半身半擬
空気の軽さが、地底の奥行きを深くしている。
地底の一番深い所から出てきた霊烏路空は、薄明かりの布かれた町並みに、頭を解した。
以前なら町には出ず、真っ直ぐ寝床に潜り込んで、明日はどんな風に力を振るったものか考えて眠りについていたものだが、近頃は違った。
徐々に徐々に、各所から書類が送られるようになってきたために、雑事が増えたからだ。
山の神は色々と良くしてくれるが、お空の作り出すエネルギーの恩恵が莫大に過ぎて、書面による許可が無ければならない場面が増えてきた。お空自身、あまり長く一つのことを覚えていないのも要因となっている。
書類の出所は、地上の妖怪や人間、一応の土地の管理者ということで閻魔……とまあ、幻想郷中と言って良い。一日当たりの枚数こそ少ないが、詳細の確認などもしなくてはならず、手間がかかる。
今では火焔地獄や制御室で過ごす時間と大して変わらないぐらい、お空は机に向かっている。
飼い主である古明地さとりに任せられなくもないが、そもそもは、彼女の与り知らぬこと。お空もお空で、無知なケダモノならともかく、それなりに自尊心はある。
ただの地獄烏でいるのも良かったが、今も今で、自分が誇らしい。そんな風にさえ、思っている。
しかし、一つだけ悩みがあった。
お腹が、空く。空いて、堪らない。
前ならさとりが用意してくれるのをささっと食べるだけで、満足できたのに。
さとりによれば、ルーチンワークは案外お腹が空くもの、だそうで、嫌な顔一つせず(いつも似たような表情なのだが)、お空の分を二倍ぐらいに増やしてくれた。
それでも、足りなかった。それ以上となると、他のペットらの手前、気まずい。
自分でも作れるのだが、食材の調達が面倒過ぎる。ある意味で、お空は箱入りだった。
彼女のそんな悩みは、唐突に解消された。
「こんばんは」
目抜き通りに面した町屋の中でも、賑やかな場所。そこにお空が入ると、酒と煙草と、人いきれが、顔を撫でた。火焔地獄の熱気とはまた違う、ねっとりした感じ。
元は碁会所だったそうなのだが、花札をしている隣でずいずいずっころばしをやっていたりと、統一性が全く無い。
幾つかの集団を無視して、奥のカウンター席に座る。そこでは、持ち寄った食材で自炊できるようになっていた。
そこで改めて、こんばんは、と声をかける。一人で詰め将棋をしていた年配の男が、視線をそのままに、応じた。
「いつも正確なことだ。忘れっぽいんじゃなかったのか?」
「時計は体の中にあるから、忘れませんよ。太陽も、その扱い方も、全部体の中にあるのに。どうして皆、形にしたがるのかな」
「ふうん、そうしないと、一緒に喜んでやれないから……だろうかね」
年配にしては皺が少ない顔は、薄ら笑うと、弾力の失われた皮が表情を深くした。
詳しい年齢は聞いていなかったが、愚痴の相手の仕方からして、見かけ以上に年の嵩があるようだった。
長い手足でもって、椅子から立ち上がると、カウンターの反対側に回り込み、何やらごそごそし始める。すると、遊んでいた連中も、こちらを気にし出した。
「とっつぁん、今日は白菜を入れておいたけど?」
「肉は昨日のがまだあったろう? ほら、あの猪の。誰が持ってきたんだっけ?」
「馬鹿、お前だろ。そんなだから棋譜も覚えないんだろが」
がやがやとやっているが、カウンターの内側では、ちゃんと聞いているようだった。
会話に出てきた食材が並び始め、鍋に水が張られ、竈に火が入れられた。その火のエネルギーも、今ではお空が作り出しているから、つまみを捻るだけで点火できた。
ならば竈でなくても、もっと小さいもので代用できそうだったが、そうした設備自体は、まだまだ整えられていなかった。
そわそわし始めた者から、カウンターの中を覗き込む。男も女も似たような格好をしていて、気質も似通っていたが、殊に食事となれば、尚更のようだった。
お空はその中心にいて、じっとカウンターの上の方を眺めていた。そこでは地底ではよく見られる、魂の塊が浮いていた。
