖に。
 本多は首を振ると、軍服の襟を締め直して、妻に出かけの声をかけた。
 こんな時間に。妻が問う。本多が思わず睨むと、妻は黙り目を伏せた。その隙に本多は家の前の通りに出た。罪悪感が背中を撫で上げる。外は暗く、夕方に帰宅してから、既に一時間近く経ってしまっていた。

 変な巫女との約束の期限が迫っていた。


  ******


 二ヵ月近く前、まだ帝都に雪があった頃に将門公の首塚へ凱旋祈願に行ったときのこと。本多がそうした理由は、小さい頃に彼が父親からそこの蛙像にはそういった御利益があると教えられたからだった。これまでは何とか生きて帰って来れたが、流石に今度ばかりは本多にも危機感があった。もっとも、立場上、大っぴらには行けないので、首塚には仲間達と酒飲みに繰り出した帰りに一人で寄ったのだった。
 辺りは今の様に暗く……いや、もっと暗かった。そのくせ、首塚だけははっきりと暗闇に浮かび上がっているのだから性質が悪い。酔いの勢いに任せて首塚の前に立ったは良いものの、本多は今更になって後悔していた。
 首塚から目を逸らし、その周囲にある蛙像の前に屈み込む。父親に同じく教えられた南無八幡大菩薩という言葉を何度か唱えていると、本当にこんなことで凱旋できるのかと思えて来た。そもそも、この唱え方が正しいのかどうかすら怪しい。禅宗の檀那だった父親が馬鹿にして教えたもののようにすら思える。
 段々と、本多は腹が立ってきた。彼の目の前には間抜け面の蛙像がある。何が哀しくて大の大人がこんなものに祈願しなければならないのか。
「ちょっと、あなた」
 本多が蛙に小便を引っ掛けようとズボンを下ろしていると、思いもかけず声がかかった。慌ててズボンを上げると、そのまま走り出した。仮にも少将閣下を助けんとする身にありながら立小便を咎められたなぞ、始末が悪い。そう思ってのことだったが、首塚から十メートル程も走った所に来て、後頭部につっかけが投げ付けられた。
 本多はその拍子にベルトが解かれているズボンを持っていた両手を離してしまい、ずり落ちたズボンが足に引っ掛かり、前のめりに転んでしまった。石造りの道に鼻が削られるような思いをしてから、立ち上がる。ズボンを整えていると、再び、声がかかった。今度は背中越しにではなく、目の前からだった。
「こんばんわ」
 そこには巫女服姿の女性が立っていた。はて、ここには巫女なんていなかったはず。本多が戸惑いながらもベルトを締め終えると、ぺこりと頭を下げて、そのまま何事も無かったかのように巫女の隣を通り過ぎる。そのときにわかったのだが、その女性は随分と小柄で、本多の肩よりも背が低かった。まだ、子供なのだろうか。
 ちらりと後ろを振り返ると、その少女がこちらを見ていることがわかった。このまま、気まずい思いをしながらでも家に帰ろう。そう考えて歩き始めたが、段々と気恥ずかしさやら矜持やらが首をもたげてきて、終には足を止めてしまった。
「いいか、あれはただの立小便じゃないぞ。蛙様を綺麗にして差し上げるための小水だったのだ」
「立小便よ。ただの」
「まぁ、百歩譲って立小便としよう。しかし私はそうしなかった。つまり、何も無かったのだ。だから、君は私のことを忘れるべきだ」
「つまり、私が声をかけなかったら、立派なはずの近衛さんがあろうことか立小便をしていたわけだ」
 その通りなのだが、本多はどうにも引けずにいた。おまけに近衛兵だということまでバレている。最近の巫女は博識らしい。他人事のように本多が考えていると、少女が詰め寄った。
「脅しても玉串料は払わんぞ!」
「そんなことしたら、私の恥だわ」
「そうか、それなら私は帰らせてもらう」
「急いでも急がなくても、このままだとあなた、死ぬわよ」
 踵を返した所でそんなことを言われたものだから、本多は思わず振り返った。――死ぬ。その言葉は、今の彼にとって禁句だった。
「将門公の呪いでか。それとも滝夜叉姫のか」
「あんなの、天海が吐いた法螺よ」
「ほ、法螺!? それじゃ蛙の御利益ってのも――」
「ああ、それは法螺じゃないわ」
「ちょっと待て。それじゃ、なんで私が死ぬんだ」
「蛙の御利益ぐらいで死なないんだったら、ここは人でごった返してるわよ」
 御説御尤もである。本多は自分が小便を引っ掛けようとしていたことを棚に上げて、少女に食ってかかった。
「何にしても、それで私が死ぬということにはならんだろ」
「死ぬわよ」
「死なん!」
「死ぬってば」
 もしかして、自分はかなり性質の悪い巫女に捕まったのではないか。本多が自分の不運に痛感していると、死なないと言い切れなくなってきた。更には酔いが覚めてきたこともあって、大きかった気が段々と萎み始める。
 いっそ、この巫女に凱旋祈願をしてもらおうか。心許無い視線で彼女を見ると、察したらしい彼女が不敵に笑った。


 やたらと機嫌が良くなった巫女から本多がもらったのは、凱旋祈願のための祝詞ではなく、長短一対の刀だった。本多は陛下から賜る刀のようなものかと最初は思ったのだが、鞘から抜いてみると、野太刀であった。もう片方も短刀とは思えない程に図太く、とても御守刀の類ではない。
 本多が一応の礼を言おうと巫女に対して伏せていた頭を上げると、彼女は夜闇に消え去った後だった。
 今時、刀でどうしろというのか。戦の主役はとうの昔に鉄砲隊に移り、彼も抜刀隊等ではない。そうは思ったものの、これまで立派な刀は腰に下げたことが無かったので、確かに安心感というか自信のようなものを本多は得ることができた。

