切妻

 海面を下から見上げたような雲が、のっぺりと空に張り付いている。そこを這う龍は、即ち稲妻だった。稲妻は、名前の通り、秋の風物詩とされる。
 思えば雷も、落ちる場所を探して彷徨い続けるのだから、可哀想なものだった。
 しかしいつか必ず、雷は落ちた。


 藤原妹紅が上白沢家に逗留するのは、わりとよくあることだった。妹紅は季節が変わる目に身一つでやってきて、そのまま居間の隅で雑魚寝を始める。
 遊びに来たというわけではなく、天候不順の中で一人あばら家にいるのは、落ち着かないからだった。そんな理由で居座られる慧音も特に不服そうにするでもなく、妹紅に茶を出しては本を読んだり、留守を任せて出かけたりした。
 今日はまだ、その茶が出されていない。妹紅は初更を迎えてから自宅を引き払ったから、今の時間ならばいるはずだった。
 何度か寝返りを打っていると、ふと気付くことがあった。
 曇天でうっかりしていたが、今日は満月だ。しかし、こちらに来る際に行き違わなかったから、竹林に出かけているわけでもない。何にせよ、茶ぐらいは自分で出そうか。
 自前の火で明かりを作り、戸棚に手をかける。その際、天井の方から、ぎしりという音が聞こえた。
 何だと思いつつ、屋根に上がる。慧音は棟に腰掛けており、難しそうな顔で目を閉じていた。姿は完全に変身後のものであり、ちょこんとした角が頭部両脇に生え揃っている。
 村人が直しているとかいう瓦を砕かないよう、妹紅は慎重に足を運ぶ。慧音の隣に腰掛けたとき、彼女からむすっとした溜息が漏れた。
「茶ぐらい自分で入れたらどうだ」
「どうせ入れるなら、そっちの分もと思って」
「その場合、私が入れる破目になるだろ。私は忙しいんだ」
 ワーハクタクがどうやって歴史を繰るかは知らないが、忙しいというからには忙しいのだろう。
 爪に火を灯して茶葉の数でも数えていよう。妹紅が腰を浮かしたとき、慧音が引き止めた。
「忙しいんだろ?」
「どうして忙しいかぐらい聞いてよ……」
「きもい声出すな」
「きもいとか言うな!」
「誰も格好のことは言ってないって!」
 唾を飛ばし合ってから、妹紅は改めて腰を下ろした。
「雨が降りそうなんだから、さっさと教えてくれ」
「うむ、実はな」
 真面目そうな声で、慧音は語った。
 自分でも自分の角が、きもいだけで大した意味が無いことには悩んでいたという。悩むようなことではないと思うが、妹紅は口を挟まないでおいた。
 それでここ一ヶ月の間に考えたところ、良い案を思い付いたという。
「あー、なんだ、あれだ。外の世界にあるだろ。屋根の上に付いてるやつ」
「地雷震?」
「避雷針だよ」
「ああ、あるある。役に立っているんだか立ってないんだかわからないやつな」
「役に立つんだよ! 立派に立ってるんだよ!」
「何で怒るんだよ……」
 いよいよ空模様が怪しく、あまり付き合っていたくない。
「要するに角を避雷針にするってことだ」
「最初からそう言いなよ」
「一々突っかかる奴だなあ」
 この際だから付き合いそのものからして考え直したいように思えてきた。そうこうしている内に、本当に雨が降り始める。
「おお、来たぞ」
「本気で雷を落とす気?」
「もちろん」
 他にやることは無いのだろうか。まあ人のことは言えないので、妹紅は構わずに下に戻ることにした。
「ま、頑張んなよ」
「と、止めないのか……?」
「……」
 どうしろと言うのか。一張羅を濡らしたくはないので、口を早める。
「怖いなら怖いって言いな」
「怖くなんてないぞ。ちょっと緊張してるだけさ」
「そうか。まあ、風呂ぐらいは焚いておいてやるよ」
「傍にいてよ!」
「やだよ!」
 大体、避雷する必要性がわからない。どこにも雷が落ちて困る奴はいないのだ。雨足はいよいよ強まってきて、瓦に跳ねるほどだった。
