貴雪
小鳥が、土の上を啄ばんでいる。大した餌も無いだろうに、土そのものが、彼らに活力を与えているようだった。
孟春の、まだ雪景色が広がる中でも、彼らはいつの間にか、そういう場所を見付けている。
冬に何かと行事が多いのも、そうした心根を、人間も持っているからだろうか。そういえば今日は鏡開きだったか、と今更のように思い出す。
風見幽香は、人間の知り合いを幾人か思い浮かべた。あまり行事が好きそうにない、面倒臭そうな顔が真っ先に出てきたので、早々に掃う。
もとより、幽香が向かっているのは、人里から離れた場所だった。
ブラウスにチェックのジャケットを着込み、キュロットとタイツを穿いている。そこにキャップを被り、背嚢を担いだ姿は、彼女を知っている者からすれば、重装と言えた。
彼女は幾つかの家を持っており、今年の雪の具合を視て、山の住居に移ることにした。
来そうでなかなか来ない春の訪れを、山間で待つのはじれったいものだ。それがかえって、幽香のような季節に敏い者には、心地良い。まるで季節を枕に、まどろむような。
頭の片隅に、保存してある食料などの心配を置きつつ、幽香は斜面を行く。山中は流石に雪が多く、腰まで埋まる高さがあったが、馬鹿正直に歩く必要は無い。
冬眠しているはずの獣達、または妖怪らを、無為に刺激しないよう、低空でゆっくりと飛んで行く。
杉から落ちた雪の粒達が、無数の球になって、白布の上に転がっている。幽香が通り過ぎると、それらは一団の虫のように一箇所に集まって、散った。
毎年のことなので、どこに何がいるかを、幽香は大体把握している。この辺りは比較的、木がまばらで、山の尾根も近かったから、その日の天候に左右され易い。こういう場所をねぐらにするのは、いなかった。
昼前の晴れ間を見てすぐに出発したから、餌場に移動する影や跡も無い。ここから尾根まで抜けて、尾根を伝いながら奥地に行くと、小さな山の頂を見つけることができる。その山の、緩やかな斜面を見下ろせる場所に、幽香の住居はある。
元々は山小屋に過ぎなかったものに、二つばかり部屋と屋根を継ぎ足したのだが、一人住まいには十分だった。
もう何十年も使っているが、住居は今年も無事なようだった。
玄関先に下りる前に、幽香は屋根に積もった雪を確かめた。消し飛ばすのは簡単だが、それもあんまりだし、かえって屋根が寒々しくなる。二メートルも無いのなら、と割り切って、煙突と玄関先の一坪ほどの雪を、妖力で掃う。そのとき舞った雪達は四方八方に飛び散って、周囲の有象無象に、幽香の来訪を知らしめる。それぐらいのことはしておくのは、礼儀の範疇だった。
玄関戸だけでなく、建物全体には、縦横に蔦が絡み付いていた。壁に使われている分厚い木板の隙間にすら蔦は及んでいるようだったが、幽香が戸を軽くノックすると、蔦の大半は濃い緑の香りを放って、霧散した。
そうした蔦はいわゆる魔除けに当たり、残ったのは物理的に補強の役目を果たしている蔦、という寸法だ。何せ一年間も放っておくわけで、これくらいは備えとしては序の口とも言える。
しばし立ったままでいると、やがて煙突から「ぼふっ」と大きな音がして、一年分の埃や煤が飛び散る。それらと入れ替わりに、幽香は建物の中に入った。
入ってすぐの場所は、暖炉のある居間になっている。仕込んでおいた仕掛けは今年も上手くいって、空気は清潔だった。
荷物を置く前に、先に台所に向かう。そこから地面の木板をはぐって、空洞に下りる。そこは貯蔵庫になっていて、酒や紅茶の葉が整頓された状態で置いてあった。小一時間かけて、滞在中の分は全て無事なことを確認すると、傷んだものを捨ててから、暖炉の前に戻る。
肉類は山で調達できたし、大概のことは妖力で賄える。これなら、今年ものんびりできるだろう。
幽香が暖炉に手をかざすと、煙突の中に張り付いていた蔦葉が落ちてきて、発火した。
その煤臭さが、幽香の喉元を、奮わせた。
十五平米も無い室内はすぐに暖まり、臭いも篭るような様子は無かった。居間のソファの他、寝室のベッドにも、特に異常は無い。
確認をするだけすると、昂奮は疲れに変わって、喉が乾いた。
貯蔵庫から持ってきておいた蒸留酒の瓶を開けて、グラスに注ぐ。コーヒーテーブルには、瓶と詩集、そして足を投げ出して、ソファに深く腰を沈めると、グラスを呷る。刃物でも飲み込んだような刺激が喉を走って、目を回すと、熱い息を吐いた。
「ああ、これだわね」
