鑑餅
火鉢の傍で半ば閉じられていた紫の目が見開いた。何かしらと室内を見回すが、おかしな所は何一つ無い。
食うがままに置いてあった所為で乾いてしまったおせちの出汁巻卵。
幽々子の宅に邪魔したときにもらった幾何学模様の書き初め。
その供で手持ち無沙汰そうにしていた妖夢に与えた独楽も、今では紐と一緒に転がっている。
よくある正月の後の、よくある光景だった。
音が聞こえたと思ったのだが、音というものは消えてしまうもの。見回しても意味が無いのだろう。――紫は一人で納得すると、服の上に羽織った厚ぼったい肩掛の袂を寄せた。それを待っていたように、火鉢が火を瞬かせる。
紫は年末年始を起きて過ごしていた。珍しいことだったが、昔はきちんと起きていた。しかし、いつの頃からだったか、正月が一月か二月、早く訪れるようになり、紫の冬眠真っ盛りの時期と正月がかち合うことになってしまった。
そのくせ節気だけは変わらなかったから、一時期は外で何かあったものかと考え込んだこともある。それも長くは続かなかった。紫は独自の暦に従っていたからだ。
この暦は長大かつ柔軟、それでいて整然としたものであり、紫はあるときにそれを作り上げてから、ずっと守り続けている。
……守り続けているのだが、そんなことは誰も知ったことではない。知る必要も無い。人間は人間の歩みに合わせたものを用いれば良いし、アクの強い妖怪連中のほとんどは昨日食った飯のことさえ覚えていない。
紫自身も、今日はこれこれこういう日だから訊ねたと言う者があった場合は客として上がってもらうよう、藍に言い聞かせてあった。
その藍が、内庭に向いた廊下を歩いてきた。
「お閉めしましょうか」
戸は開け放ってあった。それを見つけて、わざわざ来たらしい。紫は部屋着に突っ込んだ腕の片方を出すと、こちらに来るよう手先で促した。藍は一度だけ雪の積もった庭に振り向いて寒そうに肩をすぼめると、紫の斜向かいに座った。
「卵が硬いわよ」
「はあ」
藍が、そりゃそうだろうと呆れ顔になる。作ってから四日近くが経っているのだ。それを紫は硬い硬いと呟きながら指で突いている。藍の記憶が確かなら、この最後に残った出汁巻卵は幽々子が紫のためにと一つだけ残したものだ。
「それはもう食べられません」
「知ってる」
さばさばとした口調だったが、紫は卵を突く指を止めようとはしない。いっそ凍み豆腐ならぬ凍み卵でも考案しようかと藍は思ったが、それなら凍み豆腐を作れば良いということに気付いた。凍み豆腐といえば雑煮にも入れた。
「昼は雑煮でようございますか」
「昼も、でしょ」
勝手場の桶で水に沈んでいる、餅のこびりついた丼が藍の脳裏に過ぎる。幽々子のおかげで大分減ったが、それでも今日一日は雑煮で過ごさなければもったいない程の量が残っていた。
「今年は紫様が起きていらっしゃるから、たっぷり作ったんですよ。頑張って食べてもらえないでしょうか」
「そんなにあるなら、霊夢にでも差し入れてやりなさいな」
「あの巫女にやったら、喜びのあまり餅を詰まらせて死んでしまいます」
「あははっ! 鏡餅にすら困る有様だものねぇ」
「笑い事じゃありませんよ……」
昨年の最後に神社へ行ったときに聞いた話によれば、鏡餅は毎年、大事にとってあるものを使い回しているらしい。どれと紫がからかい半分に見せてもらったところ、その鏡餅には縦横にヒビが走り、触っただけでぼろぼろと粉が崩れる始末だった。いったい、何年物なのかわかったものではない。霊夢は年末、その上に如何に蜜柑を乗せるかという大仕事にその年に残った最後の集中力を使い果たすのである。
「流石に不憫でしたから、こちらで鏡餅だけ御裾分けしておきましたよ」
「あら、そんなことしちゃって……あの餅が化けて出るわ」
「本当になりそうなことを言わないでください」
化けて出た所であっと言う間に崩れさるに違いないのだが、それもまた不憫であった。藍は着物の裾を手繰って涙の浮かんだ瞳を拭う。同じ化生の出としては看過し難い。
