そっと藁でつつんで
朝の読経が終わり、落ち着いた鳴き声を雀が上げ始めた頃、命蓮寺は朝食の時間を迎えていた。
食事を取るのは、白蓮、一輪の他は、居候のぬえだけ。ムラサは気が向いたときにしか食べないし、雲山に至っては、一輪にお椀を手渡したりする役目だ。
星とナズ―リンは、白蓮と同じ寺に入るわけにはいかないと言って、別の寺を開山している。命蓮寺の塔頭や末寺扱いにしなかった辺り、年月による隔たりを白蓮に感じさせたが、封印を解いてもらっただけで、十分でもあった。
「うー、また納豆……」
白蓮の左手の席で、ぬえが納豆をぬちゃぬちゃと掻き混ぜている。その汚いやり方を見てもわかる通り、好物ではないのだった。
一輪などは、いただきます、と言ってからすぐに、ちゃっちゃっちゃっ、と小気味よく掻き混ぜて、既に食べ始めている。
しかしまあ、今までぬえは食事を残したことは一度も無いので、白蓮は汁物を啜ると、お椀を膳に置いた。
「やはり、納豆などの癖のあるものは、あまり食べてこなかったのですか?」
「うん、野菜とかの方が好き。筍とかも良いね」
そういう面では、白蓮らの粗食と、相性が悪いわけではない。
「納豆といえば」
一輪が、お椀を持ったままで、二人の話に加わった。
「今日辺りから、もう、配って歩けますよ」
「そうですか。大分、味も整ってきましたし……大丈夫でしょう」
ご飯にかけずに、納豆だけを一気に啜って味噌汁で流し込んだぬえが、目をくりくりと転がした。
「ねえ、何の話?」
「托鉢のときに、納豆を配るんですよ」
「配るだけ?」
「……配る以外の案があるのですか?」
「空から降らす、とか」
「糸が輝いて綺麗そうですね」
どこまで本気でそう思っているのか、白蓮はくすくすと笑った。
そういう反応をされると、ぬえは黙るしかない。
いつもと同じく、いち早く食べ終えた一輪は、事前に用意してあったらしい、藁に包まれた状態の納豆を、お椀を端に寄せた膳に乗せた。
「とりあえずこの状態で、熨斗を付けて、配ればよろしいのですね?」
「そうです。熨斗に書く内容は考えてあります」
「どんなものですか?」
こほん、と咳払いをして、白蓮が答えた。
「飛倉から作られた室で大切に発酵させた、ひじり納豆」
「はい、いただきました」
いつの間にか用意してあった筆で、さらさらとメモを取る一輪。
ぬえは漬物を齧りながら、自分がこの寺を出て行かない理由に想いを巡らせていた。
熨斗を付けた藁納豆を、五個で一束にして、それを六束、計三十個を持って、白蓮と一輪は寺を出た。
托鉢はいつもこの二人で行うので、留守番はいつもムラサがやってくれる。
今回は托鉢だけでなく、普段から援助してくれている檀那へも納豆を配るので、白蓮と一輪は一緒に行動することにした。
白蓮も格好こそ幻想郷らしく奇抜ではあるが、こういうときには頭巾を被る。
内側に髪を入れたマントを翻さないよう、しずしずと歩く姿も、今では人里に馴染んでいた。
納豆は一軒に一束ずつ配るわけではないため、実際に回る先は、十軒程度である。
その内、檀那は呉服屋と木綿問屋の二軒となっている。
正午前には一通り周り終えて、いつも好意で座敷を使わせてくれる檀家で、二人はくつろいでいた。
この家には中年を前にした女性が一人で暮らしていて、壇を設けただけの質素な仏壇に小さな位牌が置かれている。
噂だと、妖怪との間に出来た子供が早死にしたものだというが、そういう縁で、今まで普通の寺とは付き合いが無かった。
呉服屋などの檀那は、そういう家に白蓮を紹介して、顔を広げている。
それを最初から狙っていたわけではなかったが、人間の考えることは、大体このようなものなのだ、と白蓮は思わずにはいられない。
そこに軽蔑があるかといえば、そうではない。むしろ空しさの方が強く、子供を供養する、するしかない自分にも、それは通じるのだった。
いつも通り、位牌に線香をあげ、念仏を唱えてくれた白蓮に茶を出して、女性は内職に戻っていった。
「こういう郷でも、人間のやることは変わりませんね」
托鉢で得た米や品物を帳面に書付け終えた一輪が、ぼそりと呟く。
人間というのは、厳密な意味ではなく、白蓮らも含めているのだろう。それを汲み取って、白蓮は頷いた。
「人里にありながら騒がしい客が来ず、山里にありながら客が酒を携え、訊ねてくれる。そのようなものが幻想郷ではないでしょうか。営みの要素だけを取り出しても、意味は無いのでしょう」
呉服屋とこの家の女性との間に、金銭の授受や上下関係は存在していない。
