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瞬間、こころ重ねて

 夏の幻想郷の山並みは、豊聡耳神子には落ち着く風景だった。鮮やかな緑に染まる山々からは十分な水量の川が流れ、目を開けずとも、耳を澄ますだけで自然を味わうことができる。
 水害が無いわけではないが、民が泣き叫ぶほどのものでもない。旱魃で喘ぐ声も無い。よく出来た土地である。ここに足りないものがあるとすれば天子の気ぐらいなものだろうか。

 ――たまにはこうして、取り留めの無いことを考えるのも良いものだ。

 神子はストレスが発散されるのを実感して、現実と向かい合うことにした。
 視線を山から至近にやってみると、そこでは秦こころが川面を見詰めていた。
 見詰めている、というのは、そう理解した方が趣があるだけで、本当に見詰めているかどうかはわからない。
 大体、姿勢がおかしい。
 上流の河原で四つん這いになって、袖は水に濡れてしまっている。石が多いから膝や脛が痛いはずなのだが、妖怪だから気にならないだけだろうか。

 ――あるいは何か落としたのか。

 さもなければ屈んで眺めていれば済む話だ。
 彼女は落としそうなものなら沢山持っている。いやしかし、付喪神が本体を落とすことはありうるのか。むしろ付喪神の方が落し物なのではないか。
 何だか思考がややこしくなってきたところで、こころの後ろ髪がぱしゃりと水面に落ちてしまった。
 それでもこころは動かず、周囲を漂うお面達も静かなものだった。
「髪ぐらい気を遣うものですよ」
 神子はとうとう、こころに声をかけた。散歩中に見かけてから、実に一時間近くが経過していた。
 それでもこころは水面を見詰め続けていたから、神子は仕方なく隣で屈んだのだった。
 持っていた手拭いで後ろ髪を拭ってやる間も、こころは水面に泳ぐ自分の顔とにらめっこを続けていた。
「感情でも落としたのか?」
「……落としてみたいんだ」
 何やら頓智めいたことを言い出した。そういうのはあまり得意ではないので、冷静に続きを促してみた。
「どうやって落とすというんだ? 顔を浸けるのか? だったら見ててやろう」
「それができないから困っているんだ」
「何故だ? 浸けるだけだろ?」
「……いや、だから……それが……」
「え、何だって?」
 散歩気分で出てきたままに接しているせいで、神子には欲を聞くという頭が無い。
 そうとは知らないこころは、神子が意地悪でやっているものだと思って、今度こそ神子に目を合わせた。
「水が怖くて浸けられないのっ」
 折角拭った髪の毛が神子の手から滑り、また水面に落ちた。


 こころもまた、涼しげな空気に誘われて上流へとやってきた一人だった。
 そこで川魚が水面から飛び跳ねるのをたまたま見かけて、水の中に注意が向いたのだった。
「しかし、水に顔を浸けるのが怖いわけか。なるほどなー」
 二人は川っぺりにある大きめの岩に腰掛けていた。自分が何をしようとしていたかの説明を聞きながら、神子は今度こそこころの髪を拭いきった。
 流石に妖怪だけあって、表面さえ拭ってやれば、髪はすぐに柔らかな手触りを取り戻した。
「顔を洗うことはできるのだろう?」
「できる」
 ということは水が弱点であるとかではなく、単純に怖いのである。
 そうした感情について、神子は共感できた。
「実はな、私も水が苦手だったのだ」
「へー、そーなんだー」
「話を合わせてると思ってるだろ。本当なんだからな」
 こう見えても皇族である。水に頭から浸かるなんてことは無かった。
 そんな神子はある人物との出会いで変わった。
「お前のお面の元の持ち主だ」
「河勝?」
「うむ。河勝の奴は泳ぎが上手くてな。手取り足取り、私に泳ぎを教えてくれたのだ」
 よくよく思い出してみるとやたらと体をべたべた触ってきた気がするのだが、大陸流の作法であろう。そういうことにしておこう。
「数年後に私が『飛鳥川のスズキ』と呼ばれるようになったのも、河勝のおかげである。いやもちろん、私自身の才能が巨大だったことも無視できないわけだが……」
 ごほんと咳払いをして、神子は話を戻した。こころの双眸が、こちらをじっと見詰めている。
「とにかく、お前も折角そこそこは踊れるのだから、顔を浸けるだけじゃなく泳ぎもそこそこ達者になれば、河勝も草葉の陰でそこそこ喜ぶだろう」
「私がその人を喜ばせてあげないといけない理由は無いんだけど」
「わかっておらんな。私の才能が巨大な余りにお前がうっかり形を成してしまったが、河勝の影響も見受けられる。そこを基点にすれば効率的に力を付けられるはずだ。なんなら……」
 こころがちゃんと話を聞いているのを確かめながら、神子は続けた。
「なんなら、妖怪に詳しいあの尼にも聞いてみると良い」
 しばらく思考して、こころは伏せかけた目を神子に向け直した。
「聞かなくて良い。やってみれば済む話」
「そうか、ならばちょっとじっとしていろ」
 言わなくてもじっとしていそうだったが、神子は岩から降りてこころの後ろに立つと、彼女の髪の毛を尋常ではない速度で結い上げ始めた。
 十秒後には頭の後ろで大きなお団子が出来上がっていた。
「ふぁふぁふぁ! どうだこの速度! 伊達に髪型には凝っておらんぞ! あっ、まだ動くなよ」
 神子は虚空からマントを取り出し、それでこころを頭から覆った。それも一瞬の間のことで、マントはすぐに取り払われた。
 岩の上には、ひとつなぎの真っ白な水着を付け、頭には水泳帽を被った、こころが座っていた。胸にはでかでかと『こころ』と右書きで書かれた名札が縫い付けられている。
 辺りを漂うお面達がざわざわと蠢いている。とりあえず怒ってはいないようである。
「これ、いつ用意したの?」
「私はお前のような妖怪が何をしたがるか、何百というパターンから予測をし、どんな習い事でも瞬時にさせられるように道具を揃えてあるのだ」
 どちらかというと水よりも神子の方が怖くなるようなことを言ってのけるが、本人は気にした様子が無い。むしろ怖がられた方が喜びそうで、なかなか屈折した御仁である。
 こころもこころで一度やると決めた以上は、余計なことは無視したのだった。


