寝る子はどこじゃ
何故そう思ったのかわからない。
妖忌は夕食の手を止め、ぼうっとした眼差しで孫の妖夢を見遣った。彼女は主である幽々子の膳に慌しく御代わりを乗せてい、自分の分にはほとんど手を付けていなかった。
ここの所、妖忌は何かやり残したことがあるような気がしていて、今日も妖夢に手合わせをしてやってから、庭を何周もした。とことこと後ろを付いてきた妖夢の背丈は随分と伸び、途中で転ぶようなことも無く、どこそこの木の調子はどうかと聞くと、理路整然と答えてもみせた。
自分にはもう何もやり残したことは無いのだろうか。そんな風に寂しさも覚える反面、妖夢の頭を撫でたときの感触が手に残っていた。
「なぁ、妖夢」
ぼそりと呟かれた言葉に、自分の席に戻った妖夢だけでなく幽々子も顔を向ける。肝心の妖忌は開け放たれた障子戸の先にある庭に目を遣っていて、他の二人が表情を窺い知ることはできなかった。
「一緒に寝よう」
振り返った妖忌の顔に、妖夢の膝蹴りが真っ直ぐに入った。鼻血を噴き出しながら妖忌が後ろに倒れたが、妖夢は気にせずそのまま脱兎の如く居間から走り去ってしまった。仕方が無いので、幽々子が漬け物をつまみながら妖忌の傍に寄って気遣う。
「大丈夫なの」
「妖夢ぅ……」
大丈夫そうなので、幽々子は席に戻る。誰が膳を片付けるのだろう。そんなことが気になった。
******
妖夢が逃げ込んだのはマヨイガである。というより、他に逃げ込める場所が無い。ここで藍に茶を出してもらってようやく、妖夢は一息つくことができた。蜩から鈴虫に音響担当を切り替えた季節には、夜空のスクリーンがよく映える。
「寝てやれば良いじゃないか」
「嫌です。それじゃ藍様は紫様に一緒に寝てくれと言われて、応じますか」
「あの方は寝相が悪くてなぁ。寝癖と同じくらいに手癖も酷いし……」
「ええ?」
聞きながら顔を真っ赤にしていく妖夢を見て、藍が溜息を吐く。この年頃の娘の相手をするのは、あまり得意ではない。
「尻尾をいじられるって話だよ」
「あー、はいはい、尻尾ですね」
「尻尾だよ」
「尻尾です」
「尻尾な」
「藍様、頭でも打ったんですか?」
「お前に合わせたんだよ」
紫が寝てから三ヶ月が過ぎた所為で、気が立っているらしい。妖夢は無言になると、鈴虫の鳴き声に耳を傾けることにした。
りりりりりりりり。
りりりりりりむぅ。
りりりぉりりむぅ。
よぉおおおむぅう。
鳥肌が立った。どうやら近くまで爺が来ているらしい。妖夢よりも耳が利く藍はとうに気が付いていたらしく、茶を飲みながらも尻尾を立たせ、緊張していた。
「最後に確認しておきたい。本当に一緒に寝たくないんだな?」
「えっと……」
妖夢の脳裏に、妖忌との思い出が過ぎる。
妖夢や幽々子の洗濯物の中に自分の褌を突っ込んで、満足気な顔をする妖忌。
書き物をしていると背中に張り付いてきて、手取り足取り教えながら鼻息が荒くなる妖忌。
油断ならない爺のために、出入り口に突っかえ棒をして風呂に入っていると、お台場に上陸するゴジラよろしく湯船から浮上してくる妖忌。
人生は毎日が戦いだ。そう言ったのは誰だったろうか。
「――常に一緒にいたくありません」
「そ、そうか」
歳の差が百年単位であるとは思えない程の眼光で妖夢に睨まれて、藍が腰を浮かせる。
「ま、ちょうど良い。一度、手合わせをしたかったんだ。あの方とは」
彼女は不味そうに茶を一気に啜ると、尻尾を嬉しそうに揺らした。
妖夢のよの字は良いこのよの字、はぁほれほれどっこい。妖夢のうの字は初々しいのうの字、はぁそれそれどっこい。妖夢のむの字は、――
「空しい……」
ススキの原を歩きながら、妖忌が言う。はぁやれやれどっこい。謳う気も段々と失せて来た。
どうして自分はそう思ったのだろう。まぁ良い。マヨイガは目の前だ。よく見れば、ススキの頭が妖夢の髪の毛のようにも見え、自分の鼻の奥では、柔らかい陽の光をたっぷりと吸った彼女の髪の匂いさえもするようだった。