恐らく説明しきれるものでもない感慨を、幽香は口にした。よくよく考えてみると、一週間ぶりぐらいに、口を利いた気がした。
愛読している詩集は、誰の編によるものでもなかった。幽香が長年に渡って、読み、聞いたものを、書き留めてきただけのもの。言語はバラバラで、韻も平仄も区別無く、七五調だか七五三だか、詩集というよりもスクラップのようになっている。
これを余人が読んでも、編集意図の不明さから、腹が立つだけだろう。幽香自身、詩そのものより、それを書き留めたときの自分の心境を思い出して楽しむことの方が、多かった。
その思い出した自分とは、果たして、本当にそのときの自分なのだろうか。
花は何度でも咲いては散るが、それは同じ花と呼べるだろうか。美しさの中に、かつて失われたものを見出すこともあるのではないか。
そんなようなことを、取り留めもなく、半ば酔っ払った状態で考え続ける。寝てるのだか、起きてるのだか、自分でもよくわからくなる。足もあるのだか、ないのだか。
その足がテーブルの角に当たって、ようやく、歯車が噛み合った。服の襟元を直しながら窓の外を見遣ると、既に暗くなり始めていた。暖炉の火は大分弱くなっていたが、幽香がじっとりとした目付きで睨むと、再び赤々と燃え始める。そんなことをしなくても、この建物、土地自体が彼女の支配下なので、知らぬ内に凍え死ぬなんてことは有り得ないのだけれど。
暖炉以外の灯を取ろうかと考えて、しかし後ろ頭を掻いた。干し柿や干し葡萄、塩漬けした肉などは背嚢の中にたっぷり入れてきたし、これから獲物を獲るのも、一瞬のこととはいえ面倒だった。
妖怪は栄養面については、とんと無頓着で、力が湧けばそれで十分だった。その力には気力が多分に含まれているから、酒や茶といった嗜好品が特に好まれる。放っておけばずっと酔っ払ってる、などとは言うが、妖怪の場合はそれで暮らしていけたりする。
荷物の半分は食料でも、もう半分は服だった。それらは着いてからじきに、寝室のクローゼットに入れたが、背嚢にはぎゅうぎゅうに詰めて来たから、皺が少し出来てしまっていた。
何はともあれ、このままソファで寝てしまうのも良さそうだ。
そのとき、にわかに鳥の羽ばたく音が聞こえた気がして、幽香は天井を見上げた。
じきに思い出したことがあって、重い腰を上げて窓の傍に立つと、雪の塊が何層か落ちた。それが治まると小高い山のようになって、どこからか一羽の猛禽が、頂上に降り立った。
タカに外套を羽織らせたような、むっくりとした体躯。種類は、別に珍しくも無い、ノスリだった。自分の翼を広げて、内側の真っ白な羽をこちらに見せる姿は、この翼は綿雪よりも価値があるのだと、見せびらかしているようだった。
「あなた、まだここら辺にいたのね」
鳴きもせず、そもそも声が聞こえたかどうか、体を小刻みに揺する。
特別、思い出があるわけではなかったが、ここまで愛嬌のあるノスリも、なかなかいない。彼なのか、彼女なのか。幽香にはそれもわからなかったが、一つ頭を下げた風にすると、勢いを付けて、飛び去っていった。
あのノスリが、記憶している範囲のものと同一の固体なら、もう五年以上の付き合いになる。長いこと隣人などというものは持たない幽香だったが、まさか空を覆うわけにもいかなかった。
平野の住居にも鳥は来ることがあるが、花にとってはあまり好ましい存在ではない。転じて、あのノスリのおかげで、花の無い場所にいるのだという実感が湧いてきた。
花が無いからこそ、花を強く想う。酒の匂いの中にすら、花の気配を追う自分がいる。
鼻の奥で花びらを散らしながら、幽香はソファで眠った。
五日が過ぎた。その間、全く外に出ていないと聞いて、来客は眉を顰めた。
「つまり、ずっと酔っ払ってたんですか? 幽香さんもパワーが過ぎて、鬼っぽくなってきたんじゃないですか?」
射命丸文の声は低い方だったが、鬱陶しさに、幽香は目付きを険しくした。
文は慣れたもので、接待用に持ち歩いているらしい細長の煙草を差し出すと、火を点けてきた。甘い辛いで言えば、辛い香りが、まだ残っていた酒気を掻き回した。
「一応……着替えはしてるわよ」
煙を吐く間に、ぼそりと呟く。
「それはそうでしょう。同じ少女の形をしたのが着替えすらしてなかったら、もうそれだけで軽蔑の対象ですよ」
煙草を差し出しておいて少女も何も無いと思うのだが、鴉天狗なんかに軽蔑されたら、さぞかし悔しいことだろう。
