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大日本珈琲熱湯

 何かと見上げたくなるような曇天だった。降り出すのはじきのことだろう。
 今の内に出かけようか。それともこのまま、腰を据えて作業をしていようか。
 自分にしては消極的な思考だというのは自覚していたから、文は窓硝子に溜息を吐きかけ、曇らせる。休憩時なのだが、先述の思考が決しないままでは気分転換にならないのだった。
 来客でもあるのが理想だろう。そうすれば急ぎでもない清書の手を止め、ペンをカップに持ち替え、どろどろぐらぐらの珈琲が飲めた。しかしこんな山の中の、インク臭い作業場に、人が来るとも思えなかった。
 となると、雨が降ってしまえば良い。やや本末転倒気味の期待をするのに前後して、窓硝子を風が叩いた。
 見る見る内に天気が悪化した。雲が雲を引き寄せ、巻き込み、風を混ぜた。落ちた影が山肌を撫で回し、木々をざわつかせる。やがて雑音が失せ、雨粒のものだけとなった。
 それは『雨』という題名の絵画を、自然が一瞬にして描き上げる様子だった。自分が思案をするよりもずっと短く、濃密な時間に、文の感覚は呑まれた。
 だがそれも、驚きではなく刺激の類だ。天狗を長く続けていれば、どれだけ巧みな力の緩急によって自然が成り立っているか、よくわかっているのだった。一々驚いているようなのは自然への敬意ではなく、慇懃でしかなかった。
 だからそのときも文は驚かなかった。八雲紫が、作業場の物陰から現れても。
 紫は、少しだけ肩口を濡らしていた。
「雨宿りですか」
「そんなところ」
 文は立ち上がって、今まで使っていた椅子を紫に勧めた。紫がさも当然のように腰掛けるのを尻目に、文はポットのお湯を沸かし直す。粗く煎った豆で珈琲を落とした。香りに気付いた紫が、声をかけてきた。
「長居する気は無いんだけど」
「いやあ、私が飲みたいので。ついでです」
 手早く作り終え、カップを運ぶ。紫は濡れた部分をハンカチで拭った後だった。
「砂糖とか、無いんですよね」
「構わないわ」
 文には意外だったが、紫は泥水然とした珈琲を受け取ると、美味そうに飲み始めた。熱くて、頭の中をぐらつかせるぐらいしか取り柄の無い珈琲を。
 仕草が洗練されているために、そう見えるだけなのか。それにしたって不味いと思えば不味いと言うだろうし、残しもするだろう。
 余計な心配は置いておいて、文は立ったまま、自分の分に口を付けた。口の中が爛れそうな味は相変わらずで、これが一番、文の口には合った。
 香ばしさよりも濃さを、渋味よりも濃さを、飲み心地よりも濃さを、とにかく濃さを追求した、珈琲党からも嫌われること請け合いの一品である。一度、子飼いの鴉が勝手に口を付けたことがあったが、一週間ぐらいその顔を見なかったものだ。案外、そこら辺にあるインクを飲んだ方が体には優しいかもしれない。
 ソーサーにカップが置かれる音がして、文は紫の方に注意を向け直した。
「あなた、天狗だっけ?」
 味についてコメントでもあるのかと思ったら、やけに初歩的な質問をされる。生憎と自宅では草履履きで、一目で天狗とわかる一本下駄はそこら辺に転がっているのだが、紫はただ確認のために言っただけのようだった。
「天狗なら、人をさらったことはあるのかしら」
 本命の問いだ。どのような意図かは量りかねたが、詰問めいた雰囲気ではない。
 文は素直に心当たりを探ってから、答えた。
「お持ち帰りしたことはありませんね」
「似たようなことならしたわけだ」
「私のような不調法にはそれが限界です。興味が無いわけじゃないんですけどね。人さらいは妖怪には付きものですから。ああ、神隠しとも言いますが」
 文の持って回った言い方を、紫は気にした風も無い。しかし今更のように口を曲げ、窓の外に視線を投げた。やはり珈琲が不味かったのだろうか。
 ところがその珈琲を、紫は一挙に飲み干した。
「ご馳走様。そろそろ行くわ。迎えも来たみたいだから」
「迎え? この雨の中を?」
 頭に浮かんだのは普段から紫が従えている九尾の狐だった。いくら元が大妖でも、雨の中に引き出されたのでは式が剥がれてしまう。大体、ここに来たときもそうだが、紫は帰ろうと思えば自力で、しかも全く苦労せずに、スキマを通って帰ることができた。
 まあ迎えに来るぐらいだから忠誠心はあるのだろう。果たしてそれがどこから湧き出るものなのか、一度取材でもしてみたいものだ。
 思い立った文は珈琲を適当な棚の上に置くと、相手の心象も考慮し、手拭い片手に急いで玄関戸を開けた。
 向こうも手を掛けかけたところだったようで、片手を上げた状態で顔を合わせることになった。
 が、想像していた相手とは違っていた。白いのっぺらぼうみたいなのが、眼前にいる。