 神子は川を少しばかり遡り、自分とこころが肩ぐらいまで浸かる深さの、流れが緩い場所を見付けた。
 そうして二人は川の中に立っているわけだが、こころの視線が神子を刺していた。
「そっちはいつもの格好のままなわけ?」
 神子はいつもの格好、ノースリーブにスカートを穿いた格好で水に浸かっていた。パッと見、かなり怪しい。せめて耳当てぐらい外せ。
「この格好は水陸両用なのだ。わざわざ着替えるまでもない」
 機能的にはそうかもしれないが、ならば耳当てはどうなのか。その質問に神子は笑っただけだった。
「今は気にしなくて良い。先ずは水に顔を浸けられるようにならなくてはな。それさえ乗り越えれば、すぐに大体のことが出来るようになるだろう」
 口ではそう言う一方で、果たしてそれを手伝って良いのかという疑問が浮かんでもいた。
 妖怪は自由に見えるが、領分を自分から越えることが無い。さながら時計のようなものだ。機械的な狂いが生じない限り、時間という概念に従い続ける。
 その狂いを生じさせるようなことにはならないか……。
 そんなシリアスな疑問も、神子にとっては大木に伸びる枝の一部でしかない。
 その大木は現在、流れの中に立っている。
「とりあえず、今も怖いか?」
 怯えた顔のお面が神子の前を横切る。明快な回答方式である。
「水の中は別世界……その想起は自然なものだ。であれば話は簡単だ。地上で同じ状態になればいい。地上で狂った者は水に沈むことを怖がらぬ」
「御託は良いから具体的に言え」
「私並に口が減らん奴だ。では見ていろ」
 言い終えた直後、神子が直立したまま水に沈んだ。まるで足を引っ張られたかのようだ。
 その次の瞬間、その足が水面にすいーっと伸び出た。脛から爪先までが一直線になり、足指は柔らかく握られていた。
 足は円を描くように動き、円は大きくなり、いつしか円の中心はこころの立っている場所となった。
 足が沈んだかと思えば今度は腕が伸び、頭に続いて上体が飛び出て、飛沫と共に神子は踊っていた。いつも以上に笑顔なので、見ようによっては気持ち悪い。
 踊りが続いた後に改めてこころの前で停止。両手が真っ直ぐに天に伸びて、踊りが終わった。髪は全く乱れていない。
 日本で初めてシンクロナイズドスイミングを完成させたのは、聖徳太子だったらしい。
 真っ白な歯をこれでもかとこころの目に焼き付けた神子は、やおら表情を元に戻した。
「――とまあ、こんな感じだ」
「できるかっ!」
 こころは被っていた水泳帽を神子の顔に投げ付けた。神子はそつなくそれを手の平で受け止めて、こころに被せ直してやった。
「流石にここまで上手くやる必要はないが、何ならこれを貸そうか?」
 神子が自分の耳当てを指し示すのを見て、ここは首を傾げた。
「耳栓ってこと?」
「ここから音楽が聞こえるから踊り易い」
「いらねー!!」
「ジャイロとソナーも備わっている」
「もっといらない!」
 こいつは深海の蛸とでも闘うつもりなのか。こころが怒りの面で顔を覆っても、神子は続けた。
「水の中でも踊れる……それがわかれば十分なのだ。それとも今のではわからなかったか? 何ならもう一度」
 本気で言う口を、こころの面の一つが塞いだ。神子が話を大袈裟にするからややこしくなるのであって、やることは最初から決まっている。
 そもそも水面に対する恐怖心とは、その感情のゆらめきに気付いた自分自身に向けられたものである。水面に映っている通りにだ。
 ならば、あのときのように感情の面を求めれば良い。

