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キッスマ!

 風見幽香の朝は、大陽が昇り始めて一時間も経たない頃に始まる。本当はもっと寝ていたい。水やりのかかせない花の類が好きなくせに、わりとだらしない幽香である。
 というのも、彼女の前では物言わぬ花でさえ、言うことを聞くからだった。しゃきっとしろと言えばしゃきっとする。その後に幽香の見えない所でぐったりしているのは、何をか況やだ。朝顔などはもっと悲惨で、幽香が寝坊しようものなら、彼女が起きてくるまで開花を堪えている。

 さて、こういった事例を挙げて、彼女のことをいじめっ子と断じるのは容易い。
 種類毎に色の違う花畑を縦断していく幽香を見て、花達は苦しみからの解放感以外の喜びによって、精一杯に咲き誇る。萎れようと思えば萎れてしまえる。花は花として生まれ、花として死ぬのである。それ以上もそれ以下も無い。
 無いはずだったが、幽香の花として生まれたことは、何よりの喜びかもしれない。彼女の微笑みは、感性なんて無さそうな花達にも、気に入られている。正しく彼女が大陽のような存在である。
 ただしそこら辺について花の妖精らに確認を取ってみると、向日葵の妖精だけは反応が違ったりする。
「べ、別に幽香なんて好きじゃないんだから!」
 と本物の大陽へとそっぽを向くのである。
 可愛いものだが、これこそが幽香にとっては大問題。
 彼女は数ある花の中で、向日葵が一番、好きなのだ。
 この状況を喩えるならば、興味の無い相手からは告白されまくるが、いざ肝心の相手に自分から告白すると「誰かに見られたら恥ずかしいから」とか言われるようなもんである。
 もちろん幽香は、落胆の様子を奥眉にも出さない。
 今日も朝一番に花畑を見回ってきた彼女は、今はフライパンの上の目玉焼きを見下ろしていた。その横顔は優雅なもので、片手に持ったフライ返しの先端を宙で遊ばせている。
 目玉焼きも美味しそうな色合いに焼けてきたなあ、なんて、テーブルに飾られた花の妖精らが見ていると、

 バギン!
 ゴッ! ゴッ!
 ゴギッ! ガギン!

 とかいう、珪素生物でも殴ったかのような音が断続的に響いた。
 幽香の手にはぐにゃぐにゃに折れ曲がったフライ返しがある。フライパンは縦横にひび割れ、木製の取っ手は完全に砕けていた。
 目玉焼きはどうしたかと思えば跳ね飛んだ模様で、幽香のほっぺたにべっちゃりくっついていた。それを指で摘んで、幽香が自分の目の前に持ってくる。
 目玉焼きには、傷一つ無かった。
「やってくれたな! メンザーブ!」
 わけのわからないことを叫んで、フライパンの残骸と目玉焼きを妖精らに投げ付ける。ある破片は花瓶を砕き、またある破片は妖精のスカートを絶妙な加減で撫で切った。目玉焼きを頭から被った妖精は一番悲惨で、熱いやら汚れるやらで、仲間が目玉焼きを急いで食べ尽くしてからは、エンエンと泣き続ける。
 堪ったものではないので妖精らは窓際に逃げ、子どもみたいにカーテンに巻き付く。がたがた震えながら幽香が後片付けを始めたのを見守っていると、やがて玄関戸がノックされた。
 幽香は一瞬、居留守を使おうかと考えたが、あれだけの大声を出しておいては無理だった。
 どうぞと声をかけてやるのを待って、相手は戸を開けた。
「おはようございます」
 客としては本当に早い時間だ。人間で言うとまだ七時にもなっていない。
 いや、そもそも客なのだろうか。
 この……四季映姫は。