「お前も藤原氏なら、菅原道真公とも縁のある雷を拝め。拝み倒せ」
「わけのわからん理屈を持ち出すな」
 胸倉を掴んで脅してくる慧音の手を払い、背中を向ける。まったく、これでは先に自分が風呂に入らなければ。濡れた服を気にしながら屋根の切りに立ったとき、光と共に轟音が落ちてきた。妹紅は慌てて後ろを振り向く。
 屋根には、黒焦げになった慧音が転がっていた。


 茶柱が立っている。慧音はそれを喜びもせず、むっつりとした表情で湯飲みを見下ろしている。彼女が湯飲みを掴んだ瞬間、ばちばちという音が鳴り、数秒後には湯飲みが真っ黒になっていた。
「これではうっかり握手もできんな」
「とか言いながらこっちに右手を差し出すな!」
「おっと、貴方は相手に右手を預けない主義でしたね」
「……何で丁寧語なんだ」
「テンプレだ」
 洒落た言葉を知っているが、感心するのはそこではない。
 流石に妖怪だけあって命は無事だったものの、昨晩の落雷以来、慧音には強力な電気が帯電していた。本来なら満月が沈むと共に引っ込むはずの角も出っ放しだ。髪の色などは元に戻っているだけに、かえって違和感が強い。
「大体、お前さんを家の中に入れるだけで一苦労だったんだぞ。四回も腕が焦げ落ちるわ、風呂に入れたら入れたでスパークするわ……」
「面目ない」
 と、慧音が頭を下げたとき、角から電流が迸った。至近にいた妹紅はこれをもろに受け、五分後に復活した。
「怒る気も失せてきたよ」
「面目な……」
「あるある! バリバリあるって!」
「そ、そうか?」
 てへへと慧音が自分の頭を擦ったとき、静電気をきっかけに再び電流がバリバリ迸った。以下同文。

 と、昼までにこうしたことを何度も繰り返したため、妹紅は慧音の服を借りなければならなくなった。近頃は洋服ばかり着ているとのことで、妹紅は使われていない着物から赤い生地を選び、着流した。
「こんなのに袖を通すのは久々だ」
「何ならあげようか」
「それは嬉しいけど、燃やしちゃっても怒らないでよ」
 その前に電撃で燃えそうではある。妹紅が苦笑いをしている一方で、慧音は一人真剣に考え込んでいた。
「しかし、やはりこのままというわけにはいかんなあ。角も生えてるし」
 慧音としてはそちらの方が問題らしい。指を相手に向けただけでサンダーブレークをかましかねない状況でそれはない。
「いっそ切り落としたら? どうせまた生えるんだ」
「人のことを筍みたいに言うな」
「わははは!」
 妹紅はこの状況を歓迎していなくもなかった。案外このままの方が、慧音は自分と親しくあり続けるような気がしていたからだ。
 それは全く本気ではなかったが、家の玄関の引き戸が勢い良く開かれたとき、思わずびくりと腰を浮かした。
「話は聞かせてもらった! その片手業、私が引き受けよう」
 颯爽と登場したのは、身長を越すほどの太刀を抱えた魂魄妖夢だった。それを腰に差していたものだから、戸に引っ掛かって中に入れないでいるのは情けなかった。
「タイミングが良過ぎだろう?」
 もっともな慧音の弁に、引っ掛かったままの妖夢が答える。
「人の口に戸は立てられん。お前が雷に当たったらしいという噂は、既に里中に出回っているぞ」
「なるほど。どうせそれを聞き付けたお前の主が、龍の焼き料理でも食いたいとでも言ったんだろう」
「そうだ! 参ったか!」
 妙に勇ましい妖夢に、慧音も妹紅も、訝しげな目を向ける。いつもなら幽々子を諌めつつも結局は泣く泣く主命を果たしているのが彼女だ。
 それが刀を縦にすることも忘れて引っ掛かり続けているのは、明らかにおかしい。何事か察したらしい慧音が、顎を擦る。
「もしかして、雷が切りたいのか?」
「そそそそそそそんなことはない。私は主命に従っているだけだ」
 わかり易いにも程があった。終いには戸の間にきっちり刀がはまってしまい、二進も三進もいかなくなっている。
