壁にミザリ、障子にメアリ
敷布団越しに、畳の硬さががわかる。そういう自分になったことに戸惑ったのか、目が覚めてからも、しばらくは動けずにいた。
秋の朝は、藺草の臭いも強くって、冷たい空気と一緒に鼻の奥に入って、頭をくらくらさせた。
地上では、寝床から出るのも一苦労だ。何度か寝返りを打って、畳に額を当てると、ようやく体の歯車が噛み合った。
「ふわあ……あれ? 靴下はー?」
昨日寝るときに、そこら辺に脱ぎ散らかしておいたはず。
布団を体に引っ掛けたまま、寝惚け眼で、そこら中の畳を両手でぺたぺたと叩く。
なかなか見つからず、嫌になってひっくり返っては、また起き上がってぺたぺたとやる。
くそ、封獣ぬえをおちょくるとは、大した靴下だ。
すう、――っと音がして、障子戸が開いたようだった。
「うひい!」
廊下で、どすんという音が鳴る。五月蝿い悲鳴だ、と顔を向けてみれば、雲居一輪が重そうな尻で、餅を搗いていた。
「やあ、おはやう。私の靴下知らない?」
痛みで上手く喋れないのか、指で、自分の足元を示した。
ああ、私の靴下だ、と思って、手に取った瞬間、生地の感触が違った。
これは、――パンティストッキング! サイハイじゃない!
「貴様、私の靴下をどこへやった!」
「片付けるついでに洗ったから、換えのを持ってきてやったんでしょうが!」
「なんだと! ――ありがとう!」
わーい、パンストだー。
靴下を履くときは寝転がった状態で足を通すのが、私の儀式。
股下までぴっちりと包まれると、これはこれで新鮮だった。
「きっと男に抱かれるのってこんな感じなんだね……」
「朝っぱらからそんなことを、しんみり言わないでよ。ところで、何か忘れてない?」
「ああ、ごめんごめん」
一輪を起こすのを手伝ってやろうとして手を伸ばすと、払われた。
「……所詮、人情なんて儚いものなんだね」
「いや、そうじゃなくって。私のことより、あなた、服を着なさいよ」
おっと、いけない。股下のことばかりで頭が一杯で、下着姿なのを忘れていた。
よく見れば、ご丁寧に着替えまで用意してくれたらしく、服も落ちていた。
「自分達はいつも同じ格好なのに、着替えはあるんだね」
「一応は寺だから、質素倹約なだけだよ。まあ、姐さんは外向きの仕事があるから、服も沢山持ってるけど……」
「じゃあ、これは聖の?」
「いや、ムラサが保管してある中から、もらってきた。ずっと使って良いよ。どうせ元の持ち主は生きてないんだから」
「色んな臭いがしそうな服だね……」
そもそも、自分を抜いたら、半数の住人が生身でないのだから、寺というより幽霊屋敷だった。
そこに何だかんだで居着いているのだから、人のことは言えないか。
着替えてから、今度こそ一輪に手を貸してやると、
「ちなみにあんたが一番居心地が良かったのって、どこよ?」
そんなことを訊かれた。
できれば「ここが一番だよ」と言ってやりたかったが、お世辞を言うのは好きじゃない。
ただし、
「永田町かな」
冗談を言うのは、好きだった。
命蓮寺の朝は、大して早くない。普通は寺といったら日の出前から掃除を初めて、鐘を撞いて、写経をして、と、忙しいものだが、住職が抹香臭くないものだから、寺らしさも無い。
あの紅白の巫女の神社も、らしくないと評判だから、そういうものらしい。
大体、私のような妖怪が住み着くのも、寂れた寺だの神社だので、そこいくと、こことかあそこは自ら寂れているのだから、良く言えば君子だが、悪く言えば変人だろう。
さすがに幽霊が取っておいたものだけあって、ツーピースの服は薄手だったが、スカート丈の短さは気にならなかった。ブラウスの上に羽織るジャケットだけ一輪に頼んで、廊下の角で別れると、先に居間に入った。
「おはよう」