ああ、それを、それを、――
「一晩中なでなでしてやるんだぁああああ!」
「いい歳して、他人の家の前で変な事を叫ばんでくださいよ」
呆れながらも、藍が妖忌の前に立ち塞がった。彼女が立った場所を中心に、ススキの原が頭を傾かせていく。鈴虫も、いつの間にか鳴くのを止めてしまったようだ。
「貴方と勝負できるのは、これが最初で最後でしょうね。貴方がじきにあそこから去ってしまう。そんな気が私にはするんですよ」
妖忌は答えない。短く刈り込んだ頭をぼりぼりと掻きながら、かったるそうに首を横に倒している。終いには欠伸までして、全く藍を意に介していない。
「なぁ、藍よぉ」
「なんです?」
藍は相手にされていないと思っていたから、つい律儀に聞き返してしまった。
「布団、貸してくれんか。帰んのが面倒臭ぇから、お前さんちで寝るわ」
「うちには紫様と私の分しか布団が無いのですよ。今の所、これ以上住人が増える予定もありませんし」
「そんじゃ、雑魚寝でも構わん。妖夢がいればそれで良い」
「私が構うんですよぉおおおおおおおおおおおお!」
合わせていた両腕の袖を一気に開くと、そこから鎖に繋がれた鉄球やら鉤爪やら、果てはフライパンといった類の物まで、およそ武器に成り得ると思われる物が続々と飛び出した。だが、それらは全て相手の目を奪うための囮。
相手に件の武器を全て投げ付けると、自分も相手の懐に飛び込んだ。
例え二刀流だろうと、これら全てをかわすかいなし切ることは不可能。その隙に、渾身の頭突きをかますだけで藍の勝ちだ。
本来は、投げ付けた得物はそのまま武器として使うのだが、正直言って、藍には妖忌と武器で争って勝てる気がしなかった。それがための、形振り構わぬ神風頭突きである。
しかし、全てを狂わす行動を妖忌が取った。いや、取らなかった。というより、動かなかった。彼は剣すら抜かず、ただ仁王立ちをしたままで、全ての武器を受けたのだった。
ずん、がん、どん、ぶしゃ、どす、ぶち、ぐちゃ。妖忌の体中のあちこちで不快な音が立ち、骨の何本かは砕けた。
まぁ良い。却って、手間が省けたというものだ。藍は軌道を変えずに、突っ込んだ。
ごすん!
頭突きが決まった。ただそれは、妖忌の鳩尾にではなく、彼の額によって出迎えられた。頭突き返しだ。
往年のドラマであれば人格が入れ替わってもおかしくない衝撃。それが藍の頭を突き抜ける。
不運だったのは、藍の頭突きが頭頂部を使ったものだったことだ。
「馬鹿か、お前は。そこまでの化生になったのなら、自分のやり方に自信を持てい」
頭に染み入る言葉をもらって、藍は意識を手放した。
妖夢は震えながら、紫の布団に潜り込んでいた。よもや九尾の藍が負けるとも思えなかったが、あの爺が負けるとも思えなかった。相討ちになったとしても、あの爺なら根性だけで妖夢の上に倒れ込むまで意識を持たせるだろう。
「ああん、今日の藍ったらダイターン」
日輪の力でも借りてそうな寝言だ。藍にはダイターンだろうとザンボットだろうと、とにかく勝ってもらわねば。もし負けたとしても、ここならば安全だろう。
信じられないことだが、あの爺にも礼節というものはあるのだ。仏頂面と乱暴な言葉遣いだけは直らないが、幽々子に対してだけは素直に頭を下げているのだから。
よもや婦人の部屋に土足で踏み入ってくるなんてことは無いだろう。無いと思いたい。妖夢が紫の寝巻きの袖をぎゅっと握ると、抱き枕の要領で紫が妖夢を抱きすくめた。
「あなた初めてなのねぇ」
藍が何歳のときに手を出したのだろうか。というか、自分はここにいて本当に安全なのだろうか。妖夢は疑心暗鬼に陥りながらも、ぎりぎりの所で正気を保たせていた。ここで自棄になって出て行こうものなら、それこそ爺にやられる。