「とにかく、うちの餅も化けないよう、今の内に食ってしまわなければならないのです」
「わかったわよ。まったく、餅ごときで泣かないでちょうだい」
橙を式にしてから、どうも藍が人間臭くなっていけない。紫は自分が寝ている間に式が勝手なことをするのを良しとしない。自分が寝ていても、恙無く日々が過ぎる。それが紫にとっては何よりのこと。式も暦も、紫にとっては相通じるものだ。
藍がまた勝手なことをする前に、神社の様子を見て来よう。女々しく背中を曲げて餅のことに想いを馳せている藍を見て、紫は決意した。
******
博麗神社は、いつになく荘厳であった。紫はこれまで一度もこのような立派な姿を見たことが無い。いったい、この年明けに何があったのか。
どう荘厳かというと、先ずは白いことが挙げられる。冬特有の淡い陽光を照り返しているだけで美しいではないか。
次に意味不明だ。どこに入り口があるのかわかったものではないが、この妙ちきりんさこそが神聖さには必要なものだ。
最後に、そのどっしりとした佇まいを褒めなければ嘘だろう。正に大地に根差したと表現すべきで、紫は持ってきたキセルで煙草を吸うと、溜息混じりに煙を吐いた。
「さて、霊夢は無事かしらね」
要するに、神社は雪で潰れていたのである。
下手に突いてあの鏡餅のごとく崩れては、余計に大事である。紫は足が雪に埋まらないよう地面から少しだけ浮くと、煙を吐きながら見回った。
某の家にでも避難しているならともかく、埋まっているならば早い段階で当たりを付けてスキマ越しにでも救助しなければならない。
試しに触ってみた雪の硬さから考えると、崩れてからそれ程経っていないことは確かだ。上手いこと崩れた建物と雪の間の空洞に霊夢が収まっていれば良いのだが、スキマから手を掴んで引っ張り出してみたらその先がありませんでしたなんてのは、夢見が悪過ぎる。幽々子あたりなら凄惨な現場を見て『イチゴ味のカキ氷!』と場を和ませてくれるだろうが、それはそれで何かが間違っているだろう。
「紅白の最後としては正しいのかもしれないわねぇ」
縁起でもなかったが、元々縁起を気にする性質ではない。不謹慎なことを考えながら見回ると、すぐに一周してしまった。収穫は無く、できそうなことは一つぐらいしか残されていなかった。
紫はキセルを適当なスキマに引っ掛けると、姿勢を正した。
「南無八幡大菩薩、南無八幡大菩薩」
胡散臭い巫女ならば八幡あたりが調度良いだろうと適当にかこつけて二礼二拍一礼。
ああ、良いことをした後は気持ち良い。
「今日も元気だ煙草が美味い!」
そんな紫には当然の如く罰が当たり、彼女の足に何かが絡み付いたかと思うと、雪に引っ張り込まれた。体勢を崩した先には運悪く小石があり、紫は後頭部を強かに打った。ごいーんという除夜の鐘が年を跨いで脳髄に響いた。
意識を失ったのは痛みによってだが、意識を取り戻したのも痛みによってだった。何やら狭いながらも動けなくもない空間で手を動かし、恐る恐る後頭部を触った。血は出ていないようだった。
「あんたに血が通ってるとは思えないけどね」
声のした方向に目を凝らすと、暗がりに見覚えのある紅白が浮かんだ。
「まあ無事だったの!」
「白々しい」
霊夢はふんと鼻息を吹くと、紫に手を差し出した。
「起こしてくれるの?」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。火よ、火。煙草を吸ってるぐらいなんだから、火種ぐらい持ち歩いているんでしょ? こう暗くっちゃ、どこがどうなってんだかさっぱりわからないじゃない」
つい先程、適当に腕を出したら余計なものが落ちてきた。おかげで息苦しさが増している。外に出るだけならば紫のスキマに便乗させてもらえば良いのだが、それは気味が悪いので、できるだけ遠慮したかった。
「こんな所で火なんて焚いたら、死んじゃうわ」
「んじゃ、スキマ風でも」