 ――水面というお面を被れば良い。

 こころは前のめりに、ゆっくりと倒れ込んだ。ぱしゃん、という音がした後は耳の中に水が入り込んだ。口や鼻、眼窩にも。こころは目を閉じることすらしなかった。
 無数の泡に小石や小魚が視界を横切り、水上とは比べ物にならないぐらいに濃密な世界がそこにはあった。

 ――この濃密さの中では感情を持たなくても良いのかもしれない。

 その安堵と不安が、こころの中で渦を巻いた。
 途端に水面の流れに変化が起こり始め、神子は片眉を吊り上げた。
「これは覿面なことだ」
 川の流れが湾曲し、水面に人の顔らしきものが現れる。直径で五メートル以上はあるから、上空からも確認できそうだ。
 その顔の揺らぎを神子は眺めるだけ眺めてから、こころの体を引き上げた。
 仰向けにしたこころのほっぺたをぺしぺしと叩くと、口から噴水が昇った。他の穴からも水が抜けて、こころは我に返った。
「うーん……頭が踊ってる」
「体を動かさない踊りがあるか」
 神子はこころが一人で立てるのを確認してから、自分は仰向けに水に浮かんだ。神子の軽そうな体ならそのまま流れていってしまいそうなものだが、手足をゆらゆらと動かしているだけで、その場に留まっている。
 上流からの水が神子の髪を圧し撫でる。その感触が心地よくて、神子は目を閉じた。
「何はともあれ、後はお前次第だ。勝手にやれ。何ならこのまま滝を登って、龍にでもなってみろ」

 ――それぐらいの大妖になったならば、存分に相手をしてやる。

 顔に影がかかったのに気付いて、両目を開く。
 こころが物珍しそうに顔を覗き込んでいた。
「お面が浮かんでる」
「……ああ、私のことか」
 たまには愉快なことも言うものだと頬を緩ませると、その頬を両側からがっしりと掴まれた。
「もぎょっ!?」
「ひょっとこみたい」
 顔を弄ぶこころに、神子はただでさえ尖った唇を鋭くした。
「こいつめ!」
 神子はこころの二の腕を掴んで、そのまま水の中に引き込んだ。
 水浴びの気持ち良さが神子の気持ちをも若返らせたのかもしれない。二人は髪が乱れるのも気にせず、日が暮れるまで水と共に戯れていた。


「おい! ちょっとここ座れ!」
「へ?」
 朝の道場での仕事を終えて帰ってくると、おかんむりの屠自古に迎えられた。
 これから里に出て民草の様子でも見ようと思っていたのだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。
 布都は見て見ぬ振りを決め込んで、窓際で鼻歌混じりに裁縫をしている。
 神子が食卓に着くや、屠自古は天狗の新聞を神子に突き付けた。
「毎日毎日、暑い中も里で仕事をしてると思ったら、こんなことをしていたのか!」
 新聞の一面には『道士様の水遊び』の文字が踊り、水着姿のこころを後ろから抱いている神子が写っていた。
 天狗の腕は大したもので、神子の手がこころの胸にかかるかかからないかを、ぎりぎりのいやらしさで表現している。紅くなった頬と水滴が実に艶めかしい。
「あー……いや、これはね、屠自古。天狗の存在に気付かなかった不明は実に恥ずかしいことだが、しかしながら私は他にやましいことは何一つ無いのであって、これは天地神明に誓ってだね」
「どこの天地神明に誓えば、こんな服を用意してまで水遊びをすることになるんだ!? あっ!?」
「それは私の巨大な才能が有り余って」
「有り余ってるのはそのテンパヘアーと欲求不満だろ! しかもよりにもよって付喪神みたいなの相手に……悔しいぃいいいい!」
「ぎょえおーっ!」
 屠自古は神子の首根っこを締め上げると、感情の昂ぶりのままに電撃を食らわした。この電撃は神子と力の性質が近いせいで、あまり減衰させられない。
 まともに食らってぐったりとした神子を、屠自古が奥に引っ張っていく。
 二人を見送った布都は、糸切り歯で糸を切った。
「太子様には悪いが、しばらく屠自古の相手をしてやってもらわねばな」
 そのためにわざわざ、里で見付けた新聞を持って帰ってきたのである。
 布都の手には、『物部』と書かれた名札を縫ったた紺色の水着が、握られていた。