みちゆきて
あなたが鈴木さんだったとして、あなたは佐藤さんですかと誰かに訪ねられたとしよう。このときに幾つかの選択肢がある。
人の名前を間違えるとはけしからんと憤る方もあれば、自分が悪いわけでもないのに、すいません私は鈴木ですと畏まる方もある。
十六夜咲夜にとって不幸だったのは、相手が憤るとか畏まるとか以前に、そもそも相手が人間どころか話の通じる相手ではなかったことだ。
「あなたが黒幕ね?」
「アアァアアアアアーーーーーーーーーーーッ!」
凄まじい咆哮が山中に木霊する。木々の枝に被った雪が落ち、小石が跳ねる。黒幕と間違えられたことは、クロクマにとってどうでも良いことだった。
アジアンクロクマというよりはツキノワグマといえば聞こえも良かろう。本来なら成体となっても体長一八〇に届かぬはずのこの熊は、その倍近い体躯を有していた。
そもそも普通だったら幾ら冬が終わらないという異常事態の最中でも見た目でわかる相手に『あなたが黒幕ね』なんて気さくに話し掛けないわけだが、何の因果か、ステージ一が始まってからこっち、全く黒幕っぽいものに遭わない。
ホッカイロはとっくに冷たくなってしまったし、指先の感覚はほとんど無い。先程、こんなんやってられっかと秘蔵の缶ピース煙草に火をつけようとしたときなぞ、一本目を雪の上に落としてしまったぐらいだった。しかし、ナイフとなると話は別で、正確に相手をナイフで刺しまくれた。
きつい煙草を吸ってテンションが高まったこともあって、もう無茶苦茶にナイフを投げまくっていたとき、黒い物体に何本ものナイフが刺さった。
ああ、これこそ黒幕だ。あれだけのナイフを食らっても倒れない。まぁそういった胡乱な判断で話し掛けたのだった。
ツキノワグマにしてみれば良い迷惑である。いくら身体がでかいといっても冬が長く続けば死活問題だ。栄養が無くなってなお冬眠をし続けたら死ぬしか無い。なんぞ蛙か雑魚でもおらんかのうと面倒臭そうに穴倉から出て川に向かっているときに通り魔の被害に遭ってしまった。
背中には七本程のナイフが刺さり、幾つかの傷の血は止まらない。ただでさえ一杯一杯なのに、これではどうしようもないではないか。なんとかこの場を乗り切ったとしても、ナイフが抜けないと寝転がることができない。どうしてくれるんだ。
「アアァアーーーーーーーーーーーンッ!」
そういったひきこもごもが詰まった咆哮である。一方の咲夜はというと、あーちょっと悪いことしたかなぁなんて思いつつ、面倒臭そうにスカートのポケットに両手を突っ込み、口でピースを吸い続けている。
お、そうだ。あの熊の皮を剥いだら、暖かいかも。咲夜の反省の色は極めて白い。
熊は精一杯の咆哮を浴びせたというのにたじろぎも逃げもしない敵を見て、本当に敵なのかと思い始めていた。これまで、大概の敵や得物はこのでかい身体を見ただけで、怯えのままに不用意なことをして張り倒されるか、寝転がって食われるままになったのに。
当然、咲夜はただ突っ立っているだけではない。冷静に、如何に皮を傷つけずに最小限の手間で仕留められるかを考えていた。弾幕ごっこが通じる相手ではない以上、真の必殺を極めなければならないという理由もあるが、それは時間を止めれば済む話だ。
問題は、急所と思われる喉元が、熊が四つん這いの体勢でいるために狙えないことだった。止めるならば、こちらに襲い掛かって来たときか。
咲夜が見極めると、彼女はピース煙草を吐き捨てた。口の中に葉のカスが付く。彼女がそれを気にした瞬間、ようやく腹を決めた熊が襲い掛かった。
戦闘体勢に移行するまでの動作は緩やかに見えるが、その実、速い。熊が一撃を加えるとき、その身体は二本の後ろ足によって持ち上げられる。熊は先ず、四本足によって真っ直ぐに咲夜に向かって飛んだ。着地の反動で前足が跳ね上がる。黒い塔が立つ。塔が前に倒れたとき、得物はぐちゃぐちゃになる。
今であった。
咲夜が葉のカスをツバと共に吐いた。
時間が止まる。