 面食らった格好の文に会釈だけして、相手は奥の方を覗き込んできた。彼女と目が合った紫は、その名前を呼んで労った。
「よく来たわね、妖夢」
「それはまあ、雨宿り中にいなくなられたら探しますよ」
 二人のこのやり取りから、咄嗟に頭の中を回転させた文は流石だった。
 玄関先から横に顔を退けると、持ったままだった手拭いを妖夢に差し出した。
「ゆっくりしていってください。この降り方なら、じきに止むでしょう」
「いや、でも……あっ」
 彼女が反射的に手拭いを受け取るのを狙って、文が傘を奪う。あくまでも預かった風を装って。
 妖夢は憮然とした表情で湿った箇所を拭いた。最後に自分の半霊の頭を拭い、文に手拭いを返す。
「私、あなたのこういう所が苦手なんですよね」
「最高の褒め言葉です」
 彼女にしては渾身の嫌味を無視され、泣き出しそうな顔をする。しかし弱気が出て紫の方を見ても、「勝手なことをして」と突っぱねられただけだった。
「……お邪魔します」
「はいはい」
 適当に言って、文は別の部屋から椅子を持って来た。草履履きの所為か、普段よりもどたばたとしている。
 それからまたポットの方に行って、例の珈琲を入れてきた。
「うっわ、何ですか! この危険物は!」
 至極当然の反応に、紫が鼻で笑う。
「意外と美味しかったわよ」
「しれっと胡散臭いことを」
 こんな具合にしばらくはわちゃわちゃしていたが、お湯で薄め直したものを文が持ってくる頃には落ち着くこととなった。何せ、白玉楼どころかマヨイガと比べても、この家は狭っ苦しい。
 この家は大雑把に分けると三部屋あり、その内二つは寝室と勝手場で、最後の一つが現在三人のいる作業部屋となっている。風呂はといえば知り合いの河童に拵えてもらった、釜一体型ドラム缶という常に爆発の危険を伴うものが屋外に設置されている。
 ともかく、全体として勝手が利かない。居間が無いことからもわかる通り、作業場としての機能が重視されている所為だった。
 勝手場なんぞほとんど印刷所で、写植の器具やら板やら、本来の役割を求めるだけ無駄な空間と化している。どうしてそうなったかといえば、ただ一点。風通しが良いから、だった。ここだけの話だが、洗面所とトイレは現像室を兼ねている。天狗にとってはいざ知らず、女子にとっては最悪の環境と言って良い。
 そんな所で普段通りに伸び伸びやれるはずもなく、妖夢は素直に珈琲を飲み始めた。
 その様子を見ていて、紫が呟いた。
「幽々子はどうしたの?」
「藍様と一緒に先に帰っていただきました。紫様がすぐに見付かるとも限りませんでしたから」
「……幽々子は何か言ってた?」
「特には何も。いつものことだから放っておいたら、みたいなことは仰ってましたけどね」
「あの子には言われたくないわねえ」
 ケラケラと笑う紫だったが、少し影が差しているように文からは見えた。雨雲の所為で多少暗いのも確かなのだが。
 文が机の上のランプを点けようとすると、紫がそれを制した。
「そこまで暗くないわ」
「はあ、それなら良いんですけど」
 別に作業をしているでもなし、良いと言われればそれで済む話だ。
 紫が妖夢の方に顔を向け直したので、文もまた定位置に戻った。妖夢は珈琲を飲むのに忙しそうだったので、文から会話を振る。
「さっきのお話だと、四人でこの近くまで来られていたようですが、何か御用でも?」
「近頃はここら辺が賑やからしい、って幽々子が言い出してね。私もこっちには顔を出さなくなっていたから、一緒に散策に来たのよ」
「それならそうと事前に言ってもらえれば、案内ぐらいしたんですけどねえ」
「それだとあなたが賑やかなだけじゃないの。まあ、次があれば考えてみるわ」
「へへへ、これはどうも」
 あくまでも次があればの話だが、リップサービスとしては悪くない。勝手に話だけ進めておけば、それはそれで美味しい展開も有り得た。梅雨明けに合わせられれば上々だろう。
「そのときはそちらもご一緒ということで」
 妖夢に向けての誘いに、彼女は乗ってこなかった。ぼうっとした風に薄目を開け、佇んでいる。
 文はそれとなく紫に顔を寄せた。
「眠いんですかね?」
「……かもしれないわ。幽々子に朝早くから準備させられたみたいだから」
 そう言う紫の視線は明後日の方向を見ていて、文もその方向を見て納得した。半霊がいかにもやる気無さげに宙を漂っている。本人に訊くよりもわかりやすかった。
 紫が慣れた手付きで宙を切ると、今にも妖夢の手からこぼれ落ちそうだったカップが机の上に移動した。
「鮮やかなもんですねえ」
「釣りの要領よ」
「ほほう。釣りがご趣味で?」
「ワカサギ釣りだわ」
「あっ、なるほど……スキマで」
 それはサギだ、とは言わないでおいた。