上手いこと言うわねと紫が笑いながら、スキマを適当に開いて外気を入れる。それから、懐に突っ込んであるマッチを取り出した。
「それで、燃やすものはどこ?」
「それならここに玉串があるから」
そう言って、霊夢が玉串を紫に投げる。
「本当に良いのかしら」
「良いから早く」
仕方無いので紫はマッチを擦ると、玉串に火を移した。青味のきつい匂いが狭い空間に充満する中、ようやく明かりらしい明かりが灯ったおかげで崩れた内部の様子がわかった。
「これはまた……」
酷くやられたものだ。紫が見上げると、落ちた屋根が三本程の柱に引っ掛かっている。もし柱が上手い具合に倒れなければ、霊夢は潰れていただろう。とはいえ、その他のものはメチャクチャで、原型を留めていなかった。それでも心底ほっとしたように霊夢が呟く。
「御神体が無くて良かったわぁ」
全然良くないのだが、肝心の巫女が言うことなので良いのだろう。
それにしても。
「これからどうするの?」
それが紫の正直な気持ちだった。別にここからどうやって出るだのといった話ではない。神社が潰れて、さあどうするのということである。
「まぁ、私も巫女だからね。神社が無いと格好がつかないわ」
「なるほど。腐っても鯛ってわけね」
「あー、鯛かぁ、食べたいなぁ」
「腐ってるわよ」
「鯛なら何でも良いわよ!」
どうして怒られたのか紫には解せなかったが、食べ物については口にしないことにした。一方で、鯛の骨は硬いから腐ってるぐらいが調度良いかもしれないなんて霊夢は思っている。
「とりあえずここを出ましょう」
春になれば崩れた中からまだ使えそうな木を見繕うこともできるし、足りなければ方々にかけあって、というより方々を脅して、再建具を調達することもできる。紫が言って聞かせると、霊夢は仕方無いかと呟き、紫に頷いた。
紫は自分の真上の辺りに指をかざすと、それをすうと横に引いた。黒いスキマが開いたかと思うとその部分がぽっかりと無くなり、外が見えた。
「直通でござあい」
「はいはい、ありがとね」
いい加減な礼ではあったが、紫は満足すると霊夢の手を引いて外に出る。振り返ると、崩れた内部を名残り惜しそうに眺めている霊夢の顔が見えた。
******
今思えば、あの音は神社が崩れた音だったのかもしれない。紫が紫煙をくゆらせながら、正月明けのことを思い出していた。
霊夢はあの後に魔理沙の家を頼ったが、一晩だけ世話になると彼女の家を出た。その話を魔理沙伝いに聞いて神社跡を見に行くと、霊夢はカマクラを作り、その中に神棚を設置して堂々と住んでいた。傍から見ると小さそうなカマクラの中は意外と広く、どこから持ってきたのか炬燵まで設置してあった。
神棚には、あのヒビ割れた鏡餅が置かれていた。
「これ、どうしたの?」
「あなたの所の式に新しいのをもらったんだけど、やっぱりあれを飾ろうと思ったのよ。それで年を越したら、あの有様よ。でもまぁ何だか気になってね。掘り出したら、ちゃっかり形を保ってたわ」
霊夢は笑って、わざとらしく鏡餅に大げさな礼をした。神棚には札が納められてはいなかった。
しばらく、あのときのことを面白おかしく話していると、疲れが溜まっていたらしい霊夢は炬燵で眠ってしまった。紫は慎重に炬燵から自分の足を引き抜くと、持ってきた風呂敷を炬燵の上に置いて、霊夢には声をかけずにカマクラを出た。
霊夢は土産の赤魚鯛を食べただろうか。まだ解けそうにない雪が積もった内庭を見遣りながら、煙を吐く。
紫はそっと目を閉じると、耳をそばだてる。またあの音が聞こえたら、今度は。
ぎしり。
床を鳴らし、藍が現れた。
「紫様、お昼なんですが……」
なんだかんだで、まだ餅は残っている。そうすると雑煮を作るしかなく、それでも藍は我慢していたのだが、今朝方、再び雑煮を作ってしまった。
「ああ、お雑煮をお願いね」
思ってもみなかった言葉に、藍が目を丸くする。紫がからかうように藍に向けて煙を吐くと、彼女は煙を手で払いながら、かしこまりましたと言って、首を傾げながら勝手場へと戻って行った。