そこで違和感があった。低い音が響いている。
彼女は冷静に状況を確認すると、何もせずに時間を動かし始めた。
塔が横に倒れた。低い音が響き渡る。熊の顔の側面が鉛の弾によって潰されていた。
「出てきな」
咲夜が新しい煙草を吸いながら言う。彼女の言葉は、木の陰に隠れていた人間に向いていた。
のそりと、いかにも無愛想といった風体の男が現れる。彼は咲夜を睨むと、懐にしまっていた短刀を取り出した。咲夜が睨み返すと、男はごろごろとした声で喋る。
「あんたじゃねぇ」
男は頬の辺りを引き攣らせながら、熊の傍にしゃがみ込んだ。
「熊さんをやるなぁ、これが一番よ」
短刀を熊の喉元に沿わせる。彼がそれを引こうとしたとき、咲夜は彼が短刀を持った手の肩を掴んだ。
「あなたがやったら、あなたの得物になっちゃうじゃない。私にやらせなさい」
「ふざけんじゃねぇ」
怒った口調だったが、男の表情に変化は無い。寒さでそうなったのか、生まれてこの方そういう性分なのか。男は倒れた熊を一瞥してから、短刀を懐にしまい直した。
「勝手に山に入ったヤツが勝手に熊さんに襲われ、勝手に熊さんをやるだ? 冗談じゃねぇ」
「あなただって勝手にやったじゃないの」
「山ん中ってなぁあれだ……神棚みたいなもんよ。一から十まで約束ってもんがあらぁ。それを守らねぇヤツに熊さんをやらせるわけにゃいかねぇ」
ふうんと咲夜は呑気に言う。メイドにも約束事があるし、仕えている館の中で好き勝手されれば腹も立つ。
しかし……この男に対する気に食わなさは如何ともし難かった。なるほど、自分は他人からはこう見えるのかもしれない。そんな風に思うと、尚更に気に食わない。
「冬が長ぇもんだからワサこくヤツが出始めるんじゃねぇかと思って山に入ってみりゃ、これだ」
おう、そうだ。他にもいるかもしれねぇ。そう独り言を繰ると、男は再び短刀を取り出そうとした。
気に食わない。まったく気に食わない。咲夜は時間を止めた。
死に体でありながら、何故そうも踏ん張る。
いつの間にか、熊が立ち上がっていた。
咲夜は咄嗟に男から短刀を奪い、彼を突き飛ばした。
約束とやらがあるならば、この短刀でやれば文句はあるまい。
咲夜は両手で短刀をしっかり握ると、特徴的な月の形をした斑の上辺りに突き刺した。
熊の喉元に短刀を刺したまま咲夜が飛び退くと同時に、時間の流れが元に戻る。男が雪原に突っ伏し、熊が喉元から血を噴出す。それでも熊はもがいた。があ、あがああ、ああと声にならぬ声を上げ、潰れた側とは反対の目で咲夜を睨む。
まだ死なぬ。
まだ死ねぬ。
まだ。――
「もう死にな」
咲夜が呟き、投げたナイフが突き刺さった短刀の柄に刺さる。短刀がぐぐと肉の深くへ沈む。血はもう出ない。熊は背中に数本のナイフを刺したまま、仰向けに倒れ、絶命した。
男は一部始終を見届けると、雪に座ったまま熊に手を合わせ、それを終えてから咲夜に歩み寄った。
「何よ。約束とやらは守ったわ」
「そうみてぇだな」
男が熊の喉元から短刀を引き抜き、柄のナイフを咲夜に返す。短刀に付いた血は懐紙で拭き取った。
「ほれ、見てみろ。これが本物の山神さんの血よ」
懐紙に付いた血は、ほとんど赤くなかった。
「へぇ、赤くない血なんて珍しいわね」
「変なヤツだな。普通はもっと驚く」
「血が好きな方の傍にいるから」
この血を見せたら、主は喜ぶだろうか。
「その紙、もらえないかしら」
「山から無事出たいんだったら、やめとけ。こいつの臭いは他の神さんを呼ぶ」
男が懐紙を咲夜に向ける。燃やせということだとわかった咲夜は、マッチを擦った。火は瞬く間に紙に移り、雪原に散った。
「この熊の皮も駄目?」
「駄目だな。肉も俺は足りてるから、これは全部、山のもんだ」
猟師というのはもっと現金なものだと咲夜は思っていたから、素直に驚いた。男はへっと笑う。
「今日は熊さんをやるために来たんじゃねぇ。さっき言った通りだ」
「私もそのはずだったんだけど」
「ああ? それじゃ、襲われただけか」