それはしかし、半人半霊のものという点で、珍しかった。
その男が旧地獄に幽居してきたのは、いつ頃のことか。名前は魂魄妖忌といって、噂では、閻魔の伝手でこちらに来たという。一部では天下りと揶揄されていた。
お空が彼のことを知ったのは、友人の火焔猫燐に教えられてだった。
「いっつも碁会所にいて、気が向くと料理をこさえるんさ。一度私も、ご馳走になったけど、ありゃ美味いわ。本物だわ。お空にならこさえてくれるんじゃないかね」
最後のくだりが、お空本人には理解しかねたが、足を運んでみたら、確かに作ってくれた。
初めの内は何だか気味が悪かったのだが、他の連中も「構わない構わない」と繰り返したし、他にアテがあるでもなし、毎日のように通っている。
お空はいつも、料理が出来るのを待っている間は背中の翼を羽ばたかせたくなるのだが、我慢している。すると胸の八咫烏の目玉がきょろきょろとし始める。
ここに来るときは制御棒をしまっているので、八咫烏については放っておくしかない。取り込んだとはいえ、エネルギーの膨大さ故に、彼は生き続けている。
だから料理が目の前に出てくると、手を合わせて、必ず言うようにしていることがあった。
「八咫烏様、おかげで今日も元気に過ごせました。いただきます」
「ん」
返事をしたのは八咫烏ではなく、作った側の妖忌だった。
猪の肉で作った青椒肉絲は、歯ごたえが抜群だった。汁物も温かいし、和え物も口の中が蕩けそう。
大小五皿も出てきた料理を玄米と一緒にぱくぱくと食べると、二十分も経たない内に、粗方片付いてしまった。余った分を一つの皿に集めて、つまみ代わりに、今度はちょっとずつ食べることにする。
その間に妖忌は他の者にも料理を出し終えて、酒と煙草をやりながら、隣の席で和んでいた。
「じゃあ、閻魔様と会ったことあるんですか」
「あるさ。つい先日も、ここらも騒がしくなるから他に移れ、とか言ってきたな」
「ええ……」
「幽居ってのはそういうもんだから、ご厚意はありがたいんだがね。もう、この世にもあの世にも未練は無いんだ。こだわらなくなってきたんだな」
「じゃあ、まだご飯食べられるんですね」
「お前さんが未練たらたらだな」
取り留めのない話をしながら、からからと笑い、飲む。寝床とさとり、仲間ら以外の温かさは、これまでほとんど経験が無かった。
段々と、瞼が重くなってきた。
「うにゅ……私の中の太陽がそろそろ沈みそう」
「おい、聞いたか、日没だそうだぞ。お前らもとっとと帰れ」
他の席に向けて妖忌がからかうと、「日が暮れて帰るのは烏だけさ」と減らず口が返ってきて、笑い声が上がった。
「人気者だな」
「馬鹿にされてる気がしますけど?」
「馬鹿にされもしない奴が、一人前とは思わんがね。うちの――」
言葉は続かず、煙だけが増えた。
お空は箸を置いて、両手を合わせた。
「ご馳走様でした」
皿の中は、ちょっとだけ残してしまっていた。
あの人は、本当に未練が無いんだ。
お空は夜道を歩きながら、右手の甲を擦っていた。明日になれば、また太陽を昇らせることになる。
昇らなくて良い太陽というのも、あるのだろうか。
それは太陽ではない、と胸が疼く。
八咫烏にとって意外らしいのは、自分が同化したことで、かえってお空の中に影ができた点だった。
太陽に、裏側が出来ていた。
お空も、何となく自覚している。あくまでも、何となくではあるのだが。
一方で、お空の忘れっぽさには、八咫烏は安堵している。太陽とは毎日生まれ変わるもの。そこまでしろとは言わないが、一つのことにこだわるようでは、困るのだった。
――お前は沈まないのだから、裏側があっても良いさ。
八咫烏の言葉は、お空にはちゃんと伝わっている。
かつて人間には脳味噌の代わりに神のようなものが入っていて、脳味噌が出来た代わりに、神として外に出す必要があったという。
――じゃあ、私もいつか人間になるんですか。
――忘れたくないことが出来たら、なるかもな。
……なって、みたいのか?