それにしても、布団の中にまるまる体を潜らせているのは息苦しい。第一、紫の靴下が臭い。冷え性でもあるまいに、どうして寝るときに靴下なんて履いているのだ。
ぷはぁと布団から頭を出すと、紫と目が合った。
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
起きていた。こいつ、起きていやがった。
妖夢は考える。紫は怒っているだろうか。答えはノーだ。彼女はむしろ笑っている。
ここにいて大丈夫だろうか。答えはノーだ。目の前に紫の唇が、――
「ぎぃやあぁあああああああああああああぁあ!」
布団を跳ね除けて、妖夢が紫の寝室を飛び出した。ここにいては駄目だ。何で自分の知り合いには碌な奴がいないのか。
碌な奴が……ああ、いた。妖夢は幽々子の温かい笑顔を思い出した。そうだ、帰ろう。帰って、我儘を言って一緒に寝させてもらうんだ。
妖夢は縁側から空へ向かって飛び出すと、そのまま冥界へと帰って行った。
「妖夢なら帰ったわよ」
寝室に入ってきた満身創痍の妖忌に向かって、紫がつまらなさそうに言った。ようやく面白そうなことがあったと思えば、またすぐに面白いことはどこかに行ってしまった。
「ふむぅ、折角、布団も用意したというのに」
ごとりと、妖忌の持っていた布団が落ちた。金色の毛が実に温かそうである。
「ああ、それ私が使わせてもらうわ」
しばらくは楽しめそうだ。紫はおやすみなさいと妖忌に告げると、新品の布団に包まった。
******
妖夢はとても嬉しかった。憧れの幽々子と一緒の布団に寝る事が出来たのは、今日が初めてだった。幽々子の体は冷たかったけれど、妖夢の心は温かいもので包まれていた。安心した所為だろう、早速に妖夢は船を漕ぎ始めていた。
「妖夢、ごめんなさいね。ちょっと、御手水に行ってくるわ」
「それなら、一緒に……」
「私が帰ってくる間に布団が冷たくなったら困るわ。貴方はそこにいなさいな」
「はい」
二度ばかり妖夢の背中を優しく叩くと、幽々子は布団からするりと抜け、寝間から出て行ってしまった。
妖夢は少し目が冴えてしまった。小さい頃、まだ母親と一緒に寝ていたと思う。思うというのは、よく覚えていないからだ。それでも、母の柔らかい耳たぶを触って、怒られたことを覚えている。不思議だが、それだけは覚えていた。
寝間の襖が開き、再び閉まる音がした。みしみしという、畳を踏む音が聞こえる。さっきはそんな音がしなかったように思うのだが。
「早かったですね、幽々子様」
「妖夢ぅう」
枕元に爺が立っていた。怖い。このシチュエーションなら幽々子がより怖いはずだが、それどころではない。妖夢が逃げることもできずにいると、妖忌がずずいと布団に潜りこんで来た。その上、両手でがんじがらめに抱かれてしまい、逃げ出すどころか寝返りさえ難しくなってしまった。
「お、おおお、お、御爺様……?」
恐る恐る顔を見ると、なんと妖忌はもう寝てしまっていた。着物の襟元には血がべっとりと着いてい、今先ほどに乾いたばかりのようであった。ただ一緒に寝るためだけに、ここまでしたのか。妖夢は今更のように実感した。
ふと、妖忌の耳たぶが気になった。どこか、見覚えのある形だった。
「お、起きないかな」
そっと指先を妖忌の耳たぶに伸ばすと、感触を確かめた。母の耳たぶの感触と同じだった。多分、あれは母ではなくて。
――妖夢は妖忌の胸に頭を預けると、瞼を閉じた。どこかで、幽々子の笑い声がしているようだった。
******
「つまり、妖夢の初めての相手は妖忌だったのよ!」
「んなわけあるかぁああああああああああ!」
嬉々として語る幽々子を、一緒に茶を飲んでいた霊夢がど突く。そのやり取りを、妖夢は笑いながら聞いていた。
御爺様はもういないけど。
あの日の耳たぶの感触が、妖夢の指にはまだ残っていた。眠れない夜には、あのときのことを思い出せば眠れるのだった。