眼鏡をかけた聖白蓮が、あのなんだかよくわからない巻物を、読んでいた。一度はちらりとこちらを見ただけで、目を戻したが、すぐに巻物を置いて、顔を上げた。途端に文字みたいなものが消えて、両端だけが残った。
「一輪に用意してもらったの?」
服のことなのは、自明だった。
「うん。別に汚れてなかったんだけど」
ちょっとでも妖怪としての力を操れるのなら、汚れだの埃だのは、洗濯しなくても落ちる。洗濯すればそれだけ生地は傷むし、実体のある服を着ているとも限らない。
「それでも、洗ったものの方が気持ち良いでしょう?」
「かもね」
白蓮は人間として暮らしていた時期があるそうだから、そういうことには敏感なのかもしれない。
一輪が雲山にも手伝わせて食事を運んでくると、三人だけで食べ始めた。
ムラサこと村沙水蜜は、この時間は寝ている。一応は服の礼を言っておこうかと思ったが、そのためだけに足を運ぶのも、妖怪らしくなかった。いつもどこで寝ているのかはっきりしないのも、問題だった。
ジャケットは部屋に置いておいてくれたそうで、食事の後に行ってみると、布団まで畳んであった。
元が船のために、外に出るには一々、甲板に出ないといけない。人間などの出入りのために、簡易の梯子を、窓の幾つかに取り付けてあったが、空を飛べるなら、やはり甲板に出た方が良かった。
法力で造ったとかいう船はやたらとでかいのだが、これはもう、魔法の領域だろう。真面目に学んだことはないが、昔に体験した所では、坊主の類が使うのは、もっと慎ましくて、小賢しい、ものばかりだった。考えてみれば、白蓮は一々、魔力を法力だのと、言い換える所があったから、彼女の根っこの部分に関わるのかもしれなかった。
「ああ、力といえば――」
忘れていたので、最後の階段を上る前に、背中に意識を集める。畳の感触を覚えた辺りから、有象無象の触手が生えて、左右に広がる。これなんか、実体の無いものの典型だろう。しかし、これがあることで、格好が付く。服に穴は開いてないか、一応確認をすると、触手が取り出してくれた靴を履いて、階段を上った。
甲板には誰もおらず、秋風の遊び場になっていた。夕方頃には、もっと強くなるだろう。多々良小傘なんかは、そこら辺で吹き飛ばされるかもしれない。
さて、何も散歩をするために、出てきたのではない。
それとなく妖怪の山の方を窺うと、目が合ったような錯覚を覚えた。いや、錯覚ではない。確かに目が合ったのだ。
一度、話を付けてから、無駄に意識させるような目の配り方をするなと言ってあるから、今日に限っては、果報があるに違いなかった。
甲板の縁から空に飛ぶと、一直線に山へと向かう。正体不明の種をばら蒔いてカムフラージュをするのも良かったが、かえって興味を覚える輩がいると、先日の一件でわかったから、止めておく。素直に低空飛行で、木々を掠めるようにしていく。
滝から流れる川の傍、紅葉が早い辺りまで来ると、地面に下りる。
きょろきょろと探すまでもなく、
「こちらに」
と、木の影から声が立った。
「やあ、おはやう」
「おはようございます」
千里眼の持ち主、犬走椛は、木に寄りかかっていた。
地上に出てからすぐに、彼女の能力は感知できたから、周囲が落ち着くのを待って、接触した。
最初は、うっかり正体を見破られて、言いふらされたら堪らないから、と、痛い目にでも遭わせてやろうかと思っていた。
しかし話してみると、これが実に良い子で、やれ、『ぬえさんは賢いですね。ボーナスをちらつかせて、あいつらを玩ぶんだ』とか、やれ、『エクストラボスなのに中ボスに出張るなんて、なんて積極的なんでしょうね! 同じ中ボスとして鼻が高いです』とか言ってきて、誉めてるんだか誉めてないんだか、それでも気分は良くなるので、不思議だった。