「いや、それは……うーん、どっちかっていうと私が悪いんだけど」
「はっきりしねぇな」
男はきょろきょろと辺りを見回すと、咲夜に突き飛ばされたときに落とした猟銃を拾って肩に提げ、歩き出した。
「ちょっと、どこに行くの」
「今日は終いだよ。ここにも長くはいられねぇ。暖まりたいんだったら、ウチで一杯やってけ」
「そう?」
咲夜が歩きながら、名前は何かと訊う。男は答えなかったが、咲夜が煙草を一本渡すと、それに火をつけてから叉八だと答えた。
******
叉八の家は咲夜が買い物に行く里がある平野から見て、幾つか連なった山を隔てた反対側にある盆地の部落にあった。一本だけ流れている川に船がある以外は厩舎などは見えない。部落といっても家屋は幼児が数えられる程度しかなく、雪を退けた道がそれらの家々を細く繋げていた。
まだ昼日中だというのに人影は見えず、家から出て来て叉八に声を掛ける者もいない。彼も彼で自分の家へと真っ直ぐに向かうだけで、他の家の様子には目もくれない。部落の中でも山裾の木々が生い茂った奥地。そこに彼の家がぽつねんと建っていた。
家の外壁のほとんどは雪に埋もれ、玄関先だけが雪をかいてある。茅葺の屋根にはどっさりと雪が掛かっていたが、正面から見て左右に落ちる様になっていて、注意する必要は感じられない。玄関を入ると、土間の湿った臭いが鼻に入る。上がった先の畳は硬く、叉八が火を入れた掘り炬燵に足を突っ込んでやっと、咲夜は一息つけた。
冷えた身体が足先から溶けていくような感じがする。南側の窓から入る光は白く、それに背を向けた位置に座った叉八の顔には、深い影が差していた。
「長いな」
叉八が眩しそうに後ろを見ている。冬のことだと咲夜にはすぐにわかった。叉八は特に反応を待ちもせずに続けた。
「まぁ、こんな所に住んでればこういうこともあるんだろう」
「外に居たことがあるの?」
「いや」
彼は顔を窓に向けたままだ。
「ただ、さっきみたいなことをずーっと俺達は続けてきた。それはずずーっと昔からやってきたことだ。それとこの冬みてぇなことってのが、どうにもしっくり当てはまらないときがある。通じないんだ。それでも続ける。俺達のやり方を通す。それで駄目でも……」
「納得はできるわけだ」
叉八は返事をせず、大瓶から二人分のグラスに日本酒を注いだ。
「もっと上手いやり方がある。今のままじゃ拙い。そんな風に考えてたらキリが無ぇ。幸いといっちゃなんだが、守るものはある」
「約束ってやつ?」
咲夜のグラスは一口で空になる。なげやりなものを感じた叉八は、これまたなげやりに答える。
「約束なんてものは自分が守っていても相手から破られることもある。逆もあるさ。それでも約束は約束だ。約束を破ることを恐れてどうなる。俺は約束をしたい。それがあるなら守ろうとしたい」
これは約束を守ってくれた礼だよと叉八が再び咲夜に酒を注いだ。
「それとあなたの長話は関係無いでしょ。冬があんまり長いもんで、とうとう自棄にでもなったのかしら」
「そうやって人を馬鹿にできるのは若い内だけだぜ」
「病は気から」
「そりゃ使い方が違うだろ」
そこで初めて叉八が口を開けて笑った。どさどさと間が悪い音をたてて屋根の雪が落ちたのを、叉八は更に笑う。
「実を言うとな、自棄ってのは正解だ。この長冬で里の近くまで熊が出るようになってな。随分とやっちまった。そろそろ、年貢を納めないといけねぇ」
「狩る者がいればそいつを狩る者が出てくるってわけだ」
「ただな、最期まで約束は守る」
「死んだら、それまででしょ」
「生きるも死ぬも約束の内だ。俺は、いや、俺たちはそうやって生きて、死んで……」
「約束は引き継がれるって? 馬鹿みたい」
「そうかい? それぞれに違う暮らしがあっても、大きな約束事の中で生きて死んでを繰り返すのは変わらないだろ。たまたま、俺の守る約束がそういう約束だったってだけの話だ。守れそうにないと思ったら別の約束を見つければ良い。俺はそうしなかった」