女性自身、これまで寺が無くても、それなりに暮らしていた。
その都度、心を盡して、気ままに生きているに過ぎない。
外の世界では障害が多過ぎて、一部の人しか、そういう暮らしはできないように思われた。
「念仏も、手を合わせることも、その都度、心を盡しているに過ぎないのでしょうか?」
「それは表現の一つに過ぎません。座禅を組めば悟る、ということではないはずです」
「私は、座禅はよく解しません」
一輪のそういうさばさばした所が、白蓮は気に入っていたので、口元を綻ばせると、茶を啜ったのだった。
「それで、納豆はいくつ余りましたか?」
「こちらのお宅に一つ置いていくとして、三つ残りました。畑仕事で留守の家が、二軒ありましたから」
「それなら……博麗神社と守矢神社にでも、配っておきましょうか」
あくまでも余ったら、挨拶がてらにでも持って行こう、程度には考えていたのであった。
一応、どちらの神社にも早い先に、試供品よろしく納豆を配ってある。
以来、文句らしい文句も言って来なかったから、忘れていたのだが、味の感想ぐらいは聞いておいても良さそうだった。
「納豆に味なんて無いわよ」
霊夢の言葉を聞いて、一輪はそれとなく、白蓮から距離を取った。大変に面倒臭い事態になるような気がしたのである。
立秋を過ぎたとはいえ、陽射しはまだ暑い。
拝殿の階段に腰掛けた一輪を他所に、白蓮は陽射しも物ともせず、霊夢に詰め寄った。
「何か手際が悪かったでしょうかね?」
「納豆というだけで駄目よね」
「臭いが変でしたでしょうか?」
「納豆だもの」
ああ、これは本当に面倒臭いなあ、と一輪は思った。
納豆嫌いには二種類いて、嫌いなことに負い目を感じているタイプと、嫌いなことに誇りを持つに至っているタイプとがいる。
ぬえは前者である。
霊夢は、後者であった。
「神社では食べ物を大事にするということは教えないのですかね」
「納豆は食べ物じゃないわね。そっちも色々と大変でしょうから、一度は受け取ったけど、二度目は無いわ」
そこで白蓮もさっさと帰れば良かったのだが、彼女も陽射しにやられていたのか、ひじり納豆に思い入れでもあるのか、余計なことを言い出した。
「良寛和尚は児童の有り様にこそ仏心があると説いたそうですが、納豆にもそれがあると私は思います。納豆を掻き混ぜているとき、それは写経をしているときにも似た境地なのです。私は先日、伝手を頼って良寛の文章を見ましたが、あの納豆をいじるかのごとき繊細な筆は、私にある種の確信と信仰に対峙する勇気を与えてくれたのです」
「それと私には何の関係も無いでしょう。っていうか、信仰と納豆も関係無いわよ」
「いえ、そんなことはありません。私は納豆を掻き混ぜるとき、おんべいしらまんだやそわか、百反唱えています」
「それはまた大変ねえ」
霊夢の言葉は一輪に向けてのものだったが、一輪は「声には出してないので」とフォローしておいた。
最初の頃は声に出していたのだが、ぬえが朝食をボイコットしたので、白蓮も泣く泣く、止めていた。むしろ、ぬえの納豆嫌いは白蓮の所為だと信じて疑わない一輪であったが、言っても始まらないので、指摘はしていない。
「人を導く側が好き嫌いをしてはなりません。ましてやあなたは妖怪にも縁が深いのですから、糸を存分に引くべきなのです」
「だから坊主は嫌いなのよ。もうそういう時代じゃないわよ。納豆作るぐらいなら、枝豆と地ビールでも作ってなさいよ。それならよっぽど喜んであげられたのに。あと、別に好きで妖怪と付き合ってるわけじゃないわ」
「枝豆では、味気ないではないですか」
「だからって腐らせなくて良いでしょう?」
「納豆は腐ってるわけではありません」
「じゃあ、どうなってるわけよ」
「ちゅっちゅしているのです」
「……は?」
「ちゅっちゅです、ちゅっちゅ」
霊夢は再び一輪に目を合わせて、自分の頭の上で人差し指をくるくると回した。
それについて、一輪はノーコメントを通した。
「さきほども納豆の仏心について語りましたが、あれは、糸引かずにはいられず、またその糸を増やさずにはいられない、人の業が含まれているのです。越後には泥足毘沙門天というのがあるそうですが、納豆を足で掻き回す、納豆毘沙門天というのを近々、作ろうかと」
「あなたも大概罰当たりよねえ」
「何が罰当たりなものですか。先日、寅丸に足でやらせてみた所、ナズ―リンが大変に乗り気になりました。あの子が認めれば、立派な毘沙門天です。私の理論は証明済みなのです」
「……」
「後は納豆に塗れた寅丸の納豆を人前に晒して――」