ついでに他の中ボスも集めようかという話になったのだが、春を告げる妖精だとかは、もちろん、春にしか会えないのだし、第一、中ボスという時点で大ボスと関わりがあるのだから、そうそう出歩けるものでもない。こちらも聖の手前、あまり勝手に人様の所に立ち入るわけにも、いかないのだ。
妖怪の山の場合、範囲が広くて、屋外なものだから、こうして簡単に会うことができた。
「朝御飯、何だった?」
「たくあんです。まあ、山は専ら、漬物か干物ですよ」
「あー、こっちも似たようなもんだよ。でも納豆と卵が出たな」
「卵! 唇舐めさせてください!」
「あ、ちょっ」
どれだけ卵に餓えているんだ。ああ、烏天狗のとかをなまじっか目の前にしているから、鬱憤が溜まってるのかもしれない。慌てて顔を押さえ付けると、うーんと唸って、離れてくれた。
「そんなことより、何の用事?」
「そうだった。えっと、今日、中ボスの方が、山に来るんですよ。ちゃんと大ボスもやったことがある方ですから、素性も確かです」
何でも、その人物は主人の冬の間の食料のために出稼ぎに来るとかで、去年もそうだったらしい。早朝に今年の段取りを聞かされて、合図をくれたとのことだった。
とりあえずそれには礼を言って、気になったことを訊ねてみる。
「具体的に、何をして稼ぐの?」
「侵入者をですね」
――斬るんですよ、と、手刀を振ってみせる。
「その方、凶状持ちとまではいかなくても、ちょっと斬り癖がありましてね、斬って儲かるなら最高だということで、冬の前は凶暴になる野良妖怪も多いですから、手伝ってもらうわけです」
「斬り癖って……」
一番凶暴なのはそいつじゃないのか、と言いかけて、あることに気付いた。
「あの、さあ」
「はいっ」
――私って、侵入者になるんじゃないの?
ちゅいーーーーーーん、という、力でも溜めるような音が聞こえた。
そして、
「チェエエエエーーーーーーーストォオオオオオオオオーーーー!」
怒号が響いて、滝が弾けた。
一瞬の煌きは、刀のものだ。それを持った少女が、水飛沫を纏ったままで、こちらは半分は木の陰になっているのに、正確に突っ込んできた。
恐らく、秒の間も無かったろう。
私は咄嗟に、椛と一緒に、屈んだ。
「オォオオオオォオオオオオオ!!????!」
「――お?」
頭の真上を、風が通り過ぎた。直後に木々が折れたり倒れたりする音が、数キロ先まで続いた。
「助かった……のかな?」
「あ、戻ってきましたよ」
遠目でも明らかにぼろぼろになった格好で、少女が刀を構えて、ひょろひょろと飛んでくる。
あまり相手にするのも嫌なので、私は、触手を使って、愛用の銛を取り出した。
それを真っ直ぐに相手に向けると、静止する。
「あれ? かかっていかないんですか?」
「だって、ほら、こうしてるだけで、あれはもう突っ込んでこれないでしょ?」
騎馬が槍に突っ込んでこないのと、同じことだ。椛も納得したようで、ああ、と頷いてくれた。
向こうの少女はこちらの様子に気付くと、ぴたりと止まって、地上に下りると、その場所から、すたすたすたすた、歩いてきた。
近寄ってきた少女は、両目一杯に、涙を溜めていた。
「だんでどんだぢぢばるずるんですがっ!」
鼻水も出ていた。すかさず椛がハンカチを渡すと、ちーんとやって、目の辺りをごしごしやった。
「どうして意地悪するんですかっ!」
「わざわざ言い直してくれて、ありがとう。でも私、この子とおしゃべりしに来ただけなんだよ」
「……!」
本当か、とでも言いたげに、少女が椛を見る。
椛が苦笑いをして、頷きかけたとき、邪魔が入った。
「やっほー、ぬえっちー、船飛ばすから一緒に遊ぼうよー!」
呑気な声で、水蜜が手を振って、飛んできた。
少女の目が凶悪に輝き、涙と鼻水の残滓を振り払うと、水蜜めがけて、宙を飛んだ。両手には、太刀と短刀。
