焦がさないで
だらだらとした梅雨が続く中を行くと、香霖堂がある。
夏が来る前に蝉が腐ってしまうのではないか。店主の霖之助は頬杖を突いて、「蝉も鳴かずばションベンたれぬ」と取るに足らないことを頭の中で繰っていた。
この所、暇である。
前々からだろう、と常連辺りは言いそうだが、霖之助には霖之助の基準がある。
気付いたら棚の品の位置が変わっていた、あるいは無くなっていた、なんてことも無い。倉の中に変なものが紛れていたりもしないのだった。
……平和と暇が紙一重の辺り、少し経営方針を見直した方がいい気がした。まあ、気がするだけなのだが。
日々することといえば、畑に植えた茄子を収穫するぐらいだ。
そうそう、茄子を収穫する度に頭を過ぎるのだが、「千に一つも無駄が無い」とはよく言ったもので、いくらでも使い道があった。栄養価は大したことがないらしいのだが、栄養だけで人は生きるにあらず。ましてや、自分は人の成分が薄いのだから、と、ちょっとナイーブを気取ってみたり。
ぱっと見は立派な大人がカウンターで茄子を見つめている様は不気味で、案外、この長梅雨は彼の陰気さの所為じゃないのかと意地の悪い常連は言うことだろう。
常連か……。何人かの顔が瞼の裏を過ぎる。段々と眉根が寄り、眉間の皺が嶮しさを増す。ストレスで瞼のピクピクが起こり、頬が張っていく。
「はっ! 危ない危ない、また顔面が攣るところだった」
ぱんぱんと顔面を両手で叩くと、席を立つ。梅雨でも構わないから、外の空気を吸うことにした。
朝、茄子を収穫してから、窓の外すら見ていない。大雨だったら音で気付くはずなので、いかにも梅雨らしい天気だとは思うのだが、空を飛ぶ連中にはどっちもあまり変わらないだろう。雲の上まで飛ぶぐらいなら、家でじっとしていた方がましなのである。
さしあたり、玄関扉から外を確認しよう、と扉を開けたときである。
玄関先に、茄子が立っていた。
一瞬、立ちくらみを覚えて、無意識の内に扉を閉めていた。
いや、何も茄子が立っていたことが問題なのではない。
茄子が立っていた、などと馬鹿げた認識をするほどのショックを、今の一瞬で受けたことが問題だった。
試しに見たものを思い返そうとするが、自分の首下ぐらいはありそうな茄子が雨露に濡れていたことしかわからない。
まさか茄子の妖怪が「お前は茄子ばかり食べているから」とかいう理不尽な理由で攻め入ってきたのだろうか。いやまて、茄子の妖怪ってなんだ。百発百中の弓の腕前とか? 待て待て、腕は無いだろ。茄子だもの。
眉間を指先で押さえ、混乱を抑えること、数秒。意を決して、霖之助は扉を開いた。
「帰らないと、火で炙って生姜醤油を傷口に染み込ませるぞ!」
「ひいいぃいいいいいい!」
蝉も小便を垂らしそうな剣幕で叫び声を上げると、茄子が悲鳴を上げてぶっ倒れた。
なんて恐ろしい奴だ。倒れた茄子には足が一本隠されていた。更にはその下には肉塊が取り付き、そこからも二本の細い足が伸びている。なんてグロテスク。アンバランスさがそれを引き立てている。
こんな妖怪が現れるとは、霊夢はいったい何をしているんだ。
おお、そうだ、今度これをネタにツケを……。
「ってそうじゃないだろ僕!」
常識的に考えて、倒れているのは紫色の傘を持った女の子だった。
仰向けで転倒した彼女を抱き起こそうと、背中や肩口に触ってみれば、見事なまでに濡れていた。ショックの余りにがちがちと震えており、握った傘の柄を放そうとしない。
茄子と見間違えたその紫色の傘は、しかし妖怪ではあったらしく、唐傘お化けそのものといった風で、こちらは完全に気絶していた。この傘を持っているということは、この少女も妖怪なのだろう。
「まいったなあ」
妖怪を下手に店に上げると、碌なことがない。自分が悪いから、などと譲歩してしまうと、ときに恐ろしいことになる。それが妖怪というもの、油断なんてもっての他だ。
かといって……この少女を放っておけるだろうか。霖之助にも多少の感情はある。
逡巡していると、きゅっと閉じられていた少女の両目が、薄っすらと明けた。
双眸で色が違う。その瞳に吸い込まれそうな感覚を覚えた霖之助は、自身、これまでの人生で味わわなかった衝撃を受けた。
なんということだ……。
この子は、この妖怪は……。
使い道がまったくわからん!
信じられないことだった。これまで自身の能力に疑いを持ったことはなかったが、今日ばかりは違った。
相手が妖怪だから、などと言い訳することはできるが、この手の妖怪は物から化ける。いや、大半の妖怪は何かしら物と関わりがある。だからこそ霖之助の能力は貴重だった。だがその能力の信憑性が、ここに来て疑われることになってしまった。
気付けば自身、両膝が濡れるにも構わず、膝を地面に着けて呆然としていた。
どれくらいの時間が経っただろう。大した時間でもないのかもしれない。
「あ、あの」
少女が呟いた。
「もしかして、驚かれました?」
「なっ……」
この少女は、自分がどういう風に受け止められたのか知っているのか……!