「やはり朝はアメリカンですね。とても美味しい」
「……そう」
 幽香が汚れた顔を洗いに席を外している間に、映姫はすっかりくつろいでいた。妖精らもすっかり懐いているようで、彼女がテーブルに置いた大きめの帽子に、群がったりしている。記憶の中の印象よりもずっと足の長い映姫は、自分よりも身長が高そうだ。椅子の下で行儀良く揃えられた両膝には片手を添え、モーニングコーヒーを味わっている。
 何を話したら良いか、そもそも何をしに来たのか。何もわからない幽香が間を保たせるために朝食もご馳走しようかと訊ねると、映姫は首を振った。かちゃりという微かな音をたてて、カップをソーサーに置く。
「あまり長居はできませんので。お彼岸の頃は少し暇になるので、忙しくはないのですけれどね」
「ふうん?」
 なら、ただの気紛れなのだろうか。
 全く知らない間柄でもないし、この間みたいな変な説教を始めない限りは、どちらかというと好ましい相手に分類される。どうせ秋までは向日葵を見て過ごす以外にやることも無いのだから。
 毎年そうしている。ずっとそうしている。向日葵を見上げていた頃から、ずっとだ。
 ついつい窓の方へ、意識と視線をやる。
 しばらくして、彼女は自分のすぐ横に映姫の顔を認め、驚いた。
 いつの間に立ったのだろう。そう思うのと同時に、体が反射的に緊張した。もし敵対するようなことがあれば、すぐにでも反撃できるように。
 ところが映姫はにっこり笑って、幽香の頬に手を添えてきただけだった。
「な、何よ……」
 ひんやりとした感触に、柄にも無く肝を冷やしていた。それと同時に、少し、ほんの少しだけ、どきどきしていた。
「お話するときはちゃんと相手の方を見るものですよ?」
「話っていったって」
 ……何か話していたのだろうか。それとなく映姫の瞳を窺うが、深奥は見通せない。逆に見つめ返されているような錯覚を受け、今度は反対の方にそっぽを向いた。
「こらっ」
「ぎゅぷっ」
 変な音が口から漏れる。映姫が両手で幽香の顔を挟んで、自分の方に向けさせたのだった。人間などのヤワな生き物だったら、首が折れていたかもしれない。それほどに映姫の手は、力強かった。それでいて手の感触自体は優しい。
 緊張と混乱、戸惑い。不安。それらが綯い交ぜになった幽香に、映姫は語りかける。
「素直に話を聞かない子には、いつもこうしているんですよ」
 魂にも顔があるのかどうかは知らないが、相当に難儀そうだ。想像してみた幽香が眉間を顰めたのを見て、映姫が声を出さずに嗤う。窓から射し込む朝陽に、輪郭が溶けていた。
 そして、
「ふふっ、そう、そんな感じで、緊張するんですよ。だから……」
「む……!」
 二人の口元の輪郭が溶け合うのを、妖精らは確かに見ていた。
 同じ緑色をした髪が触れ合い、重なり、絡まる。
 初めてのキスは、コーヒーの味がした。


 向日葵畑は秋を前に、これでもかと咲き誇っていた。今日も、幽香が来るだろう。
 時間の感覚が麻痺しているというか、そもそも無い妖精らにとっては、彼女がどれだけ以前から自分たちに興味を示しているか、わからない。
 だからいつも、こう思うだけだ。今日こそは素直になって、幽香を喜ばせてあげるんだ、と。「今日こそは」が「明日でも良い」になり、明日が今日になると、また同じことを繰り返す。
 幽香もそれを知っているはずだったが、同じことを繰り返してきた。それでも一緒にいられるなら、それで良かったのだった。
 だが、今日の幽香はひと味違っていた。
 出会い頭に向日葵妖精を捕らえ、おもむろにキスをしたのだった。
 キスのキの字もわからない妖精らにとって、その行為は精神を炸裂させた。エルサレムに突入した十字軍騎士のごとく熱狂し、ルネッサンスを迎えたに等しいくらい感激し、森を駆け抜ける機械化部隊さながらに他の感覚を蹂躙した。
「や、やだ……凄く良いっ!」
「素敵っ! もっとしてえ!」
「次、私、私なのぉ!」
 幽香にすがりつく向日葵妖精達に、幽香は声を出さずに嗤う。その表情は、映姫にそっくりだった。


  ******


「というわけで、これが映姫様のとっておきなんよ」
「……は?」
 どこが? という表情で、射命丸文が首を傾げる。先頃から小野塚小町に取材をしていたのだが、やたらと自慢しいに話す彼女に、違和感が募ってばかりいた。
「いえ、確かに興味深い話でしたが……とっておきというのは? これ、ただの痴態ですよね?」
「馬鹿さこくでねえだよ!」
「ふぎいっ!」
 急に田舎弁で怒鳴った小町に、文がペンを落とす。
「良いか、素直になれない女子の舌を絡め取り、ぽんっと勇気をあげる! 嘘吐きの舌を取る閻魔様にしかできないことでねえか!」
「うわあ……」
 凄く……リスペクトです。
 いやいや、きっと彼女は必死で自分の中の映姫像と、実際の痴態趣味との折り合いを付けようとしているのだ。そのために言語にまで異常をきたしているに違いない。きっとそうだ。そういうことにしておこう。
 これはさっさと撤退した方が良さそうだ。取材のお礼に約束の低反発枕を渡すと、すぐに三途の川を離れた。
「ま、嘘も方便ということで。今回は適当にお茶を濁しておきましょう」
 下手に閻魔のプライバシーを侵害したら、何をされるかわからないし。
 そんな風に自分を納得させながら呟いていると、

「嘘がどうかしました?」

 隣に、映姫がいたのだった。