「いけない! あの短い方で幽霊が斬られたら、迷わず成仏しちゃいますよ!」
「ええ!? ――って、あれ、それ良いことじゃない?」
「あ、ほんとだ!」
「って、危なぁーーーーーーーーーい!」
言うが早いか、ぎゃー、と大根役者もびっくりの声を出して、水蜜が斬られた。
どうせ私、幽霊だから死なないもん、的な空気が満々だったが、やがて、自分の違和感に気付いた様子だった。
突然、両手をちんまり、胸の前で合わせると、ほがらかな表情になった。
「私、もうゴールしても……良いよね?」
――あかん! と、つい止めたくなるぐらい、良い表情だった。
「駄目よ! ムラサ、まだ駄目よ!」
「あ、聖」
水蜜を斬った状態で満足していた少女の、延髄を蹴って、白蓮が現れた。
彼女は水蜜の手を取ると、
「まだ、セーラー服で世界を征服してないじゃない! 迷いが無くなったのなら、一緒に使命を果たせばいいじゃないの!」
水蜜は目から涙をぽろぽろ流して、こくこくと頷いていた。
「うわあ、あれ、むしろ迷わせてるだけじゃありません?」
椛が、正論を吐いた。私もそう思うのだが、とりあえず元の鞘に収まったようなので、良いことにする。
私は蹴られた少女を見つけると、気絶していた彼女の傍らに、跪いた。
椛が興味深そうに覗き込んできたので、私は触手の中でも特に尖ったものを、見せてやった。
「これで、種を植え付けると、正体不明になるんだよ」
「して、どうするんです?」
「いや、さすがにあの目はヤバ過ぎるからね……少し懲らしめないと」
目の色変えて、とかいう次元じゃなかった。
彼女が主人から恐れられれば。
そう考えてのことだったのだが、そうはならなかった。
「ぬえ、洗濯物、ここに置いておくからね」
「んー」
朝方は冷えるが、そこそこ秋晴れが続いている。私は一輪に教えてもらって、洗濯を覚えた。
というのも、雲山が手洗いをするとぼろぼろになってしまうからで、おかげで、サイハイが一足、駄目になった。自分でやった方が確実なのだ。
それならそれで、濯ぐのは綺麗な川でするのが良い気がしたので、椛とおしゃべりする機会を増やすためにも、一輪が植物の油で洗ったものを、川まで持っていくようになったのだった。
――あんまり変わらないけどね。
一輪はそう言ったけど、その方が気持ち良いでしょ、と返したら、嬉しそうにしていた。
今日も今日とて川まで行くと、あの少女、魂魄妖夢が、岩場から川面を見つめて、鬱々としていた。
種の所為で、饅頭怖い饅頭怖い、と連呼する主人に食われそうになったとかで、傷心から、年越しの準備をし始めるまでは山にいるそうである。
「あのさあ」
「はいー?」
お互いの所の洗濯をしながら、椛に話を振る。椛は流石に手慣れていて、私の倍ぐらいの早さで、作業をしていた。触手を使えば私もそれぐらいはできそうなのだが、かえって服に悪い気がした。
「もしかしてここいらは、正体不明なのって、危ないのかな?」
「ああ、それはそうかもしれませんね。何でもはっきりさせたがる人が多いですから。嘘八百並べてでも、って人を、一人知ってますよ」
烏天狗というのは、概ねそんなものだから、想像は難しくなかった。今度紹介してくれるそうだが、とりあえずは遠慮しておく。
「昔の外の人間は、正体不明なら正体不明のままで退治しようとしてただけ、可愛いもんだったなあ」
鵺だなんて呼称が典型で、私は何だかんだで、その呼び方が好きなのだった。
そこで、意外なことに、椛は首を傾げた。
「うーん、どうですかねえ」
「そう?」
「だって、今のぬえさんを見たら、退治しようとは、思いませんよ」
椛の眼は、なるほど、確かなものだった。
私はセーラー服の襟を正すと、作業に集中したのだった。