まるでこの僕をあざ笑うためだけに生まれてきた、そんな存在にすら思えてきた。
危険だ。これまで魑魅魍魎や少女の類にからかわれることはあったが、個性にまで踏み込んできたのはこの少女が初めてだった。その足はたった一踏みしただけで、床を踏み抜いていた。
この少女を放置しては、香霖堂の信用に関わりかねない。
霖之助は思考を収斂させると、目に力を込めた。
何か言わねば、弱みを握られてしまう。何事も最初の一言で決まる。
少女を見つめなおすと、霖之助は答えた。
「少女の美しさに驚かない男なんていないさ」
何を言ってるんだ! 我ながら反吐が出そうだった。
もう本当、土壇場での自分の弱さに霖之助は驚きっぱなしである。
だがしかし、だがしかしである。
ここはキャラを通した方が良さそうな気がした。
所詮、付き合いなんてのは騙し合いである。ましてや相手は妖怪、自分を脅かそうとする化け物ではないか。
背中とおなかが捻れて抱き合いそうな苦しみに堪え、霖之助は笑顔を作る。ある意味、彼こそが化け物めいていた。
「さあ、立てるかい? とりあえず体を拭かないと」
歯が浮くどころか砕けた破片で顔が変形しそうだった。
にも関わらず、少女はぽけーっとしたままで、答えなかった。
ま、まさか演技に気付かれたのか。いやいや、焦って失敗を繰り返すのは愚かというものだ。慎重にいこう。
「どこか怪我でもしたのかな」
「え? あ、いや、大丈夫です」
怪我なんてしようがすぐに治るのだろうが、少女は怪我一つ無いとばかりに、霖之助の肩に手をかけると、自分で立ち上がった。
肩にかかる彼女の重さは微々たるもので、相変わらず傘は手放そうとしないでいた。
ここで少女が遠慮したなら、どう言いくるめたものか霖之助は悩んでいただろう。しかし少女は突っ立ったままで、折角の傘も下げたままだった。傘の舌がべろんと地面に垂れていて、少し不憫であった。
「僕のことは霖之助で良い」
そう言って、ただ玄関へと行く。少女は少し遅れて、付いて来た。
手拭をやると少女は自分で髪や背中を拭き始めた。霖之助は席を外そうと言ったのだが、妖怪だからこれで十分だ、と、服を着たままで済ませていた。
「えっと、多々良といいます。多々良小傘。妖怪です」
「ご丁寧にどうも。まあまあ、茶でも飲んでくれ」
客に茶を、自分から勧めるだなんて。今日は驚きの連続だな、と内心で苦笑する。
小傘は手拭を頭に引っ被ったままで、大事そうに紅茶のカップを手に取る。そうする一方で、上目遣いになりながらもこちらから目を離そうとしない。なんて用心深い妖怪なのだろう。少しでも油断すれば、傍に立てかけてある傘で何をしてくることか。
「それで、多々良さんはどこから来たんだい」
妖怪相手に、あまり手八丁口八丁をしても、肩透かしを食らう場合が多い。多少は礼儀を踏まえた上で、単刀直入。そこら辺のバランス感覚が無いと、妖怪との付き合いは難しい。
「ふらふらしていたらいつの間にかこちらに」
「なるほどね」
予想通りの答えだった。真偽はともかくとして、妖怪はそう答えるのが相場である。
それにしても、今の答えが真実だった場合、厄介なことになる。
大した理由が無いなら良いではないか、と考えるのは浅慮というものだ。
霖之助は、こう考える……大した理由も無いのにこんな奴が現れるだなんて、と。
例えばの話、食うのに困って強盗殺人をする輩と、ただの殺人狂と、どちらが深刻だろう。もちろんどちらも深刻なのだが、単純な危険性でいえば、後者はどうしようもないレベルだ。
もしや幻想郷全体が一種の変質を遂げているのかもしれない。
ありうる話だ、と霖之助は思う。ここの所の異変の頻度はこの百年には無かったペースだ。幻想郷が楽園ではなく、魅力的とは名ばかりの、危険な妖怪の再生産工場になろうとしているのではないか。だとしたら、大変なことだった。
「まあ、しばらくのんびりしていくと良い。雨が止むまでは……ああ、止まない方が良いのかな?」
「そうなんですけど、今日は別に良いです」
「どうして?」
「私でも、お日様の下を歩きたい気分になるんです」
「ふうん……」
思考に欠陥でもあるのか。会話ができるだけまだマシだが、いざとなれば実力行使をしなければならない。人間に理解し難い行動を取られてからでは、遅いのだ。
武器になりそうなものはいくらかあるが、先ほどから小傘は店の棚をしげしげと眺めている。なるほど、何が自分の脅威になるか選別しているのだな。相当な場数を踏んだ妖怪といえよう。
となると、ここは意外なもので脅した方が良いだろう。