「なるほどなあ。ミーハーっぽい所があるとは思っていたが、どうせ雷切で高名な戸次鑑連の講談本でも愛読してるんだろ」
「ううっ……」
「んでもって、大友のハゲがしっかりしてれば、とか愚痴ってるんだろ」
「ぐふ」
 全て図星だったらしく、脱力して、挟まった刀に宙吊りになる。妹紅は慧音にこの場を任せることにした。
「それにしても、切ってくれるのならありがたい。礼といっては何だが、今度徹夜で好きな講談を聞かせてやろう」
「……例えば?」
「二階崩れの真相とか、どうだ。大内家ネタもあるぞ」
「き、切らせてもらえる上にそこまで!」
 よっぽど気に入ったらしく、宙吊りの状態で体を揺さぶり始める。そこでやっと刀が外れ、頭から落ちた。にも関わらず四つん這いのまま上がり段を越えてきた。
 気色悪いので、妹紅は隅に寄った。
「まあ待て。一応は儀式的なものだからな。あいつの所に行こう」
 刀に手をかけた妖夢が、それを聞いて、遠くを見遣る。この手の厄介ごとに巻き込むのに最適なのは、他にいなかった。


「だからってうちの庭に危険物を持ち込むなんて」
 博麗霊夢が首の裏を掻きながら、面倒臭そうにぼやく。どうやら昼寝の時間にかち合ったらしく、妹紅以上にだらしない身嗜みだった。口をすっぱくしたのは慧音だ。危険物呼ばわりされて、気に触ったのだろう。
「出すのは腋だけにしておいたらどうだ。その貧相な腹でも見せて、恵んでもらう気か」
 貧相はあんまりで、一応は腹としての起伏がある。少女趣味の変態でもいれば、触らせてほしいと言い出しかねない程度には。
「とにかく、私は何もしないからね。場所を貸すだけよ」
「うむ、結構だ」
 話が決まってからは早かった。宅から持参した茣蓙を引き、その上に慧音を座らせ、妖夢が刀を抜く。後は切り落とすだけだった。
「うへはへへあへ」
 切っ先がゆらゆら揺れる。もう我慢ならんといった具合だ。散々痛い目に遭った妹紅は、そこで一応、待ったをかけた。
「切った途端、辺りに放電しまくるんじゃないか?」
「そうなったらなったで、全部切り伏せてくれる」
「お前の心配はしてないから」
 万が一にでも神社に被害が出た場合、霊夢に何をされるかわかったものではない。慧音の体も、後遺症が残らないとも限らないのだ。
「念のため、電気を逃がしながらやった方が良い」
「話は聞かせてもらったぜ!」
 またかと思いつつ、声が聞こえた神社の屋根を見遣る。帽子の唾を抓んで斜に構えた格好で、霧雨魔理沙が立っていた。
「細かいことは抜きにするとして、具体的にどうするんだよ」
「よくぞ聞いてくれた」
 この状況で聞かない方がおかしい。
 魔理沙は霊夢に萃香を呼ばせてから、地面に図を書き始めた。着物の袖に腕を突っ込んでいた妹紅が、ふうんと唸る。
「つまり、萃香に雷を誘電させている内に切るわけか」
「そういうこと。萃香は疎の状態になっちまえば、電気も逃げるだろうからな」
 慧音と違って角が自慢の萃香は、不服そうに頭を振る。
「痛いものは痛いんだけどなあ」
「礼はちゃんとするから我慢しろ」
 この時点で妹紅は一抹の不安を覚えた。魔理沙にしては気前が良過ぎる。しかし、辺りにある物といえば縄を吊った物干しぐらいなもので、実験器具らしき物は見当たらない。
「何でも良いから早く切らせろぉ!」
 妖夢の嘆願もあり、作戦は強行された。
 慧音の正面に萃香が座り、いつでも電気を受け止められる体勢を取る。流石に落ち着かない様子で、酒の入った瓢箪を何度も口に運ぶ。
「ほら、さっさとやっちゃってよ」
「では」
 慧音が頭を下げ、萃香の角に自分のものを接触させる。微妙に性質の違う二つが合わさり、電気が流れ始めた。
「うひいい! 効くうううううっ!」
「よし、やれ!」
 言うが早いか、妖夢の太刀が二筋の光を宙に描く。チンという鯉口の音が鳴ったときには、刀は役目を終えていた。