 そんなこんなしている内に妖夢は本格的に眠り始めたようで、半霊が紫の膝の上に落ちてきた。
「やっぱり、どこが落ち着くかわかるんですかね」
「んー、膝が冷えるから止めてほしいのが本音よ」
 口ではそう言いつつ、紫は半霊の頭を撫でる。ぽやんぽやんと風船みたいな弾力をしていて、顔を埋めたら気持ち良さそうだった。
「……ねえ、さっきの話なんだけど」
「観光ツアー!」
「違うわよ。っていうかそんな話はした覚えが無いわ」
「えー!」
 文が中途半端に声を張り上げる度、紫の奥眉がひくついた。寝る子が起きる程の声量ではないにしても、気にはなるのだろう。
「で、神隠しがどうかしましたか」
 注意されるよりも早く、ご希望通りの返事をしておく。
 紫は自分の帽子を脱ぐと、半霊に被せた。
「この子ね、私が連れて来たのよ」
「はあ?」
 要領を得ない言い方に、やや戸惑う。やがてそれらしい内容が頭の中で補完されると、口に出した。
「もしや、親元から引き離した、って意味ですか」
「そう。もっと小さい頃にね。この子の師匠がやるより手っ取り早かったのよ」
「そこら辺の事情はともかく……本人は覚えてるんですか」
「物心の境界をいじったから、覚えてないわよ」
 反則だった。何も妖夢に限った話ではない。この話を文に聞かせることもだ。紫がその気になればこの会話自体、夢か幻かということにできる。
 その気にさせないよう、聞くだけに留めろ。つまりはそういうことなのだった。そこまでしないと文を封殺できない、とも言えるが、本人は嬉しくない。
 片や話したいから話し、片や話したいのに聞くだけである。酷い話なのは間違いない。
「あれも今日みたいな雨の日だったわ。涼しい所に連れて行ってあげる、って言ったら、ほいほい付いてきたものよ」
 確かに冥界は涼しかろう。肝まで冷えるぐらいだ。さぞ泣き喚いたことだろう。
 実際、そうだったらしい。
「ここからが笑えるんだけどね」
「私にはもう、笑いがわからなくなりましたよ」
「そんな疲れた芸人みたいなこと言わないで、聞きなさいよ」
「はいはい、聞くだけが取り柄の射命丸です。何ですかもう」
「この子、私の膝の上で寝ちゃったのよ」
「それはそれは……あや?」
 僅かな齟齬を覚えて、こめかみを押さえる。
 その間に紫は半霊を妖夢に投げ付け、両方を同時に起こしてみせた。
「みょんがーっ!」
 起きたは良いが椅子ごと地面に倒れ、玄関の方に転がる。それには無関心を装い、紫は今度こそ席を立った。
「それじゃ、また梅雨明けに会いましょう」
 起き上がった妖夢に、彼女が落とした太刀を手渡す。そうする一方で玄関脇に置いてあった傘を開いた紫を、妖夢が訝しがる。
「私が持ちますよ?」
「持ちたい気分なの」
「そう仰るなら……」
 それ以上は食い下がらず、代わりに文の方に振り向く。妖夢はご馳走様でしたと言って、小降りになった雨の中を紫と一緒に歩いていった。


「湯加減いかーっすかー」
「あー」
 雲の晴れた夜空の下、文は風呂に浸かっていた。お世辞にも湯船とは言えない、例のドラム缶に。あえて湯船と表現するのであれば、さながら沈没間近、船首か船尾のどちらかを上に向けて沈んでいく状態である。
 そのドラム缶を暖めるのは知り合いの河童で、制作者でもある、にとりだった。山の方にいる友人の所から帰る途中、立ち寄ったついでに火の番をさせられていた。
 湯加減も何も、文はとにかく熱いのが好きだったから、人間が入ったら一瞬でショック死するような状態で良かったりした。そのため、にとりは別のことを訊ねてきた。
「あれから爆発とかしましたかね」
「えー」
「実は自動で追い焚きする機能をさっき付けておきまして」
「いーうー」
「お邪魔みたいなんで、私はそろそろ行きますねー。説明書はここに置いておきますんで」
「えーおーあーおー」
 全く聞いていない。考え事をしながらの入浴だと、文の場合はこうなる。にとりもにとりで普段から細かいことを気にしないで機械を試してくれる文はお得意さんだったから、上機嫌で帰っていった。
 さて、考えるのは紫のことしか無かった。
 考えながら、コーランを勉強するがごとく体を揺する。全く落ち着きが無い。
 その内、釜の上にドラム缶が乗っているトップヘビー構造が祟って、湯船がひっくり返った。素っ裸の状態でお湯と一緒に地面に投げ出された文だったが、そこで閃いた。
「騙された!」
 膝の上を覚えている以上、他の記憶も消えていないはずなのである。だとすると、妖夢は本当にあの大妖怪のことが。
 順当に思考がまとまりはじめたとき、閃光が走った。
 燃料室が吹き飛び、ドラム缶が破裂し、文は傍にあった小屋の壁に頭から突っ込んだ。
 湯が無くなったのを湯が冷えたと誤認した釜が、燃焼を再開した結果の爆発だった。
 この日の記憶の大半を、文は失っている。