その問いは、どちらからのものとも知れないまま、夜闇に紛れた。
お空の手に夜が滲んだのは、翌日の昼間のことだった。
さとりにお茶に呼ばれてから、さあ書類と格闘だ、と机に向かって、じきのことだった。
閻魔からのレターボックスの中に、表に何も書かれていない封筒が紛れていた。何かの手違いだろうか。
ああ、また確認しなきゃいけないのかな。ついそんなことを思いながら手に取ると、裏側には閻魔の判子が捺してあって、直筆で『添付ノ資料ヲ読マレタシ』と書かれていた。
閻魔の判子は他のものより大きく、目立つので、探しやすかった。レターボックスの中からは計四枚の書類があって、上水道用のポンプ設備への給電許可、灌漑設備への給電報告、三途の川VIP用ボートのモーター・バッテリーへの充電申請、――そして、『霊烏路殿』と他よりも丁寧に書かかれたものがあった。
これだな。他の書類を一度机の脇にやって、添付の資料とやらを真ん中に置いた。
内容は、日々のエネルギー管理について労うことから始まっており、手紙らしい手紙をもらったことのないお空は、最初は疑わしげだった目を、輝かせて、読んでいった。
小言も多分に含まれていたのだが、手紙だと案外、腹が立たないものらしい。
用件らしいものが読み取れる場所まで来て、お空は首を傾げた。
例の封筒を、妖忌に届けてほしい、という。
どうしてこの間来たときに、直接渡さなかったのだろう? 緊急の用事なら、尚更自分でするだろうし、お空には理解しかねた。
「ま、いっか」
どうせ、今日も行くのだから。
「焼いてくれ」
妖忌は、封書をざっと読んだだけで、そう言った。
まるで最初から決められていた手順のように、自然な仕草で、封筒をお空に渡す。
万が一にも、人に読まれては困るものなのだろうか。実は閻魔からの特殊な指令か何かで、閻魔自身の手から渡しては、ボロが出るような。
想像の翼は羽ばたきかけたが、妖忌が通りに出てしまったことで、閉じられた。
封筒を懐にしまってから、大急ぎで妖忌を追う。彼は二つ角を過ぎた場所の長椅子に腰かけて、煙草を吸っていた。
お空の顔を見つけて、外套の襟を寄せる。
「悪いが、今日は自分でやってくれ。材料があれば作れるって、言ってただろう?」
「用事でも頼まれたんですか?」
「閻魔様から? そうだったら、笑えるんだがね」
言われてみれば、人や妖怪のいる場所から遠ざけようとしていた当人が、そんなことを頼むわけがなかった。
なら、どうして。
問いかけようとして、懐中の封筒が鳴った。
「……じゃあ、雑炊でも作ります」
「火加減に気を付けるんだぞ」
煙を見ながら、妖忌が返事をした。どこで焼くのか、見当が付いているのだろう。
お空は封書を読みたいという衝動すら起きず、竈の前に座ることとなった。
珍しくカウンターの中にいるお空に、いつもの連中が視線を遣そうとするものの、彼女の両翼がばっさばっさと羽ばたいて、追い払われた。
封書の焼かれた竈の上で、鍋のお湯がぐらぐらと沸き立っていた
「あなたの頭、おかしいわね」
昼の休憩時間に、さとりが思い出したように、呟いた。
「そ、そんな」
まさか飼い主に頭がおかしいと言われる日が来ようとは。
クッキーを齧った状態で戦慄いていたら、ぼろぼろとカスが下に落ちた。
「ああ、ごめんなさいね。おかしいって、愉快という意味よ」
お空の膝に落ちたカスを、ぱっぱと払って、さとりが微笑む。微笑んだと思う。冗談を言うときもそうだが、表情に変化が無さ過ぎる。
平素は心の中を読んでも感想は言わないのだが、今日は違ったらしい。
お空に紅茶を注ぎ直してやってから、さとりは自分の席に戻った。
地霊澱の二階ロビーは、落ち着けるよう、絨毯が敷いてあって、その上のクッションに腰を下ろすことになる。
「カスは放っておきなさい。後で私がやるから」
伏せた大型犬を肘掛けにしながら、足を崩している。このロビーに来るペットはさとりのことが好きな者ばかりなので、落ちたカスを食って、怒りを買うような真似はしない。
お空の体を、細めの視線で舐るだけ舐って、さとりは満足したようだった。
ほぼ一息に、喋り始める。
「仕事の出来る女は素敵だわねえ。悩みがあるって素晴らしいわあ。馬鹿にはしてないけど、馬鹿らしいわ。仕事が出来ることと悩みが解決できるかどうかは全く関係が無いのよ? そうね、それはあなたも理解してるのね。じゃあ、どうしてかしらね」
「あ、う……」
言い淀んでも、意味は無い。恐らくはそうした所作も、さとりはおかしく感じているのだろう。
「悩めるから、悩んでるんでしょうか?」
確信も、意図的に疑問の形にしてみると、それはそれで、新鮮な気がした。さとりはくすくすと一頻り笑うと、まるで何かの匂いを除くかのごとく、鼻先を片手で扇いだ。
「何もわからない妹がいれば、何でも悩むようになったペットもいるわけね。私もなかなか、恵まれてるじゃないの」
さとりは、基本的に返事を期待して喋らない。自分の能力にそれだけ自信があるし、それこそが、さとりという妖怪、そのものでもある。