 慧音の角が落ちるや、案の定、電流の勢いが増した。髪は逆立ち、正に怒髪天を突かんばかりだ。
 しかし作戦が図に当たり、大半の電流が萃香へと向かい続ける。上手くいったと誰もが思いかけたとき、萃香の様子が変わった。
 角の間に電気が走り、空気中のゴミが焦げる匂いが辺りに漂う。やがて角の表面が融解した段になって、慧音が声を荒げた。
「いかん、容量が足りん!」
 萃香は疎になろうにも、体が痺れて上手くいかない。
「ちいっ」
 妹紅が自分の体を犠牲にしようとしたとき、萃香の角にどこからか投げられた紐が絡んだ。その紐は物干しの縄に繋がっていた。
「おっしゃあ!」
 魔理沙が掛け声と共に、箒に乗って物干しに突っ込む。縄の真下を通過したとき、当然のごとく帯電していた電気が魔理沙に落ちた。彼女はそのまま、炎を引きつつ光になった。
 辺りはそれきり静まり、萃香が気絶して倒れる。彼女を抱き抱えた慧音を見て、妹紅がはっとした。
「こ、焦げない! 成功だ!」
 それを聞いて、尻餅を突いていた妖夢もほっとした顔を見せる。慧音は心許無さそうに、角のあった場所を触っていた。


 さて、消えた魔理沙はその後どうなったのだろうか。
 萃香が気付く頃に再び現れた彼女によれば、要は時間旅行の実験であったが、何やらどでかい街の上に出た際に矢で射掛けられたため、マスタースパークを放ったらしい。
「そこで時間切れさ。折角、お宝でも貰って来ようと思ったんだがなあ」
「鬼を騙すからだ」
 幸いというか当然というか、萃香は軽傷で、口に含んだ酒を吹き付けただけで済ませてしまった。魔理沙は悪い悪いと言いながら、何度も瓢箪を手杓してやる。当初文句ばかり言っていた霊夢は、今では黙々と酒を飲んでいた。なおツマミはワーハクタクの角の焼き物をスライスしたもので、かなりの珍味だった。電撃で程良く繊維が解れているのがまた良い。
 妹紅と慧音も相伴に与っており、妹紅は髪に隠れてしまった角の跡を見遣った。
「大丈夫そうか?」
「感じとしては満月の後と変わらん。次の満月にはまた生えるだろうさ。余程に上手く切ったと見える」
「なら良いんだけど」
 それだけの会話で、慧音は妖夢に急かされて講談話を再開する。時刻は既に深夜にさしかかっている。わざわざ系譜の解説から始めたためだ。開始二時間目にしてようやく、二階崩れの変である。
「そのとき、襖の戸が開かれた」
「ほほう」
「不意打ちを食らった義鑑は布団を蹴飛ばした。逃がすものかと凶刃が振られたのはそのときだ」
「ほほほう」
 この調子だと、耳川合戦まで終わらせるには本当に徹夜覚悟だろう。今頃、妖夢の主人は腹を立てていることだろうが、妹紅は野暮なことは言わないでおいた。
 彼女は魔理沙に再三の杓をしてもらったとき、小声で笑った。
「天神様がお前だったとはな……」
「何だそりゃ」
「わからんなら、それで良い」
 聞く奴が聞いたら怒ることだろう。妹紅は久々に昔を思い、杯を傾けた。
「この体になって良かったことが一つだけある。係累の厄介ごとに巻き込まれずに済んだ」
 やれやれと着物の袂を丁寧に直す。それを魔理沙が、目を細くして見ていた。
「素直に慧音のことを持ち出せよ」
 名前を口にされた慧音が、何だと振り返る。妹紅は慌てて誤魔化してから、魔理沙を睨んだ。
「あまり変なことを言うと、承知せんぞ」
「わかったよ。女の友情をとやかく言うのは、男だけで十分だな」
「だからそういうのを、変なことと言っているんだ」
「ふうんむ」
 ああだこうだと言いつつ、時間が過ぎていく。
 どこかで雷が鳴った気がして、妹紅は辺りを見回したが、それは霊夢が腹を壊した音だった。
 逗留している間に慣れない着物で腹を壊さないよう、精々気を付けようか。厠に賭け込む霊夢を見つつ、妹紅は笑ったのだった。