 出立まではその程度の御利益だったのだが、いざ熊本に入った所で、田原坂(作者註・西南戦争における川中島)に送り出された。当初はともかく、坂を中心に前線が拡大すると銃器を使う余裕も無くなり、前線の一部は文字通り切り崩された。
 そのくせ毎日のように坂を奪い取れという命令が下り、日を重ねる毎に仲間の数が減って行った。共に酒を飲み交わした旧友達は一人もいなくなっていた。
 南無八幡大菩薩。その言葉を繰りながら、巫女からもらった長刀をがむしゃらに振り回した。まるで、松明で蝿を追うがごとく。そのような無様さであったが、長刀は薩摩の連中を一切、本多は寄せ付けなかった。薙ぎ払うだけで、目の前どころか視界にいた者達が吹き飛んだ。斬るというより、刀そのものがガトリングのようなものである。
 敵も次第に本多のいる場所には寄り付かなくなり、本多が攻めるならともかく、援軍が到着するまで前線を支えるには充分な威力だった。

 無事、帝都に戻った本多は、妻に無事を知らせるのも程々に首塚に向かい、当たり前のようにそこにいた巫女に嬉々として戦場での話を聞かせた。土産に持参した日本酒を飲みながら、巫女がうんうんと頷く。彼女は話を聞き終えると、杯を置いて口を開いた。
「短刀は使ったの?」
「いや、使わなかったな」
 鞘から短刀を抜いて、血曇りが無いことを巫女に向けて証明してから彼女に返した。先にそうした長刀にはたっぷりと血が着いていたのだが、気の所為か、帰参の前に確認したときよりも、色が薄くなっていた。
「これはこれから使わなくちゃだわ」
「これから? また今度みたいな戦争があるのか」
「あったら、どうするの」
「もちろん、またこの刀で」
 そこで、巫女が悲しそうに首を振った。本多にはその仕草の意味がわかった。この刀は、自分のような者が持ち続けて良い物ではないのだろう。それにしても、未練があった。この刀がある限り、戦場で死ぬことは無いだろうから。
「この刀はね、預かり物なのよ。変な侍が『これが最後の機会だろうから』って今回の一件に出張ろうとしたから」
「それで、代わりに私に?」
「そう」
 利用されたわけか。本多は冷静な自分に驚きを覚えていた。生き残れた。それだけで自分は充分なのだろう。だが、次はどうなる。
「さっき、最後の機会って言ったな。もう、刀で斬り合うような戦は無いのか」
「全く無いとは言わないけどね」
「そうか」
 ならば、あの刀があっても意味は無い。どれ程に強力だろうと、刀は刀に過ぎない。敵が刀を持たなければ、意味が無い。この刀の元の持ち主もそう思ったのだろう。本多が大きく溜息を吐くと、巫女は自分の杯を口から離した。
「そんなに死にたくないんだ」
「妻が、身篭ったんだ」
「誰だって、死にたくないし、それなりの理由ぐらいあるわ」
「わかってる」
 巫女はしばらく黙っていたが、くいと新しく注いだ酒を呷ると、重々しく口を動かした。
「ねぇ、一緒に来る? 戦争の無い世界って、意外とあるものよ」
 巫女は後ろ手に隠していた短刀を鞘に納めた。


  ******


 以来、本多は悩んでいた。悩みながらも一ヵ月近い褒章等の事後処理を終えることができた。

 そして今日、本多は返事をしなければならない。

 父祖の代から武士であったし、例えそういった身分が無くなっても、自分は国のために生きていくのだと思っていた。武士らしく死ねると思っていた。だが、今の御時世、武士らしく死ぬことなど不可能だろう。今更のように、それを痛感していた。というのも、薩摩武士達の死に方を見た所為だ。
 抜刀隊による田原坂奪取後の展開は一方的で、援軍が持ってきた重火器は、野鼠のように敵を蹴散らした。援軍は、制服を血で染めることもなく、勝利を手にした。
 確かに勝利の喜びはあった。だが、日を追うにつれ、特にあの巫女と話をしてからは、空しさばかりが胸を過ぎる。何度も同じ夢を見た。それはあの田原坂で、ときに自分は生き残り、ときに自分は死んだ。実際、どちら側になってもおかしくない戦だったのだ。その綱渡りを渡り切れたのは、あの刀があったからこそだろう。

 巫女の語った幻想郷とやらに、行くか、行かぬか。行くとなれば、妻も連れて行くつもりだ。素直に考えれば、断る理由は無い。だが、本多にはどうも、納得がいかない。
 戦争が無いのは良い。しかし、それでは自分があの刀の力を借りてまで敵を撃ち滅ぼし、生き残ったのは、何だったというのか。この世界で生きていくためではなかったのか。


「わかったわ」
 本多が行かぬと巫女に告げると、彼女は心底、安心した様子だった。辺りは、彼女と最初に会った日のように暗くなっていたが、陽はまだ沈んでいない。
「ねぇ、帝都から離れてくれない?」
「どうして?」
 巫女は短刀を抜き払うと、首塚に振り下ろした。途端、地震が起こった。それはすぐに止んだが、唸り声のような地響きが、耳にしばらく残った。
 やはり、これだけでは無理だ。巫女はそのようなことを口にしてから、本多に向き直った。
「呪いはあるわ。本当にね」
「ああ、その通りだ」
 本多は蛙に小便を引っ掛けてから、帰路に着いた。彼がここに来る事は、二度と無かった。