叉八の目が窓から明後日の方向を見遣る。つられて咲夜がそちらを見ると、彼の目は玄関に向いていることがわかった。
「他の家には誰もいねぇ。いなくなっちまった。いや、最初からここには俺一人しかいないのかもしれねぇ。道の雪は毎朝俺がかいてるのさ。誰かいるんじゃねぇかって気がしてな」
「あなた、何歳なの?」
「数え間違えてなければ三十六だ」
意外と若い。たしかに顔には山暮らし特有の険しさが染み付いていたが、皺やひび割れは一つも見受けられない。思い出してみれば彼を突き飛ばしたときも、身体はがっしりとしていながら、弾力があった。まだバネが充分に生きている証拠だ。
「その歳なら、ここから出て他の里に居付けば? ここら辺の里なら、誰も余所者なんて気にしないんだから」
「さっきも言ったが、約束があるからここで生きて死ねる。ここで生きて死ねるから約束がある」
そういうものかもしれない。咲夜は酔いが回り始めた頭で考える。例えどちらかが違えることがあろうと、双方に約束を守る意思があるなら、やっていけるだろう。しかし、――
「あなたは死にたいのかしら。それとも生きたいのかしら」
「わからねぇ」
咲夜がグラスを空けて、勢い良く炬燵の上に置いた。
「たまには違った相手と約束をしてみなさいよ」
「誰と? どんな?」
「春が来たら、暇を見てお酒を持ってくるわ。一緒に飲みましょ」
「それが約束だって?」
「そ。だから生きてなさい。生きてないと守れない約束だってあるの」
叉八が考え込む。山暮らしにしては髭の薄い顎を揉みながら、グラスと咲夜の顔を交互に見遣る。彼は自分のグラスをえいと呷ると、大きなしゃっくりをした。
******
煙草と酒の勢いで咲夜は一気に西行寺幽々子を征した。要は冬が早く終われば、それだけ叉八の危険が減るのだ。もちろん、きっちり本物の『黒幕』も倒した。
しばらくは主であるレミリアの付き合いで忙しかったが、桜が散る前に咲夜は暇を作る事ができた。部下に取っておいてもらった酒を抱えて、咲夜は叉八がいる里へと向かった。
相変わらず、里は閑散としていた。ただ、道に雪は無く、もう叉八が長い冬の中でしたように、自分で誰かに縋ろうとしなくても良いようになった。その肝心の叉八の姿だが、彼は家にはいなかった。
土間は湿っておらず、畳も柔らかい。掘り炬燵の上には、手紙が置いてあった。
咲夜が叉八と最初に会った場所に彼女は来た。そこにある木々は、冬には気付かなかったが、全て桜だった。
そこで、一匹の大きな熊がうつ伏せに寝ていた。身体はあのときの熊よりも大きく、寝ているだけならばすぐにでも離れなければ危険だった。
咲夜は寝ているらしい熊の傍に立って言う。
「出てきな」
熊が立ち上がる。その下から、叉八が出てきた。彼は熊の皮を被っていただけだった。
「あんただ。あんたを待ってたんだ。俺は」
叉八がにかりと笑い、被っていた熊の皮を地面に丁寧に敷いた。
「ほら、この山で一番の熊さんの皮だ。これなら怖がってどいつも近寄ってこねぇ」
咲夜は皮の上に座る。ふんわりとした感触が膝下に当たった。彼女の髪の毛に、何枚もの桜が掛かった。
「約束のお酒よ」
「なんだこれ?」
咲夜の持ってきた酒の瓶は、叉八が見た事の無いものだった。それはワインだったから、当然だった。
「見てなさい」
咲夜が白いハンカチを取り出すと、コルクを抜いてワインをハンカチに垂らす。ほんのりと赤が差した、綺麗な白色が浮き出た。
「これ探し出すのに苦労したんだから」
「へぇ」
「もっと驚きなさいよ」
「充分驚いてるよ」
ワインを注いだグラスを持ちながら、咲夜が首を傾げる。叉八は乾杯もせずに一杯目を呷った。
「こんなに約束ってのは楽しいものだったんだな」
「そ。死ぬのは楽しんでからよ」
この新しい友人のことを咲夜は人に話さないでおこうと思う。彼と付き合うには、約束を守らなければならない。そんなことが出来るのは、この完全な自分しかいないだろうから。