「ところで多々良さんは、茄子は食べたことがあるかい」
ちょうどカウンターに置いてあった茄子を一つ手に取り、見せる。
小傘はまじまじと観察してから、首を振った。
まともな食事を取る習慣は無い、と……。これは結構重要で、人間の文化や風習に対する理解度がかなり違ってくる。理解していれば強力な妖怪というわけでもない。採られる戦術の幅広さに影響する、と言った方が間違いが少ないだろう。
となると、この茄子は思った以上に良い選択だった。
「この茄子という奴はね、人間の知恵の結晶なんだ。どうだい、この見事な紫色。紫は古くから人間に尊ばれてきた色さ。そしてこの傘の立派さをごらんよ。威厳を示しているね。西洋では知恵の実といえば林檎だが、こちらでは茄子こそがそうなのさ。人間が食べれば寿命が延び、妖怪がこれを食べれば人間のことなんてたちどころにわかるのさ」
「へえ……どうやって食べるんですか?」
小傘が、色の異なる輝きを双眸から放つ。
ふふ、食い付いてきたな。やはり人間に対する興味は強いらしい。
「丸呑み」
「……は?」
人間の拳大もある茄子だ。当然、小傘は目を丸くしていた。
「だから、丸呑みするんだよ。人間を理解するのがそんな簡単なことのわけないじゃないか」
「噛んじゃ駄目なんですか?」
「死にたいのかい? そんなことをしたら、茄子の中から強力な力が溢れて、吹き飛ばされるぞ。胃の腑でゆっくりと時間をかけて消化するからこそ、なんとかなるというわけ」
「ひええ……」
「まあ、怖いのは当然だな。僕だってこれまで茄子を丸呑みできた奴を見たことが無い。僕なんかこうして目の前に茄子を置いていつでも食べられるようにしてあるが、どうしても踏ん切りがつかないんだ」
「そうなんですか……」
「うん……死ぬまでに食べてみたかったんだけどね。実は僕、余命幾許も無くてさ」
「ええ!?」
カップを落としそうになって、小傘が驚く。内心は嬉しいに違いない。僕が死ねば、茄子は自分のものになるんだからな。
霖之助は微笑んだように見せかけて、失笑した。
「誰かが目の前で丸呑みしてくれるのを見れば、僕も食べる勇気が湧くとは思うんだけどね。この体たらくさ」
「わ、私がやります!」
「気持ちは嬉しいが、一歩間違えれば君が死んでしまう」
「構いません! だって……」
かちゃん、とカップをソーサーに置いて、小傘が茄子を手に取る。
いったい、どんな理由があるというんだ。本音でも聞かせてくれるのか。
霖之助が目を細めると、小傘が叫んだ。
「私のことあんなに驚いてくれたあなたのためなら、何だってするもの!」
「は?」
「えいっ!」
パクッ。
「む、ふぐむぅうう!」
「ちょっ……!」
止める間もなく、小傘は景気良くいった。
が、見事に喉奥に詰まったようで、ちょうちんふぐみたいな顔で泣きそうになっている。
霖之助は慌ててカウンターを乗り越え、椅子から落ちかけていた小傘を抱きかかえると、顔を下に向けさせて背中をばんばんと叩いた。
「し、しっかりするんだ! 茄子はそんな風に食うものじゃないんだ! 吐くんだ!」
「うぐむふぐううううっ!」
どん、どんどん、どんっ!
ごとり。
何発目かの拳で、茄子が床に落ちた。
小傘は咳き込みながら床に座り込んでしまい、スカートの辺りが乱れてしまっていた。
まったくなんてことだ……あんな驚きを真に受けていただなんて。
霖之助は酷く憂鬱な気持ちになり、転がっていった茄子を見遣った。
小傘の唾に塗れた茄子は、まるで自分を責めているようだった。
「おやおや、いったい何をされていたんですか?」
霖之助に恨みを抱いているらしい魂魄妖夢が、満面の笑みで茄子を拾い上げた。
「香霖堂店主が茄子で妖怪少女にあんなことやこんなことを」
「……いったい何が目的なんだ」
「ただでカシナートの剣ください。あとMURAMASA BLADE!」
「足元見過ぎだろう!」
「それでしたら、そこの不憫にも傷物にされた妖怪を引き取って、根掘り葉掘り墓穴掘り、聞き出すまでです」
「墓穴でかそうだな!」
「じゃ、他にストームブリンガーも」
それは持っていってくれ。
霖之助がうんざりしていると、小傘がじっと見つめていた。
「な、なんだい?」
「私、こんなに驚かされたの初めてです」
「え、なにその、もう離さないんだから、みたいなの。君が帰らないと僕、あそこの銃砲刀剣類取締法違反の少女にたかられ続けるんだけど」
「あなたとたかられたい!」
「もう君にはホントびっくりだよ!」
「わーい!」
雨は止んだらしく、外では蝉がジンジンと鳴き始めていた。
鳴くのは閑古鳥だけで良い。心底、そう思った。