「止めて! 聞きたくない!」
「ふふふ、とうとう自分の業と向き合わずにはいられなくなってきたようですね」
「あなたが向き合ってよ! 寺で何学んできたのよ!」
「私がテンプルだ!」
やだ、ちょっと格好良い、とか霊夢が思ったかどうかは定かでないが、話は物別れに終わりそうだった。
一輪はといえば、一緒にあやとりをしていた雲山の新技「東京スカイツリー」が「東京タワー」とどう違うのかについて難癖を付けていたから、どうでもよくなっていた。
「御覧なさい、うちの一輪なんて、ああして常に糸を引くことを考えているではないですか」
「どう見てもただのあやとりじゃないの」
「……どうあっても納豆を受け取らない、と?」
「二度目は無い、と言ったわ」
いい加減、白蓮も諦めたろう。一輪があやとりの紐をしまったとき、上空を通過するものがあった。
おや、と顔を上げたときには、その飛んできた物が境内に落下していた。
「ふはははは! 八坂様の仰る通りでしたね!」
落下してきたのは、守矢神社の方の巫女、東風谷早苗だった。
夏の日照りで乾き切っていたものだから、これでもかと粉塵が舞って、全くのはた迷惑だった。
心底迷惑そうに顔の前で埃を払う白蓮に、早苗が詰め寄った。
「八坂様は全て御見通しです。納豆の件でしょう? さあさあ、早く守矢神社へ参りましょう」
この調子だと、商売にでもするつもりのようである。
白蓮はあくまでも、人間を教導した上で妖怪と共存できるようにしたいのだが、かといって、このまま霊夢と立ち話で気炎を上げ続けるのも不毛なことぐらい、わかっていた。
「姐さん、そういえば、妖怪の山では氷室から出した氷で、氷菓子を作ってくれるらしいですよ」
「まあっ、それは良いですねえ」
一輪は、そういうことには耳聡い。
話は決まった、と早苗が笑顔を作ったとき、霊夢が早苗の袖を掴んだ。
「あんた、納豆、食べられるわけ?」
「食べられますよ? 納豆はダイエットに良いんですから」
「くっ……!」
あーら、このちんちくりん巫女はダイエットにも関心が無いのかしら、と見下した態度の早苗の所為で、霊夢の心の脂肪に火がついた。
ずっと白蓮が持ちっぱなしになっていた納豆を乱暴に奪って、霊夢は上空へと飛んだ。
「姐さん、納豆も受け取ってもらったことだし、我々は先に神社に行きましょうか」
「そうしてください、私は霊夢さんにとどめを刺してからいきますから!」
「そうですか、そうですか、――では姐さん、行きましょう」
急にてきぱきとしだした一輪を訝しがりながらも、納豆は受け取ってもらえたので、白蓮は一輪と一緒に、守矢神社へ飛び立った。
その直後から、博麗神社で納豆を使った弾幕ごっこが行われたことを白蓮が知ったのは、納豆まみれになって守矢神社に帰ってきた早苗を、見てからだった。
「いやー、かき氷に納豆かけたやつは意外といけましたねー」
満面の笑顔で言う一輪を伴って、白蓮は寺に帰った。
何だかんだで、ひじり納豆の拡販なんて話で、日が暮れるまで守矢神社にいたものだから、白蓮にも疲れの色が出ていた。
一輪は、白蓮が封印されてる間、世の中を渡り続けてきたものだから、要領が格段に良くなっていて、今日はそれについても思い知らされたのだった。
仏道とは難儀なものだなあ、とこれまでに何万回と思ったことを胸に、建物に入る。
ムラサは風呂を焚いてくれているらしく、そちらの方向から、鼻歌が聞こえていた。
「先に、お風呂にしますか?」
「……少し、部屋で休んでからにします」
「では、夕食の準備が整ったら、呼びますね」
諸々は一輪に任せて、自室で外套を脱ぎ、机に向かうと、深いため息が出た。
封印が解かれるまでは色々思う所は多かったが、実際に外に出てやることと言えば、地道なものである。
もっとも、納豆毘沙門天だのが本当に地道かどうかは、白蓮の思考の埒外に置かれているのだが。
今日はのんびり、長風呂でもしようか。
そんなことを考えていると、襖が開いた。
夕食の準備が出来たにしては早過ぎる。いざ振り向いてみれば、相手は一輪ではなく、ぬえだった。
エプロン姿の彼女を見て、白蓮は驚いた。
「ど、どうかしたんですか?」
「いやあ、あんまり納豆嫌いな所を見せちゃったから、納豆料理を幾つか考えてみたんだよね。で、それが出来たから、呼びに来たわけ」
白蓮は髪を梳くのに使っていた櫛を、ぽろりと落とした。
「――ぬえ、あなた、納豆を足で掻き混ぜられるかしら?」
「は?」
ぬえが毘沙門天になるような日が来るかどうかは、誰にもわからなかった。