この鴉天狗というやつは、殊に目の前の文は、わざわざこんな所まで訪ねて来て、生活のあれやこれやを聞いてくる。生憎とご期待にはそえなかったようで、今しがた書いた部分のメモを引き千切ると、くしゃくしゃにしてポケットに突っ込んでいた。
その様子を見ていて、幽香は思い出すことがあった。
「今年は、あれやらないの?」
「はいはい。まあ、毎年のことですからね。実はここに来たのも、監督役を兼ねてるんですよ。そろそろ着くんじゃないですか?」
下っ端天狗による日帰り雪山訓練というのがあって、そこら中の山で暇を見付けてはやっているのを、何度か見たことがあった。
この建物がある場所は見晴らしも良く、折り返し地点としては打って付けだった。
実際は訓練などというのは方便で、上の連中が年末年始に乱痴気騒ぎをしたいものだから、下の連中に醜態を見せないよう、外に引っ張り出しているのだろう。
今日は曇天で、雪の反射が無いから、外に出てみるのも良いかもしれない。あれがあると、窓を見ただけで嫌になる。白銀の世界などとよく言うが、瞼を徹するような光は、毒でしかない。
その気になると、途端に酒気は散り、煙の味がしみた。
「おっ? 出ますか」
顔色に気付いた文が、椅子から腰を浮かす。
幽香が外套を羽織って寝室から出てきたときには、文は外にいた。ちょうど斜面の下の方に、十名はいそうな一団が見えた。
連中も姿は少女であるから、腰から上が埋まる雪の中にいるのだが、馬鹿力頼みで新雪を撒き散らし、一直線に上ってくる。あれも訓練の内なのはわかるが、もう少しスマートな方法がありそうなものだった。
文は、野暮ったい厚手の半纏を羽織っている割に、下半身はミニスカート。幽香はそれを横目で見ながら、袴姿の一団を眺めた。こうして間近で見るのは初めてだ。
疲れた顔をしてるかと思えば、誰も彼も上気した顔でお互いを小突き合ったりしており、これが山中でなければ、女学生と変わる所が無かったろう。
「……もしかして、この訓練って」
「そうですよ。誰あろう、あの子達が一番楽しんでるんですよ。白狼天狗が山の外に出る機会なんて、あまりありませんからね」
それに付き合うのだから、文もなかなか複雑な機微の持ち主なのだろう。
「射命丸様、次のお山はどちらにしましょう!」
「ええ? ここが折り返しですよ?」
「来た道をそのまま帰るなんて訓練になりません!」
「そういうもんですかねえ」
文は雪の臭いも嫌になってしまったかのような顔をして、煙草を咥えると、残った煙草の箱を幽香に投げて遣した。
「というわけですので、遠回りして帰らなければならないようです。それはお年玉ですよ」
幽香が赤い箱をしげしげと眺めている間に、空中を往く文を追いかける形で、一団は去っていった。
と、彼女らから視線を家の方に戻したとき、三つばかり、ドサ袋が転がっていた。中を見ると、リンゴや蜜柑といった果物の他に、白菜などがゴロゴロと入っていた。
「賑やかな宅配便だこと」
好意に感謝するような性格ではなかったが、抉られて出来た雪道を見て不快に思うようなことは、無かった。
その雪道も、二日間続いた吹雪で、すっかり埋まってしまったのだった。
ありあわせの材料で作ったアップルパイは、渋くなっていた紅茶の味には、調度良かった。
こちらに移り住んで、かれこれ一ヶ月。ここまでくると、雪解けがかえって煩わしく思えてきたりする。
精神というやつが体の外側ではなく内側にあるのは、中から外の様子を想像するだけでいたいからに違いない。そういう皮肉ったことも、頭を過ぎるようになっていた。
文からもらった煙草はすっかり無くなり、思い出したようにソファから起き上がっては、温水で湿らせた布で体を拭いたり、雪を沸かして風呂にしてみたり、と、悠々自適そのままに日々を送っていた。
今は平野の住居の花壇の再設計を紙に起こしていて、どの品種を目立たせたものか、あちらが立てば、こちらが立たず、ああだこうだと、唸っていた。
時折、ノスリが羽音を届ける。リンゴのカスを捨てておいたのに、味をしめたらしい。最初からそのつもりではあったが、いざ食われると、何だか腹が立った。
「私はね、春だけを待っているのよ」
言い聞かせるように、ソファに寝転がって、目を閉じた。
時折、自分も季節みたいなもののように、思える。
土地という土地に居候して、ふらりと去っては、またやって来るのである。花は季節を喜んでくれる。春も、夏も、秋も、また冬でさえも。
私は、どうだろう。
その疑問を忘れないために、ここにいるような気がした。