「そんな恵まれた私から、一つだけヒントをあげましょう。未練が無いというのは、未練を覚えないようにしているからだわ。財に執着しないためには、財を置かない所から始めなくてはならないのよ」
もっともらしいことを言って、更に続けた。
「あとね、お空……」
――見てしまったものを忘れた振りをするのは、お止しなさい。
その日、お空は書類を片付けるだけ片付けると、大急ぎで碁会所に向かった。
そしてその勢いのまま妖忌の隣に座ると、身を乗り出して、迫った。
「お孫さんに、返事を書かなくて良いんですか?」
あのとき、封書を竈にくべた際、火にあおられた封書が、お空の前で踊ったのだった。人間だったなら読み取ることは不可能だったろうが、妖怪、殊に弾幕ごっこに慣れていたお空には、幾つかの言葉を拾うことぐらいは、できた。
妖忌は特段、驚いた様子も無いまま、煙草を吸うだけ吸って、灰を落とした。短く刈り揃えた髪の毛を、撫でる。
「そういえば、面識はあったんだったか。そんなような話を、噂で聞いたが」
「そ、それはよく覚えてないんですけど……祖父上様って書いてあったから、それで」
文字は綺麗に書き連ねてあった。相当、気持ちを込めて書いたものだろう。それがどういう感情を拠り所としたものか、地獄烏にはわからなかった。
「今更、孫のことを話すつもりはさらさら無いが――」
後ろに集まり始めていた連中を視線で薙ぎ払ってから、二本目の煙草に火を点けた。
「お前は面倒臭いと思わんか? 自分の感情が。懊悩が。今はもう、私は随分とすっきりしてるが、孫から手紙がくれば、それなりに感慨はあるわな。それで十分だろう?」
それは、そうなのだろう。手紙の返事は、必ず書かなければならないものではないはずだ。妖忌は妖忌なりに手紙を喜んだのだろうし、だからこそ、曖昧にせず、焼けと言ったのだろう。
でも、それなら、
「何で、私にやらせたんですか」
「……そりゃあ」
お空は、煙草の煙が輪っかになるのを、初めて見た。
妖忌は顎でも外れたみたいに、ぼけっとしていたが、やがて、後ろに振り向いた。
「おい、筆と硯、持って来い。紙もだ。早くしないと、お前らでくのぼうを木簡にするぞ」
その顔は、実に楽しそうだった。
妖忌の手紙を書類と一緒に閻魔に送ってから、返事が来ることは無かった。
あれが一体どれだけの決心によって書かれたものかはわからないが、妖忌の返事には、満足させるものがあったのか。
そんな疑問も忘れかけた頃、碁会所に足を運んでみれば、いつもの顔ぶれが、何故だか通りに出ていた。三十人近い妖怪が通りにたむろしている姿は異様で、彼らはお空を見つけると、ちょいちょいと手招きをした。
そして、中の様子が窺える戸口の前に、立たせた。
中には、いつもの席に座った妖忌と、カウンターの上に乗った少女、閻魔がいた。
閻魔は腰に手を当てていた。今にも妖忌の顔面を足蹴にしそうだ。
「あなたの所為で、また霊魂が斬られてるんですよ? 何とも思いませんか?」
「それは、あれだ、あいつはあいつでよろしくやるっていう、宣言じゃないですかね」
「斬られる方の身にもなりなさい! ……身は無くなってますが」
こういう場でいまいち怒り切れていない辺りが、閻魔といえば閻魔だった。仕事のオンオフは、常に頭にあるようである。でかい帽子は飾りでは無いらしい。
「孫の身にはならなくて良いんでしょうかね?」
「……あなたは少し、情に篤過ぎる。私の前に来たときは、覚悟なさい」
「それまではお説教は無し、と」
返事の代わりに、本当に足蹴が飛んだ。その勢いのまま戸口の方に飛んで、着地すると、お空に「開けなさい」と視線で命じた。
「あなたも気を付けなさい。どうやら、あなたと半人半霊は、性質が似てしまったようだから」
「フュージョンしちゃえば良いんでしょうか?」
閻魔の口端が、僅かに綻ぶ。周りの連中は、あり得ないものでも見たかのように、ぎょっとして、閻魔の進路から退いた。
彼女が飛んで行ったのを見送ると、妖忌が表に出てきた。
「おう、とっつぁんよ、あの手紙になんて書いたんだよ?」
「そうだそうだ、こっちは良い迷惑だ。それぐらい教えてくれたって、良さそうなもんだ」
あまり本気で言ってはいないのだろうが、妖怪は妖怪、凄味はあった。
妖忌は短くなった煙草を捨てると、足で踏み付けた。
「本物の孫より食わせがいのあるのを見つけたから、心配なんかするな」
さらりと言われて、妖怪どもは返すのが遅れた。
「……そう、書いたのか?」
「そりゃあ、怒るだろう」
「お前はガキなんかこさえたこともないだろ」
「うるせえ!」
本物の喧嘩を始めた奴らを放っておいて、妖忌は中に入る。
お空はどうしようか迷ったが、思い切って後を追った。
「ああ、そうそう。お前さんの友達の猫に、言っておいてくれ。食い意地の汚いのを紹介してくれて、ありがとうってな」
翼が一際大きく羽ばたいて、屋内の空気が動いた。
今日はどんな香りがここに立ち込めるか、楽しみなお空だった。